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レリックの囁き――鍵の刻印が開いた超時空旅譚

    今、私の手元で鈍く金色に光る小さなスプーンがある。その柄に刻印された『交差する二つの鍵』の謎が、わたしに壮大な時空の扉を開く力を与えてくれた。Relic (レリック) とは、遺物/遺跡/名残り/キリスト教のコンテキストでは「聖遺物」を意味し、RPGなどのゲームやアニメの世界では特殊な効果や能力をもたらす「アイテム」を指す。

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    Silver-gilt Trefid Spoon, c.1680

    1、一本のスプーンとの出会い

    1990年代の前半から半ば、ロンドンの Draycott Place に住んでいた。ちょうど100年前に建てられたQueen Anne Revival style の赤煉瓦作りのタウンハウスで、区画の端の角に位置する2階だった。街灯の灯りが街路樹の葉蔭を通して差し込む緩やかに配された窓のあるリビングルームには、暖炉を模ったヒーターの上方に洒落た飾り棚があり、ポルトガル製の陶器が飾られていた。

    晴れた日には、買いものがてらに街の探索も兼ねて散歩に出た。ドアを出てまっすぐ数十メートル歩くとKing’s Roadへ出る。その向こう正面には、緑の背景に金色のゴシック体で一際大きく“Duke of York”と書かれた看板が誇らしげに掲げられていた。陸軍司令部(Duke of York's Barracks)である。1990年代前半、それは若く軍歴と王室的華やかさをまとった Prince Andrew のイメージに重なっていたが、今は Saatchi Gallery に姿を変えた。スキャンダルによる凋落を覆い隠すかのように、ショッピングモールと高級賃貸アパート“The Duke of York Square” に名前を残すだけになっている。

    ある日、Kings Road に沿って散歩していると Chelsea Community Center でアンティーク市が開かれていた。ふと、薄汚れたガラスケースの中で鈍く金色に光る一本のティースプーンに目を奪われた。見たこともない古風な形状で、繊細な花唐草紋様が彫刻され、薄い金色を帯びていた。細い糸で括り付けられた小さな紙片には、Silver-gilt Trefid Spoon, c.1680, £250 と記載されている。1680年というと、日本では徳川綱吉が第5代将軍に就任した頃であり、そんな古い時代のものを手にしたことがなかったこともあり、買ってみようという気になった。店主は「このスプーンはイギリスのものではない。多分、オランダのものだ」と謎かけをしてスプーンを手渡した。その時は、この小さなスプーンが、自分の人生を大きく左右することになるとは思いもよらなかった。

    2、通勤ルートの変更

    オフィスは、金融街 City of London のSt. Paul 寺院の裏手にある旧中央郵便局を改装したビルにあった。1990年、John Major が保守党の党首選で勝利(次期首相に内定)し、財務大臣の最後の公務としてテープカットを行った真新しいビルに、わたしは赴任した。当時は、古き良き時代の「シティ」が最後の輝きを放っていた時代である。それが1990年代半ばにかけ、James Capel など英国の伝統的名門証券が、買収されて米国資本の傘下に入るなどの形で相次いで姿を消し始める。Kleinwort Benson、Hoare Govett など栄光を担ったマーチャントバンクが終焉を迎えてゆくシティで、私は20代半ばを過ごしたのだ。

    最初は、会社の上司など日本人が多く住む北のSwiss Cottageの一軒家に住んでいたのだが、独身のわたしは退屈に感じ、当時最もファッショナブルだったダイアナ妃のようなSloane Rangerに憧れ、自分で不動産屋を回って引っ越したのだ。ドアを出て左手に1ブロック進み、1877年創業の老舗百貨店 Peter Jones を通り過ぎると Sloane Square があり、広場の反対側に地下鉄の駅があり、左手にはSloane Street が続いていた。

    Sloane Square からオフィスまでの最短ルートは、地下鉄Circle Line(西行き)に20分ほど乗ってBlackfriars駅かMansion House駅から歩くルートだ。しかし、このスプーンに出会ってから、反対の(東行き) に乗って Notting Hill Gate 駅で Central Line に乗り換え、St. Paul で降りるルートに変えた。週末にPortobello Road のAntique Market へ通うためだ。

