白い湯気とまだ解けない論理
いつものように十グラムのコーヒー豆を量り、ゆっくりと手で挽いていく。規則的な抵抗が指に伝わり、部屋のなかに乾いた香りが満ちていく。お湯を注ぐと、黒い地表が静かに膨らみ、そこから一本の白い湯気がたちのぼった。
世の中には、自分の感情や欲望を濁流のように言葉にできる人がいる。「私はこうしたい」「これが好きだ」という強い主観を持って、世界とまっすぐ対峙できる人たち。そういう眩しい存在を見るたびに、自分の輪郭の薄さに、どこか心許なさを覚える瞬間がある。
私には、あそこまで熱い主観がない。 気づけば、いつも少し離れた場所から景色を眺めている。物事を理路整然と組み立て、割り切ろうとする客観の目ばかりが働いて、肝心の「自分の生々しい本音」がよく分からないのだ。私は答えを探す。けれど、どれだけ客観的に正解を導き出しても、そこに血が通っていなければ、どこか安心できない空虚さが残る。
だから私は、物語へ向かった。 自分ではない誰かの視点を借り、世界を少し離れた場所から見つめること。それはこの冷めた目のまま、それでも現実を見失わないための切実な手段だったのだと思う。
物語の扉を閉じ、再び静かな現実の朝に戻ってきた今も、頭の片隅にはまだ解けない論理がいくつも転がっている。 自分の内面の曖昧さも、誰かとの距離感も、きっと論理だけでは測りきれない。
けれど、熱い主観を持てないからといって、現実と向き合えないわけではない。 「やりたいこと」や「熱い感情」を押し出せなくても、冷徹な客観の目を手放さず、物事を見つめ続けること。それもまた、この割り切れない世界の前に立ち続けるための一つの方法なのかもしれない。
立ち上る白い湯気を見つめながら、淹れたてのコーヒーを一口すする。 思考をどれだけ巡らせても、物語をどれだけ紡いでも、まだ解けない論理は頭の片隅に残り続ける。
それでも、温かい苦みが喉を通るあいだだけは、その割り切れなさをそのまま抱えていられる気がする。 湯気はゆっくりと空気の中に溶けて消え、部屋にはいつも通りの、静かな朝が残されている。
