昇華
創作大賞エントリー用に編集したエッセイです。
−−−−−−−−キリトリセン−−−−−−−−
「落ち着いて聞いてよ」
「あのね、楓君が亡くなったって」
必死に事態を理解しようとした。だけど、その言葉がうまく掴めない。海から車を飛ばし楓の家へ着くまでの事は覚えていない。
いざ家に着くと怖くなった。楓の亡骸を見たくなかった。
だけど、見なければならない使命感がどこからか湧いてきて、震える手でインターホンを鳴らした。玄関ドアが開くと楓のお母さんがハンカチで涙を拭きながら対応してくれた。
「由紀、お友達が来てくれたよ」
目を赤くした由紀ちゃんが二階から降りてきて、俺を見ると、両手で顔を覆い泣いた。そして楓がいるリビングへ通された。
そこには白い布で顔を隠した楓が安置されていた。静寂の中、お母さんが白い布を取ると、青白い楓の顔があった。俺はショックで何も言えなくなった。お母さんにも、由紀ちゃんにも、そして楓にも。
✻✻✻✻✻
楓との出会いは、俺が中途入社したミヤモト。俺は営業部、楓は技術部で部署も年齢も違った。
楓は俺より四学年下、整った顔立ちのモテ顔で体格からは想像できないが、高校まで野球部でピッチャーだったらしい。
入社して間もない昼食後の休憩時間だった。外のベンチに一人でいた俺に、楓はふらりと話しかけてきた。
「スノボーやってますか?」
「スキーならやってるけど、どうして?」
「中古の板、誰か安く譲ってくれないかと思って声掛けてます」
ちょうど友人が売りたがっていたBURTONの板を一万五千円で譲ることになった。破格の値段に楓は目を丸くして、何度も頭を下げた。その日から俺たちは急速に距離を縮めた。
「スノボー 一緒に行きませんか?」
「いいね、行こう」
それから二人や彼女を連れた四人で長野県白馬にあるスキー場へよく行き、交流を深めた。
夜中に家を出てスキー場には早朝に着く。寝ないで滑り、昼食はビールとカツカレー、滑り終わると温泉に浸かる。
帰り道の運転は睡魔との戦いがあり、眠くなるとお互いの頬をビンタしあい何とか帰宅する。今思えば無茶だったが、毎冬の約束になっていた。
会社で野球部を立ち上げることになった。初めての対外試合は、楓がピッチャー、俺がキャッチャー。遊びでしか野球をやったことのない俺に務まるほど甘くない。
案の定エラーで足を引っ張る。それでも楓も仲間たちも笑って励ましてくれた。
夏に企業参加の野球大会に出場する事となった。キャッチャー経験者の社員も加わり、試合は少しずつ野球の形になっていく。
大会初勝利を目指した一回戦。相手は地元の銀行野球部。楓の球は低く伸び、ストライクゾーンの隅に決まる。
一点差で迎えた最終回、ランナー 一塁。俺は狙っていた変化球を振り抜く。白球はレフトへ落ちヒット。だが後続は続かず、試合はそのまま幕を下ろした。悔しさよりも、強豪相手に接戦を演じられたことが嬉しかった。
打ち上げの中華料理店は、笑いと称え合う会話で賑やかだった。
「来年は勝ちましょうね」
楓のその言葉が、今でも耳に残っている。
「礼さん、来週の土曜日空いてる?家来てよ。四人で飲もう」
俺と里香、楓と由紀ちゃんは定期的に飲んで、遊んで、はしゃいだ。楓が俺たちを家に招く日は、必ず朝から釣りに出かけてくれた。その日の酒の肴は、釣果そのもので、キスの天ぷら、カワハギの肝和えがテーブルを埋める。
月日が流れ、俺と里香は流行に乗ってミレニアム婚を挙げた。続くように、楓も由紀ちゃんと結婚した。
俺たち夫婦には子ができず、不妊治療を始めた。一方、楓たちの家庭には理想のように子どもが産まれた。
久し振りの飲み会は6人で楓が住む市営団地でテーブルを囲む。お姉ちゃんになった結由ちゃんと赤ちゃんが家の中を明るくしている。正直、羨ましさはあったが嫉妬はない。ただ純粋に楓の幸せを喜んだ。
「礼さん達も早く出来るといいね、山にあるロッジ1軒貸し切って皆んなでスノボー行こうよ」無邪気な笑顔で問いかける楓。
「おー、そうだな、楽しみが増えると俺らも気合が入る」
それからあらゆる治療を試し、数年後子供を授かる。無理させない様に家事を頑張った。待ち遠しかった予定日を過ぎ、陣痛に見舞われる。立ち会い出産は修羅場、無事であれば他のものは要らないと強く祈った。