    3、次々に開かれてゆく扉

    当時、Portobello Market が最も賑わっていた時代で、ありとあらゆる品物が世界中から集まっていた。あらゆる時代の銀のスプーンを実際に手に取ってみて回るうち、一般に売られているのは産業革命後の新しいスプーンがほとんどで、それ以前の古い時代のスプーンはかなり専門性の高い店でしか扱っていないことがわかってきた。毎週のように通って手に取ってみるうち、時代、スタイル、刻印の鮮明さ、摩耗などの状態、重さなどによってどのようにPricingがなされているか、Fakeと疑わしいもの、「価値」のあるものが一目でわかるようになってきた。そうなると、自分で集めたくなるもので、いつしかコレクションといえるほどに多くのティースプーン、さらにはテーブルスプーン、フォークやナイフ、さらには茶器類を所蔵するようになった。

    銀器の良いところは、破損リスクが低く、銀という貴金属価値が保証されている上に、実際に使える点にある。いつしか、わたしは日常的に18世紀前半の古い銀器で食事をすることが当たり前になっていった。こうして、300年という時間を超えて、当時のものを手に持って動かし、唇や舌で感じ取っていると、超時空経験が身体感覚として馴染んでくる。しばしば、美術家や骨董商が、真贋鑑定する際に「腹に落ちる」という言葉を使うが、その感覚がわかるようになった。こうなると、スプーンだけでなく、他の分野にも目が向き、知らない世界へ飛び込みたいという冒険心が滾ってくるものだ。

    Portobello Market には、店を構えている業者の他に、毎週異なる商品を床や粗末な棚に陳列する露天商のような業者がおり、その中に土まみれの中国の古い陶磁器を持ち込む中国人がいるのに気づいた。おそらくは盗掘品であり、いかがわしいと思って横目で見ながら通り過ぎていたのだが、ある日、日本で見たことがある禾目天目と呼ばれる茶碗が置かれていた。粘性の漆黒の釉薬が垂れかかる上に、赤錆の様な茶色い細い筋がいく筋も流れ、口縁を鉄の様なざらついた釉薬が覆い、ずっしりと重く、鉄分を含む胎土に気泡のあとがあり、弾くと金属的な音がした。陶磁器の真贋は、専門家でも困難であることは知っていたが、わたしは冒険に乗り出すことにした。

    これは、わたしにとって、中国から英国へ渡った茶の文化が、さらに古い時代に中国から日本へわたった茶の文化と結びつき、西欧と東洋をつなぐ超時空回廊の扉が開いた瞬間だった。これがきっかけになって、中国の古い陶磁器を集めるようになった。そして、購入した陶磁器の真贋鑑定や分析の目的で、古今東西の工芸品を所蔵する世界最大の博物館 Victoria & Albert Museum や British Museum などに通うようになった。

    更に、Sotheby’s、Christie's や Bonhams といったオークションハウスのViewingに出入りし、年収を超えるほど高価な「本物」を、手にとって比較検討し、時に入札して購入し始めた。オークションハウスは、鑑定家を育てる学校を持っているのだが、そこに留学している清心女子大のお嬢様などと知り合いになったり、数十億円という金額が飛び交う印象派絵画の夜会Viewingに招待されたりもした。

    まとまった休日に大陸欧州に旅行すると、博物館・美術館だけでなく骨董屋巡りをした。あらゆるものを、鑑賞するだけではなく、鑑定するという目で見るようになると、それまで全く気づかなかった細部が見えるようになってくる。経験値が高まることで、身体感覚として感じ取れる世界が激変することを知った。

    コレクションは、いつしか、英国の古いスプーンから、18世紀のエールグラス、家具、装飾的な裁縫箱、新石器時代からの中国の古陶磁や古鏡、ローマ時代の陶製ランプ、オスマントルコの医療用呪術腕、サファヴィー朝の銅腕、アールヌーボー期のカメオガラス、デューラーの銅版画、室町時代初期の日本刀、長次郎から薮明山の薩摩など日本の古陶磁、江戸から明治期の蒔絵工芸、などに広がった。一見すると、およそ脈絡のないように見えながら、わたしにとっては、ある種の問題意識や目的意識をもって調べ訪れたテーマ・場所・時代・人にまつわる糸で織り上げたタペストリーなのである。

    こうしてある種の専門家レベルの経験値を備えても、最初に購入した一本のスプーンの素性は、茫洋として解らなかった。

    4、銀の匙と茶

    このティースプーンが作られた時代は、英国に「茶」がもたらされた最初期にあたる。英国に初めて茶葉が持ち込まれたのは1650年頃で、オランダ東インド会社経由の中国茶だった。王政復古で王位についたチャールズ2世は、1662年にポルトガルの王女 Catherine of Braganza と結婚するが、彼女は多額の持参金とともに中国の茶と砂糖を宮廷に持ち込み茶会を催した。これが契機となって、上流階級のステータスシンボルとしての喫茶が定着していったのである。

