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【硝子のショコラ】2|通訳【長編恋愛小説】

    あまりよく眠れなかった。

    諦めてベッドを出る。

    お湯を沸かして、お茶を入れる。

    湯気を眺めながら、ソファに座った。

    スマートフォンは伏せたままだ。

    未読の件数だけが、増えて行く。

    カーテン越しの空は、まだ薄暗い。

    息を吸うたび、胸の奥が冷えていく。


    「おはよう」

    夫が起きてきた。
    「あんまり眠れなかった?」

    「うん、ちょっとね」

    相変わらず、私の眠りが浅いのを
    気にしてくれているみたいだった。

    夫は欠伸を噛み殺しながら、キッチンへ向かう。

    「コーヒー淹れるけど、飲む?」

    「そうだね、もらおうかな。ありがとう。」

    「うん」 

    私はとっくに冷めたマグカップのお茶を飲み干して、さっとすすいで食洗機へ入れる。

    夫の淹れたコーヒーを受け取り、ソファに戻る。

    窓の外が少しずつ白んでいく。

    夫も私の隣に座って、スマートフォンを見ながらコーヒーを啜る。

    「あのさ、今夜外で食べない?」

    「うん、いいよ」

    夫はレストランの詳細を後で送るといい、いつものように出かけて行った。

    今日は特に急ぎの案件もなかったので、もう一度ベッドに潜り込む。

    眠れそうにないけど、少しは休まないと。


    夫は、必要以上に何も訊かない。

    でも、私が眠れていないことには、
    いつも気づいている。

    踏み込みすぎず、
    放っておきすぎず、
    気づけば、
    ちょうどいい距離にいてくれる人だった。

    その優しさに何度救われたことか。

    彼自身もきっと気づいていない。


    昨日あんなことがあったのに、それでも私は普通に生活している。

    世界は何事もなかったみたいに動き続ける。

    でも今日ぐらいは、何もしなくてもいいかもしれない。

    疲れすぎていて、何も考えられなかった。

    何かをする気力も、うまく湧いてこない。

    またスマートフォンが震えた。

    しつこい。

    あれは事故みたいなものだったし
    私だって話したくて、話したわけじゃない。

    午後、夫から連絡。
    予約が取れた、とレストランの詳細が送られてきた。

    店の名前を見て、少し意外に思う。

    夫がこういう店を予約するのは珍しい。

    最近流行りのようなところは、
    お互いあまり好きじゃなかったはずだ。

    ——久しぶりにゆっくり食べよう

    メッセージはそれだけだった。

    私はしばらく画面を眺めてから、
    ——楽しみにしてる
    と返した。

    夕方になっても、半分目覚めているような感覚だった。

    何を着ればよかったっけ、と思いながらクローゼットを開ける。

    服を選ぶことすら久しぶりな気がした。
    私は夫がプレゼントしてくれた、ボルドーのワンピースを選ぶ。


    店は、駅から少し離れた路地裏にあった。

    暗い木目の扉を開けると、店内はワインとハーブの混ざった香りで満ちている。

    「こっち」

    先に着いていた夫が、小さく手を上げた。

    ジャケットを脱いだ夫は、仕事帰りの疲れをまとっていたけれど、
    どこか機嫌がよさそうにも見えた。

    「こういう店、好きだったっけ?」

    「最近できたらしくて。知り合いに教えてもらったんだ」

    メニューを開きながら、夫が言う。

    「ナチュラルワインとハーブを使った料理のペアリングが有名なんだって」

    「へえ、なんか新鮮ね」

    グラスに注がれたロゼを一口飲む。

    私の好みを知り尽くした夫のチョイスに笑みが溢れる。

    料理の話や仕事の話をしているうちに、
    張り詰めていたものが少しずつ緩んでいく。

    夫といる穏やかな時間が私は好きだ。

    デザートが運ばれてきた頃、
    夫がふと視線を落とした。

    「実はさ」

    その言い方に、私は顔を上げる。

    「まだ正式じゃないんだけど」

    夫はワイングラスの脚に触れながら、小さく息をついた。

    「パリに戻ってこないかって」

    一瞬、意味がうまく入ってこなかった。

    「……パリ?」

    「うん。パリ本店で、新しいプロジェクトを立ち上げることになって」

    夫は静かな口調のまま続ける。

    「オーナーが、僕に参加してほしいって」

    あの、癖の強いオーナー。
    よく覚えている。

    「期間はどのくらいかわからないけど」

    店内のざわめきが、急に遠く聞こえた。

    「君とも相談してから決めようと思って」

    夫はそう言って、私を見つめる。

    「まあ、まだ決まったわけじゃないんだけどね」

    「あの…もし行くなら、
    一緒についていってもいいかな」

    ワイングラスが揺れる。
    彼が微笑む。

     
     
    余白のある静かなアンバランスさに惹かれています。それぞれの正しさが少しずつずれていく、その感覚を描いていきたいです。

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