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【硝子のショコラ】37|通訳【長編恋愛小説】

    あれから一年ほど経った。
     
    少しずつ、外に出られるようになってきた。
     
    ゆっくりと、私に寄り添ってくれた
    夫のおかげだ。

    私があの本のモデルだと気づいた人たちもいたけれど、
    ほとんどの人がそっとしておいてくれた。

    あとで知ったことだったけれど、
    夫が私を守ってくれていたからだった。


    そんなある日、私はリハビリの一環で
    書店に出かけてみた。
     
    あの人の本はあったけれど
    あの頃よりは目につかない。

    あの本もあったけれど、見ないようにした。

    夫のショコラの本も、相変わらず平積みになっていた。

    しばらく、大好きな書店に来ることもできなかったので、
    やっと自分を取り戻せた気がする。

    大きな進歩だったと思う。
     
     ――書店に来れた
     
    私は夫に連絡する。
    心配だから、と
    小さいことでも、何かあれば
    なるべく頻繁に連絡するように言われている。
     
    ——子供じゃないんだけどな
    と思うけれど、たくさん心配かけてしまったし、
    夫には心から感謝している。
     
    私がこうしていられるのは
    夫のおかげだから。
     
     ——それはよかった
     
     ——あとで店においでよ
     
    夫から返信。
     
    私は、読みたかった本を一冊買って書店を出る。
     
    夫の店はここからそんなに遠くない。
    散歩がてら、歩いて行くことにした。
     
    冬の空気は冷たかったけれど、
    一年前みたいに、息ができなくなることはなかった。
     

    私は買ったばかりの本を抱えて、
    ゆっくり歩く。

    街路樹はすっかり葉を落としていて、
    白い光だけが道路に伸びていた。

    途中、信号待ちで立ち止まる。

    ふと、向こう側に見覚えのある姿が見えた。

    時間が止まった。

    作家だった。

    あれから一年も経ったんだ。
    長かったような、短かったような。

    以前より少し痩せて
    疲れている気がする。

    でも、見間違えるはずがなかった。

    忘れようとすればするほど、
    鮮明に思い出してしまう。
     
    向こうも、私に気づいた。

    人混みの中で、
    視線だけがぶつかる。

    胸の奥がざわついた。

    怖い。

    でも、
    私はもう、一人じゃない。

    その気持ちが、私を少し勇気づけてくれる。
     

    信号が青に変わった。

    人の流れに押されるように、
    私たちは少しずつ近づいていく。

    後悔。

    迷い。

    言い訳。

    そんなものが、
    彼の顔に滲んで見えた。

    「……元気、だった?」

    かすれた声だった。

    その瞬間、
    昔の私なら、
    きっと何も言えなかったと思う。

    怖くて。

    飲み込まれてしまいそうで。

    私は小さく息を吸う。
     
    でもやっぱり怖い。
     
    怖いけど、
    今を逃したら、私はずっとこのまま。

    思い切って、切り出す。

    「…どうしてあんなことしたの?」
     
    声がうまく出せない。
     
    その人の存在を感じるだけで、
    私の呼吸が浅くなる。
      
    「なんで…あんなひどい…」
     
    こんなところ、見せたくない。
     
    視界がぼやけ始める。

    「もう…私のことは放っておいて」

    私は震える声で伝える。

    その人は
     
    「…悪かった」

    とだけ言うと、私に背を向けて
    都会の雑踏に消えていった。
     
    ——言えた
     
    自分自身の手で
    区切りをつけられたような気がした。
     

    私はその場で、
    しばらく呼吸を整える。

    冷たい風が頬を撫でた。
     

    私はスマートフォンを取り出す。

    ——今そっち向かってる
    ——歩いて行くね

    すぐに返信が来た。

    ——待ってる
    ——気を付けて

    私はゆっくり歩き出す。

     
     
    余白のある静かなアンバランスさに惹かれています。それぞれの正しさが少しずつずれていく、その感覚を描いていきたいです。

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