終わりではなく、続きの始まり
患者と医療者のあいだに見えたこと
がんの告知から治療中止
① がんをつたえられる
七十歳の鈴木は、定年後も毎年欠かさず肺がん検診を受けてきた。
咳もない。息切れもしない。畑仕事も普段通りできている。
だからこそ、「要精密検査」という結果は、どこか現実味がなかった。
近くの医院でレントゲンを見た医師は、右肺の影を指しながら言った。
「ここに、少し影がありますね」
大したことではないような口調だった。
だが「総合病院で詳しく調べましょう」という一言だけが、胸に残った。
総合病院では検査が続いた。
CT、MRI、骨シンチ、リンパ節生検。
説明は事務的で、体もつらくない。
だからこそ、深刻さが実感として湧かなかった。
結果は一週間後。
その間、鈴木は普段通りの生活を続けた。
だが夜になると、ふと考えてしまう。
酒の飲み過ぎだったのか。
若い頃の喫煙か。
あの時やめる決断が遅かったのか。
取り返しのつかない過去を、何度もなぞっていた。
結果説明の日。
診察室に入り、椅子に腰を下ろすと、川口医師が静かに声をかけた。
「検査、長くて大変でしたね」
その一言で、張りつめていたものが少し緩んだ。
医師は画像を映しながら話し始める。
「右肺に腫瘍が確認されました。悪性と判断されます」
悪性。
その言葉に、鈴木の眉がわずかに動いた。
「……悪性、というと」
自分から聞いたが、答えを聞くのが怖かった。
「肺がんです」
鈴木は深く息を吐いた。
覚悟していたようで、心のどこかでは否定していた。
「自覚症状がないので、実感が湧きにくいですよね」
鈴木は小さくうなずいた。
「ええ……元気なんです。今も」
その言葉には、「本当に自分なのか」という気持ちが混じっていた。
「検診で見つかる肺がんは、症状が出る前のことが多いです」
淡々とした説明。
だが鈴木には、突き放されたようにも、救われたようにも感じられた。
体が元気でも、がんはある。
逃げ道は、もうなかった。
「治療の選択肢はあります」
そう言われても、感情は動かなかった。
頭の中では、過去の自分が次々と浮かんでいた。
タバコを手にしていた若い頃。
健康診断を軽く考えていた時期。
あの時、何か変えられたのではないか。
そんな後悔が静かに広がっていく。
説明は続く。
手術、治療、今後の流れ。
「ここまでで、何か分かりにくいところはありますか」
鈴木はしばらく黙った。
分からないというより、考えが追いつかない。
「……家族には、どう話したらいいでしょうか」
治療より先に出た言葉だった。
「今日聞いたことを、無理に全部伝えなくて大丈夫です。鈴木さんが整理できてからで構いません」
その言葉は、初めての“助け舟”だった。
診察室を出るとき、足取りは重かった。
体は元気だ。
それでも、自分はがん患者になった。
〈フィードバック〉
鈴木として感じたのは、
「説明の正しさ」と「自分の時間」が一致しないということだった。
医師の言葉は正しい。
だが、患者の心はその正しさよりも、
**「自分の知らないところで進んでいた時間」**に揺れる。
がんを告げられた瞬間、鈴木は病気そのものよりも、
「過去の自分」と「これからの時間」の両方に引き裂かれていた。
患者は、医学的な情報よりも、
“その時間を一緒に持ってほしい”
という思いを抱えている。
これは、SPとして18年間見てきた患者の揺れと同じだった。
②:見えない治療
川口医師は、画面を一度閉じてから、あらためて鈴木の方を見た。
「先ほどお伝えした肺がんですが、検査結果を総合して判断すると、進行がんにあたります」
進行。
がんだと聞いたときよりも、その言葉のほうが重く響いた。
鈴木は、胸の奥で何かが静かに沈むのを感じた。
「進行……ですか」
声は落ち着いていたが、内心ではまた一段階、足元が崩れた気がしていた。
「はい。手術だけで治す段階ではなく、点滴による抗がん剤治療が中心になります」
