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【硝子のショコラ】36|通訳【長編恋愛小説】

    突然送られてきたその本を、
    私はしばらく開けなかった。

    白い装丁。

    半透明のカバー。

    見たことのないくらい
    美しい装丁の本だった。

    綺麗すぎて、
    なんだか触れるのが怖かった。


    彼はその本を見て、
    何か言いかけたけど、
    そのままテーブルの上に戻す。

    そして、ただいつも通りそこにいた。 

    本は数日、
    リビングのテーブルの上に置かれたままだった。

    読みたくなかった。
     
    大体内容は予想ができた。
     
    装丁が、まるで私みたいだと
    直感で思ったから。


    でも、
    読まずに
    そこにあるだけで落ち着かなかった。

     

    ある夜、私は一人でその本を開いてみた。

     

    最初の数ページで、もう気づいてしまった。

     

    ——これって…

     

    名前も違う。

    境遇も少し違う。

    起きた出来事も違う。

     

    なのに、
    嫌になるくらい、
    私だった。

     

    ページをめくるたび、
    息が苦しくなる。

     

    どうしてこんな酷い話を書いたの。

    どうしてこんなふうに書けるの。

     

    私は、あの人に何も話していない。

    自分のことなんて、ほとんど何も。

    私じゃない。
    これは私の話じゃない。
    そう思えば思うほど、
    私自身のことに思えてくる。
     
    あの作家が書いたと思うと、
    余計に嫌悪感が増す。

    単なる興味本位で
    人の心を見透かしたような
    接し方しかしてこなかった人なのに。
     
    私がどれだけ拒絶しても
    それを無視して、
    私を観察して。
     
    そして、
    勝手にこんなふうに書かれて
    たくさんの人に読まれている。

     
    誰にも触れられたくなかった部分を、
    こじ開けられて、
    全てを世界に晒されたような感覚だった。

    それなのに、
    傷ついているのは私だけのようだった。

      
    「それ、被害妄想だから」

    そう世間から嘲笑されているような気がした。

    これは現実なんだろうか。
     
    ——悪夢だったらいいのに…

    最後まで本を読み切ることが
    ここまで苦痛だったことはなかった。

    私は本を閉じて、
    そのまましばらく動けなかった。

    「これ…」 

    彼がそっと私に
    温かいハーブティーの入った
    マグカップを手渡してくれた。

     

    「……こんなこと…私は……」


    自分でも聞こえないくらい、
    小さな声だった。
     

    私は自分の腕を抱きしめる。

    「私、
    あの人に、
    ほとんど何も話したことないのに…
    私がどれだけ拒絶しても
    勝手に境界線を踏み越えてきて
    散々人の心を踏み荒らして…
    」

    突然、言葉があふれ出してきた。
     
    彼は何も言わずに
    私の言葉を受け止める。

    「……勝手に中をこじ開けられて

    こんなふうに見せ物にされて…

    私を粉々にして……
    」

    涙があふれて止まらなくなった。
     
    彼は黙って私をそっと抱きしめた。


    それからしばらく、
    私は仕事を休むことにした。

    元々フリーランスだから、
    ある程度は自分で調整できる。
     

    私は家で、ほとんどの時間を
    ぼんやりと過ごすようになった。

    ソファに座って、
    何時間も窓の外を見ていたり。

    本を開いても、
    全然頭に入ってこない。

    何が起こっているのか、
    全く分からなかった。

    とにかく、今は休みたかった。

    誰にも会わず
    干渉されず
    要求されず。

    私はとにかく混乱していた。
     

    彼は、何も訊かなかった。

    無理に励まそうともしない。

    アドバイスもしない。

    ただ、
    いつもみたいに、
    何も聞かずに、
    私のそばにいてくれた。

    並んでソファに座る。

    美味しいコーヒーを淹れてくれる。

    私が何も話したくない時は、
    彼も黙っていた。

    あるいは、彼に寄りかかって
    気が済むまで話を
    聞いてもらう夜もあった。

    何も言わず、
    そっと手を握ってくれる。
    時には毛布みたいに
    私を抱きしめてくれた。
     
    その温度だけで、
    少し呼吸が楽になった。


    「……ごめんね」

    ぽつりと、そんな言葉が出た。

    「何が?」

    「なんにもできなくて」

    彼は小さく首を振る。

    「できなくていいよ」

    その言葉を聞いた瞬間、視界が滲んだ。

    私は彼の肩に額を押しつけたまま、
    しばらく動けなかった。 

    「無理しなくていい。
     僕はずっとここにいるから」

    今は、一人じゃない。

    それだけが、かろうじて私を繋ぎ止めていた。

     
     
    余白のある静かなアンバランスさに惹かれています。それぞれの正しさが少しずつずれていく、その感覚を描いていきたいです。

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