笑いは問いを消すのか

 日本には、長年親しまれてきたトーク番組が多い。『徹子の部屋』『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」、『踊る!さんま御殿!!』など、それぞれ形式は異なるが、出演者の人柄や経験を言葉で引き出すという点では共通している。なかでも私が興味をひかれたのは、『踊る!さんま御殿!!』のような、ひな壇形式のトーク番組である。

 私は子どものころから、バラエティのトーク番組が少し苦手だった。もちろん、事前に喋る内容も選択がかかっていて、台本もあって、演出も事前に練られていることも知っている。それでも、少なくとも私には、演者の本音がこぼれたように見える瞬間があった。しかし、そうした言葉でさえ、笑いへと変換されてしまうように見えたからだ。

 日本のトーク番組には、ひとつの型があるように思う。とくに、複数の出演者がひな壇に並ぶ番組では、その型がよく見える。ゲストは、少し不幸だった話、人に理解されなかった話、自分だけのこだわりなどを語る。MCはそこへ次々とツッコミを入れ、ゲストは弁明する。そして、そのやり取りが限界まで続き、「これ以上は弁明できない」というところで、大きな笑いが起きる。そして、明石家さんまの話術では、とくにそれが顕著に出る。

たとえば、こんなやり取りだ。(※私が勝手に考えたものです。)

演者:「納豆パンとコーヒーって、めちゃくちゃ合うんですよ。」
架空さんま:「えぇ!? 朝から口の中、どないな会議してんねん!」
他のひな壇+観覧席:笑
演者:「だって、納豆もコーヒーも豆じゃないですか。それに、納豆ご飯のご飯がパンになっただけです。」
架空さんま:「いやいや(笑)。そんな理屈でええんやったら、豆腐とカフェオレも兄弟やん!」
演者:「兄弟とは言ってないですよ!」
さんま:「兄弟ちゃうんかい!ほな親戚くらいやな!」

ふと思った。もし、イワン・カラマーゾフが『踊る!さんま御殿!!』に出演したら、どうなるのだろう。少し考えてみた。

イワン:「虐待される子どもがひとりでもいる以上、僕は入場券を返す。」
架空さんま:「えっ? 天国って返金対応あんの? なんでや? 買わされてたん? 消費者センター案件やん!」

 私は、この返しは論点を逸らしているようには思えない。むしろ、「入場券を返す」という言葉が持つ「返却」や「返金」という含意を拾い上げ、別の言葉へ翻訳しているように見える。返金という発想は、「買わされたのか」という問いへつながる。そしてそれは、「生まれることを自分は選んだのか」という、反出生主義が扱う問いとも重なる。もちろん、笑いは生まれている。しかし、その笑いは、イワンの問いを消しているのではなく、別の形へ翻訳しているように私には思える。つまり、架空さんまはイワンの問題提起の核心は理解している。それを笑いに翻訳しているのだ。

 私は子どものころから考えている。自分だけが感じすぎるのか、それとも、みんなも感じているけれど、表には出さないだけなのか。

 今この瞬間も、世界のどこかでは虐待で苦しんでいる子どもがいる。私だけが不自由なく生きている。この問いに完全な答えはない。それでも私は、ときどきテレビを見ながら考えてしまう。笑いは、本当に問いを消してしまうのだろうか。それとも、笑いという形であっても、その問いを持ち帰る人が一人でもいるなら、それは成功なのだろうか。また、さらにその中の一部が、笑いへと翻訳された言葉から、誰かが元の問いをもう一度取り出すことができるのなら。

 落語、ギャグ漫画、子ども向けマンガは、大人が読んでも、内容が深い。社会や人間への風刺が含まれている。あれは、笑いと言う形で、問いを提起してるように見えるのだ。『天才バカボン』の「これでいいのだ」は、単なるギャグとして読める。しかし、大人になって読むと、「人はどこまで過去を引きずるべきなのか」という問いにも見えてくる。

 子どものころ、私は笑いが問いを消してしまうのだと思っていた。今は少し違う。笑いは、ときに問いを運ぶための形なのかもしれない。

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