点滴。抗がん剤。
テレビや新聞で見聞きした言葉が、ようやく自分のものになった。
「入院になるんでしょうか」
「はい。一週間ほど入院して抗がん剤を投与します。その後は退院して、自宅で過ごしていただきます」
川口医師は、ゆっくりと説明を続けた。
「この治療は三週間を一つのサイクルとして行います。
一週目が入院治療、残りの二週間は体を休めながら様子を見る期間です」
鈴木は、頭の中でカレンダーを思い浮かべていた。
一週間入院。三週間で1回。
「それを……何回くらいですか」
「2回を行い、様子を見て後2回を予定しています」
計4回。
短いのか、長いのか、判断がつかない。
ただ、治療が一度で終わらないことだけは、はっきりした。
「副作用についても、お話ししておきますね」
その前置きに、鈴木の背中に力が入った。
「点滴のあと、だるさや吐き気、食欲の低下が起こることがあります」
「やっぱり……しんどいんですね」
思わず口にしていた。
「個人差はありますが、多くの方がそう感じます。ただ、しばらくすると症状や食欲は戻ってきます」
戻る。
その言葉に、鈴木はわずかにうなずいた。
「このサイクルを、繰り返していく形になります」
繰り返す。
だるくなって、食べられなくなって、また戻って。
それを四回。
桃農家をやっている鈴木の頭の中には、
桃を収穫している自分と、点滴につながれている自分が交互に浮かんでいた。
「治療中も、桃の作業や普通の生活はできますか」
「疲れやすくはなりますが、体調のいい時期は無理のない範囲で普段の生活も作業もできます」
その言葉に、鈴木は少し安心した。
ずっと病人でいるわけではない。
そう思いたかった。
「治療の目的は、がんを小さくして進行を抑えることです」
川口医師の声は落ち着いていた。
「治療をしない、という選択も含めて、ご本人と一緒に考えていきます」
選択。
またその言葉が出てきた。
だが今の鈴木には、選べるほどの余裕はなかった。
「……やるしか、ないですよね」
鈴木がそう言うと、川口医師は否定も肯定もせず、静かに答えた。
「鈴木さんが、これからどのように過ごしたいかを考えながら、一つ一つ決めていきましょう」
その言葉を聞いたとき、鈴木は初めて、
自分が「治療を受ける人」になったのだと実感した。
がんと告げられた段階では、まだ他人事だった。
だが、入院の日程、治療の回数、副作用の説明。
生活の中に、がんが入り込んできた。
診察室を出るとき、鈴木は思った。
元気な時間と、つらい時間を、行ったり来たりする日々が始まる。
まだ経験していないのに、もう自分の未来の一部になっていた。
③:再発をつたえられる
計四回の抗がん剤治療が終わったあと、鈴木はほっとしていた。
だるさも、吐き気も、食欲の落ち込みも、時間がたてば引いていった。
体は完全ではないが、「一区切りついた」という感覚があった。
その矢先だった。
ある朝、腰に走った痛みは、今までのどの腰痛とも違っていた。
雷に打たれたような、鋭く、嫌味のように一瞬で神経をつかまれる痛み。
「変だな」と思いながらも、最初は年のせいだろうとやり過ごした。
だが痛みは引かず、寝返りを打つたびに走る。
一週間たっても落ち着かない。
外来で川口医師に伝えると、医師の表情がわずかに引き締まった。
「腰の痛みですね。今までと違う感じですか」
「ええ。刺すような……説明しにくいですが」
川口医師は、すぐに検査を提案した。
「検査してみませんか。念のため、確認しておきたいです」
念のため。
その言葉を聞いた瞬間、鈴木の胸に嫌な予感がよぎった。
四回の治療が終わったばかりなのに。
もう、何も起きないと思いたかった。
検査は淡々と進んだ。
機械の中で横になりながら、鈴木は天井を見つめていた。
何も考えないようにしても、腰の痛みが現実を引き戻す。
結果は一週間後。
