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『親だから、を手放す日』― 五十七年をかけて、私が私の人生を取り戻すまで ―

    青山姫彩(ひいろ)



    プロローグ

    もし、あの日の私に会えるなら、私は迷わずこう伝えるだろう。

    「逃げていい。あなたは悪くない。」

    あの頃の私は、その言葉を知らなかった。

    親は絶対で、言うことを聞くのが当たり前。親を悲しませてはいけない。私はそう信じて疑わなかった。

    だから、自分が苦しんでいることにも気づけなかった。

    「親だから。」

    その言葉は、いつしか私を守る言葉ではなく、私を縛る呪いになっていた。

    これは、「親だから」という呪いをほどき、自分の人生を取り戻すまでの、私の記録である。

    第一章 違和感の始まり

    「違和感は、小さすぎるから見過ごしてしまう。」

    私は三姉妹の長女として生まれた。

    三歳下と四歳下の妹がいる。

    一番下の妹が生まれた日は、新しい家へ引っ越した日でもあった。

    母方の祖母との同居が始まり、私たち家族はその家で暮らしていくことになった。

    当時の私は、まだ幼く、「普通の家庭」とは何なのかを知らなかった。

    だから、自分の家が特別だとは、一度も思わなかった。

    四歳になると、私は一人で保育園へ通うようになった。

    大人なら何気なく歩ける道でも、小さな子どもの足では三十分ほどかかる道のりだった。

    春は道端に咲く花を眺め、夏は照りつける日差しの中を歩き、秋は落ち葉を踏みしめ、冬は冷たい風に頬を赤くしながら歩いた。

    幼い私は、それが特別なことだとは思わなかった。

    一人で歩くのが当たり前だと信じていたからだ。

    今、私のそばには四歳の孫がいる。

    毎朝、両親と一緒に家を出て、バス停まで歩く。

    幼稚園バスが来ると、笑顔で手を振り、小さな背中がゆっくりと遠ざかっていく。

    その姿を見るたびに、私は四歳だった頃の自分を思い出す。

    あの頃の私は、一人で保育園へ向かっていた。

    誰かと比べることもなく、「四歳とはこういうものなのだ」と思っていた。

    けれど、孫の成長を見守る今になって初めて気づく。

    四歳は、まだ大人の手を求める年齢なのだと。

    あの頃の私は、この小さな違和感に名前を付けることができなかった。

    その違和感の正体を知るまでには、五十年以上の歳月がかかった。

    第二章 普通の中で育つ

    「子どもは、自分の家庭しか知らない。」

    だから、その家庭が普通なのか、それとも少し違うのかを判断することはできない。

    私もそうだった。

    母方の祖母と両親、そして三姉妹。

    それが私の世界のすべてだった。

    父は仕事が忙しく、朝は私たちが起きる前に家を出て、夜は私たちが眠ってから帰宅した。

    子どもの頃の記憶にある父は、いつも働いていた。

    家の中では、母が中心だった。

    母の言葉が家庭のルールであり、そのルールに疑問を持つことはなかった。

    「親の言うことは正しい。」

    そう信じて育った。

    だから私は、何かに違和感を覚えても、「私がおかしいのだろう」と思っていた。

    子どもは、自分を責めることでしか、家庭のバランスを保てないことがある。

    私は、それが普通なのだと信じていた。

    その「普通」が、私の人生を大きく左右することになるとは、まだ知る由もなかった。

    第三章 頑張る子になった理由

    保育園の年長になる頃、鉄棒が流行っていた。

    一人、とても上手な男の子がいた。

    逆上がりも、空中前回りも軽々とこなし、みんなの人気者だった。

    私は、その子に負けたくなかった。

    できないことが悔しかった。

    毎日、園庭の鉄棒に向かった。

    何度失敗しても挑戦し続け、手のひらが痛くなってもやめなかった。

    その頃、母はよく私に言っていた。

    「男の子に負けるな。」

    その言葉は、励ましだったのかもしれない。

    でも、幼い私には、「負けてはいけない」という約束のように聞こえていた。

    だから私は頑張った。

    勉強も。

    運動も。

    何をするにも、「できるようになりたい」ではなく、「負けたくない」という気持ちが先にあった。

    小学校では、ほとんど毎年、学級委員を務めた。

    高学年になると、生徒会役員、委員会委員長、クラブの部長も任された。

    任されることはうれしかった。

    けれど、その一方で、「期待に応えなければ」という気持ちは年々大きくなっていった。

    褒められたかった。

    でも今振り返ると、それ以上に、「頑張らなければ価値がない」と信じていたのかもしれない。

    子どもは、大人が思う以上に、親の言葉を胸の奥にしまい込んで生きている。

    その言葉は、時に励ましとなり、時に、その子の生き方そのものになっていく。

    私もまた、その言葉を信じて生きてきた子どもの一人だった。

    その頃の私は、まだ気づいていなかった。

    「頑張ること」が、いつしか自分を縛る生き方になっていくことを。

    第四章 100点でなければ愛されない

    小学校では、毎朝「十問テスト」が行われていた。
    ある日、友達が困っていた。
    私はその子に問題を教えていたため、先生が読み上げる問題を聞き逃してしまった。
    その結果、テストは100点ではなく、0点だった。
    その瞬間から頭の中は真っ白になった。
    「どうしよう。」
    「お母さんに知られたら……。」
    帰り道、足は重かった。
    怒られる。
    きっと許してもらえない。
    それだけが頭の中を埋めていた。

    母は、99点でも90点でも、100点以外は認めなかった。100点だけが、認められる点数だった。

    いつの間にか私は、「100点でなければ褒めてもらえない、認めてもらえない」という世界の中で生きていた。
    子どもの私には、それがどれほど苦しいことなのか分からなかった。

    そして、その日。
    私は、生きていたくないと思った。
    今振り返ると、苦しかったのは0点ではなかった。
    100点でなければ褒めてもらえない。
    その思いそのものが、私を追い詰めていた。
    子どもにとって、親に褒めてもらうことは、世界そのものだった。
    私は、その世界で「いい子」であり続けようと必死だった。

