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【創䜜倧賞2026応募䜜品】名札のない埮熱 第8章最埌の看板

朝の光は、ただ䌚堎の倩井たで届かずに床の近くで薄く広がっおいた。有明の倧きな展瀺棟には倜のうちに冷えた空気が残っおおり、靎底が床に觊れるたびに癜い音が遠くぞ䌞びおいった。朱里は䜜業甚の䞊着の袖を匕き、胞の奥に入り蟌む也いた匂いをゆっくりず吞い蟌んだ。

今日はひずきわ倧きな展瀺䌚の最終撀収日だった。䌚堎の端から端たでただ骚組みや倧型パネルが残っおおり、倖された䌁業名の板や照明機材、床に走る倪いケヌブルの束が朝の薄明かりの䞭で静かに埅っおいた。

昚日たでの小さな確認䜜業ずは違い、今日は䌚堎そのものが倧きく動く日だった。䜕かを芋萜ずせば次の䜜業が止たっおしたうため、朱里は工具袋の玐を握り盎しお自分の呌吞を仕事の速さに合わせようずした。

「今日は䞭倮から倖す。最埌に正面の看板」

真砂朔也の声が広い空間に響いた。名前はないが、声の方向だけで朱里は自分がどこぞ向かえばいいのかわかった。

「はい」

返事をした埌、朱里はすぐに圌を探さなかった。探せば芋぀けおしたうし、芋぀けおしたえばたた䜜業よりも先に胞が反応しおしたう。

それでも圌の声は届く。高い倩井の䞋で薄く反響し、呚囲の音に混ざりながらも朱里の耳には別の茪郭を持っお残る。

最初に倖すのは䞭倮に組たれた倧型ブヌスの壁だった。癜いパネルが䜕枚も連結され、奥にはただ照明甚のケヌブルが残っおいる。朱里は固定具の䜍眮を確認しおネゞの頭に工具を圓おた。

「そこ、䞊の噛み合わせが先」

遠くから朔也の声が飛んだ。

「䞊ですね」

「うん。䞋はただ觊らない」

朱里は手を止め、䞊偎の金具を倖した。工具が噛む感觊が手銖に䌝わっおくる。少し硬い。力を入れかけたずころで、たた声が聞こえた。

「戻しおから」

朱里は蚀われた通り、䞀床だけ逆ぞ回した。抵抗が抜け、金具が静かに緩んだ。

「倖れたした」

「そのたた眮いお」

圌は芋おいる。離れおいおも芋えおいる。朱里はそのこずにはもう驚かなくなっおいたが、平気になったわけではない。

䌚堎のあちこちで䜜業音が重なり始めた。台車の車茪、金属フレヌムが床に眮かれる鈍い響き、垃パネルを巻く擊れる音。朝の静けさはゆっくり解䜓されおいく。

朱里は倖した金具を小袋に入れ、次のパネルに移った。今日は立ち止たっおいられない。芋たくないものを芋ないためには、忙しさの䞭に身を眮くのが䞀番楜だった。

しかし、忙しさは人を隠すだけで、声たでは消しおくれない。

「朱里、そっち䞋がっお」

呌ばれた。

名前が䌚堎の広さを越えおたっすぐ届き、朱里は䞀瞬だけ動けなくなった。次の瞬間、倧きなパネルの圱が揺れ、圌の蚀葉の意味が朱里の䜓に遅れお入った。

「䞋がっお」

今床は名前がなかったが、最初の䞀床で十分だった。

朱里は半歩埌ろぞ䞋がった。すぐ前を、倖れたパネルの端がゆっくり通り過ぎた。危なかった。もし反応が遅れおいたら、肩に圓たっおいたかもしれない。

朔也が近づいおきた。衚情は萜ち着いおいるのに、目だけが少し鋭い。

「圓たっおいない」

「倧䞈倫です」

「本圓に」

「はい」

返事をしながら、朱里は心臓がただ早く鳎っおいるのを感じた。それは、危なかったからではなく、呌ばれたからだった。

圌もそのこずに気づいおいるのかもしれないが、䜕も蚀わなかった。仕事の䞭で出た名前を仕事の䞭ぞ戻そうずしおいるように芋えた。

「今の䜍眮、死角になる」

「芋えおたせんでした」

「次から倖偎」

「はい」

やり取りは䜜業のためのものだった。朱里はうなずき、倖偎ぞ移動する。けれど、呌ばれた名前はもう䌚堎の音に玛れおくれなかった。

「朱里」。短く、少しだけ急いだ声だった。前に控宀で呌ばれた時よりも鋭さがあり、心配ずいうよりも危険を止めるための声だった。それなのに、胞の奥には別の熱が残っおいた。

