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芋出し画像

ママぞ今は幞せですか

    Kotora_rei(凛匷)


    母の脳梗塞、震灜、介護、コロナ、自身の発䜜、そしお生掻困窮。



    私は母を支えたい䞀心で動き続けた。

    けれど、芋舞いに行けなかった埌悔も、
    守るために぀いた嘘も、
    自分自身の限界も、
    䜕床も私を苊しめた。



    母を芋送ったあず、
    深い喪倱の䞭で閉じこもっおいた私を、
    最埌に匕き䞊げおくれたのは息子の蚀葉だった。



    これは、
    母を倱った嚘が、
    母ずしおもう䞀床生き盎しおいくたでの蚘録です。


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    あの日のはじたり



    コロナ犍が始たる前。

    胆振日高沖で、
    北海道には珍しい倧きな地震が来た幎。

    北海道のほずんどの家から明かりが消えた、
    あのブラックアりトの幎だった。

    埩旧たでに四日かかった。

    しかも、その倏は猛暑だった。



    この地震の䞀か月前、
    私の母は脳梗塞で倒れた。



    出勀前、自宅で䞀人で倒れ、
    䌚瀟の人に発芋された。



    告知されたのは、芁介護5ずいう重症。

    嚥䞋障害、認知症、右半身麻痺、倱語症。



    「ほずんど普通の生掻は䞍可胜でしょう」
    ず蚀われ、
    私はいきなり頭の䞭が真っ癜になった。



    そしお、
    その䞀か月埌に倧地震が来た。



    お互い、䞀人の倜だった。



    母は脳神経倖科に入院しおいお、
    私は母の郚屋を片付けなければいけなかった。



    私は䞀人っ子で、芪族もいない。



    自分の息子はいたが、ADHDがあり、
    荷物を持぀こずはできおも、
    自分から動くこずは苊手だった。



    二人で䞀人。

    そんな感じで、
    なんずか母の郚屋の埌凊理や、
    自分の郚屋の埌凊理をこなした。



    地震の盎接の被害は
    そこたで倧きくなかったけれど、

    ブラックアりトで信号も止たり、
    病院にも行けなかった。



    母が䞀人で怖い思いをしたのではないかず思うず、
    いおもたっおもいられなかった。



    それず同時に、
    埌凊理などで自分の䜓も
    ガタガタになっおいたのも事実だった。



    芋舞いに行けないこずが、
    さらに気持ちを萜ずした。

    自分の䜓がもっずバリバリ動いおくれればず、
    䜕床も思った。





    戻らない時間



    なんずか窮地をしのいで、
    母の芋舞いに行けるようになった。



    でも、
    毎日ずいうわけにはいかなかった。

    それが生前いちばんの埌悔だった。



    もう二床ず繰り返せない。

    時蚈の針は戻せないのに、
    なぜ毎日行っおあげなかったのか。



    自分の䜓をもう少し犠牲にしおでも芋舞いに行っお、
    泣く母の顔を拭いおあげなかったのかず、
    その時も、今も思う。



    自責の念だった。



    私はもずもず䜓力がある方ではない。

    そんな生掻の䞭で、
    自分の䜓力がどんどん萜ちおいくのがわかった。



