
空知の家
まず目に入ったのは、木彫りの熊だった。精緻に削られた毛並みの溝に、うっすらと粉埃が詰まっている。
隣には大きな和凧。浮世絵風の美女の表情は、微笑みというよりは、薄ら笑いと形容すべきで、何か根源的な不安を掻き立てる。
視線。はっと上に目を向けると、エゾシカの首がこちらを見ていた。この存在が絶命してからいかほど時間が経ったのか、それを想像することはできない。今にも草を喰み、角を見せびらかしてきそうだ。
トランプのダイヤを連ねたような模様の天井は、所々壁紙が剥がれて茶色のシミが付いている。窮屈そうにしているシャンデリアの電源を入れると、中に虫骸の影が見えた。
「こんな場所だったかな…」
ふきのとう、ジンギスカン、ビート、かまくら。快人は、この家で刻んだ数々の記憶と、寂しい現状とのギャップを思わずにいられなかった。
中学生の頃に両親が離婚。大好きだった父方の祖父母とは疎遠になった。快人に祖父の訃報を知らせたのは、母ではなく地元の友人だった。
母に知らせずにこの場所を訪れたのは、「知らせるようなことでもないから」。こう建て付けてはいるものの、これは心の表側。裏側では、「父の肉親の家に行くなどと報告したら怒られるに決まっている」と考えていた。
三十にもなって、親の顔色を窺って生きている。その情け無さを隠すように、快人は無頼を気取って、大袈裟に手を大きく振りながら片道百五分を歩いてこの場所にきた。その勢いのまま、鍵も持ってないのに、何となくドアに手を掛けたら、開いてしまってここにいる。
バキッ、と何かを踏み抜いた音に驚き、快人は横っ飛びした。シワの付いた殻、油分を含んだクリーム色の破片。落花生だ。
しゃがみ込んでよく見ると、殻の内側はツヤを持っていた。
快人は眉をひそめた。古く干からびたものではない。誰かがさっきまでここにいて、指で割って、行儀悪く畳に擦りつけたかのような潰れ方だった。
そのとき、上で、ゴン、と鳴った。
反射的に見上げる。シャンデリアが、ほんのかすかに揺れている。そう見える。
二階だ、と快人は思った。
その思いが浮かんだ直後、いやだな、とも思った。昔、祖父に何か言われていた気がする。
二階には──
ゴン。また鳴った。
快人は立ち上がり、和室を出て居間を抜け、玄関に向かった。
玄関には冷えた木の匂いと、長く閉め切られた家独特の、乾いた布団のような匂いが沈んでいた。
昔はここに、ファンタやサイダーの缶がダンボールごと置かれていた。快人は、寒い玄関で冷やされたジュースを、温かい居間でぐびぐび飲むのが好きだった。
ふと、二階に続く階段の麓、濃い茶色のトイレの扉が五センチほど開いていて、中にピンクのトイレットペーパーがあるのが目に入った。
ピンクは、祖母の趣味だった。亡くなって十年以上経っても、祖父は祖母が好むペーパーを買い続けていたようだ。
トイレを覗き込むと、ホルダーとそこに置かれたダブルブリッジの老眼鏡が目に入る。壁脇には新書が置かれた小さな棚とサニタリーボックス。便座には子供が履くモコモコとした下着のようなカバー。床には花柄のマットレス。何の変哲も無い、見覚えのある景色。あの頃と、何も変わらない。
少しだけ目頭が熱くなる。さっきまで寂しい場所だと思っていたこの家だが、トイレにあの頃が保存されていた。
ばあちゃんの口癖は、「水回りを掃除しない男は半人前」だった。だから、快人は祖父母宅に泊まると、いつもトイレ掃除を手伝っていた。トイレ担当はじいちゃんと快人、お風呂担当はばあちゃんと…
お風呂は、ばあちゃんと誰がやっていた…?