そんなこずを考えおいる堎合ではない。朱里は工具を握り盎した。

䞭倮のブヌスは少しず぀圢を倱っおいった。壁が倖れ、棚が折りたたたれ、照明が䞋ろされる。朝にはひず぀の街のように芋えた構造が、郚材の束ぞず倉わっおいく。

朱里は指瀺された通り、倖偎の通路から䜜業を進めた。少し距離ができた。さっきのように呌ばれないための距離なのか、危険を避けるための距離なのか、自分でも区別が぀かない。

「そっち、芋える」

朔也の声がした。

「芋えたす」

「䞋のケヌブル、螏たないで」

「はい」

圌はもう名前を呌ばなかった。けれど、䞀床呌ばれた埌では呌ばれないこずにも枩床があり、朱里はそれが䜙蚈に苊しいず感じた。

䌚堎の䞭倮では、倧きな吊り看板を䞋ろす準備が始たっおいた。倩井から䞋がっおいた長い看板は今日の撀収䜜業の最埌たで残るはずだったが、正面の郚品を取り倖す前に高さを倉える必芁があった。朱里は、䞋で受け取る資材を敎理しながら䞊を芋䞊げた。

看板の裏偎には昚日たで照明を受けおいた熱がただ残っおいるように芋え、文字は芋えなかった。裏返された癜い面だけが朝の光をがんやりず反射しおいた。

「䞋、空ける」

朔也の声が響く。

朱里は台車を匕いた。床の䞊で車茪が少し重く鳎る。近くのケヌブルを避け、壁際ぞ寄せる。

「もう少し右」

「はい」

「そこで止めお」

朱里は止たった。少し遅れお、看板の䞀郚がゆっくり降りおくる。倧きなものが動くず、空気たで䞋に抌される感じがした。

その圧の䞭で朱里は、さっきたで看板の䞋にいたはずの朔也の姿を䞀瞬芋倱った。支柱の圱ず䜜業台の向こうに隠れおしたったのだ。

胞が小さく跳ねた。危険があるわけではないが、芋えなくなっただけで声を探しおしたう。

「真砂さん」

呌びかけは小さく、倧きな䜜業音に玛れおしたったかもしれない。朱里は自分でも驚いた。今のは䜜業確認ではなく、ただ芋倱ったこずに反応した声だった。

すぐに支柱の向こうから、朔也が顔を出した。

「いる」

その䞀蚀で朱里の胞の力が抜けた。いる、ただそれだけで安心しおしたった自分がいた。

「すみたせん、芋えなかったので」

「こっち。柱の裏」

「はい」

朔也はそれ以䞊聞かなかった。芋倱われたこずに気づいおも、䜙蚈な意味は付けない。そういうずころに救われるのに、同時に少しだけ寂しくなる。

看板はゆっくり床に近づいおいった。䞊で支えおいたものが降りおくるず、䌚堎の空気が倉わる。芋䞊げおいたものが手の届く高さになり、遠かった名前や文字がただの板になる瞬間だった。

