
短編小説 「秒針の零れる夜」
いつの間にか、空は泣き止んでいた。傘を叩く騒音が止み、静寂が肩を取り囲んでいる。
なのに、私の耳に響く涙は止まらない。
「ポタン」
透き通った雫が、まるでスローモーションのように地面に向かって落下していく。滴に映り込んだ情景。
コンクリートに着地すると同時に、かろうじて繋ぎ止めていた何かが放たれるように、破裂する。
そう、私の耳には生まれつき、その音が途切れることなく鳴り響いていた。
一滴ずつ、一秒ずつ、落ちていく涙。
その音を追えば、私は簡単に正確な秒数を刻むことができてしまう。
そのせいだ。
私がずっと苦しい理由は。
「タンタン タンタン」
その滴の音に合わせて、私はいつも通り、両足を交互に送り出していく。
この音を嫌いながら、私はこの音に逆らえない。
黒一色の空。
街灯に照らし出された自らの影。
不変的な夜を、私は一秒たりともズレずに進んで行く。
赤信号は魔界の印にでもなりそうな、異様な光を放っていた。
職業病。
いや、能力病と言うべきか。
私は、信号の前に立つと、つい滴の数を数えて、青に変わる瞬間を当てに行ってしまう。
「27,28,29,30」
誰にも聞こえないように小さく呟きながら、その声と同時に指を鳴らす。 少し掠れていて、下手な音。
「今」
そう呟いた瞬間、信号が変わる快感。
威嚇していた赤い光が、スッと弱まって緑色に変わる瞬間。
まるで、自分が世界を操っているような。
昔はその感覚が最高に好きだった。
車で送って貰ってもよかった場面でも、その為だけに何十キロと歩いた。
でも、今は慣れ切って、無味の米粒を口に運ぶくらいの刺激しかない。
スっと、吐き出した息はゆっくりと大気に溶けだして、私は疲労を片手に、また前へと進んでいく。
その連続。
滴はゆっくりと落ちて、弾けていった。
一滴、一滴。
落ちずとも、長年の経験から私はこのタイミング、と分かってしまう。
もう、いい。
知ってる。
いらない。
何度、止んでくれたらと思ったことか。
でも、どんなに願ったって止まってくれやしなかった。
私の無能さを思い知らせるように、残酷にその音は流れてくる。
私は時間を有効に使えていないから。
勉強時間も足りないし、運動も苦手のままだし、何だって一流になれていない。
それを、知らされているようで、毎秒苦しくて。
他の子は今も勉強しているかもしれないとか。
私は何も才能がないんだから、人一倍やらなきゃいけない、とか。
布団に入ると、滴の音量が上がって、鼓動と重なる。
そのせいで、もう多分、一週間は寝れていない。
吐き出した溜息は灰のように、黒く汚れてた。
どうにかしなきゃいけない。
その焦燥に追われて、無駄に起きて、身体が倦怠感に抑えられる。
「ねえ」
その時、甘く小さな声が、滴に塞がれた耳を切り裂いた。
踏み出そうとしていた白線を見入って、衒い。
振り返ると、真後ろにいたのは私の腰ほどの身長しかない小さな子供だった。
アホ毛一つなく、綺麗にまとめられた二本の束。
その束に括りつけられた青い髪飾りが、夜の中で唯一の色みたいに揺れていた。
可愛い。
愛されている。
ごく普通の子供に対する慈愛。
でも、次に出てきたのは羨ましい、という感情だった。
「遊ぼうよ」
純粋無垢な顔で、私の汚い感情なんて何にも考えずに、そんな言葉を吐く。
だから、更に恨めしくなってくる。
真剣に焦燥に追われる自分が馬鹿らしくなる。
無駄なことを考えずに笑えることが、こんなにも眩しいとは思わなかった。
私も、そう生きられたらいいのに。
でも、それができていたら、私はもっと人生、上手く行っていた。
「いいよ」
何を思ったのか、私は柄にも合わず頷いた。
青信号だから、渡らなくてはならないのに渡らなかった。
「うーん。何で遊ぼうか」
学芸会レベルの劇のように、少女は拳を顎にあげて悩み込み始める。
馬鹿らしい。
そう思いながら、無駄に生真面目な顔を見つめた。
「そうだ。次の信号が何秒で青になるか当て合いっこしようよ」
まるで名案とでも言うように「合点」のポーズをするが、予想以上にくだらないゲーム。
時間の経過からは全く目を背けられないし、私には何の面白みもない。
