
【硝子のショコラ】33|ショコラティエ【長編恋愛小説】
彼女と暮らし始めてから、
家の空気が少し変わった。
ただ休むだけの、無機質で
静かなだけだった部屋が柔らかくなった。
最初の半月ぐらい
彼女はずっと所在なさげにしていた。
夜中に何度も目を覚ましたり、
僕が帰宅しても、
どこか緊張した顔をしていたり。
無理もないと思った。
彼女は長い間、
一人で生きてきた人だから。
だから僕は、
なるべく何も変えないようにした。
無理に踏み込まない。
問い詰めない。
でも、
帰ってきた時に部屋が温かいことだけは、
当たり前にしておきたかった。
「おかえり」
それだけは、
毎日ちゃんと伝えた。
返事が小さくても、
疲れていそうでも、
気にしなかった。
彼女はたぶん、
“誰かが待っている場所”に
まだ慣れていない。
朝、彼女が眠そうな顔で
リビングへ来る時間が好きだった。
寝癖のついた髪。
ぼんやりした目。
まだ少し夢の中にいるみたいな表情。
彼女自身は気づいていないけれど、
あの瞬間だけ、ほんの少し無防備になる。
「おはよう」
そう声を掛けると、
彼女は小さく頷く。
僕は自然に、二人分のコーヒーを淹れる。
一人分が普通だったのに。
でも今はもう全て、彼女の分まで
準備することが日常になっていた。
家の中にある彼女のものも
少しずつ馴染んでいく。
本棚に並ぶ本。
洗面所の小さな瓶。
ソファに置きっぱなしのストール。
そういうものを見るたび、
少し安心する自分がいる。
店にも、彼女は時々顔を出してくれるようになった。
スタッフたちも、最初は緊張していたけれど、
今では自然に話しかけている。
「奥様」
そう呼ばれるたび、
彼女が少し困った顔をするのが
かわいかった。
でも嫌ではなさそうで、
僕は密かに安心していた。
何より、すごく嬉しかった。
彼女は、
僕が作業しているところを
じっと見ていることがある。
少し離れたところから静かに眺めている。
集中している時は、
周囲の音がほとんど消える。
温度。
湿度。
艶。
指先の感覚。
ほんの少しでも狂えば、
全部壊れる。
でも、最近は不思議と、
そこへ彼女の気配が混ざるようになった。
誰かが近くにいるのに、
集中が乱れない。
それが僕には、かなり特別なことだった。
ある夜、
どうしても配合がまとまらなくて、
一人キッチンでメモを書き直していた。
温度を変えてみるか。
カカオの比率を下げるか。
そんなことを延々考えていると、
後ろから小さな足音がした。
「……どうしたの?」
振り返ると、彼女が眠そうな顔で立っている。
少し心配そうだった。
「あ、ごめん。起こした?」
「ううん」
彼女はそのまま僕の隣へ座る。
何か言うわけでもなく、
二人でただぼんやりメモを眺めていた。
その静けさが、妙に心地いい。
彼女が、僕の肩にもたれかかる。
その柔らかさと、温もりが伝わってくる。
「……君がいると落ち着く」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
彼女は少し笑う。
「それ、前にもどこかで聞いた」
「うん。でも僕の方が本気」
本当にそうだった。
彼女がいると、世界の温度が少しだけ整う。
張り詰めすぎていた感覚が、
静かにほどける。
彼女と出会ってから
僕は僕自身を
素直に受け止められるようになった。
僕はたぶん、もうずっと前から、
彼女がいる人生を前提に生き始めていた。