朱里は受け材を床に眮き、看板の端を乗せた。重さが逃げないように角床を敎える。

「そこ、手を入れないで」

朔也が鋭く蚀った。

朱里は手を匕いた。看板の端が少し沈んで受け材の䞊で止たった。ほんの少しでも遅ければ指を挟んでいたずころだった。

「すみたせん」

「謝らなくおいい。今のは芋えにくかったから」

声はただ少し硬かった。朔也は看板の端を確認しお朱里の手元を芋た。

「指、倧䞈倫」

「倧䞈倫です」

「芋せお」

朱里は蚀われお、手袋をした手を少し䞊げた。朔也は朱里の手に觊れなかったが、指先の圢ず動きを芳察した。

「動く」

朱里は指を曲げた。

「動きたす」

「ならいい」

短い確認だったが、圌の目はすぐには離さなかった。朱里はそれに気づき、手を䞋ろした。

「倧䞈倫です。本圓に」

「わかった」

圌はうなずいた。そのうなずきが、い぀もより遅かった。

朱里は看板の癜い裏面を芋た。さっきたで高い堎所にあったものが、今は床の近くで静かに暪たわっおいる。名前やロゎの裏偎はこんなに無防備なのだ、ず思った。

昌に向かう光が䌚堎の高い窓から差し蟌み始め、朝の冷たさは薄れ、空気に少しだけほこりの枩床が混ざり始めた。床に萜ちた现かな玙粉が、歩くたびに小さく舞い䞊がった。

䜜業は䞀段ず忙しくなり、䞭倮のブヌスを完党に厩しお郚材を分類し、最埌に正面の倧看板を倖す準備に移る。声が飛び亀い、台車が䜕床も通路を暪切る。

朱里は自分の区画を守るように動いた。金具を拟い、ケヌブルをたずめ、受け材を移す。目の前の手順をこなすほど、䜙蚈な感情を眮く堎所が枛っおいくはずだった。

しかし、朔也が近くを通るたびに䜓が反応した。芖線を向けなくおもわかる。垃が擊れる音、台車を抌し出す音、短く息を吞う間。

「そこ、通る」

「はい」

朱里は道を空けた。朔也が台車を抌しお通り過ぎる。車茪の音がすぐ暪を通り過ぎ、䜜業着の袖が空気を動かす。

近い。けれど、觊れない。觊れないのに、近さだけが残る。

「さっき」

朔也が通り過ぎながら蚀った。

「はい」

「呌んだの 驚いた」

名前のこずだずすぐにわかり、朱里は台車の取っ手を芋た。圌は足を止めおいない。だからこそ答えやすかった。

「驚きたした」

「悪かった」

「悪くはないです」

蚀いながら胞の奥がたた熱くなる。䌚堎は忙しく、蚀葉を深く眮くには向かない堎所だ。それなのに、こういう䞀瞬ほど本圓のこずが出おしたう。

朔也は台車を止めずに少しだけうなずいた。

「ならよかった」

その蚀葉は䜜業音の䞭に混ざったが、朱里はそれを拟っおしたった。䜕床もそうしおきたように。

午埌の光が䌚堎の床に広く差し蟌むころ、正面の倧看板だけが残った。最終日の象城のように、壁の高い䜍眮に長く据えられおいる。文字はすでに薄い垃で芆われ、取り倖すための準備だけが敎っおいた。

朱里は、その看板を芋䞊げた。これが倖れたらこの展瀺䌚は本圓に終わるのだ、ず思った。看板は、その堎所の顔だった。その顔を倖されるず、䌚堎は急に䜕も知らないふりをする。

「最埌、あれ」

朔也が隣に立った。距離は近すぎないが、同じものを芋䞊げおいる。

「倧きいですね」

「重い」

「私、䞋で受けたすか」

「受け材の確認。持぀のはこっち」

「手䌝いたす」

朔也は少しだけ朱里を芋た。

「危ない」

「わかっおいたす」

「わかっおるなら、䞋で芋おいおください」

蚀い方は匷くなかったが、匕けない線がある声だった。朱里は唇を閉じた。

「はい」

悔しさよりも、守られおいるず感じおしたう自分が先にきた。危ないから䞋がる、それは正しい。けれど、正しさの䞭に圌の感情が混じっおいる気がしお朱里は苊しくなった。

「朱里」

たた呌ばれた。今床は危険を止めるためではなく、䌚話の途䞭に静かに眮かれた名前だった。

朱里は顔を䞊げた。

「はい」

返事が思ったより小さく出た。

朔也は䞀瞬だけ蚀葉を遞ぶように黙った。

「頌むから、危ないずころには近づかないで」

頌むから。

その蚀葉は指瀺でもなく、䜜業のためだけの声でもなかった。朱里は胞の奥を掎たれたような気がした。

「  わかりたした」

「うん」

圌はそれだけ蚀っお看板の方ぞ歩いおいった。朱里は圌の背䞭を芋送り、名前を呌ばれた堎所が耳ではなく胞に残っおいるのを感じた。

「頌むから」ずいう蚀葉を、圌は普段䜿わない。必芁以䞊に螏み蟌たない圌が、螏み蟌んだのだ。仕事の流れに玛れ蟌たせるこずもできたはずなのに、名前を添えお止めた。

朱里は、受け材の䜍眮を確認した。床に眮かれた朚材の角床、クッション材の厚み、看板が䞋りおくる線、それらをすべお䞁寧に確認した。圌に心配させたくないずいう気持ちず、仕事ぞの集䞭が混ざり合った。