少しの間考えた後、もう十数年前の記憶だし、曖昧になるのも仕方ないだろうと頭を切り替えた。良い物を見ることができて、満足だ。
快人がそう思って振り返り、トイレを出ようとした次の瞬間、鳥肌が立った。
トイレの真向かいすぐの床に、潰れた落花生がひとつ、置いてあったのだ。
先ほど踏み潰したものと同じ色。同じ湿り気。誰かが今まさに食べている最中のような新しさ。
この家に誰かがいてもおかしくはない。親戚か、葬儀屋か、整理に来た業者か。その人が落花生を落としたのかもしれない。
快人は、誰かいるんですか、と口にしかけたがやめた。
おかしい。こんな至近距離まで来て、何も言わずに、音も出さずに、落花生の殻だけ置いていくわけがない。
逡巡しながらも、声を出してはいけない、その確信はあった。声を出せば、得体の知れない何かが返事をする気がする。
代わりにスマホを取り出した。狙いの定まらない指で必死に連絡先一覧を開く。誰でもいい。繋がれば。誰かに電話を発信した、その瞬間に充電が切れた。残り4%から、0への急転直下。
「は、バッテリー…」
乾いた笑いはうまく鳴らなかった。
アップルケアに入っているにも関わらず、バッテリーの無料交換をしなかった。イヤホンを忘れたからと、百五分の間スピーカーで動画を垂れ流した。
本当に、どうしようもない。なるべくして、こうなっている。
自分への苛立ちも束の間、快人はトイレから顔だけを器用に出して、玄関を回し見た。誰もいない。落花生を大股で跨ぎ、急いで居間に戻る。
別に居間に行ったら安全ということでも無い。ただ、言語化できない「じいちゃんちの居間」の安心感が、快人をそのように動かした。
居間に入って、座り込んで放心する。じわじわと揺れる視界の中に、冷蔵庫、神棚、観葉植物が揺れる。ああ、いつもアイスはパルムかピノだった。神棚には賞味期限切れの落雁。ばあちゃんの手に金属製のジョウロ。不思議と気持ちが落ち着いてくる。
「もう帰ろう」
リュックサックを背負い、落花生のある正面玄関ではなく、裏口に向かう。
通りがかった寝室で、注意を惹かれた。仏壇の扉が開いている。
仏壇には、祖母の遺影と小さな白木の位牌が置いてあった。線香立ての灰は白く盛り上がり、その中央だけが窪んでいた。つい最近、一本差されたように。
位牌の文字を読む。
泉谷義子。
祖母の名だ。
位牌の脇に、四つ折りの紙が挟まっていた。古い大学ノートの切れ端で、ぶるぶると震えた字でこう書かれている。
二階へ上がるな。
呼ばれても返事をするな。
快人が来たら帰せ。
最後の一行を読んだ瞬間、首筋を冷たいものが撫でた。
快人が来たら帰せ。
自分の名を、祖父は書いていた。
なぜ。
紙を持つ手がじっとり湿る。笑える話ではない。祖父が死ぬ前に、自分がここへ来ることを予想していた? そんなはずがない。連絡も取っていなかったのに。
そのとき、背後で、カタン、と木が鳴った。
振り向くと、端の柱に掛けられた鏡があった。縦に細長い、昔ながらの姿見だ。入ったときは気づかなかった。
そして、その鏡の中に、ぼんやりと一部が黒ずんだ裏口のすりガラスが写っている。
人影だ。
快人は息を止め、反射的に鏡から目を逸らした。肩に力が入って強張り、奥歯が数回カチと鳴る。
鼓動が痛い。見間違いだ。光の加減だ。怖い。いや、そもそも人がいたっていいだろう。挨拶でもしようか。そう思い、もう一度見ようとして、やめた。急いで今度は正面玄関に向かって走り出す。
その直後、裏口のほうから、ボリ、と音がした。
豆を噛み砕く音だった。
快人は走りを止めた。
ひとつ。ふたつ。みっつ。規則もなく、だが確実に、誰かが殻を割り、中身を噛んでいる。すぐ後ろだ。振り返れば、きっと見えてしまう。
暴れる呼吸を瞬間整え、震える足に力を込めて、再度走り出そうとする。
「快人」
後ろの何かが名前を呼んだ。
快人の膝が完全に抜ける。
間違いなく自分の声だった。低く、少し鼻にかかった、あまり通らない、存在感の薄い声。
「快人、お前、ブサイクだな」
いや、お前も同じ顔だろ、と口をついて出そうになる。同じ顔?なんで?なぜか涙が出そうになるほど懐かしく、同時に恐ろしいやり取りの記憶。
ありえない。ありえないのに、声はまた言った。
「二階で遊ぼう」
二階──