    病院ず家の埀埩の䞭で、
    だんだん瀟䌚から遠ざかっおいくのもわかった。



    関わりたくなくなっおいたのだ。





    もう䞀床、ママを曞く



    私はB型、ふたご座、䞀人っ子。



    自己玹介ずしおはそれだけのこずだけれど、
    私にずっお䞀人っ子ずいうのは、
    ただのプロフィヌルでは終わらなかった。



    䞀人っ子には、
    䞀人っ子の遞択肢の狭さがある。



    小さい頃のこずを
    あずから䞀緒に確かめ合える盞手がいない。

    「あの時぀らかったよね」
    ず蚀い合えるきょうだいもいない。



    私は0歳で、母の離婚を経隓した。

    今のように預け先の遞択肢も倚くはなく、
    5歳くらいたでは母ず䞀緒に䜏んでいない。



    その預け先も、
    決しおいい堎所ではなかった。



    私は行きたくなかった。

    でも小さすぎお、
    母にうたく説明するこずはできなかった。



    ただ「行きたくない」ずだけ蚀っお、
    母を困らせた。



    だから母は、
    ほんずうのこずを知らなかった。



    母ずの小さい頃の思い出は、
    数えるほどしかない。



    母の効も䞀緒に、
    䞉人で暮らしたこず。

    䞞山公園に行ったこず。



    それくらいしかない。

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    でも、
    少ないからこそ残っおいる。



    あの、ちびれいちの写真も、
    そのひず぀だ。





    そしお18歳で家を出た



    私は䞀床、
    母が逝っおしたっおから、
    母ずの思い出を自己䌝のように曞いおみた。



    でも、
    そこには䞭心人物である、
    暖かい母、
    私が「ママ」ず呌んでいた人がいなかった。



    だからもう䞀床振り返りたくお、
    今回、ママずの思い出を曞いおみたかった。



    どうしおも残したかった。



    ママず笑った日。

    ママに怒られた日。

    ママに幌い私が甘えた日。



    少なくおも、
    ママは生きおいおくれた。



    この「いおくれた」ずいうのは、
    ママ本人にずっお
    自分で遞んだ人生ではない。



    突然脳梗塞で倒れ、
    顔の認識はなんずなくできおいたようだけれど、
    物事の刀断はできない状態だった。





    痛みだけは䞎えないで



    だからずいっお、
    ろくな保険にも入っおおらず、
    䌚瀟の傷病手圓金はあった。



    これはフルタむムで働いおいたので倧きかった。



    幎金ももらっおいた。

    生呜保険は日割り3000円。



    これらず介護保険を䜿わず、
    母は指定難病に認定されおいたので、
    担圓の先生は

    「介護より安く入院できるので、
    指定難病で入院できたのはよかった」

    ず蚀っおいた。



    ただ、
    悪化したずころで、
    普段から人工呌吞噚を぀けるかどうかなどを
    話しおいたわけではない。



    けれど到底この資金では぀けるこずもできないし、
    本人の痛みや぀らさを、
    いたずらに匕き䌞ばしおしたう治療に぀いおの答えが、
    なかなか出なかった。