正面の看板はゆっくり倖されおいった。固定具が倖れ、支えが移り、長い板の片偎が少しず぀浮く。空気が匵り詰める。䜜業音が少なくなり、䜜業に関わる人の息づかいだけが耳元で聞こえた。

「䞋、確認」

朔也の声が響いた。

「倧䞈倫です」

朱里は受け材を芋お答えた。

「巊、もう少し」

朱里は巊偎の朚材を少しずらした。手を入れすぎないように、端だけを抌した。

「そこでいい」

その声で朱里は手を匕いた。看板が䞋りる。重いものが近づくず床の空気が少し沈んだ。

ゆっくりず最埌の看板が受け材の䞊に乗るず、鈍い音がしお、䌚堎党䜓が小さく息を吐いたように感じた。

「終わった」ず倧きな声で蚀う人はいなかったが、䜜業の流れが䞀瞬だけ倉わった。最埌の看板が倖された䌚堎は、急に衚情を倱った。

朱里は看板の前に立ち、垃で芆われた面にはもう䜕の名前も芋えなかったが、その裏偎には確かに䜕かがあったはずだった。人が集たる理由、堎所を瀺す名前、昚日たでの熱。

「持ち䞊げるから、離れお」

朔也が蚀った。

「はい」

朱里は䞀歩䞋がったが、目は看板から離さなかった。倖された最埌の看板、名前を倱った倧きな板の前で、胞の䞭の名前だけが逆に濃くなっおいく。

真砂朔也。

声にしそうになった。危ないからではない。甚件があるからでもない。ただ、芋倱いたくなかったのだ。今この瞬間に、圌の名前を自分の䞭だけでなく、倖ぞ出しおしたいたかったのだ。

唇が少し開いた。喉の奥に音が生たれかける。

「た  」

そこで止たった。空気だけが揺れた。名前にはならなかった。

朔也がこちらを芋た。聞こえたのか聞こえなかったのかわからないが、圌は看板の端に手をかけたたた動きを止めおいた。

「䜕か蚀った」

朱里は銖を振った。胞の奥が熱かった。

「いえ」

「そう」

圌はそれ以䞊は聞かなかった。聞かないこずが今は救いだった。しかし、聞かれないこずでたた寂しさが生じる。

看板は台車に茉せられ、䌚堎の端ぞ運ばれおいった。名前のない倧きな板がゆっくり遠ざかっおいく。朱里は、その背を芋送りながら自分が蚀いかけた蚀葉を、手の䞭で握り぀ぶすようにしお黙っおいた。

午埌の終わりずずもに、䌚堎の広さが別のものぞず倉わっおいった。朝には密集しおいた郚材が姿を消し、䞭倮には癜い床が戻っおいた。高い倩井の䞋、空っぜになった堎所だけが、倧きく息をしおいるように芋えた。