    それが、私を縛り続ける「頑張る」の始まりだった。

    第五章 長女という役割

    私は三姉妹の長女として育った。

    長女だから特別だと思ったことはない。

    むしろ、「お姉ちゃんだから」という言葉は、私にとって当たり前だった。

    頑張り、我慢し、期待に応えることが長女の役割だと思っていた。

    小学生になると、家族のために動くことも増えた。

    自分が風邪をひいた日も、妹たちが熱を出した日も、朝早く自転車で学校の近くにある診療所へ行き、診察券を出した。

    その足で学校へ向かうこともあった。

    当時の私は、それを大変だと思ったことはなかった。

    家族のために動くのは、当たり前だと思っていたからだ。

    誰かの役に立ち、頼られることがうれしかった。

    でも今振り返ると、その「当たり前」は少しずつ大きくなり、私は自分のことよりも周りを優先する生き方をするようになっていった。

    長女という役割を生きるうちに、「私はどうしたいのか」を考えることがわからなくなった。その癖は、大人になってからも続いた。

    長女であることは、今も私の誇りでもある。

    けれど私は、その役割を生きるあまり、
    「私自身」を置き去りにしていた。

    第六章 名前のない子ども

    ある日、母に自分の名前の由来を尋ねたことがある。

    子どもなら、一度は聞いてみたくなる質問だった。

    どんな願いを込めて、この名前を付けてくれたのだろう。

    そんな期待があった。

    けれど、母から返ってきた言葉は、

    「意味はない。」

    その一言だった。

    私は「そうなんだ」と答えた。

    少し寂しかった。

    友達は、自分の名前の由来をうれしそうに話していた。

    私も、そんな話を聞けるものだと思っていた。

    それから長い年月が過ぎて、その名前が付けられた理由を知った。

    私の名前は、父方の祖父の名前から二文字をもらって付けられたものだった。

    そこには、男の子でなかった私でも、祖父に少しでも可愛がってもらいたいという母の思いがあった。

    その話を聞いて、子どもの頃に感じた寂しさが大きくなった気がした。

    けれど、あのとき母が口にした「意味はない」という言葉だけが、すべてではなかったのだと知った。

    名前は、その人の人生とともに歩いていく。

    そして私は今、「姫彩(ひいろ)」として生きている。

    本名は、祖父の名前に由来するものだった。

    「姫彩」は、自分の意思で選んだ名前。

    この名前の意味は、これからの私が決めていく。

    第七章 親を優先する人生

    大人になれば、自分の人生が始まる。

    私は、そう思っていた。

    高校を卒業し、就職した。

    寮に入り、実家を離れて暮らし始めた。

    それでも、母から寮へ電話が入ると、どんなに忙しくても実家へ帰った。

    「今日は帰れない。」

    その一言が言えなかった。

    親に呼ばれたら帰る。

    それが当たり前になっていた。

    初めてのお給料。

    その頃、母は友人と温泉旅行へ行く予定があった。

    出発を前に、母は「新しい眼鏡が欲しい」と言った。

    一緒に眼鏡店へ行くと、母は一つの眼鏡を手に取り、

