
【硝子のショコラ】12|ショコラティエ【長編恋愛小説】
僕はオーナーの部屋のドアをノックする。
「どうぞ」
彼は書類を眺めている。
どうせビザの更新は難しそう、とか
その手の話だろう。
この国では珍しくないことだ。
「コーヒーでいいかな?砂糖?ミルク?」
僕は、エスプレッソを、と短く答える。
彼は僕に小さなカップを差し出す。
僕は礼を言って受け取る。
彼は少し勿体ぶってコーヒーを一口啜った。
「君は自分の国に戻る気はあるか?」
——きた。
ビザの更新がうまくいかなかったのだろう。
僕が言葉に詰まっていると、オーナーは続けた。
「東京に店を出す」
僕は黙って次の言葉を待った。
「君にやってほしい」
一瞬、意味がわからなかった。
「東京の新店舗を任せたい」
オーナーは真面目な顔をしていた。
「…僕に、ですか?」
手の中の、小さなカップが微かに揺れた。
飲み干したエスプレッソの苦味が、
口内にじわりと広がる。
「君は派手じゃない。でもクオリティが安定してる」
彼はそこで一度言葉を切った。
「ショコラは、それが一番難しい」
僕は、何も言えなかった。
オーナーは続ける。
「君の作るショコラには、ムラがない。
感情の波も、迷いも、形や艶に出ない。
職人として君はそれを理解して、ショコラと向き合っている。
誰にでもできることじゃない」
嬉しい、という感情とも少し違う。
ただ、自分が積み重ねてきた時間を、
誰かがちゃんと見ていたのだと
初めて知らされた瞬間だった。