    茶器として中国の景徳鎮や日本の伊万里の色絵磁器が珍重され、これらを真似てマイセンが磁器製造に成功するのは1709年のことだ。ロンドンで最初の紅茶専門店 トワイニング などが紅茶の提供を始めたのは1706年頃。まだ茶が上流階級だけのものだった時代に、茶に砂糖を混ぜる貴族の令嬢の手元を優雅に飾ったのが、このティースプーンだったのである。自宅の飾り棚にあったポルトガル製の陶器も、ポルトガルの王女を暗示する印のように思えてくる。

    3つまたに先端が分かれる Trefid というデザインは、清教徒革命で亡命していた チャールズ2世が、王政復古の際にフランスの食卓文化として持ち帰ったものだ。その中には、非常に美しく繊細な浮き彫りのレース模様をあしらった Lace-back と呼ばれる高級品があるのだが、これはレース織物で有名なオランダに起源があるらしい。

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    Lace-front & back Trefid Spoon made by Robert King, circa.1680
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    Lace-front & back Trefid Spoon made by Robert King, circa.1680

    オランダには、伝統的にレース編みや刺繍などの手芸文化が深く根付いており、ヨハネス・フェルメールの名画『レースを編む女』は1669年頃の作品だ。スプーンを成形した後に金型 ダイ (Die)で加工されたとされるが、非常に精度の高いプレス加工技術 (Die Stamping) が必要とされる。

    英国におけるスプーンは、それまでローマ帝国時代以来のホタテ型のBowlに直方体の柄の先tip に守護聖人や帽子型の装飾をつけた形状で、外で食事をする際には「持参」するものとされていた。ピーテル・ブリューゲル(父)の『農民の踊り』(1568年頃)では、踊る男の帽子にスプーンが刺されている。当時の人たちは屋外の祭りや酒場に私用スプーンを携行し、英国においては、貴族階級も My Spoon の携行が当然だった。スプーン、フォーク、ナイフが並べられる食卓の情景は、イタリアの宮廷料理とテーブルマナーに起源があり、それがフランスに伝わり、チャールズ2世がイギリスに持ち込んだのだ。

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    Seal-top Spoon by Jeremy Johnson, London, 1648–49
    (この検定年度の最中、1649年1月30日にチャールズ1世が処刑された)

    5、英国のHallmark制度 ~ 銀と通貨

    英国の銀製品には、銀の品位保証のための Hallmark が刻印され、作られた場所、年、製作者を示すマークがセットになっている。その起源は、英国法体系を整備したことで有名なエドワード1世 (1239-1307) が、1300年に発布した勅令・制定法(Statute)に遡る。Sterling Silver (純度92.5%)と同等以上の品質を持つ銀器に王の印「Leopard's Head」を刻印することを義務付けたのだ。刻印は、いくつかの地域に設けられた Assay Office、ロンドンでは金銀細工師ギルドの建物Goldsmith Hall で行われた。この「Hallで打たれるMark」が、現在の「Hallmark」の語源となっている。

    中世~近世のヨーロッパにおいて、銀は、「通貨(貨幣)」そのものであり、王の「通貨発行権」と貴金属の品質保証(Hallmark制度)は表裏一体の関係にあった。純度の低い偽銀貨が蔓延すれば、それは国王の「信用」と「権威」が失墜し、ひいては徴税システムの崩壊、外国との交易停止(国際信用の喪失)に直結する国家危機を招くことになる。

    英国では、紀元前70年前後にケルト民族がコインを鋳造し、侵略してきたローマ帝国も硬貨鋳造を行ったが、彼らが383年に撤退すると、硬貨鋳造は200年間行われなくなった。Heptarchy7王国時代に入ると、6世紀ごろから硬貨鋳造が始まり、650年までに30ヶ所の硬貨鋳造所 (Mint) が記録されている。1066年、イングランドを征服したウィリアム一世は、こうした従来の硬貨鋳造制度をそのまま使って、自らの肖像を新しい硬貨に刻印させ流通させていた。