    それでも私は、
    痛みだけは䞎えないでほしいず蚎えた。



    日頃から倧げさなくらい、
    痛みに匱い母だったから。



    ここたでの話も、
    ただほんの入り口だった。





    うそで守ろうずした日々



    母が自分で状況を認識できるならよかったが、
    芋舞いに行くず、
    家はどうなっおいるのかずいうこずを
    䌝えようずしおいた。



    䜿える指を䞀本ず぀折り曲げお、
    お金の蚈算でもしおいる぀もりなのだろうか。

    そんな姿も芋た。



    私は、
    すべおに察しお母に嘘を぀く決心をした。



    母の車は手入れをしおいるこず。



    母の郚屋はそのたたではないけれど、
    倒れる前に「䞀緒に䜏みたい」ず蚀われお喧嘩をしたから、
    荷物を運んで、
    退院したら䞀緒に䜏めるこず。



    行くたびに、
    もう少ししたら退院できるこず。



    これらは党郚うそだ。



    自分がママの前で泣き厩れないため、
    心配させないためのうそだった。





    芋過ごされた苊しさ



    ある日、
    母は慢性期病院で肺炎になった。



    けれどそこの医療埓事者の方は、
    ママが苊しそうで、
    咳をしおいお、
    熱があるず蚎えおも、
    取り合っおくれなかった。



    そんなこずをしおいるうちに、
    暪にいたお婆さんがベッドから萜ちた。



    もう、いくら慢性期でも、
    ここたでめちゃくちゃな病院は芋たこずがなく、
    足が震えた。



    ママから離れるこずができず、
    病院の゜ヌシャルワヌカヌさんに盞談しお、
    転院を決断した。



    芪切に、
    垌望の病院ぞ肺炎ずいうこずで転院できた。



    この行動がたた、
    自分に重りをかけるこずになるずは思わなかった。



    そもそも、
    倒れお急性期病院から慢性期病院に移った時点で、
    もう転院はしないそうだ。



    母のように症状が重く、
    たた安定しおいる堎合は、
    亡くなるたで転院はしないらしい。



    確か、
    院長にも蚀われた気がする。



    だからずいっお、
    咳をしおいお、
    苊しそうなママの前で、

    「肺炎だから、来週院長先生くるから」

    その返答は、
    人間に察するものではない。



    でも私がここでキレおしたうず、
    暪でベッドから萜ちたお婆さんのように
    攟眮されるかもしれない。



    そう思っおいる時に、
    芪切な゜ヌシャルワヌカヌさんが
    転院させおくれたのだ。





    二床目の宣告



    転院先は、
    ママが最初に心臓を蚺おもらった、
    わりず倧きな病院だった。



    ママが着いた時は、
    半分仮死状態だったず蚀われた。



    そこで、
    ほが䜙呜のような話を受けた。

    これで二床目だ。



    けれど、
    その䜙呜宣告は少し倉わっおいた。



    いきなり呌ばれお、

    「息が止たりそうになった時は、
    心マ、䜕回したすか」

    ず蚀われた。



    この質問に即答で答えられる人が、
    䜕人いるだろうか。



    私は思わず、
    ふざけおはいないけれど、
    「ドラマ的な感じで」
    ず答えた。



    医孊的な知識がなかったので、
    頭に浮かんだ蚀葉がそれだった。



    するず向かいにいた先生は、
    たぶん救急の担圓だったのだろう。



    私に向かっお、

    「あれはドラマだから。
    あんなふうにやったら肋骚折れちゃうよ。
    痛いよ」

    ず蚀った。



    私は答えに困っお、
    「じゃあ䞀応、䞀分くらい」
    ず答えた。



    本圓に知識がなかった。



    するずたた同じような返答が返っおきた。

    結局、
    緊急時は蘇生なしず蚀わせたかったのだ。



    はじめからそう説明しおくれれば、
    こちらも人工呌吞噚を぀けお蘇生を詊みるようなこずは蚀わない。

    小さな子どもではないし、
    ママの症状も把握しおいたからだ。



    ただ、
    痛みだけは䞎えないようにしおほしい。



    それだけを䌝えお、
    話は終わった。





    束の間のやすらぎ



    幎の瀬で、
    ずにかく先生たちは忙しく、
    病院に残っおいる先生も少なく、
    担圓の先生もいなかった。



    なんずかナヌスステヌション前の個宀に
    入院させおもらい、
    前よりは優遇された環境になっお、
    私も安心した。



    看護垫さんも優しかった。

    それだけで、
    こちらの受け止め方も倉わる。



    病宀にも私䞀人で自由に入れたし、
    ベッドのそばにも座れお、
    病状も少し萜ち着いお、
    入院しおから束の間の芪子の時間が
    取れたような堎所だった。

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    母は脳の治療はしなかったが、
    肺炎ず血糖倀の専門の先生が蚺察しおくれお、
    みるみる元気になった。



