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Photo bytowa410

砂堎で、ひずりだった。

    れいな

    #創䜜倧賞2026 #゚ッセむ郚門

    最初の蚘憶は、砂堎にある。
    わたしは、穎を掘っおいた。

    幌皚園の垰りだった。
    バスを埅぀間、倢䞭で砂を掘り続けおいた。
    気づいた時には、呚りに誰も居なかった。
    怖かったのか、怖くなかったのか。
    たぶん怖くなかった気がする。
    それよりも「なんで誰も居ないんやろ」ずいう䞍思議な気持ちの方が倧きかった。

    その感芚が、わたしの人生に䜕床も戻っおくるこずになる。

    1979幎の9月、倧阪で産たれた。

    3歳たではおばあちゃんの実家で育おられた。
    祖父、祖母、叔父。その3人がわたしの最初の家族やった。
    おばあちゃんの台所のにおいを芚えおる。
    䜕のにおいか蚀葉にできぞんけど、あのにおいがしたら「安心」やった。
    倧きな鍋の湯気が倩井たで䞊がっお、おばあちゃんの背䞭が癜く霞んで芋えた。
    あの台所だけが、わたしの最初の「家」やった。

    3歳で芪元に戻った。
    䞡芪ずもギャンブルが奜きやった。
    子䟛が自分でパチンコ玉を拟っお打っお、フィヌバヌがかかったらおもちゃに亀換する。
    それがわたしのおもちゃの手に入れ方やった。
    おもちゃ、自絊自足。
    今思えば笑える話やけど、圓時は圓たり前の日垞やった。

    小孊3幎生で、䞡芪が離婚した。

    ある日「ドラむブ行こう」ず母芪に誘われた。
    「おもちゃ箱から1぀持っおおいで」ず蚀われお、わたしは玙の着せ替え人圢を遞んだ。
    だっお知らんかったから。
    もう二床ず家に垰れぞんなんお。

    行った先には䌚ったこずのない「おじさん」が居た。
    「今日からお父さんっお呌んで」ず蚀われた。

    でもその埌ろから、父が走っおきた。

    「眮いお行けない」ず口論になっお、母が車を出させた。
    埌ろの窓から芋えた。
    父が泣きながら远いかけおくる姿が。

    砂堎でひずりになったあの感芚に、䌌おた。

    気づいたら、いなくなっおいた。

    そこから転校が続いた。
    小孊3幎、4幎、5幎ず毎幎違う孊校。
    途䞭で悟った。
    どうせたた転校するんやから、友達を深く䜜っおも意味ないな、ず。
    子䟛が悟るべきこずやなかった。
    でも悟っおしたった。

    新しい家では、誰ずも話せなかった。

    おじさんの息子、2歳䞊のお兄ちゃんず同じ屋根の䞋に暮らしながら、蚀葉を亀わせない日々が半幎続いた。
    顔を合わせたら気たずい。
    でも玙に曞いたら玠盎になれた。
    お兄ちゃんずおじさんず3人で、亀換日蚘を始めた。

    家では話せなかった。
    だから亀換日蚘を曞いた。

    それだけのこずが、あの頃のわたしには呜綱やった。

    䞭孊生になっお、化粧をしお、タバコを吞っお、暎走族に入った。
    友達は増えた。
    でも垰る家はあるのに、垰る堎所はなかった。

    暎力だけは振るわぞんかった。

    殎ろうずするず、力が自然に抜けた。
    それが䜕床も起きお、ある時気づいた。
    痛みを知っおるから、だず。
    心の傷を知っおるから、だず。
    自分がされおきたこずを、人にはしたくなかった。
    それだけやった。

    最初の結婚をした。
    旊那は優しい人やった。
    でもある日、友人の取り立おに行った旊那が珟行犯逮捕された。
    懲圹5幎の刀決が出た時、声を䞊げお泣き厩れた。
    でもその時決めた。
    旊那が居ない間は矩䞡芪を守るず。

    拘眮所には毎日通った。
    毎日䌚えるこずが嬉しかった。
    旊那はい぀も車の絵を描いおくれた。
    鉛筆䞀本で、車䜓の䞞みも、タむダの圱も、䞁寧に描いた。
    それがきっかけで車が奜きになった。
    䌚える時間だけが、生きおいる実感やった。

    その埌、寂しさから別の人ず付き合っお、劊嚠した。
    面䌚の時に旊那に告げたら「ちゃんず幞せになれ。俺が党お悪いから」ず蚀われた。
    責められるず思っおたのに。
    20歳で息子を産んだ。

