見出し画像

音楽理論という名の情報圧縮vs「赤ちゃんの歌」

音楽理論という、しばしば音楽家を助けたり悩ませたり興奮させたり萎えさせたり怒らせたり面白がらせたり……する、兎にも角にも炎上しやすいトピックがある。今日もどこかで音楽理論に薪がくべられている。

僕も、学生時代から音楽理論を学び始め、音楽理論を「完全に理解した」かのごとく錯覚していた時がある。なんかこう、コードの機能が見え始めて、典型的なⅡ-Ⅴ-Ⅰの着地は耳で追えるようになって、「黒本」を開けばなんとなく先が読めたりする。ITエンジニアが新しいフレームワークのチュートリアルを走りきった直後の、あの謎の全能感に似ている。まあ、その先に来るのは「なんもわからん」なのもそっくりである。

ここ数日、音楽理論について断片的に考えていた。まとまる気配はないが、覚書として並べておく。なお、ここでいう「音楽理論」は広く──楽典、作曲・即興の技法、アナライズ、リズム論、ジャンルごとの常套句──ビバップの頻出フレーズの構造説明とか、そういう言語化された規則、技法、パターンや経験則、メソッドの類全般を指す。

留意しておきたいのは、近現代の音楽理論のほとんどは、音楽の「正解」、「心地よさ」や「面白さ」を直接規定するものとは異なる。たいてい実体が先にあり、その実体にはなんらかの揺らぎや無数の変数がある。すくなくとも、近現代の音楽の多様性からわかるように、音楽理論そのものは音楽の質を決定論的に扱うものではない、ということである。

情報圧縮

音楽理論について思うところはいろいろあるのだが、その中でも、いま一番しっくり来ている見方がある。音楽理論は「情報圧縮」である、ということだ。

情報圧縮そのものは、実は発想自体はシンプルだ。動画のストリーミングの仕組みの話をしてみよう。映像を配信するとき、全フレームの全ピクセルをそのまま送ると重すぎて回線がパンクする。だから前のフレームから変化のなかった部分──背景の空とか──は、“さっきと同じもの”として省略して、動いた差分だけを送る。人間が物事を実況する時にも、常にそこにあるもの全部を語らないのと同じだ。ことさらに変化があったものだけを伝達している。こんな要領で、少ない情報量でありながら、ほぼ同様の映像を見せられる。

ちなみに映像圧縮は、その仕組みゆえに「花吹雪」みたいな同時かつ無数の変化が入る映像が苦手だ。動きがカクついたり、一時停止するとノイズが見えることがある。こういう現実の複雑さを扱うと、どうしても取りこぼしが起きるのだ。このように、情報圧縮は、実体が持つあまりに詳細で膨大な情報量を、扱いやすいサイズにまとめる代償に、この種の取りこぼしも抱えている。

理論上のルールは、たいていの場合「規制」ではない。時に、禁則進行や導音解決のような、受験監獄校の校則っぽい言葉遣いをしているものもあるが、根っこを見れば、特定のスタイルにおけるパターンやコンテクストを真似た音を紡ぐためのアイデアを言語化したもの──規則性の記述だと思う。もう少し乱暴にまとめれば、膨大な音の体験から抽出されたパターンを、人間が扱える情報量にまで圧縮したもの。

ビバップの技法や、常套フレーズがわかりやすい。あるコード進行が意図する緊張感や安定感、あるいは浮遊感。そして、それらに対する旋律的な模範が、何世代ものミュージシャンの手癖を経て、ほとんど文法書と単語帳のごとく圧縮され流通している。あるいは、ハードロックの歌詞における「車」モチーフも似た構造で、自由、スピード、享楽──ジャンルが描きがちな表現パターンが一語に凝縮されている。これは理論と呼ぶには泥臭いかもしれないが、情報圧縮の一形態だ。

もし理論、たとえばドミナントモーションという言葉を知らなくても、何千時間もⅤ→Ⅰのサウンドを浴びていれば、身体は勝手にその重力を覚える。思わず、何らかのフレーズが一段落するのかな?などと予感させる。理論はその何千時間を圧縮、つまりショートカットする。便利だ。便利だからこそ、圧縮特有の限界がある。

情報圧縮が取りこぼす「実体」

地図と現実空間の比喩がそれに当たるかもしれない。地図を暗記しても現実空間を歩いたことにはならない。理論が記述しているのは音の実体そのものではないから、「まるで自分の庭のように『地元』を歩き回れる」ようになり、「『地元』の空気も小さな変化も知る」には、長い年月そこにいて、いろんなところを探索しなければならないだろう。一方で、初見のエリアをまずサックリ知るには、地図やガイドが有用であるのも間違いない。

言語も似ている。母語は、幼少期から継続的に膨大な言語のシャワーを浴び続けて形成される。ネイティヴの発音、間の取り方、声のトーン、場面、言葉の組み合わせは、物心つく前からずっと続く無数の現場経験で習得される。対照的に、第二言語はたいてい、まず母語または対象言語の平易な言い回しで書かれた教科書上の説明を足がかりとして習得される。そして、最終的には同様に現場経験を通して形成される。