診察室に入ると、川口医師はいつも通りの口調で迎えた。
だが机の上に並んだ画像を見た瞬間、鈴木は悟った。
これは、いい話ではない。
「腰の痛み、続いていますか」
「ええ……相変わらずです」
川口医師は画面を指し示しながら説明を始めた。
「骨シンチとMRIの結果ですが、腰の骨に病変が見られます」
病変。
その言葉が、鈴木の中で静かに止まった。
「これは……」
言葉の先を聞きたくなかった。
「肺がんの転移と考えられます」
転移。
がん、という言葉よりも重く響いた。
「……治療、したのに」
思わず漏れた。
責めるつもりはなかった。
ただ、事実として口に出ただけだった。
「抗がん剤治療で抑えられている部分もあります。ただ、がんは完全に消えるとは限りません」
川口医師は鈴木の目を見ながら続けた。
「腰の痛みは、転移によるものと考えられます」
鈴木は無言でうなずいた。
あの雷のような痛みがよみがえる。
体が、先に教えてくれていたのだ。
「今後は、痛みを和らげる治療も含めて、治療方針を考えていきます」
治療。
また、そこに戻るのか。
「……また、入院ですか」
「状況に応じてですが、放射線治療や薬物治療を検討します」
鈴木は深く息を吸った。
四回の治療を終えたあとに描いていた「少し落ち着いた生活」は、音もなく崩れていった。
診察室を出たあと、鈴木は腰に手を当てた。
この痛みが、ただの腰痛であってほしかった。
だが今は、がんがここに来た証拠になっている。
がんは、終わったと思ったところで、また姿を現す。
その現実を、鈴木は静かに受け取っていた。
④:治療が続くということ
腰椎への転移だと告げられたあと、
鈴木はあらためて治療の説明を受けた。
川口医師は、これまでの資料を机に並べながら話し始めた。
「腰椎転移については、別の抗がん剤を使った治療を行います」
別の抗がん剤。
また新しい名前が増えるのだと、鈴木は思った。
「今回は、三週間に一回の点滴です。入院ではなく、外来で行えます」
「入院じゃないんですね」
その一言に、鈴木の声が少し軽くなった。
「はい。点滴自体は半日ほどで終わります」
生活が続けられる。
それだけで、気持ちは少し前を向いた。
「前回より、副作用は軽いですか」
「患者さんにもよりますが、だるさや吐き気は出ることがあります。ただ、前回より少ない方が多いです」
最初の治療は思ったより楽だった。
点滴のあとは少しだるさが残るが、吐き気も強くない。
食事も、なんとか取れた。
「これなら、続けられるかもしれない」
鈴木は、そう感じていた。
二コース終えたところで、CT検査を受けた。
結果を聞きに診察室に入ると、川口医師は画面を指し示した。
「腫瘍、少し小さくなっています」
その言葉を聞いた瞬間、鈴木の胸に久しぶりに温かいものが広がった。
「効いてる、ということですか」
「はい。抗がん剤の効果が出ていると考えられます」
「……そうですか」
たったそれだけの返事だったが、心の中では何度も繰り返していた。
効いている。
その言葉は、治療を続ける理由として十分だった。
「このまま、六コース追加しましょう」
六コース。当初の予定より長い。
だが、鈴木は迷わなかった。
「お願いします」
しかし、三コース目から様子が変わった。
点滴のあと、強い吐き気が出るようになった。
吐き気止めを使っても、楽にならない。
「かなり、きついですね」
外来でそう伝えると、川口医師は薬の調整を提案した。
「副作用が強く出始めていますね。慎重に続けましょう」
点滴をしていない日も、体は重い。
何もしていなくても、だるさが抜けない。
前回の治療とは、明らかに違っていた。
それでも、CTで小さくなったという事実が、鈴木を支えていた。
効いているなら、我慢できる。
そう、自分に言い聞かせていた。
八コース目の外来の日。
血液検査の結果を見た川口医師が、少し言葉を選んだ。
「鈴木さん、白目の部分が黄色いですね。黄疸が出ています」