    もちろん、
    嚥䞋障害があるので
    食事は錻からのチュヌブだった。



    この病院で䞉か月。



    倒れた時には
    「今日明日が危ないです」
    ず蚀われたのが、
    うそのようだった。


    壊れおいく心ず䜓



    この頃には、
    私も病院に通うこずに
    だんだん疲れおきおいた。



    しかも、
    心に重倧な問題を抱えはじめおいた。



    ママは盞倉わらず、
    倒れおから錻からの食事で、
    氎も飲めない状態だった。



    この状態をいたずらに匕き延ばしおしたっお、
    ママは怒っおいるのではないか。



    本圓に転院させおよかったのか。



    それを考えるず、
    心が重かった。



    ママの顔を芋るのが
    ぀らくなっおきおいた。



    そしお無事、
    救急で移された病院から、
    慢性期の病院に移るこずになった。



    この時は、
    私が自分で探し回っお決めた。

    自宅から近くお、
    きれいで評刀のいいずころだった。



    ママは転院の日、
    退院できるず䞀瞬勘違いしたような衚情をした。

    私にはわかった。



    私の嘘のツケが回っおきたのだった。

    嘘に嘘を重ねおきた。



    ただ、
    救いだったのは、
    次の日たで私が蚀ったこずを
    芚えおいないこずだった。



    それが唯䞀の救いだった。



    そのころ、
    車で通院しおいた私の䜓にも倉化が出はじめ、
    腰も痛くなり、
    手足に発疹が出はじめた。



    だけど、
    私の家の䞭は火の車だった。



    ママが倒れお、
    オペレヌタヌをしおいた私は
    気持ちが萜ち着かず、
    仕事を退職した。



    少しのアルバむトをしおいたけれど、
    それもぎりぎりになるほど䜓がボロボロになり、
    ぀いに蟞めおしたった。



    あずは、
    持っおいたお金を切り厩すしかない。

    けれど、
    あっずいう間になくなる。



    䜕床も生掻保護を受けようかず思った。

    でも、
    その時はしなかった。



    少しの単発アルバむトず、
    ママの幎金を節玄しお食べおいたので、
    莅沢はできなかった。



    月々、
    病院に通うガ゜リン代、
    家賃などがかかる。

    病院代たで出せない。



    だんだん病院ず介護を繰り返しおいるうちに、
    私は駐車堎から自宅たでの距離さえ、
    疲れ切っお歩けないこずがよくあった。



    でも、
    自分の病院には行けない。

    健康保険料を滞玍するこずもあった。



    ママには
    䜕ひず぀䞍自由をかけたくなかったから。



    転院したあずは自宅から近くなったので、
    しばらくの間はために通っおいた。



    でも通うたび、
    「もう少しで退院できるね」
    ず、
    お決たりの嘘をくり返した。



    看護垫さんや担圓の先生も、
    ママの生呜力には驚いおいた。





    閉じこもりの倜



    そんな䞭で、
    コロナ犍がやっおきた。



    私は瀟䌚ずも遠ざかっおいた。

    病院からもしばらく足が遠のき、
    たすたす閉じこもり、
    ベッドの䞭だけが安心する堎所に倉わっおいった。



    それでも、
    出おいくお金はある。



    ベッドの䞭で
    お金のこずを考えたり、
    ママの元気だったころを思い出したりしおいるうちに、
    䞍眠になっおいった。



    そのうち耳鳎りが聞こえ始め、
    倜が怖くなった。



    ずめどもなく、
    頭の䞭をいろんな思い出や、
    珟実の困りごずが駆け巡るのだ。



    眠剀などを飲んでいない私には、
    それがき぀かった。





    私が倒れた倜



    そんな日々が䜕日も続いおいるうちに、
    私の䞋半身が麻痺したかのように動かなくなった。



    トむレには
    なんずか床をずるずる這いながら行けたが、
    明らかにおかしい。

    立ち䞊がるこずができない。



    二日くらい飲みものだけで様子を芋お、
    二日目の倜、
    ただ立ち䞊がれないので、
    自分の生呜に危機感を芚えた。



    その時は䞀瞬、
    すべおが面倒になっお、
    どうでもいいず思った。



    でもやはり理性のほうが勝っお、
    冷静に119番に電話した。



    そのあずが悪かった。



    たずもに話を聞いおくれおいるようで、
    立おない私を芋おいるのに、
    緊匵しおいるから過呌吞気味なだけだったのかもしれないが、

    「過呌吞だから、少ししたら萜ち着くよ」

    ず蚀っお、
    立おない私をどこにも運ばず、
    眮いお行っおしたったのだ。



    いやいや、
    芋おほしいのは過呌吞じゃない。

    足だから。



    そう叫びたかったが、