積まれた教科書

ただ、母語であれ第二言語であれ、現場経験および実例の観察で学ぶことはもちろん、その一方で、知識で肉付けされることもある。ネイティヴであっても、たとえばアカデミックな文体やビジネスの敬語は、まずは感覚ではなく、口伝や例文集の語彙・構成をガイドとすることが多い。

音でも言葉でも、全てを扱いきるには感覚だけでは難しいから、僕たちは地図や教科書を広げる。生きた空間や言葉、あるいは現実そのものは、そのまま咀嚼するにはあまりに複雑だ。ただ、地図と現実空間を、あるいは文法と実用例を取り違えたとき、その生きた実体というものは理論に殺される。いくら優れた理論でも、生鮮食品に対するフリーズドライなどの加工食品のように、ちょっと別物になる。たとえ加工後が便利で美味しいものであっても。

音楽であれば、圧縮前の音楽の実体は極めて情報量が多い。発音タイミングや音の長さ、強弱や音色のコントロール、ブルーノートの音程、黒人的なアクセント。あるいは、即興上のフレーズの細やかな変化、他のパートとの相互作用、前後の文脈──このように、似たような音列であっても、実体としての意味が変わりうるファクターは無数にある。しかし、すべての変数を理論書で網羅することは事実上不可能に等しい。ある側面ではかなり「正しい」ことでも、別の側面で違和感が生じることが、実体になると確かにある。逆もまた然りだ。

そしてもうひとつ、圧縮には厄介な副作用がある。名前をつけた瞬間に、知覚がいくらか上書きされることだ。コード進行をⅡ-Ⅴ-Ⅰとして聴き取れるようになったとき、その響きは「ツーファイブワン」というラベルを纏う。強いグルーピングとして、他との連続した関係を捨象してしまうかもしれない。特に学習初期は、そこにあった音の手触りにすぐさま戻ることが難しくなるかもしれない。コーヒーは常に苦いものだと信じる場合において、酸味や甘みは単なる雑味として処理されてしまうように、だ。

実は焙煎した専用のチェリーの種が、コーヒーの原料

あらゆる出来事の「言語化」と同じ構造で、理論を学ぶとは音の体験に認知のフレームを付与することでもあるから、どうしてもフォーカスが偏る副作用は起こりうる。

音楽理論というのは、単なる偉そうな人が振りかざすだけの法律論とかではなく、もっと現場の要望から生まれた情報伝達のための圧縮だったのだ。とはいえ、確立されたジャンルやスタイルを成り立たせる共通要素を語る以上、ある種の「正解」、あるいは「権威」を規定してしまうリスクも確かに否定できないのだが。

権威のタートルネックとジーンズ

シリコンバレーの「正装」(スティーヴ・ジョブズ)

ところで、権威主義といえば、クラシックやジャズを連想する人が多そうだ。しかし、よく見ると、あらゆる音楽は宿命的に、その文脈によって名曲・名演奏というものが規定されてしまう。権威らしきものはどこからでも生えてくる。クラシックやジャズだけじゃない。今となっては、もはやロックもパンクもヒップホップもサルサもブルーズもポップスも……どれもがまあまあな権威に見えるかもしれない。

それらは、クラシックやジャズみたいなわかりやすいスーツを着てはいない。だけども、スティーヴ・ジョブズの黒タートルネックとジーンズのような“新しい正装”を着ている。カジュアルなふりをして、「この音がイケてる」「この態度が正統」というコードは厳然と鳴り響く。スタイルが確立された時点で、権威に近づいてしまう。

元来ロックは、クラシックやジャズという、当時の既存音楽が権威化して難解になった末に、カウンター的に生まれたと言われる。だが権威への反発が、それとして確立されていくたびに、いつかは同じ構造を再生産する宿命にある。パンクの殿堂入りのように。

そして、世間でよく学ばれている音楽理論とは、こうした一定の評価が確立した何らかのスタイルを、器用に踏襲するための方法論としても確立している。ピアノやギターに手っ取り早く習熟するための教則本のように、作曲や即興、あるいは既存曲の分析のメソッドがいくつも生まれうる。あらゆるジャンルや名曲が、何らかの理論や方法論で解読され、「黒タートルネックとジーンズ」のように、ミームとして信奉者に伝染してゆく。

「赤ちゃんの歌」は最も新規だ

権威の外に出る方法が仮にあるとしたら、何だろうか?──「赤ちゃんの歌」はそうかもしれない。権威というものも知らず、過去の音楽にも縛られないからだ。

僕の言うことが、皮肉か嫌味か、あるいはヤケクソに聞こえただろうか。

白状するなら、半分はその通りである。僕は、新しさを自己目的化すること、新規性至上主義に、大した意味はないと思っている。

極論、「誰も欲しがらない音」だけをやるか、「サイコロ博打式に音を選ぶ」ことをすれば、なんとなくそれは達成できてしまう。僕は、どうしてもその価値観には乗れない。あるいは、「一切のインプットを拒否する」手もあるかも知れないが、むしろ、今知っているものだけが全てになり、結果として常に同じようなものを作ってしまいがちだ。