    1279年、エドワード1世は、Tower of London に王立硬貨鋳造所 Royal Mint を設立して伝統的硬貨鋳造所を廃止して一元化すると同時に、流通していた古い銀貨をすべて回収し、偽造や不正を防止する新デザインの硬貨へと全面的に作り替えるという大改鋳 (Great Recoinage)を断行した。彼は、通貨偽造や縁削りの犯人に対し、極めて厳しい捜査を行い、「大逆罪(High Treason)」として極刑を適用し、通貨偽造の犯人は、男性であれば首吊り・内臓抉り・四肢切断(Hanged, drawn and quartered)、女性であれば生きて火あぶりの刑(Burned alive)に処された。

    金銀品位の検定官(Guardians of the craft / Wardens)は、ギルド所属の親方(Masters)の中から選出され、無令状での臨検・捜索権(Search and Seizure)、即座の没収と製品の破壊(Braking)、逮捕・投獄権と独自裁判(Goldsmiths' Court)、職人・徒弟の管理(商業権の承認、徒弟登録数、労働時間、賃金) など現代の警察や税関、裁判所に匹敵する権力が認められていた。その最重要任務が、ロンドン塔の王立造幣局が作った硬貨の品位検査「ピックスの審判(Trial of the Pyx)」であり、1300年のHallmark制度に先立つ、1279年の大改鋳 以降に始まっている。

    1300年の銀の品位を維持するためのHallmark制度は、こうした通貨制度改革の総仕上げとして行われたものだ。エドワード1世は、流通するすべての銀製品の純度をコントロールしなければ、いくら鋳貨局(Royal Mint)で正しい品位の硬貨を作っても、外側から通貨制度が破壊されてしまうことを理解していたのである。以後、Royal Mint および Hallmark 制度は、500年以上にわたって運用し続けられており、国家500年の計と言える偉業であったと言えるだろう。

    6、英国とオランダをつなぐ回廊

    このスプーンの柄の刻印は英国のものではない。店主が「多分、オランダ」と言ったのは、当時、オランダのHallmarkを図入りで詳細に示す書物がなかったためだ。17世紀のオランダでは、およそ35の都市が、各々に異なるHallmarkを刻印していたため、その全てを網羅して分析するには、作例も情報も不足していたのだろう。

    オランダの各都市は、行政権や司法権などの強い自治権を持ち、商人や親方たちによるギルド(同業組合)が市政を動かし、都市貴族(Regenten)による都市共和制(寡頭制/オリガルキー)が敷かれていた。ネーデルラント連邦共和国中央政府の政治力は弱く、各州(特に最大の経済力を持つホラント州)の権限が強かった。外交・軍事面で、オラニエ=ナッサウ家(オラニエ家)から「総督」が選出されるのが慣例となっていたが、都市貴族たちはこの総督が王のような権力を握ることを警戒し、絶えず権力闘争を繰り広げていた。30年戦争の英雄総督ウィレム2世が天然痘で急死すると、跡継ぎ(後のウィレム3世)が生まれたばかりだったため、都市貴族たちは総督職を空席にし、さらには英蘭戦争を利用してオラニエ家を総督候補から排除した。成長したウィレム3世は、英国貴族によるクーデター要請「名誉革命」を利用し、英国王ウィリアム3世として「王」になって権力を掌握した。しかし、それでもオランダ国内の政治体制は変わらないほど、都市貴族の力は強かった。

    オランダが国レベルで統一されたHallmark制度を採用するのは1814年である。ナポレオン戦争後、ウィーン会議で「ネーデルラント連合王国」の建国が承認され、オラニエ家のウィレム・フレデリックが初代オランダ国王「ウィレム1世」として即位し、現在のオランダ王室が正式に成立する。このスプーンが作られた100年以上後のことである。

    7、天国の鍵

    こうした複雑な事情もあって、このスプーンの由来は、手にしてから30年以上にわたってわからなかった。ところが、最近になり、オランダのHallmarkをデータベース化したWEBサイトが登場し、その画像データを人工知能によって照合することができるようになり、ようやく検討できる環境が整ったのだ。

    このスプーンの刻印は、彫刻された紋様と重なっており判別が難しいのだが、二つの鍵が交差している図柄で、大学街として有名なLeidenの17世紀後半のものとみてほぼ間違いない。街の紋章でもある「天国の鍵」を表し、街の守護聖人ペテロに対しイエス・キリストが「天国の鍵を授ける」と語ったという新約聖書『マタイによる福音書』に由来している。