「黄疸……ですか」
鏡で見ても、自分ではよくわからない。
「血液検査の肝臓の数値が上がっています。抗がん剤の影響が考えられます」
鈴木は静かにうなずいた。
また、一つ区切りが来たのだと直感的に思った。
「治療については、ここで一度立ち止まって考えましょう」
続けることが正しいのか。
やめることが正しいのか。
正解は右か左か。
その選択が、また目の前に現れた。
診察室を出るとき、鈴木は思った。
治療が効くことと、体が耐えられることは、同じではない。
効いているから続ける。
つらいからやめる。
その間で揺れながら、それでも今日まで、生きてここに立っている。
抗がん剤は、がんだけでなく、自分自身にも確かに影響を残していた。
⑤:治療を中止をつたえられる
黄疸が出ていると言われてから一週間。
鈴木はCT検査の結果を聞くため、再び診察室に入った。
この一週間、体調が急に悪くなったわけではない。
ただ、だるさが抜けず、食事も進まない。
何より、次に何を言われるのかを考える時間だけが、静かに続いていた。
川口医師は、いつものように画像を開き、説明を始めた。
「検査の結果ですが、肝臓にかなり負担がかかっています」
鈴木は何も言わずに聞いていた。
予感は、すでにあった。
知り合いに黄疸について教えてもらっていた。
やはり、という思いが胸の奥で静かに広がった。
「この状態で抗がん剤治療を続けると、体にとって危険です」
川口医師は、少し間を置いてから、はっきりと言った。
「抗がん剤治療は、中止しましょう」
中止。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
「……そうですか」
声は出たが、感情は追いつかない。
「腫瘍は小さくなっていました。抗がん剤の効果はありました」
効いていた。
その言葉を聞いた瞬間、鈴木の中で何かが揺れた。
「効いていたのに、やめるんですね」
責める口調ではなかった。
ただ、確かめたかった。
「はい。ですが、これ以上は鈴木さんの体が持ちません」
川口医師の言葉は、医学的には正しい。
鈴木にも、それは分かっていた。
「今後は、体を守ることを優先していきます。症状を和らげる治療を中心に考えていきましょう」
その説明を聞きながら、鈴木は別のことを考えていた。
次の点滴の日程を考えなくていい。
吐き気に怯えなくていい。
だるさに耐えながら三週間を数えなくていい。
治療の苦痛から、逃げられる。
その安堵が、確かにあった。
その直後、川口医師が静かに言った。
「ここまで、よく頑張られましたね」
その一言に、鈴木の胸が詰まった。
頑張った。
それは労いの言葉のはずなのに、鈴木には別の意味にも聞こえた。
ここまでで終わり。
もう、これ以上はない。
突き放されたような感覚が、じわっと広がった。
「……これからは、どうしたらいいんでしょうか」
思わず、そう聞いていた。
治療がなくなったあとの時間を、どう過ごせばいいのか。
何を目標に生きればいいのか。
その輪郭が、急に消えてしまった。
川口医師は、すぐには答えなかった。
「これからは、鈴木さんがどう過ごしたいかを、一緒に考えていきます」
治すための治療ではなく、
生きるための選択。
鈴木はうなずいた。
まだ理解はできない。
ただ、点滴に縛られない時間が始まることだけは、確かだった。
診察室を出るとき、鈴木は複雑な気持ちを抱えていた。
終わったような気もする。
救われたような気もする。
そして、これから何を支えに生きていけばいいのか、まだ分からない。
いいなと思ったら応援しよう!
長年医療系の学生さん、医療者の方との医療面接(ロールプレー)でお世話になりました。
今までの経験をカタチにしたいと思い執筆を始めました。
電子版も考えましたが、本にできないかと思ってます。
いただいたチップは作成に使わせていただきます。