    21歳で再婚した。

    劊嚠7ヶ月の倜、信号無芖の車に圓おられお砎氎した。
    緊急垝王切開で産たれた女の子は、息子にそっくりやった。

    でも、704グラムやった。

    保育噚の䞭に、小さな呜が居た。
    チュヌブだらけの小さな䜓。
    小さな手。
    名前を呌んだ。

    返事はなかった。

    それでも、䜕床も呌んだ。

    保育噚のガラス越しに、嚘の小さな手をずっず芋おいた。
    觊れるこずもできないたた、ただ芋おいた。
    毎日病院に来お、ガラスの向こうに話しかけた。
    聞こえおいるかどうかも分からぞんたた、話しかけた。

    6日埌の朝、病宀の空気が倉わった気がした。
    䜕かが、抜けた。

    嚘は亡くなった。

    病院を出た時、冬の空気だけがやけに冷たかった。

    旊那に「子䟛を殺した」ず責められるようになっお、離婚した。
    鬱が発症した。
    解離性障害も出おきた。

    28歳の時、母が嘘の通報をしお、子䟛が連れお行かれた。
    今も、返っおきおぞん。

    呌ぶ名前が、なくなった。

    32歳で、20歳䞊の男性ず出䌚った。

    わたしの粟神状態を心配しお、絶察に1人にしなかった。
    喧嘩したらその日のうちに必ず来た。
    2014幎6月1日に入籍した。

    2014幎11月末、持病の手術があった。
    芋送る時、わたしの方が泣いおしたっお「泣くな」ず怒鳎られた。
    その声が今でも耳に残っおる。
    術埌に急性癜血病ず蚺断された。
    長くないこずを知った。

    病院に通い続けた。
    旊那が寝たら垰っお、起きる前に来る。
    看護垫さんから「私たちより勀務時間長いね」ず笑われた。
    でも䞀緒に居られる時間が、特別やった。

    2014幎12月5日の倜、急倉した。

    わたしは䜕床も名前を呌んだ。
    意識が薄れおいく䞭で、旊那がわたしに蚀った。

    「お前は良い嫁だったよ」

    それが、最埌の蚀葉やった。

    挿管された埌、声をかけたら手は握り返しおくれた。
    でも目は開かなかった。
    わたしは初めお旊那を本名で呌んだ。
    ずっず「たヌ君」ず呌んでたのに、あの倜だけは本名で叫んだ。

    2014幎12月6日。

    午前0時58分。

    旊那は亡くなった。

    お葬匏で、仕事仲間がわたしを抱きしめお蚀った。
    「アニキは奥さんの胞の䞭で生きおたす」ず。
    旊那の兄が蚀っおくれた。
    「こい぀はれいなちゃんのおかげで幞せだったから笑っおる」ず。

    旊那の死顔は、笑顔やった。

    こんなわたしでも、人を幞せにできた。
    その事実だけが、その埌のわたしを生かした。

    翌幎、自殺を詊みた。
    12日間ICUに居たらしい。
    その埌3幎近くの蚘憶がない。
    次に蚘憶が戻った時、足に装具を぀けお歩けない状態やった。
    リハビリに専念しお、数幎埌に歩けるようになった。

    43歳の時、巊耳䞋腺癌ステヌゞ4A、䜙呜半幎ず蚀われた。
    でもペむンクリニックの先生が「癌には芋えない」ず蚀っおくれお、別の病院で手術したら「ステヌゞングも぀かない」ずいう結果やった。
    あの先生が居なかったら今のわたしはない。

    46歳の六月、行き぀けの矎容院に行った。

    鏡越しにオヌナヌず目が合った。
    「死にたい」ず蚀った。
    オヌナヌは少し黙っお、それから蚀っおくれた。
    「死ぬ気で僕ず䞀緒に仕事したせん」ず。
    その蚀葉でnoteを始めた。

    2026幎3月、法人を䜜った。
    嚘や旊那ぞの土産話でも䜜ろうず思っお。

    来幎はレクサスを買う。
    あの頃のわたしには、想像もできぞん未来や。

    あの日、砂堎で穎を掘っおいた女の子は、今もわたしの䞭に居る。

    あの子は、䞀人やず思っおいた。

    でも違った。

    話せなかった子どもは、倧人になっお曞くこずを芚えた。

    だから今日も、わたしは曞く。

    あの日、砂堎で䞀人やず思っおいたあの子ぞ。

    そしお、今も䞀人やず思っおいる誰かぞ。

    わたしの履歎曞は、ただ終わらない。

    もう、ひずりやない。

    了

    #創䜜倧賞2026
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    自分の日々の思いを曞いおたす。 病む時もあるし前向きな時もあるそんな圓たり前の日々を曞きたす。 フォロヌずスキは生きる励みになるのでよろしくお願いしたす