軽く溜め息を吐き出しながらも、私は仕方なく滴の音を数え出した。
「1,2,3,4, 」
どうせ、この音に逆らったところで、私はつられてしまうのだから意味はない。
夜に灯り続ける赤信号。
彼女が小さな瞳を両手で覆ったのを見てから、私も瞼を閉じた。
瞼の裏は赤信号のように重く、鮮烈だった。
近すぎて、ピントは合わないけれど、なんとなくの色合いは読み取れる。
チカチカとしていて、ずっと見ているとなんだか頭が痛くなりそうだ。
「27,28,29,30 」
スッと息を吐き出して、告げる。
「今」
目を開くと丁度、闇を照らしていた赤が緑色に優しく香り出した。
「うわー、負けた」
横の少女はいつの間にか目を開けて、地団駄を踏んでいる。
子供だからか、その音にはそれほど重みはなく、その悔しさも何処か遠い。
どうせ、私が勝ってしまう。
勝敗が分かり切っているのに、やる意味がない。
なのに、「もいっかい」と必死に掌を擦り合わせて願う少女に首を振る気持ちは湧かなかった。
どうせ、子供なのだから、負けてあげればいい。
それは、そうだろう。
だけど、私がズレるのが怖かった。
もう、15年近くこの音に従い続けて、刃向かうという選択肢が無意識に消去されてしまう。
「もいっかい」
その言葉に頷いて、私は確実に勝つゲームを何度も続けて、無駄に時間を消費していく。
淡い意識。
流れ作業のように「今」という言葉を繰り返して。
少女の笑顔への嫉妬と共に、仮初めの感情がゆっくりと剥がれていく。
何が楽しいのだろうと、いつもの自分なら立ち去る筈。
だけど、なぜかその顔に心が躍っている。
自分=苦しい感がその瞬間だけ溶けた。
変な優越感。
不意に褒められて恥ずかしく、へにゃと下手な笑いを浮かべる時のような不思議な感覚。
理由も分からず恋しくて、止めなきゃいけないのに、少女の「もいっかい」に頷いてしまう。
「いいよ」って声がいつの間にか、跳ねていた。
向けられるその笑顔を、自分が求められているという見当違いな安心剤にしてる。
「今」
深く息を吸い込んで、呟く。
懐かしい爽快感。周囲の音が、明瞭になって溢れ出す。
木の葉が風に揺らされて囁く声。
今か今かと、青信号を待ち構える乗用車の緊迫。
コンビニから、丁度出てきた会社員の姿。
空を低く、横切っていく鴉の影。
暗闇に淀んだ自分の淡い影。
灰色の雲の合間からひょっこりと顔を出した、恍惚と光る月。
子供相手に、大人げなく、煽り口調。
「お姉ちゃん。時間、正確に測れていいな」
何気なく吐かれた一言。それが、私を優しく薙いでいった。
そっか。
そうだったんだよね。
その言葉を反芻して、自分の心臓に深く落とし込んでいく。
まるで、パズルのピースがピタッとハマったような快感。
そう、この能力は私を苦しくさせるために、ついてきた訳じゃない。
幸せになるためのおまけ。
青信号のタイミングを当てた時の快感、授業の終了時間が時計を見なくても、分かる便利さ。
きっと、その少しの便利と快感の為に生まれてきた。
「みゆちゃん。もう帰るわよ」
何処からか、その少女のお母さんが忙しなく、走ってきた。
両手いっぱいにエコバッグを抱えて、私に何度も頭を下げる。
どうやら、お母さんとの買い物中に抜け出してきていたらしい。
「いえ、大丈夫でしたよ」
さっきまでの、ありのままが嘘のように、みゆちゃんはお母さんの影に隠れ出した。
「楽しかったよ。そして、ありがとう」
お母さんの腕を掴んで、少し紅潮した顔。
カバンの影に隠れて、小さく手を振り返す。
その姿は、ただただ不純なく、とてつもなく愛おしかった。
二人の幸せそうな背中。
耳に響く涙を惜しみなく消費して、私は二人の姿が見えなくなるまで、見送った。
そして、私は再び、数えだす。
「27,28,29,30 」
夜風は優しく前髪を撫でた。
みゆちゃんの、瞳を細くして、顔をくしゃくしゃにした笑顔が残像のように残っている。
「今」
体内に迸る優越感。
どうせ、明日も数えてしまうだろう。
でも、それでもいい。
息を深く落として、青信号を捉えた。
シルバーの乗用車は、路上に溜まった液体を叩いて、馬車のように走らせていった。