朱里は最埌の枅掃確認に入った。床の端を歩き、残ったテヌプ片や金具を探す。䜜業はい぀も通りなのに、頭の䞭には蚀いかけた名前が残っおいた。

真砂さんではなく、その先。ただ声にしおはいけない音、自分の䞭でだけ䜕床も圢を倉えおいる名前。

「朱里」

背埌から声がした。今床は危険も甚件もないように聞こえたので、朱里はゆっくり振り返った。

「はい」

朔也は少し離れた堎所にいお、手には小さな金具を持っおいた。

「これ、そっちの袋」

「はい、回収です」

「わかった」

甚件はあったが、名前を呌ぶ必芁はなかったはずだ、ず朱里は思った。圌もそうわかっおいるように芋えた。

近づいお金具を受け取る。指先は觊れなかったが、金具は圌の手から朱里の袋ぞ移った。その間、名前を呌ばれたずきの枩もりが静かに残った。

「さっき」

朔也が蚀った。

「はい」

「蚀いかけた」

朱里は息を止めた。聞かないふりをしおくれるず思っおいたが、圌は聞いおいた。

「  気のせいです」

それは嘘だった。自分でもわかるくらい、䞋手な嘘だった。

朔也は責めなかった。ただ、少しだけ目を䌏せた。

「そうか」

それだけで終わる、終わらせおくれる、それが優しさだずわかるのに、朱里は自分で終わらせられなくなっおいた。

「本圓は」

ずいう蚀葉が口から出た。朔也が顔を䞊げる。

朱里は回収袋の口を握った。手袋の䞭で指が熱い。䌚堎の空気は冷え始めおいるのに、胞の奥だけが逃げ堎をなくしおいた。

「名前を呌びそうになりたした」

ず蚀っおしたった。声は小さかったが、空になりかけた䌚堎には十分届いた。

朔也は䜕も蚀わなかった。遠くで台車の音が消え、癜い床に沈黙が広がる。

「呌べたせんでした」

朱里は続けた。続けなければ、今蚀ったこずたで消えおしたいそうだった。

朔也はゆっくり息を吞った。その呌吞は、芋えおしたうほど静かだった。

「呌ばれたら」

圌はそこで䞀床止たった。

「たぶん、普通に返せない」

その蚀葉は朱里の胞に深く突き刺さった。普通に返せない、仕事の顔で受け取れない、そう蚀われおいる気がした。

「困りたすか」

朱里は聞いた。声が震えた。

「困る」

朔也は正盎に答えた。

「でも、嫌じゃない」

同じ堎所にたたその蚀葉が戻っおきた。「嫌じゃない」。䜕床か聞いたその蚀葉が今日は少し違う重さを持っおいた。

朱里はうなずくこずしかできなかった。名前を呌べなかったのに、呌んだ埌のような静けさが生たれおいた。

「じゃあ、ただ呌びたせん」

ようやくそう蚀った。

朔也は少しだけ目を䌏せた。

「うん」

その返事は寂しそうにも、安心したようにも聞こえた。朱里はそれ以䞊芋おいられず、回収袋に芖線を萜ずした。

䌚堎の照明が䜿わない区画から順に萜ちおいき、高い倩井の奥が少しず぀暗くなっおいく。壁の癜さが倜に沈んでいき、最埌の看板が消えた埌の空間にはもう名前のあるものがほずんど残っおいなかった。

朱里は床の䞭倮に立った。朝からあった倧きなものがすべおなくなり、ただ広い癜さだけが残っおいる。終わった堎所ずいうのは、い぀も少しだけ嘘みたいに静かなものだ。

朔也は少し離れたずころで工具袋を閉じおいた。近づきすぎない距離だが、もう遠くもない。

「終わり」

圌が蚀った。

「はい」

朱里が返事をする。今日の終わりはい぀もより倧きな空癜を持っおいた。最埌の看板が倖れた埌だからか、呌び損ねた名前が残っおいるからか分からなかった。

「垰る前に、正面だけ芋る」

朔也が蚀った。

「はい」

正面の壁に向かう。看板が倖された堎所には、薄い四角の跡が残っおいた。正面から芋ればただの壁なのに、暪から光が圓たるず、そこに䜕かがあったこずだけが浮かび䞊がる。

朱里はその跡を芋぀めた。名前が倖された堎所、もう読めないのに確かに残っおいるもの。

「跡、ありたすね」

「残るな」

「消したすか」

「今日は蚘録だけ。明日、枅掃」

「明日」

朱里はその蚀葉を繰り返した。明日がある。今日呌べなかった名前をただ抱えたたた、次の日が来る。

朔也は壁の跡を芋たたた蚀った。

「無理に消さなくおいいものもある」

朱里は圌の暪顔を芋た。圌は壁を芋おいる。仕事の話ずしお蚀ったのかもしれないが、朱里にはそうは聞こえなかった。

「残っおいおも」

「残っおいるっお、わかっおいればいい」

その蚀葉に朱里の胞が静かにほどけた。呌べなかった名前も消さなくおいいのかもしれない。ただ声にならないものずしお残っおいるずわかっおいればいい。

「わかりたした」

朱里は小さく答えた。

正面の確認が終わるころには、䌚堎の明かりはさらに少なくなっおいた。倖はすでに暗く、窓の向こうには街灯ず車の光が现く流れおいる。広い床に残る明かりは、出口に向かう道だけを照らしおいた。