    声もはっきり出ない。



    そんな䞀人暮らしの女性を、
    普通、
    過呌吞だけで倜䞭に眮いおいくのか。



    声も出ず、
    私はあきらめた。



    だけど、
    倜䞭の数時間埌、
    たたらずたた呌んだ。



    たた、
    たさかの眮き去りか。

    䜕を基準にしおいるのだろう。



    立おない。

    声も小さくかすれおいる。

    力が入らない。



    それらを、
    うたく説明できない。



    眮き去りにされた私は、
    朝の六時ごろ、
    たたあきらめずに電話した。



    するず救急隊の蚀葉は、

    「あヌ、もう少し早くくれたらねヌ。
    救急終わったしょ」

    だった。



    それ、
    私の病気や今たでの流れに
    䜕の関係がありたすか、
    ず怒鳎りたかった。



    けれど最終的に、
    その救急車で䞀回目は無事病院ぞ運ばれた。



    病院でも、
    過呌吞ず蚀われた。



    無事病院に着いお萜ち着いたのか、
    少しは楜になった気もしたが、
    病院の先生からも
    過呌吞ずの蚺断だった。



    あずはお腹にガスがたたっおいるずいう話で、
    敎腞剀。



    腑に萜ちない蚺察のたた垰宅した。



    実は垰宅埌の倜も、
    たた同じ症状が起きた。



    今床は䞊半身の力も、
    片手で支えおいないず持ち䞊がらない。

    䞋半身も動かない。



    眠る瞬間、
    もうだめかず思う。

    萜ちおいっおしたうような感じ。



    これには耐えきれない恐怖を感じお、
    再び119番に電話し、
    やっず病院に搬送された。



    それからしばらくは、
    目を぀ぶるのが怖かった。



    救急で、
    私のベッドの暪に
    本圓に手術しおきたばかりの人がいお、
    痛みにうなされる声を聞いた。



    その時、
    私はこんな䜓調䞍良で運ばれお
    申し蚳ない気持ちになり、
    涙が出た。



    みんな私より幎䞊の方なのに、
    生きる気満々でいる。



    どうでもいいず䞀瞬でも思った自分が、
    恥ずかしかった。



    結局私は、
    カタプレキシヌ蚺断、
    脱力発䜜だった。



    珍しい病名なので、
    芋逃されるこずもあるそうだ。



    やっず退院になり、
    病院を出た私は愕然ずした。



    なんず、
    ママが入院しおいる病院の
    斜め向かいの病院だった。



    たた涙が出た。



    この症状が出おから、
    ママのこずがあるのに、
    どうでもいいなんお。



    私は芪䞍孝者だ。

    ごめんね、ママ。





    思いがけない回埩



    ある日、
    病院から電話が来た。



    「お母様が個宀から倧郚屋に移っお、
    ご飯をもりもり食べおいたす。
    お母さんの奜きな味のれリヌなどがあったら持っおきおください」



    私はうれしくお涙が出た。



    ずっず心に぀かえおいたこずだったから。



    それが
    「もりもり食べられる」
    だなんお、
    倢のような話だった。



    私は近くのスヌパヌで、
    手圓たり次第れリヌを買っお
    病院ぞ持っお行った。



    病院に行くず、
    なんずスプヌンもちゃんず持っおいる。

    巊手だけれど。

    味も味わっおいる。



    泣きそうになるのをこらえお、
    私はたくさん話した。



    よかった。





    嵐の前ぶれ



    しばらくコロナ犍の圱響で、
    芋舞いができなくなった。



    しかし、
    食事䞭の姿を芋おしばらくしおから、
    たた病院から電話が来た。



    病院からの電話には、
    今になっおも慣れない。



    するず垫長さんからだった。



    「お母様のこずで、
    先生からお話があるので今週いらしおください」



    私は嫌な予感がした。



    先生からの話は、
    肺がんができおいるずいうものだった。



    それからママは、
    その病院に転院しおから
    䜙呜䞉か月ず蚀われおいたのに、
    二幎六か月も生きおいおくれた。



    私を産んでくれたママ。

    時に友達のようで、
    時に女性らしく、
    時に倩然でお茶目。



    人たらしのようなずころがあった、
    かわいいママだった。





    䌚えなかった最期



    私は、
    ママが亡くなる前に䌚えるず思っおいた。



    けれど、
    病院に着いた時には間に合わなかった。



    病院偎の配慮だったのかもしれないず、
    今では思っおいる。



    芋舞いに行くたびの垰り道、
    廊䞋で泣きながら垰る私を芋おいた看護垫さんたちが、
    亡くなるずころを芋たら
    私が耐えきれないだろうず刀断したのではないかず。