何とか二人とも無事。先生が良く頑張ったと褒めた。母子共に危険な状態だったと言う。急遽、帝王切開となった出産だった。
子育ては拍子抜けするほど穏やかで、夜泣きも駄々をこねる事もほとんどない。幸福は静かに日常へ根を張っていく。
ある日、楓から相談があった。
「家を建てようと思うけど運勢的にあまりタイミングが良くないらしい、どう思う?」「よく分からないけど、勢いが大事かもよ」
経験のない俺に聞くのは間違いだが、背中を押すくらいならできると思い答えた。
「あとね、最近忙しくて、心臓少し気になるんだよ」
「かかりつけの医者があるって言ってたよな、先生は何か言ってた?」
「いや、いつもどおり問題ないよって」
「じゃあ、大丈夫じゃないか」
楓が心臓のことを気にしているのは知っていた。でも医者が問題ないと言うなら、深く考えもしなかった。
それから半年ほど経ち、新築の家に引っ越したからと俺たちは招待された。
「まずは礼さん家族を呼ばないとね」
その言葉が嬉しかった。だけど招待の日が近づいた頃、お互いに予定が入り延期することになった。
――永遠に続くと思っていた時間。それが、突然終わった。
死因は不整脈だった。
俺は自分を責めた。なぜ家を建てるタイミングが悪いと聞いて「建てるべきではない」と言わなかったのか。なぜあの時「大きい病院に行って検査して来い」と言わなかったのか。
楓との飲み会は三日後だった。なぜ会えなかったのだろう。会って顔を見て「お前疲れた顔をしてるから休んだ方がいいぞ」と肩を叩けたかもしれない。
葬儀が終わり帰宅すると洗面所でネクタイを外し、手を洗い、顔を洗い、鏡を見た。写し出された自分の顔から目線を外すと涙がこぼれた。そしてうずくまると涙は止まらなくなり、声をあげて泣いた。
幼稚園に通うようになった息子が廊下を小走りで向かってくると泣いている俺に驚き、また小走りで里香の元へ戻った。
「お父さんが泣いてるよ、いっぱい泣いて可哀想だよ」
「いいの、泣かせてあげて」
✻✻✻✻✻
いつしか仕事に追われる様になり、毎日帰宅が夜中となっていた。短期間なら耐えられる。でもそれが終わりの見えない日々になると、気力も体力も削られていく。残業は月150時間を超えた。
忙しさで抵抗力が落ちていたのだろう、高熱と扁桃腺炎で倒れ、動けなくなった。
一週間休んで復帰すると「お前の穴を埋めてやった」と上司や先輩に言われ、我慢の糸が切れかかった。それでも自分自身の弱さが起こしたと飲み込んでまた頑張る。
来る日も来る日も仕事に追われたが何事も経験だと、この苦しみが成長につながると考え相変わらず耐えた。
体が二回目の悲鳴をあげた時、部長から自宅へ電話があった。気遣う言葉の裏に本当に高熱で体が動かないのかとの疑念を感じた。
――このままでは体が潰されてしまう。切れかかった我慢の糸は修復出来ない程にぷっつりと切れた。
退職願を提出し間もなく、仕事から帰ると暗い顔をした母が力の無い声で呟くように言った。
「二回目の不渡りを出したのよ」
父は小さいながらも印刷会社を経営していた。パソコンの普及により業績が悪化していき倒産した。
設備は次々と運び出され、空っぽになった。自宅を追われ古いアパートへ引越した。連帯保証人になっている親戚の態度が豹変した。倒産は様々な変化が追いつけない速度で襲う。
俺はどこかで父の会社を継ぐと思い働いていた。ミヤモトに就職したのも、営業のノウハウを身につける目的もあったのだ。
世の中甘くないや
✻✻✻✻✻
少し心に余裕が出てきた頃、二人目に挑戦し始めた。
期待していなかったけど、命はまた芽吹く。こどもを授かるというのは何度でも奇跡だ。大事にしたが安定期に入る直前、里香は腹部の痛みに襲われ、すぐに病院へ駆け込んだ。
「残念ですが……」
状況が一変する音は、いつも静かで突然だ。
転職した会社は、自動車部品を製造していた。毎年恒例となっているメーカーからの値下げ要求は、営業担当の頭を悩ませる難題で俺はその交渉を任されていた。