荷物をたずめ、工具袋を持ち、最埌に振り返る。そこにはもう、看板もブヌスも名札もない。ただの空間が広がっおいる。

しかし、朱里には朝の声も危険を止めた名前も最埌の看板の前で飲み蟌んだ音も党郚、そこに残っおいるように感じられた。

「朱里」

たた呌ばれた。振り返る前に胞が反応した。

朔也は出口の近くに立っおいた。

「行くぞ」

甚件はそれだけだったが、名前が付いた。朱里は頷いた。

「はい」

返事をするだけで粟䞀杯だった。名前を返すこずはただできなかった。

倖ぞ出るず、倜の有明はひんやりずしおいた。昌のほこりを含んだ䞊着に、海の近い颚が觊れる。建物のガラスには、䜜業を終えた䌚堎の暗さず倖の灯りが重なっお映っおいる。

朱里は歩きながら、自分の䞭で䜕床も朔也の名前を圢にした。声には出さない。ただ朔也を呌ぶず決めたばかりだった。

それでも心の䞭では止たらなかった。呌びたいず思っおしたったこずをもうなかったこずにはできない。

䌚瀟の車の近くで荷物を眮くず、倜の空気が少しだけ濃くなった。遠くで車が走り、路面に也いた音を残す。それは、䌚堎の䞭で聞いおいた金属音ずは異なる、街の音だった。

「今日は」

朔也が蚀った。

「はい」

「危ないずころ、䜕床かあった」

「すみたせん」

「謝るより、止たればいい」

「はい」

い぀もの蚀葉のやりずりだったけれど、そのあずに少しだけ間があった。

「呌べば止たるなら呌ぶ」

朔也の声は䜎かった。朱里は顔を䞊げた。

「名前を、ですか」

圌はすぐには答えなかった。倜の光が圌の暪顔を淡く照らしおいた。

「必芁なら」

ず、仕事の話に戻せるような蚀い方だった。しかし、もう完党に元には戻れないず、朱里にはわかった。

「必芁じゃなくおも」

ず蚀いかけお、朱里は止たった。さっき、ただ呌ばないず蚀ったばかりだ。それなのに、自分の䞭から違う蚀葉が出そうになる。

朔也は埅っおいた。い぀ものように。

「  今は、ただ倧䞈倫です」

朱里はそう蚀った。倧䞈倫ずいう蚀葉には少しだけ嘘が含たれおいるが、今はその嘘が必芁だった。

「わかった」

朔也はうなずいた。

垰り道、朱里はい぀もより少し遅く歩いた。疲れおいるせいもあった。倧きな䌚堎を䞀日かけお空にした䜓は、足の裏から重さを思い出しおいた。

朔也は少し前を歩いおいた。急がない。眮いおいかない。呌ばなくおも、そこにいるこずがわかる速床だった。

有明の倜は展瀺棟のガラスに现かな光を散らしおいた。空は深く、颚は也いおいた。街は今日のむベントが終わったこずなど知らない顔で車の流れが続いおいた。

朱里は䜜業袋を持぀手に力を入れた。最埌の看板が倖れた音、名前を蚀いかけた喉の熱、呌ばれた自分の名前、それらが重なっお胞の奥で静かに鳎っおいた。

「たた明日」

朔也が蚀った。

朱里は顔を䞊げた。昚日よりその蚀葉が近く聞こえた。

「はい。たた明日」

返す蚀葉に名前は぀けなかった。ただ぀けられなかったが、声の䞭に䜕かがにじみ出おしたった気がした。

朔也はそれに気づいたのかもしれない。䜕も蚀わず、少しだけうなずいた。

別れ際、朱里は䞀床だけ呌び止めそうになった。「真砂さん」ず蚀うこずはできる。今たで䜕床もそう呌んできた。けれど、その先にある名前が喉の奥で熱を持぀。

呌ばない。今日は呌ばない。

朱里は唇を閉じた。呌ばなかった名前は倜の䞭に消えず、胞の奥ぞ沈んでいく。

空になった䌚堎の床ず同じように、䜕もないふりをしおも跡は残る。最埌の看板が倖れた壁のように、光の角床が倉わればきっず芋えおしたう。

家に向かう道で、朱里は倜の颚を吞い蟌んだ。也いた舗装の匂い、海の近い冷たさ、䜜業着に残ったほこりの匂いが混ざり合う。

名前を呌べば届く距離だったけれど、呌べなかった。

その届かなかった音だけが朱里の䞭で䞀番近くに残っおいた。

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