自由を求める「アンラーニング」

でも、残り半分は本気だ。いくら芸術は模倣から始まるとしても、やはりどこかで縛られてしまう瞬間を感じるからだ。

たとえば、シェーンベルクの「12音技法」は、(少なくとも鍵盤のような12平均律の世界において)その名のごとく単に「どのような音を用いてもいい」……ように見えるが、どうやら一段踏み込んで、まずは「一般的な音階や和声の音使いを意識的に避ける」ことから再出発するというアイデアのようだ。つまり、「理性で身につけた“普通”に、意図的に“逆らう”」アプローチという、作為が存在する。

ジャクソン・ポロック『秋のリズム』

これは、「すでにインプットのある大人は、そこまでしないと既成概念と根本的に違うものを作ることは難しい」ことを強く示唆していそうだ。少なくともシェーンベルクがそのように捉えていたと解釈することは可能だろう。そして、「その“逆らう”ことはもうすでに、既成概念を意識した逆張りじゃないか」という反論も、ある種できてしまいそうだ。

そこで思い浮かぶのが、さっきの、「赤ちゃんの歌」だ。

もちろん、ただ赤ちゃんの歌の表層をテキトーに真似したところで大したことは起きない。ここで考えたいのは、権威も文脈も言葉によるバイアスも最初からない状態──快と不快、安心と不安、沈静と興奮みたいな、身体的な尺度だけで音を受け取っていた回路に戻れないか、というアイデアだ。

コンテンポラリーアートはそもそも、既成概念を知ってなお、そういうものへの懐疑、あるいはゼロベースの模索を哲学として引き受けてきたわけで、「赤ちゃんの歌」は実際の音楽にも同じ問いが成り立つと僕は思っている。

たとえば、チャーリー・パーカーは「楽器を極め、音楽を極めたら、あとはそんなもの全部忘れて、ただ演奏しろ」などとたびたび語っていたらしい。意識とパターン・プラクティスで、自分の表現の可能性を極限まで高め、精緻にコントロールする訓練を何千時間も積むのだ。最後には、その意識をアンラーニングして、ゴキゲンな酔っ払いの鼻歌みたいに自然に演奏する──あれは赤ちゃんの歌への回帰の一形態であるかもしれない。

学ばずに無邪気なのと、学び尽くした末の無邪気は、どちらもリラックスしているけど、できることは違ってくる。まあ、僕自身は「完全に理解した」と「なんもわからん」の手前あたりのフェーズで右往左往している分際だ。到達点を語る資格があるかは怪しいのだが。

地図から新たな道を見出す

このようにアンラーニングを説いておいてなお、もう一度、情報圧縮や音楽理論を擁護したい。手法が音の実体に先立つことで新しい音が生まれるケースも、僕は否定できない。むしろ信じているかもしれない。

たとえば、僕はピーター・バーンスタインの歌心やリリカルさに強く惹かれている。空間の美学、まるでリラックスしたような悠然としたメロディラインがすばらしい。そんな彼が興味深いことを言った。「常に旋律が先にあるのではなく、指板上の視覚的な形状からインスピレーションを得ることもある」という旨のことを言っていた。実のところ、幾何学的に見える起源のメロディでも、馴染んでくれば後から歌になる。だから、技法や理論が先立ったからといって、常にそれが音楽を殺すわけでもない。

新しい楽器の発明というのも、同様にその最たる例で、新しい物理的制約が新しい音楽そのものを呼び込んできた。鍵盤楽器の発明と発展が、バロック、古典派、ロマン派のように表現のスケールや選択肢を変えた。過去の積み上げという巨人の肩に乗りながら、その先を見据えること。時に、理性から組み上げられる感性というものもある。

音楽理論の話にもそれが言えるかもしれない。情報圧縮の仕方それ自体が新しい実体を生む回路があるようにも思える。地図を読んで、自分でも歩きながら描いてみたら、気にも留めていなかった知らない道に気づけた、みたいなことだ。今までの人間が想いにもよらなかった概念を転回し、新規な響きを得られるかもしれない。

ともかく、どちらかといえば僕は音楽理論が好きなほうなのだと思う。圧縮された体系をなぞるとき、あの「完全に理解した」に近づく高揚も好きだ。響きに違和感があれば「禁則」を取り除いてみる。あるいは、主旋律とハーモニーに、もう一本の隠れた旋律を描き込む仕掛けも好きだ。連想ゲームで湧き出たコード進行で浮遊感を得るのも好きなのだ。

それがよい音楽──現実空間、あるいは言葉への近道なのか遠回りなのか、まだ断定できない。それでも、今日もフレーズやコードを真似ては読み解こうとし、必死で理性と感性からインスピレーションを引き摺り出し、いつかは理屈を忘れることを目指して、指板とピアノロールを走り続ける。

いいなと思ったら応援しよう!