    「これがいい。」

    と私に言った。

    値段は十万円だった。

    私は初任給で、その眼鏡を買った。

    高いとも思わなかった。母が喜ぶなら、それでいいと思っていた。

    当時の私は、それが親孝行なのだと信じていたからだ。

    やがて私は結婚した。

    母は「長女だから長男との結婚はだめ」と言った。娘を取られてしまうと思っていたのだ。

    私は、その言葉に疑問を持つことはなかった。

    そういうものなのだと思っていた。

    そして私が結婚した相手は、三男だった。

    しかし、結婚生活は長くは続かず、私は幼い二人の子どもを連れて離婚した。

    それでも、親のことを気にかける生活は変わらなかった。

    そんなある日、母は私に言った。

    「子どもを産んで育てたのは、自分の老後のため。」

    私は言葉を失った。

    その一言を聞いたとき、子どもの頃から胸の奥にしまい込んできた違和感が、静かに一つにつながった気がした。

    それでも私は、まだ親を優先する生き方をやめることができなかった。

    第八章 親のために

    人は年を重ねる。

    いつか親にも介護が必要になる日が来る。

    私にも、その日が来た。

    「親だから」

    私にできることは何でもしよう。

    あの頃の私は、それが当たり前だと思っていた。

    仕事があっても、家庭があっても、親から連絡があれば駆けつけた。

    病院への付き添いや入院、手術のたびに、私は自分の予定より親を優先した。

    子育ても、仕事も、介護も重なった。

    大変だと思うことはあっても、「もう無理です」と言えなかった。

    介護は一日で終わるものではない。昨日できていたことが今日はできなくなる。その繰り返しだった。

    私は少しでも力になりたいと思っていた。
    その思いだけで動いていた。

    誰かに褒めてもらいたかったわけではない。

    見返りを求めていたわけでもない。

    ただ、できることをしようと思っていた。

    それが、私にとっては「親だから」という理由だけで十分だった。

    その頃の私は、介護がこれほど長く続くとは思っていなかった。

    そして、この介護が、家族との関係までも大きく変えていくことになるとは、まだ想像もしていなかった。

    第九章 父を見送る

    父は、仕事一筋の人だった。
    子どもの頃、父と過ごす時間は多くなかった。それでも父は家族のために働き続けていた。

    年を重ねるにつれ、その父にも介護が必要な日が訪れた。
    昨日まで当たり前にできていたことが、少しずつ、父の手からこぼれ落ちていった。

    歩くことや食べることが難しくなり、やがて嚥下食や車椅子での生活になった。

    できることが、一つ、また一つと減っていった。

    私はできる限り父を支えたいと思った。
    それは特別なことではなかった。
    娘として、ごく自然な気持ちだった。
    介護には終わりが見えない。
    体力も気力も必要だった。
    それでも、「親だから」という思いが、私を動かしていた。
    父と過ごせた時間は、今思えばあまりにも短かった。
    もっと話をしておけばよかった。
    もっと一緒に笑えばよかった。
    そんな思いが、今でも胸に残っている。