    彫刻されている模様は、チューリップを意匠化したもので、Tulip-and-foliage patternと呼ばれ、17世紀後半のオランダで非常に流行したものだ。タガネと金槌を用いて金属の表面を凹ませていくFlat-chasing と呼ばれる技法で彫刻されている。同時代の英国製と比較すると、技法的にオランダの方が遥かに優れていたことが見て取れる。世界一の経済大国オランダは、最先端の機械技術と、手仕事の芸術性を同時に両立させていたのである。

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    Silver-gilt Trefid Spoon, made in Leiden, Netherlands, c.1680
    (柄の中央に交差する二つの鍵の刻印がある)

    チューリップとLeidenの間には深い関係がある。

    ライデン大学植物園 (Hortus Botanicus Leiden)の初代園長だった植物学者Carolus Clusius (1526-1609) は、チューリップの原産地トルコで採集された球根を本格的に栽培することに成功し、研究と品種改良を積み重ね、一大産業になるまで育て上げた。その結果、「チューリップバブル」と呼ばれる社会現象を引き起こすきっかけをつくったことで有名なのだ。

    チューリップバブルとは、1637年2月にかけ、チューリップの球根の価格が高騰を続けた挙句、突然に暴落した社会現象で、世界史上最初の「バブル経済崩壊」として知られている。1637年のカタログ『Verzameling van een Meenigte Tulipaanen』には、「Viceroy(viseroij)」という品種のチューリップの球根に、大きさに応じて3,000~4,200ギルダーの値がつけられている。当時の熟練職人の平均年収300ギルダーの10倍以上の価格で取引されていたのだ。

    400年近くを経た現在、チューリップはオランダの国花となっている。

    8、日本とLeidenをつなぐ回廊

    Leidenは日本との関係も深い。シーボルト (Siebold, 1796-1866)は、長崎の出島のオランダ商館付医師だったが、日本から持ち帰った膨大なコレクションを、1832年にLeidenに開設した「日本博物館」で展示し、欧州における「日本学」の祖となった。ライデン大学には、フォン・シーボルト記念庭園 (Von Siebold gedenktuin)という日本庭園があり、欧州最初の日本語講座・日本学科が開設され、今日でも人文学部に日本研究専攻がある。

    シーボルトは、単なる医師・博物学者ではなく、バタヴィアの蘭印政庁総督に宛てた書簡に「外科少佐及び調査任務付き」と署名している通り、江戸城本丸詳細図面や測量図など軍事的政治的資料を収集する諜報工作員だった。しかし、大の日本びいきであった彼の存在は、欧米列強にとっては都合の悪いものになっていった。江戸幕府は、本来のオランダ王国代表公使よりも、シーボルトを重用していたが、これを妬んだオランダ公使の強い要望で彼を解雇せざるを得なくなった。幕府は彼の退任を惜しみ、別れの席では次はオランダ王国の代表としての再来日を強く望み、将軍徳川家茂は、太刀と700両もの褒賞を与えている。

    9、チューリップの平原に立って

    このスプーンを手にした当時、大陸欧州各地をレンタカーでしばしば旅していたのだが、Leidenにも立ち寄ったことがある。運河に浮かぶ帆船のある広場で、学生と思しき若者がたむろしていたのが印象に残っている。チューリップの花に埋め尽くされた平原を見たくて、開花シーズンに合わせてKeukenhof 公園を訪れたこともある。

    30年以上前のわたしに「君の探し物は足元にあるよ」と教えてあげられたら、その人生はどのように変わっていただろうか、とふと考えてみたりする。しかし、当時のわたしには、このスプーンの背後に広がる複雑な世界史を紐解く力は備わっていなかった。

    けれども、いま思い返すと、「謎」を「謎」のまま抱き続けることが、わたしに次々と扉を開く力を与えたように思える。簡単に謎が解けてしまっていたら、それで満足してしまい、その先へ進もうとは思わなかっただろう。

    この一本のスプーンが問いかける「謎」が、三十年という長い年月にわたってわたしを駆り立て続け、通勤経路を変え、週末の行き先を変え、旅の仕方を変え、博物館の見方を変え、やがて世界を感じ取る感覚さえも変え、結果として、人生を豊かにしてくれたのだ。

    それは、わたしにとって、まさに魂を導く「鍵」だったのだ。


    #創作大賞2026
    #エッセイ部門

     
     
     
    資産運用業界で調査と新規事業立上げに長く携わり、ロンドンで出会った古い銀の匙に刻印された「鍵」に導かれて超時空探索者(クロノノート)となる。レリックが囁く「謎」を解き明かし、超時空回廊の扉を開いてゆく物語を、自らの身体感覚を通じて綴ることをライフワークとしている。

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