
レキシ人生相談室 #1|人生がつまらないです。やりたいことが見つかりません。
ここは悩みの多い現代人のために、心の処方箋をくれる場所。
昔の人の生き様や考え方から、今をより良く生きるヒントをもらいます。

ーあなたへの処方箋📝
「おもしろきこともなき世に面白く」
この言葉は、高杉晋作が結核で療養中に詠んだ句として知られています。
下の句は「すみなすものは心なりけり」と続き、野村望東尼が添えたものとされています。
病によって残された時間が少ないなか、なぜ高杉晋作はこのような句を詠んだのでしょうか。
高杉晋作の生き方から、悩みを解決するヒントをもらいます。
高杉晋作を知る📝
高杉晋作は長州藩(現在の山口県)の出身で、19歳の時に松下村塾の門下生となり、吉田松陰と出会います。
その後、藩命によって上海へ渡航し、西洋列強の影響下に置かれた中国の状況を目の当たりにしたことで、日本の将来に強い危機感を抱きました。
帰国後は、身分の上下を問わず有志を募って「奇兵隊」を創設したほか、下関戦争後には講和交渉役に関わりました。
さらに、厳しい状況のなか功山寺で決起した晋作らは、奇襲に成功し、長州藩は再び討幕派が主導権を握ることになります。
27歳という若さで病により亡くなりますが、その行動や考え方は後世に大きな影響を与えました。
高杉晋作について詳しく知りたい方はこちら↓
年表
1839年 長州藩(現在の山口県)で生まれる
1857年 吉田松陰の松下村塾に入門する
1862年 藩命により上海へ渡航する
1863年 下関戦争に参加し、奇兵隊を結成する
1864年 禁門の変が起こり、第一次長州征討が始まる
1865年 功山寺挙兵が成功する
1866年 第二次長州征討が行われ、高杉も戦いに参加して幕府軍に勝利する
1867年 肺結核により下関で死去(享年27歳、数え年29歳)
高杉晋作から学ぶ①
「志を見つけた松下村塾」
松下村塾では、身分や階級に関係なく誰でも学ぶことができました。
師である吉田松陰は、塾生一人ひとりの個性を尊重し、それぞれの能力を伸ばすよう指導しました。
松陰は人生において最も大切なのは「志」を立てることであると説き、講義では世の中で起きている実際の問題を題材に活発な議論が行われました。
その後、松陰は安政の大獄で処刑されますが、その志は高杉晋作をはじめ、多くの塾生へと受け継がれていきます。
松下村塾は現在も松陰神社境内に残っています↓
高杉晋作から学ぶ②
身分を超えた奇兵隊
上海に渡航した高杉晋作は、現地の人々が西洋列強の影響下に置かれている様子を目の当たりにし、大きな危機感を抱きました。
帰国後、外国から日本を守るため攘夷運動を実行しますが、下関戦争で長州藩は外国艦隊に敗北してしまいます。
そこで高杉晋作は、身分の上下を問わず有志を募り「奇兵隊」を結成しました。
奇兵隊には志のある農民や町民も参加し、身分ではなく能力を重視して編成された新しい軍隊でした。
高杉晋作から学ぶ③
「これよりは、長州男児の腕前お目にかけ申すべし」
禁門の変によって長州藩は朝敵となり、これを機に幕府は長州征討に乗り出します。
その頃の長州藩内では、幕府への恭順を主張する「俗論派」が勢力を強め、討幕派の粛清を始めていました。
高杉晋作は下関で約80人の同志とともに兵を挙げ、俗論派打倒へと動き出します。
その際、長府の功山寺に潜伏していた三条実美らのもとを訪れ
「これよりは、長州男児の腕前お目にかけ申すべし」
と別れの挨拶を交わしたと伝えられています。
俗論派打倒は極めて難しいと考えられていましたが、結果的に挙兵は成功。
この勢いに奇兵隊や諸隊も加わり、藩内の俗論派を一掃しました。
功山寺について詳しくはこちら↓
今回のまとめ📝
高杉晋作が数々の困難に立ち向かうことができたのは、師である吉田松陰から受け継いだ「志」があったからこそだと感じました。
高杉晋作のように、自分なりの「志」や「軸」を持つことができれば、毎日が少しずつ面白い方向へ変わっていくのではないでしょうか。

yasukeのあとがき📝
以前から人物を深掘りするシリーズを作ってみたいと思っていたので、今回は「人生相談」の形式で高杉晋作を取り上げてみました。(メインの記事は後回しになっていますが……)
激動の時代を生き、病に苦しみながらも、「おもしろきこともなき世におもしろく」と詠んだ高杉晋作はとてもかっこいいです。
また、高杉晋作は次のような言葉で表されています。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
私も周りの環境や人に不満を言うだけではなく、自分から面白くしていこうという気持ちと、自分なりの軸を大切にしたいと改めて感じました😊
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