
【硝子のショコラ】35|作家【長編恋愛小説】
スタッフがコーヒーを置いて去っていく。
店内には静かな音楽が流れていた。
俺はカップに手を伸ばしたまま、
うまく言葉を探せずにいた。
向かいに座る男は、
無表情でこちらを見ている。
何を考えているのか
その端正な顔からは全く読み取れない。
それなのに、妙に息苦しかった。
「今日は、どうされたんですか」
穏やかな声だった。
チョコレートを買いに来た、
なんて薄っぺらい嘘が
この男に通用するはずなかった。
「……いや」
俺は視線を逸らす。
「彼女、元気かなと思って」
一瞬にして空気が凍りつく。
ショコラティエはすぐには答えなかった。
ただ静かに、
コーヒーカップへ視線を落としている。
「先生」
低い声。
「もう、彼女に連絡しないでください」
柔らかく、真っ直ぐな言葉だった。
「……」
「返事をしないのが、彼女の答えです」
胸の奥が鈍く軋む。
「……そんなに怒ってる?」
自分でも、情けない問いだと思った。
ショコラティエは、少しだけ目を伏せる。
「怒りの感情など、彼女の中からは
とうに消えてしまっています」
そこで一度言葉を切る。
「彼女は、ただ、損なわれたんです」
心臓が止まりそうになる。
「先生が彼女に送りつけてきた
あの本…
それを読んでから
彼女は静かに閉じてしまいました」
俺は何も言えない。
「僕も読ませてもらいましたけど…」
「でも……」
俺は思わず顔を上げる。
「名前も出してないし、
俺は——」
「そういう問題じゃないんです」
静かな、凍てついた声だった。
責め立てるわけでもない。
でも、
一歩も逃がさない声だった。
「先生は、
彼女を作品にした」
俺は息を呑む。
「それが事実です」
否定できなかった。
「……俺は」
喉がうまく動かない。
「傷つけるつもりじゃ——」
「ええ」
ショコラティエは小さく頷く。
「悪意じゃないことくらい、
僕にもわかります」
その言葉が、余計につらかった。
「彼女は、彼女の完結した世界で
生きていられれば
それでよかったんです」
流れているピアノの繊細な音が
彼女の、か細い声のように聞こえる。
「先生は、彼女を理解した気になったのかもしれない」
俺は顔を上げられない。
「でも、彼女が、
自分のことを
一度でも
先生に話したことはありましたか?」
その通りだった。
俺は、勝手に想像した。
勝手に意味を見つけた。
勝手に孤独を重ねた。
そして、それを“物語”にした。
俺はかすれた声で言った。
「あれは、フィクションだよ
…あくまでも」
ショコラティエは少し黙る。
「先生の観察眼や洞察力は
大したものだと思います」
皮肉ではなかった。
だから余計に苦しかった。
「でも…
だからって」
彼は静かに続ける。
「見えてしまうことと、
触れていいことは、
別です」
俺は言葉を失う。
ショコラティエは、
最後まで感情を荒げなかった。
「お願いします」
彼は静かに頭を下げる。
「もう、彼女を放っておいてください」
その瞬間、俺はようやく理解した。
彼の静かな怒りを。
そして、彼女の苦しみを。
テーブルの上で、コーヒーはすっかり冷め切っていた。
俺にはもう、何も言えなかった。