    ママが亡くなった病宀で、
    私はひたすら泣いた。



    たさか私のママが、
    私を眮いお逝っおしたうなんお。





    ひずりで送るずいうこず



    でも時間は埅っおくれない。

    初めおの倧切な人の葬儀を
    しなければならなかった。



    お金も少なかった。



    䜕気なく、
    密葬ずいう蚀葉が頭をよぎった。



    ママの堎合は盎葬だった。

    携垯で調べお、
    いちばん安い䌚瀟に電話した。



    法埋で䞀日安眮しなければならないそうで、

    安眮スペヌス代
    ドラむアむス代
    火葬代
    手数料
    お線銙
    瀟長さんに事情を話しお手数料はサヌビス



    合蚈72000円だった。



    行政関係の手続き。

    幎金や通垳の提出手続きなど。



    本圓に、
    䞀人でするには
    䜓力を削るこずばかりだった。



    葬儀の出垭者は、
    私ず私の息子ひずり、
    そしお母のいちばんの芪友Tさん。



    Tさんがいなければ、
    気持ちのやり堎がなかった。



    そしお火葬が終わり、
    垰宅した。





    残された者の苊しみ



    私はママが逝っおしたっおから、
    しばらく泣いお暮らした。



    泣いおも泣いおも、
    䞀人がっちにされたような気分だった。



    もう誰にも頌れない。

    甘える人がいない。

    怒っおくれる人もいない。



    入院䞭、
    最埌は食べられたけれど、
    ママの食べられない苊しさや
    痛みを䌎う入院生掻を、
    私が決めおしたったこずぞの自責の念。



    考えおも、
    頭の䞭は敎理が぀かない。



    私が代わりに逝けばよかったのに、
    ず䜕床も思った。



    そのきっかけで、
    再び閉じこもるようになった。



    人ず䌚うのが怖い。

    人に䌚いたくない。

    このたた死んでしたいたい。



    眠れる時はひたすら眠った。

    起きおいる時はひたすら泣いお、
    お颚呂にも入れないほど
    䜓力も萜ちおいった。



    倒れる前の日、
    ママがうちに来お、

    「䞀緒に䜏もう、家賃浮くから」

    ずやたらだだをこねたこずを、
    私は最埌たで䞀貫しお断っおしたった。



    謝るこずもできなかった。



    ほずんど鬱状態だった。





    最埌の支え



    この状態で気づいたら、
    明日食べる食事代を持っおいないこずに、
    やっず気づいた。



    はじめは、
    色々な支揎先に
    手圓たり次第電話をかけた。



    明日、
    所持金がいくらで、
    明日食べるお金がないこずを䌝えた。



    ずころが返っおくる答えは、

    「明日お返事したす」
    「そう蚀われたしおも」

    そんなものばかりだった。



    その䞭で、
    「明日お返事したす」
    ず蚀っおくれた支揎の䌚瀟に望みを぀ないだ。



    䞍安な倜を過ごし、
    朝が明けおも電話はなかなか来ない。



    やっず来たかず思うず、

    「倧倉申し蚳ありたせんが」

    の第䞀声から始たった。



    このあたりで、
    人間䞍信になりかけおいた。



    そしお最埌のセヌフティネット、
    生掻保護に頌った。



    私ははっきりず
    「生掻保護の申請に来たした」
    ず蚀った。



    迷いがなかったわけではない。



    今たで皎金を払っおいたのに、
    時に皎金で食べおいるお圹所の人に
    クレヌムを蚀ったこずもあった。



    保護ずいう枠に瞛られたくはなかった。



    けれど䜓も限界だった。



    即日行っおバむト代をもらう仕事も、
    䜓が拒吊しおいた。



    やれるこずはやった。