そんな最中、母から電話があった。化粧品販売の代理店を切り盛りしていた母の声は弱々しい。
話を聞くと、仕入先への入金ができていないという。そして、経理を手伝っていた父がギャンブルにのめり込み、会社の金に手を出していたことが判明した。
翌週から、俺は仕入先との話し合いに顔を出し、交渉を重ねた。
あの頃の俺は、自分以外に降りかかる問題であっても「俺が何とかしなければ」と抱え込んでしまう癖があった。
週末はサーフィンに夢中だった。横に走れるようになるとその独特の感覚に誰もが取りつかれる。
里香に小言を言われないよう、家事も育児も手伝い、海へ通った。小遣いはほとんどサーフボードで消えた。
上達するとオフザリップという技を繰り出せる様になった。横に走り波のトップでターンする際に、ボードに乗った後ろ足を蹴ると出るスプレーと言われる水しぶきが最高に気持ち良かった。
しかし、楽しい時間の中でも、ふとした瞬間に楓の事を思い出しては後悔に襲われる。また、俺もそういう事になるかもしれないと死への恐怖が頭をよぎり不安で潰されそうになる。
残業を終え帰宅すると、一日の疲れを取るために毎晩お酒を飲んだ。気付いた時には飲まずには眠れなくなっていた。そして次第に飲む量も増えていく。
そんな状況が一ヶ月程続いたある日の夜、目の前がぐるぐる回り、同時に全身の震えが止まらなくなり、意識が遠のいた。
担ぎ込まれた救急車で横たわり、体にセンサーが繋がれ、里香が泣きながら手を握っている。救急病院に着くと急いで検査を行う。看護師が若い医師へ「早く方針を決めて」みたいな事を促していたのは記憶している。
血管の詰まりや心臓に問題はなかったようで、ベッドで様子を見る事となった。症状が落ち着き、里香や両親と一言二言交わすと、明日は仕事に行けるのだろうかと天井を見つめた。
翌日、紹介された総合病院の心療内科へ連れて行かれた。ガソリンが無くなった自動車のように動けなくなり、歩くのもやっとだった。診断はうつ病と自律神経失調症。心が限界を迎えたことで、身体も制御を失っていた。
寝ているだけなのに発作は度々やってきて頓服を飲んで何とか落ち着いていた。数日後、またも大きい発作がやってきて再び救急車のお世話になる。
心の病がこんなに苦しい発作を起こすとは知らなかった。心と体は直結している事を知る。
会社へ「しばらく休みます」と改めて連絡した。俺が抱えていたあらゆる課題は周りの人々が対処する事となった。
とにかく毎日が苦しい、薬を増やしてもらったけど発作が襲うと真っ暗な深い暗闇の穴に落とされ、もがけばもがく程に苦しい。寝返りをうつだけで苦しく息がしづらくなった。
それから一週間、一ヶ月と時間の経過と共に症状は少しづつ軽くなっていく。テレビや音楽が聴けるようになるがNHKとミスチルしか見聞き出来なかった。両方に共通したのは棘が刺さらない丸みを帯びている事だ。
次第に散歩出来るようになり、軽いランニングが出来るようになる。半年後仕事に復帰するも半日からのリハビリ出社となった。休職で失ったものは、マイホーム貯金と三十代前半にして異例の課長昇進だった。
闘病は続いていて、何かにすがる思いが強く「これが良い」と言われるものには飛びついた。
この頃流行ったうつ病の本に「逃げないでいつかは病気に立ち向かう事が必要だ」との文章があった。
愕然とした。難題から逃げずに、悲しみから目をそらさずにいたから、俺はこうなったんだろ。そしていまだって逃げていない、でも治らないじゃないか。
復帰後、社長の配慮により技術部へ異動となり、研究開発を担当することになった。闘病と並行しながら、技術や研究の基礎から学び直した。「仕事をやり過ぎて、オーバーヒートするなよ」技術部長からは、そんな釘を刺される。
総合病院の主治医が大学へ戻ることになり、町の心療内科を紹介された。新たな医師から、うつ病と自律神経失調症に加え、GAD(全般性不安障害)という診断が下された。
ある日、薬が自分に合っていないのではないかという不信感が募り、先生に訴えた。
「薬 合ってますか?もっと強い薬に変えてもらえませんか?」