その瞬間、記憶の底に沈んでいた一場面が、濁った水面から浮くように現れた。
雪の夜。歴史の勉強。普段は入れない二階。急な階段。和室が二部屋。何かの像。投げつけた双子豆。ビヨーンビヨーンと鳴る不思議な楽器。僕は下手。陽人は上手。美味しい双子豆。じいちゃんの笑顔。ばあちゃんの太巻き。多過ぎて食べきれない。明日の分はタッパー。指をちょっとだけ切る。今は指の血だけで良くなったんだよ。ありがたいね。車の光。母の怒号。まだ途中なのに、大人達の諍い。突然のお別れ。
思い出した瞬間、快人はその場にへたり込んだ。
自分が何度も祖父母の家に通っていた理由。母が義実家を嫌った理由。父と離婚した理由。異常に過保護な理由。
人生という宇宙で離れ離れだった星々が、繋がって一つの星座になり意味を持っていく。
混乱の最中、一瞬の静寂が訪れた。風、虫の声、家鳴り、全てが停止した、完全なる無音。
最中、湿り気を帯びた空気が、快人の耳裏の輪郭を丁寧になぞった。
背後の存在は、ハリの無い大人の声に、子供のような無邪気さを乗せてこう言った。
「久しぶり。今度は帰らないでね。」
快人は半狂乱になって、半ば転げるように寝室を出た。居間を駆け抜け玄関への扉に手をかける。
開かない。
誰かが押さえているとか、そういった類いではない。そもそも開くように作られていないかのような、壁にドアノブをそのままつけたような感触。
ノブを引っ張り、逆回転し、蹴りつけ、肩で目一杯押す。ビクともしないドアにでき得る工夫の全てをぶつける快人の聴覚が、和室の畳と何かが擦れる音を捉えた。
長く伸びた爪が、い草の間に挟まって弾かれるような、不快な足音。
快人は尚も必死でドアを押す。ノブを握る手は、表皮が剥がれ血が滲んでいるが、気にも留めていない。
足音は次第に大きくなる。快人に近付く。
近付いて、近付いて、消えた。
絨毯が敷かれている場所、居間に入った。
耐え切れず、快人が振り向くと、そこには
なまくらで切り開いて作ったようなズタズタの口が、にっこりと笑っていた。
「これでやっと…」
………
「お前から不在着信来てるの気付いて、もしかしてと思ってあの家行ったら、中で倒れてたからもうびっくりよ」
正弘は大袈裟なジェスチャーでハキハキと話した。
「お前を担いで降りるのめちゃくちゃ大変だったよ〜。久々の再会がこんななんてさ。全く嫌になっちゃうよ。あ、あれよ?このお見舞いは全然来たくて来てるからね?あんまり気にし過ぎないでね。それはそうとお前さ、地元の集まりとかもっと顔出せよ!みんな気にかけてるよ!」
正弘の早口と笑顔は昔と全く変わっていない。特段話が面白いでも、特技があるでもないが、正弘はどこか人を惹きつける魅力がある。
「なあ、正弘。今度、就活?っていうの?教えてくれないかな。」
正弘は意外や意外という表情で、目をまん丸にしながら体を前に乗り出し、捲し立てるように言った。
「いいに決まってるじゃん!教えるよ!でもごめん、俺は新卒の就活しかわかんないから…ああそうだ、山田も呼ぼう!あいつ人事だから!あと栗きんとん、あいつめっちゃ転職して大手にいるから、きっと参考になるよ!みんなで作成会議しようぜ!な!」
正弘は一呼吸置いて、350mlのいろはすを飲み干して続けた
「いや〜快人が前向きになってくれて良かったよ!じいちゃんちに行って子供の頃でも思い出したのか?」
「いや、そういうことではないよ。ただ、一度死んだみたいなもんでしょ?俺。なんか吹っ切れたんだ。死ぬことに比べたら、何もかも些細なことだなって。」
陽人は窓の外のイチョウを眺めて、ゆっくりと話した。正弘は涙ぐみ、ポケットティッシュで豪快に鼻をかむ。
「快人、お前が退院したら、お前のお母さんも地元のやつもみんな集めて、パーティーやろう!何がいい?たこ焼きか?!」
「え〜30にもなってたこ焼きパーティーかよ!」
「バカ言え!たこ焼きは人生経験積んでからが面白いんだよ!」
「そんな話初めて聞いたんだけど!」
………
そよぐ微風が木の葉を揺らし、さらさら音が木陰を照らす。
トンビが気ままに回るのに、カラスが出てきて邪魔をする。
きゃっきゃとはしゃいだ子の声と、犬の散歩のハーモニー。
陽人の新たな門出を祝うように、町が陽気に流れてく。
「おーい快人、こっちこっち!」
「おう、今行く!」