    父を見送った日、私の中で一つの時代が終わったように感じた。

    一人の家族を見送るということは、その人を失うだけではない。

    家族の形そのものが変わるということでもあった。

    その日から、私を取り巻く日常も少しずつ変わり始めていった。

    その変化が、やがて家族との関係を大きく変えていくことになるとは、あのときの私は、まだ知らなかった。

    第十章 母を支える

    父を見送ったあと、母は一人になった。

    長年連れ添った人を失った悲しみは、私には計り知れなかった。

    だから私は、母を支えようと思った。

    それまで以上に、母のことを気にかけるようになった。

    病院への付き添いや買い物、手続きなど、困ったことがあればすぐに動く。

    母から何か頼まれれば、自分の事よりも母を優先した。

    それは苦ではなかった。

    子どもの頃から、「親だから」という思いで生きてきた私にとって、ごく自然なことだった。

    母は年齢を重ねるにつれ、できないことが少しずつ増えていった。

    そのたびに、私は「私がやればいい」と思った。

    できることは、できる人がやればいい。家族なら支え合うのが当たり前だと信じていた。

    けれど、その頃から少しずつ、胸の奥に小さな違和感が生まれ始めていた。

    母が話すことと、私が見ている現実が、どこか噛み合わない。

    私の知らないところで話が変わっていることもあった。

    それでも私は、「きっと私の考えすぎだ」と自分に言い聞かせていた。

    親を疑うという発想自体、当時の私にはなかった。

    あの小さな違和感が、やがて現実になっていくとは、そのときの私は、まだ知らなかった。

    第十一章 違和感は現実になった

    介護は続いていた。

    私は、それまでと変わらず母を支えていた。

    できることは自分がやる。
    それが、私の役目だと思っていた。

    けれど、いつの頃からだろう。
    胸の奥にあった小さな違和感は、少しずつ大きくなっていった。

    母が私に話すことと、周りの人に話すことが違う。

    私が知っている事実と、母の話が食い違っている。

    最初は勘違いだと思った。親を疑いたくなかったからだ。

    でも、同じようなことが何度も続いた。

    そのたびに私は、自分の受け止め方が悪いのだと責めた。それは子どもの頃から身についた癖だった。

    何か問題が起きると、自分が悪いのではないかと考えてしまう。

    だから私は、違和感を飲み込み続けた。

    それでも、現実は変わらなかった。

    一つの出来事ではなかった。

    小さな違和感が積み重なり、少しずつ信頼が揺らいでいった。

    私はまだ、「親だから」という思いを手放すことができなかった。

    だからこそ、苦しかった。

    支えたいという気持ちと、言葉では説明できない違和感。

    その二つの間で、私は揺れ続けていた。

    この頃から、私たち家族の関係は、少しずつ音を立てて変わり始めていた。

    第十二章 家族ではないと言われた日

    父を見送ったあとも、私は母を支え続けていた。

    介護や病院への付き添い、さまざまな手続き。
    できることは、できる限り引き受けようと思っていた。

    父が亡くなったあとも、母は約六十年間名乗り続けてきた父の姓をそのまま名乗っていた。

    一方で、私や子どもたちは同じ姓を名乗っていた。
    母だけが違う姓という状況になっていた。

    ある日、母は私にこう言った。

    「自分だけ家族じゃない。」

    「扶養に入れてほしい。」

    私は、姓が違うことで母が寂しさを感じているのだと思った。

    けれど、母を私たちの世帯の扶養に入れることはできなかった。

    父が亡くなった時、母はすでに要介護二の認定を受けていた。

    車椅子を使用し、三度目の脊椎手術後は脚の麻痺や排尿障害もあり、ウロバッグを装着する生活になっていた。

    同居してから六年間で二度の手術と入院を経験し、多い時には週に三回も病院へ通っていた。

    そのような状況で扶養に入れれば、医療費の自己負担は一割から三割へと大きく増えてしまう。

    それは、世帯全体の生活だけでなく、母自身の負担も考えた末の苦しい判断だった。

    しかし、その思いは母には届かなかったのかもしれない。

    その頃、私自身の身体も限界を迎えていた。

    母の最後の手術と入院が重なった時期、私は手足が思うように動かなくなり、ギラン・バレー症候群が疑われて入院することになった。

    心も体も悲鳴を上げていた。

    それでも退院すると、私は再び母の介護に戻り、できる限り支え続けた。

    その頃は、父の遺産分割や、私が生前父に貸していたお金の返済について話し合う時期でもあった。