先生は一瞬不機嫌な顔をして「それなら強い薬を出しときます」と言った。これで良くなるだろうとその薬を飲むと、逆に調子が悪くなった。処方された薬局に問合せると「再度受診してください」と促された。
再診の結果、薬は元の処方に戻された。その帰り、薬局で言われた一言が忘れられない。
「あの薬を飲み続けなくて、良かったですね」
✻✻✻✻✻
病気になったのは、俺を苦しめた重責な仕事、母の会社の事、父への不信感、楓との別れ。そして治らない理由は医者のせいだ、環境のせいだと、何かのせいにしていた。
発作のない朝が、少しずつ増えていった。落ち着いた一日を終えられる日が出てきた。
良くなっていく要因は、きっと受け入れる事が少しづつ出来るようになったからだと思う。
読んだ本に「自分や他人に期待していないか」と書いてあれば、――しているな、と認める。
「人から嫌われないように振る舞っていないか」と書いてあれば、――その意識は強い、と受け入れる。
受け入れる事で、自分の中のねじれをほどいていった気がする。
病前は何か落ち込むことがあると「常にポジティブでいればいい」と、どこかの本に書いてあった言葉を信じた。でも、良いことがあれば喜び、悪いことがあれば落ち込む。これはごく自然なことだった。
普段はポジティブでもネガティブでもない場所にいればいい。そこに立てていれば、物事は案外、受け入れやすいのだと気づいた。
ある先生から「君は身の丈を知っているか」と言われた時に何でも抱え込み解決しようとするのは身の丈を超えていたのだと気づき、抱え込む荷はなるべく持たないようにした。
それに100点満点はいらない、80点あれば充分だと。
俺はもう「治りたい」と一生懸命になっていない事に気付いていく。
良くなっていく過程は本当にゆっくりで、薬が減ったと喜べば一週間後には元の量に戻る。ぐっすり寝れる日が来たと喜べば、次の日には寝付けなく睡眠導入剤に頼る。
心の病が治っていく過程を三寒四温と表現されるが、そんな生易しいものじゃない。それでも呪文のように唱えた"明けない夜はない"ってあるのかもしれないと思っていく。
発病から五年が経ち、薬を飲まない日々がやってきた。財布に忍び込ませた頓服薬は相変わらずそこにある。
久しぶりにサーフィンに行ってみる、仲間達が歓迎してくれ波を譲ってくれる。しかし、あの頃の自分はもういない。
この頃から釣りへ出掛けるようになった。キスの天ぷらやカワハギの肝和えを作るべく少しずつ道具を揃えた。
狙った魚を釣って捌き、料理する。面倒な手間を掛け美味しく出来上がる。それを家族や友達にもてなした。
子育ても楽しんだ。土地柄サッカーが街に馴染んでいて、息子も幼稚園から習っていた。毎週末は試合観戦。そして子供達に負けじとお父さんチームを作りフットサルのナイターリーグに参戦した。
冬になれば、スキーをしに雪山へ家族で出掛け、ロッジを貸し切って泊まり、楽しく過ごした。
そして、ようやく楓のお墓参りが出来る様になる。お墓の前で手を合わせ目を瞑る。
――お前あれはないよ。急に居なくなって、随分苦しんだ。やっとここに来れたんだ。最近はよく釣りに行っている。子育てだって、仕事だって、それなりにやっている。それと、この世にいる限り一日一日を大切に生きて行こうと思っているんだ。
あの頃、一緒によく飲んだ缶ビールを供えお墓をあとにした。
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今日はクエを釣りに来ている。帰省する息子に食わせる予定だ。「美味しい」と頬張る姿を想像している。竿先の延長線上にある雲がかかる青空を眺めながらこれまでの事を思い返した。
多くのものを失ってきた。耐えきれないと思うこともあった。けれど、あの時間は自分を見つめ直すために必要だったのだと思う。
これからも大切な人との別れや大事なものを失う事があると思う。また心を傷める事が待っているかもしれない。
他人から見たら、そんな事で傷つくのかと思われるかもしれない。だけど、それは間違いなく自分自身だ。
だから、弱い自分を受け入れ、少し気をつけながら、生きていこう。
喪失から世界は変わり――そして再び始まる。
−終−