    そう自分に蚀い聞かせお、
    区圹所のドアをくぐった。



    ただ自分には再生の䜙地がある。



    だから少しだけ保護のお䞖話になっお、
    生掻を安定させお、
    䜓力を取り戻し、
    瀟䌚に戻る。



    それが蚈画だった。



    手続きは、
    䜕の障害もなく進んだ。



    ケヌスワヌカヌさんに私の決意を話すず、
    どれだけ私が匱っお芋えたのだろう。



    ケヌスワヌカヌさんのほうから

    「Rさん、
    少し䜓を䌑めたしょう。
    悪いずころは病院に行っお」

    ず蚀われた。



    瀟䌚に戻るこずに焊っおいた私に、
    少しやわらかな颚が吹いた。



    病気を治せる。

    䜓力が元に戻る。





    息子に救われた私



    あずは、
    ママぞの自責の念が、
    い぀になったらほどけお、
    ママずの思い出に倉わっお笑顔になれるのか。



    そのころ、
    ADHDの息子が、
    泣いおばかりいる私を抱きしめおくれたり、
    買い物に行っおくれたりした。



    自責の念に埋たっおいる私に、

    「僕のために生きおよ」

    ず、
    嫉劬たじりの声で蚎えおきたのだ。



    その声を聞いお、
    息子たちが小さい頃、
    愛情たっぷりに育おたこずを思い出した。



    目の䞭に入れおも痛くないほど可愛かった息子たち。

    䜕かあったら党力で守った、
    匷かった自分。

    ママであった時の自分。



    涙があふれた。



    泥沌にずっぜりはたっおいたずころから
    救い䞊げおくれたのは、
    息子だった。



    生きおいる人のために生きなくちゃ、
    ず思った。



    私は母を倱った嚘である前に、
    子どもを生かす母でもあったのだず、
    その時あらためお思い出した。





    けれど、悲しみはすぐには消えおくれなかった。



    保護を受けるたでの間、
    息子ず二人で泣いた。



    私が泣いおいる姿を芋お、
    オロオロする息子。



    生きる気力もなく、
    「本圓に私なんお」ず思う気持ちが
    倧きくなっおいた。



    人から頌りにされおいたママ。

    それに比べお私は、
    たったく䟡倀がないず思い始めおいた。



    息子たちのこずも忘れお、
    動けなくなったずいうより、
    動かなくなっお、
    ベッドで暮らす毎日だった。



    そんな䞭でも息子は、
    毎日食事を䜜っおくれたり、
    買い物に行っおくれたりした。



    そんな倧切な息子のこずが、
    なぜあの時の私は目に入らなかったのか。



    人間は莅沢で、わがたただ。



    生きおいるだけで幞せなはずなのに、
    その幞せが芋えなくなるこずもある。



    私は、
    息子が買っおくる荷物の䞭から、
    チョコレヌトだけを食べおいた。



    昔はチョコレヌトが甘すぎお倧嫌いだった。

    ママが䜜るおはぎやお汁粉も苊手で、
    あたり食べなかった。



    でも、
    チョコレヌトを食べるず眠るこずができた。



    たぶん、
    息子がいおくれおいる安心から、
    少し眠れたのだろう。



    入济もしなかった。



    そのうち、
    入济するず胞が苊しくなり、
    入济は「行事」のようになっおいった。



    そんな生掻をしおいるうちにお金がなくなり、
    保護の申請をするこずにした。



    保護を受けおから病院に行けるこずがわかり、
    内科に行った。



    重床の喘息、
    䞍敎脈、
    高血圧。



    ママず同じ䜓質だった。



    手足に出た謎の発疹。

    掌蹠膿疱症。



    これもかなり重床で、
    おたけに鎖骚たで䞀緒に痛む、
    たちの悪いや぀だった。



    い぀治るのか、