    母は以前から「お金がない」と繰り返し話していた。

    そして、生前、父が借金までして勤め先にお金を注ぎ込んでいたことを、長年恨み続けていた。

    父への長年の思いや、遺産や返済をめぐる問題が重なったことも、影響していたのかもしれない。

    本当の理由は、母にしか分からない。

    そんな中で、母は行政に「虐待されている」「家族ではない」と伝え、その話は私の耳にも届いた。

    私は言葉を失った。

    自分自身の身体を壊し、入院してまで支え続けてきた日々が、一瞬で否定されたように感じた。

    行政は、高齢者である母からの訴えを受け、対応を進めた。

    けれど、私が経験してきた現実との間には、大きな隔たりがあった。

    どうして私の話を聞いてくれなかったのだろう。

    その理不尽さと孤独は、今も私の胸に残っている。

    「虐待されている。」

    「家族ではない。」

    その言葉は、私たち親子の関係を決定的に変えた。

    そして私は、初めて知った。

    「親だから」という言葉だけでは、自分も、大切な家族も守れないことがあるのだと。

    第十三章 自分の人生を取り戻す

    親だから。

    その言葉を信じて、私は五十七年間生きてきた。

    ただ、褒めてもらいたかった。

    その思いは、子どもの頃からずっと変わらなかった。
    役に立ちたい。
    困っていたら助けたい。
    そんな思いで歩いてきた人生だった。
    父を見送り、その後も私は母を支え続けた。
    それが私の役目だと思っていたからだ。
    けれど、現実は私が思い描いていた家族とは違っていた。
    母と私の間には、少しずつ埋められない溝が生まれていった。
    ある日、その溝は決定的なものになった。
    母が家を出て仮の施設に入ってから、四ヶ月が経った頃だった。
    やっとの思いで片付け業者に依頼し、母の部屋の荷物を運び出した日のことである。

    当初、行政や地域包括支援センター立ち会いのもと、母は残した荷物の片付け費用と、置いていった犬の療法食代・薬代を負担すると約束していた。
    しかし、母は一銭も支払わないまま家に入り、自分の荷物の片付けを始めた。
    「今日支払わないのであれば、引っ越しなどが落ち着いたら支払うという書類にサインをしてほしい」
    私がそうお願いすると、母は冷ややかに言った。
    「書いてもいいけれど、無理やり書かされたと言えばいいね。」
    それでは約束が違う、と声を上げた娘を、母は激高して三度激しく蹴りつけた。
    その場には、まだ幼い孫たちもいた。
    幼い孫たちの目の前で起きたその光景が、子どもたちの心にどう残ったのか、今も胸が痛む。
    私は、母が飼っていた犬を今後どうするつもりなのか尋ねた。
    すると母は、
    「今すぐここに連れて来い。首を絞めて殺してやるから。」
    と言い放った。
    その場には、片付け業者や介護タクシーの方など、多くの人がいた。
    感情が高ぶった勢いで、本当に犬に危害を加えてしまうかもしれない。
    私は強い危険を感じた。
    一度は犬を母のもとへ連れて行ったものの、すぐに抱きかかえて取り戻そうとした。
    そのとき、私も母から三度蹴られた。
    あの日の出来事は、今も忘れることができない。
    幼い子どもたちの目の前で、私の母が娘と私に暴力を振るった。
    その光景は、思い出すたびに胸が締めつけられる。
    涙があふれ、消えてしまいたいと思うほど苦しくなる。
    母が暮らしていた家は、娘の家だった。
    六年間暮らしていた家で、母は娘に向かって、
    「あんたが大家さんかね?」
    と言った。
    その言葉を聞いたとき、私は胸が痛んだ。
    感謝の言葉が欲しかったわけではない。
    けれど、娘が家族として支えてきた年月まで軽く扱われたように感じた。 

    それでも行政は、母の話をもとに対応を進めた。

    高齢者は、守られるべき立場として扱われる。
    その一方で、介護を担ってきた家族の声が、十分に届かないこともある。

    私が経験してきた現実との間には、大きな隔たりがあった。

    どれだけ説明しても、私の声は届かなかった。

    そのとき私は、初めて気づいた。
    守るべきものは、もう母ではなかった。
    娘も。
    孫たちも。
    犬も。
    そして、自分自身も。

    親だからという理由だけで、すべてを受け入れ続けることはできない。

    私は警察に相談した。
    この出来事は、傷害事件として対応されることになった。
    弁護士にも相談した。
    親と争いたかったわけではない。
    誰かを罰したかったわけでもない。
    ただ、大切な人たちと、自分自身を守りたかった。

