【創作大賞】女の子はおばあちゃんに本を渡せたのかな〜ある国語の問題の続き〜
もう少しで死んでしまうおばあちゃんから頼まれたさがしもの、それは一冊の本。でもその本を見つけてしまったらおばあちゃんは死んでしまうの?わがままで強い口ぶりが変わらないおばあちゃんと、ずっとめそめそしているお母さんの間に挟まれながらも、本を探し続ける女の子の話。
国語を教える立場にいると、素敵な物語たちは「問題」であり、子どもたちを強くするためのツールでしかなかった。
学校ではなく、そこは学習塾だから、出題者がなぜそこを設問にしたのかという意図を考えたり、解答用紙に答えを書いてマルをもらうまでを指導しなければならない。
がしかし、好きな物語に出会ってしまうと熱く語ってしまうときもあり、数学を専門に指導している後輩からは「そういうのいらないんじゃないですか」と言われたこともある。え、そうなの? 子どもたちの目はキラキラしていたけれど? と思っても「たしかにやりすぎたかも」と笑って誤魔化していたのが懐かしい。
ふと、あの物語の続きが気になった。女の子はおばあちゃんに本は渡せたのかな。十年以上も昔の、国語の先生だった頃のわたしのやり残しを、図書館に子どもを連れて行くようになったTシャツにジーンズ姿のわたしが引き受けよう。
インターネットで調べてみると、どうやら角田光代さんの「さがしもの」という本だということがわかり、図書館に行くたびに角田光代さんのコーナーを探すけれど見つからない。角田光代さんの本を何冊か読んでみて、あ、やっぱりなんだかこの人の文章は好きだなぁと思うようになったけれど、目的のものは見つからない。とは言え、検索機で探すとか、ネットで探して注文するのでは違う。出会いたい。自分の目でその本を見つけて、手にとってみたかった。まるでわたしは「さがしもの」に出てくる女の子だ。
そうこうしているうちに下の子が生まれた。
下の子も歩くようになり、平日に行っていた図書館は休日に家族全員で行くようになった。旦那もいてくれるからわたしが一人で図書館をうろうろする時間をもてるようになった。「今日もきっとないよなぁ」と角田光代さんのコーナーを通り過ぎる。やっぱりない。
最近、下の子のモノ、例えばマグの替えのストローとか、夏用のいい感じの生地のズボンとかをフリマアプリで探すようになった。十分すぎる、むしろ買い物に行くよりもたくさんの商品を時間をかけて厳選できるし、ポチッとするだけで家に届く。「新品」と検索の部分に入れるのを忘れずに欲しいものを探しては手に入れるようになった。上の子のときはなんだか申し訳ないような恥ずかしいような気がして利用したことはなかったが、二人目育児はそういうものを手放すことができているように思う。
ふと、フリマアプリのスクロール画面に本が出てきた。上の子のためにドラえもんの学習漫画を探したから、「本も好きなんですね?」とお勧めされるようになったのかな、といくつか気になるものを眺めていたときのこと。
「さがしもの/角田光代」
開かれた本にキャンデーがのったイラストが描かれている小さな文庫本。こんなにも簡単に、わたしの目の中に飛び込んできてくれるなんて。
3冊ほど出品されていたので、その中で1番綺麗そうなものを購入した。あっという間の出来事。
ポストに届き、玄関で開封、しっとりと手に馴染む薄さ。そこで下の子がお外に出たがったので玄関に置いたまましばらく遊んでいたところ、旦那さんがその本を今届いたものだとは知らず「面白そうだね」なんて言いながら読み出してしまったから、ちょっとムッとしつつ、感想をしつこく聞いてみたら「なるほど、そういうことね、届いたばかりでまだ読んでいなかったのね、ごめんね」と謝ってくれたから良しとした。
すぐには開けないでいた「さがしもの」。
読み終わってしまったら終わってしまうわたしのさがしもの。
娘と喧嘩をした。
旦那さんにイライラをぶつけてしまったかもしれない。気持ちが滅入っていたある夜、逃げ込むようにその本を開いた。
十八の女の子と古本屋さんの話
恋人と喧嘩をして一人旅になってしまった女性の話
大好きなハナケンと本棚の話
あの女の子はまだ出てこない。「つぎかな」と思いながらも、人と本が織りなすストーリーをまだまだ読んでいたい。思いがけず出会えたいくつもの切なさや喜びや不思議な出来事で体中をいっぱいにしていたかった。
「ミツザワ書店」
という七作目のタイトルに聞き馴染みがあった。いよいよ、これかな、と読み始めるけれど、主人公は「ある文芸雑誌の新人賞に受賞したぼく」。
ぼくと懐かしのミツザワ書店の情景は、今現在のわたしが想像するものであって、過去をなぞる感じはしない。しかし、「ミツザワ書店」という言葉だけはものすごく懐かしく、耳馴染みが良すぎる。はて。どこかで読んだのか、それとも映画化されていたっけ?
しかしある行から急に、これから紡がれる言葉たちがわたしの中から湧き出てきた。安心感にも似たそれを抱きながら、わたしの心は本へ没入する。
女の人は積み上げられた本の表紙を、そっと撫でさすりながら言葉をつなぐ。「私、子どものころ、おばあちゃんに訊いたことがあるの。本のどこがそんなにおもしろいの、って。おばあちゃん、何を訊いているんだって顔で私を見て、『だってあんた、開くだけでどこへでも連れてってくれるものなんか、本しかないだろう』って言うんです。この町で生まれて、東京へも外国へもいったことがない、そんな祖母にとって、本っていうのは、世界への扉だったのかもしれないですよね」
何度声に出して読んだことだろう。スラスラと、次に発する単語が一語一句脳内で再生される。
高校受験を控える子どもたちへの問いは「世界への扉とはどういうことか」だ。
「本は」に続くように答える記述で、正解は「(本は)この町で生まれて東京へも外国へもいったことのない祖母を開くだけでどこにでも連れていってくれるもの」だ。マルがついて喜ぶ子どもたちの顔が浮かぶ。読みやすく、そして解答が作りやすい、国語が苦手な子でも頑張れば正解できる記述問題。
「できたじゃん!」と褒めちぎって自信をつけてもらいたい。
国語の記述問題を「ちょっと頑張ったらできるかも」と思ってもらえるような子どもたちに希望を与えることができる良問だ。
そして何よりも一つひとつの言葉が大好きだった物語。
新入社員一年目のペーペーのわたしも、ベテランになってからのわたしも、参考書にお局のように存在するこの物語文をずっと教え続けてきた。
夜中のリビングが、わたしの心の中のあの教室へと変わり、母親であるわたしは先生に戻る。ああ、おばあちゃんにとってだけじゃないよ、本っていうのは本当にどこへでも連れていってくれる扉だ。
あの女の子は、無事に? おばあちゃんに本を渡すことができていた。八作目の「さがしもの」の続きを読み終え、残りの作品と終わりのエッセイも堪能した。想像していた寂しさではなく、短編小説であるからこその、どこかの、誰かの人生をちょっとずつ経験させてもらえた満足感と、若き日のわたしにトリップできたあの瞬間の高揚感で胸がいっぱいである。
続きが知りたい、と覚えていた物語。
問題や解答まで鮮明に思い出せるわたしの人生の一部にあった物語。
そのどちらもが「さがしもの」にありました。
この素晴らしい体験をさせてくれた著者である角田光代さんに感謝と敬意を。本当にありがとうございました。