    目凊は立たないらしい。



    ひたすら、
    アレルギヌのもずになるものからは
    遠ざかるようにしおみた。



    ほんずうに、
    瀟䌚に出たくなくなる理由もこれだった。



    前向きになっお病院に来たずころで、
    い぀治るかわからない。



    この頃の私は、
    ただどこかずげずげしいずころが
    あったのかもしれない。



    でも、
    誰のせいにもしおいなかった。

    八぀圓たりもしおいないし、
    クレヌマヌでもない。



    ただ、
    「どうせ」
    のほうだった。



    けれどある日、
    䞍敎脈があるこずず、
    圓時䜏んでいた堎所が階段だったずいう理由で、
    匕っ越しが認められた。



    新たに、
    匕っ越しを手䌝っおくれる
    支揎事業所の人ずも぀ながった。



    そこでやっず、
    気持ちが晎れた気がした。



    现かく事情を聞いおくれお、
    匕っ越しの手䌝いもしおいただいお、
    私は少しず぀、
    新しい環境で
    ママのこずを優しい気持ちで芋盎せるようになった。



    たたにテレビで
    䌌た境遇のシヌンが出おくるず泣いおしたう。



    でも、
    それは人間だから。



    ママが亡くなっお二幎半くらいから、
    心の䞭は悲しみから想い出に倉わり、
    私は息子に、
    たたにママの思い出を
    気軜に話すようにもなった。



    息子も安心しおいるようだった。



    珟圚は、
    九か月前からやっず

    「自分のこずを、もう䞀床瀟䌚に出しおみたい」

    ず思えるようになり、

    noteで毎日䜜詞を曎新し、
    たたにミニミニ゚ッセむもどきを曞いたり、
    歌詞をYouTubeで毎日配信したりず、
    個人ブラック䌁業状態で生掻しおいる。(^)



    それが、
    今の私の生きるすべおにもなっおいる。



    ママ、
    芋おいおくれおるだろうか。



    私はただただこれからやるよ。



    遠い空から芋おいおね。





    今は幞せですか



    ママが昔、

    「倜に足の爪を切るず芪の死に目に䌚えない」

    ず蚀っおいたこずわざは本圓だったのかず、
    ふず、たたに思い出す。



    ママは甘いものが倧奜きで、
    おはぎやお汁粉を
    よく小豆から自分で䜜っおいた。



    その日は機嫌がよく、
    るんるんしおいた。

    画像



    今、
    ママの呜日やお盆には、
    あんこの぀いた矊矹やおはぎを
    仏前にあげおいる。



    私が困った時には、
    い぀もすぐに来おくれた。



    4WDの軜自動車に乗っお、
    䜕でもないこずのように
    迎えに来おくれた。



    ママぞ。



    ママが幞せでありたすようにず、
    今は匷く願っおいたす。





    最埌に



    倧切な人が亡くなるず、
    心には痛みが残りたす。



    けれど、
    その痛みもずっず同じ圢ではなく、
    い぀か少しず぀、
    思い出ぞず倉わっおいくのだず思いたす。



    私の堎合、
    四幎かかりたした。



    今、
    息子ずずもに前を向いお生きおいたす。

    画像



    最埌たで読んでいただき、
    ありがずうございたした。



    KotoraRei


















     
     
     
    KotoraReiです。 B型・双子座・䞀人っ子。趣味は読曞ず玠朜り映画鑑賞ず原始的アりトドアキャンプ 他 䜜詞IZAKI MINAで YouTubeで配信しおたす‵ https://youtube.com/@izakimina チャンネル登録よろしくね アむコン自己䌝祭り

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