    五十七年かかって、私はようやく気がついた。

    親を大切にすることと、自分を犠牲にすることは同じではない。
    苦しいときは離れていい。

    助けを求めてもいい。

    自分の人生を守っていい。

    私は、この本を書きながら、ようやく過去の自分に言えるようになった。

    「もう十分頑張ったね。」

    実の親から向けられた暴力と、刃のような言葉。
    その暗闇をくぐり抜けたからこそ、私は今、誰のためでもない、自分の人生を歩き始めている。

    エピローグ

    長い間、私は自分を責めていた。

    何度も何度も、自分に問い続けた。

    でも、今なら分かる。

    一人の力で支えられるものには、限界がある。

    介護は、愛情だけでは続けられない。
    体力も、時間も、お金も、そして誰かの支えも必要なのだ。

    「家族だから当たり前」
    「娘だからやって当然」

    そんな言葉の中で、介護をする人の心や身体が置き去りになってはいけない。

    在宅介護は、決して簡単なものではない。

    誰かの生活を支え、命と向き合い、その人らしさを守るという、とても大切な役割がある。

    在宅介護がもっと価値のあるものとして認められる社会になってほしい。

    介護する人も、介護される人も、どちらも一人の人間として尊重され、最後まで尊厳が守られる社会へ。

    介護をしている人が、孤独にならない社会へ。

    介護は家庭の中で起きていることだからこそ、外からは見えにくい。

    眠れない夜。
    終わりの見えない不安。
    誰にも相談できず、一人で抱えてしまう苦しみ。

    介護は、一人で背負うものではない。

    助けを求めることは、弱さではない。

    「誰かがやればいい」ではなく、
    「誰か一人に任せればいい」でもなく、

    みんなで支え合いながら、大切な人を見送ることができる世の中になってほしい。

    今、誰かを支えている人の声に耳を傾けてほしい。

    誰にも見えなくても、
    誰にも認められなくても、

    その時間は確かに誰かの人生を支えている。

    逃げてもいい。
    助けを求めてもいい。

    あなたの人生は、あなた自身のものだから。

    私もこれからは、誰かのためだけではなく、自分自身の人生を歩いていく。

    人は、生きてきた時間の中で大切にしてきたものを抱えながら、人生の終わりを迎えるのかもしれない。

    だからこそ、最後まで人を思いやる心を忘れずにいたい。

    あとがきに代えて

    この本を書こうと思ったのは私が経験した苦しみや悲しみを、ただ辛かった出来事として終わらせたくなかったからです。

    同じように、誰にも言えない苦しみを抱えながら、一人で頑張っている人に届いてほしい。

    そんな思いで、この本を書きました。

    介護をしている時、私は何度も孤独を感じました。

    一生懸命に向き合っているつもりでも、本当にこれでいいのか分からない日がありました。

    頑張っている人ほど、「まだできる」と自分に言い聞かせ、限界まで耐えてしまうことがあります。

    でも、やっぱり誰かに支えてもらいたかった。

    助けを求めてもいい。
    悩みを話してもいい。
    一人で抱えなくてもいい。

    そして、

    逃げてもいい。

    それは、愛情がないということではありません。
    無責任になるということでもありません。

    自分自身の心や身体を守るために、その場所から離れることが必要な時もあります。

    誰かを支えるために、自分の人生まで失ってはいけない。

    家族だからこそ傷つくこともあります。
    近い存在だからこそ、苦しむこともあります。

    それでも、最後まで人として大切にされることの意味を、私はこの経験から学びました。

    今、孤独の中で介護をしている誰かの心に届き、小さな支えになれたなら、これ以上嬉しいことはありません。

    そして、介護を終えた人が、もう一度自分自身の人生を歩き出すきっかけになればと願っています。

    この本を手に取ってくださったあなたへ。

    最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

    青山姫彩(ひいろ)


     
     
     
    毒親サバイバー、アダルトチルドレンの姫彩(ひいろ)です。 書くことで少しずつ人生のデトックスをしています。 ノンフィクションです。 只今執筆活動中にてお休みしていますがタロットと手相で人の心に寄り添う fortune teller(占い師)です。

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