
放課後、光景に触れるたび、私は世界から少しずつ零れていく。~総集編~
1/8 世界を愛する
学校側の帰り際、赤いバイクを停める配達員が目に入った。
茶色の建物の前で朝日に照らされて、一瞬、人間ではないものを見ているような錯覚に陥った。
私に実体がなく、他に認識されない存在であったのなら、この世界を愛せたのではないか、なんて思った。
他の人になって世界を見たことはないから確かなことは分からないけれど、私は多分、人より世界の光景は愛せてるのだと思う。
朝日に照らされたピンク色の薔薇。
毎度、驚かされる鳥の瞬き。
他人と光景が混じり合った絵になるような景色。
だけど、自分と他人の壁を感じた時、人は苦しまずに生きていられるのに自分だけが苦しんでいるなんて感じた時、自分と光景が交わった時、私は世界を嫌う。
恨む。
だから、自分は何にも直面せずに、ただただこの世界の光景を眺めていられる存在になれたらいいのに、なんて夢物語を願った。
1/10 夜の余白
内股の布が擦れる音だけを響かせて、身を縮こませながら私は歩道橋の上を歩いていた。
身長よりも高い塀からの閉塞感から解放されて、ヘッドライトが車道を流れていく夜景が現れた。
何気ない景色が夜の力を借りると、こんなにも美しく写ってしまうのだな。
その景色を眺めながら、ゆったりと階段を下っていき、最後の一段。
コトン。
歩道橋の下、周りの花は茶色く枯れている中、まだ見事に咲いている一輪の白い花に私はほっと息をついた。
1/12 届かないもの
昨日よりも少し色褪せた空を目の前にお気に入りの歌を流して、私は車に乗っていた。
軽くその歌を口ずさみながら、思い返す。
私は、自らの価値相応で満足できない人間だろうなということを。
異性だって、才能だって、人付き合いだって、それほど自らに価値はない。
なのに、望んでしまうのは自分の価値よりもさらに高みで。
幼い頃を思い返したら、今はずいぶんと妥協してきたつもりなのに、思い浮かぶものは遠く、どう考えても私相応ではない希望。
叶わない希望を望むのは辛いから、やめればいいのに。
その瞬間、視界の横で猫が家の塀とコンクリートの小さな隙間を抜けた。
また歩き出す猫を見ても、やはりそこを抜けたとは到底思えない大きさのがあるのに、その猫は飄々と抜けていった。
猫は本当に液体だったりするのかな、なんて。
私も飄々と予測を抜けられる猫になれたらな。
なんて。
1/13 刺す光のあと
少し色褪せたネモフィラの花弁の色に似た淡い冬の空。
唾を飲み込むと、異物を呑んだかのような乾いた感覚がした。
喉を軽く舐めても、その不自然さは消えずに残った。
夕焼けの鋭い眩しさに刺されて、私は目を逸らす。
赤紫色の幻影が視界の先に写ってしまう。
自分が進まない隣の分かれ道が延々と長く続く道に見えた。
その道を通っていく同級生の制服を着た背中が遠く映る。
家へ帰ることが億劫だという気持ちが、心の中で口ずさんでいた歌の一音、一音を間延びさせ、足取りも重くなっていく。
コンクリートは錆びた銅鐸のような青銅色といった色で、私を無惨にも見送っていった。
1/15 輪郭の温度
冷たさが籠る青空には階段のように連なる筋雲が浮かんでいた。
道端でも枯れ草が目立つようになり、植えてある木も素っ裸で、葉はあっという間に落ちていた。
自分という存在が世界から乖離していて、自分の基本情報の全てがピンと来ない。
名前も、年齢も、身長も、経歴も。
名前を呼ばれてもどこか他人で、年齢も小さい頃に思っていたほど成長していないし、身長だってもう少し目線が高くなると思っていたのに、案外低いし。
過去の記憶の自分が他人かのようにかけ離れて眩しく見える。
全て、事実から乖離している。
自分が何者なのか、それが考えれば考えるほど分からなくなっていく。
1/16 沈む記憶
面接台本の用紙を埋めている途中で、ペンが止まった。
教室は鉛筆を動かす音が充満していて、逸れ者のような、ペンを止めてしまったことへの羞恥心に駆られる。
自分の本当の短所は嫌な記憶を鮮明に記憶してしまう部分だと思う。
取り返しのつかない過ちから、他愛もない失態エピソードまで、詳細に記憶してしまう。
相手に言われた言葉もその場の乾いた雰囲気も、その時の自分の劣等感と羞恥心も、その時に脳内で考えた言い訳も。
だけど、唯一、相手の表情だけが背景と同化したかのように思い出せない。
その部分を憶測で蔑む顔や嘲笑う顔で当てはめてしまうから、尚の事、現実よりも悪い形で記憶に残ってしまう。
楽しかった思い出の記憶は、感情は伴わずに楽しかったという事実だけがぼんやりと浮かんでいるだけなのに。
1/19 溶ける焦燥
人の言葉によって掻き乱された心は、外の景色を立体的に鮮やかに見せた。
学校の入り口の葉、空の色、横を並ぶ建物が大きく高く、自分が小さく感じてしまう。
妙に心拍が高鳴って、頭は冷静に見えるようにゆっくりと歩く様を装っていた。
偉大な車や建物を前に心は忙しく動き、身体はゆっくりとそれを味わうように動くと、心と身体はちぐはぐ。
日の入りの太陽が空を眩しく光らせて、落ちていく。
その熱に、耳の奥に詰まっていた焦燥感が溶け出していく。
耳の後ろが熱くなり、心臓の震えが収まっていく。
太陽の出汁が滲み出て、空を均一な青に変えた。
その空を見上げている間だけは、全てを許せたような錯覚に陥るが、視線を下に落とせば、そこは相変わらず歪な自分の影が伸びているだけだった。
1/21 刻まれる歩み
入試前日。
心はいつも通りに単調で臨場感がなかった。
事前指導が終わり、昇降口を抜けていく。
上履きを入れたビニール袋の音、手を振ってすれ違っていく声が通り過ぎていく。
変わりない景色がどこか哀愁を帯びていた。
人波を過ぎていくと、コンクリートを蹴る乾いた足音と手の中のビニール袋が擦れる音だけが刻まれる。
淀みなく時計の秒針のように一定のリズムを刻んで、足は進んでいく。
得体の知れない焦燥感が湧いてきたりして、歩みのスピードが段々と不規則になっていく。
自分が緊張しているのか、それすらイマイチ分からない。
それでも、頑なに歩みを止めない。
自宅が見えてきて、私は歩みを止めた。
視界の横を、雲に隠された太陽の欠片が眩しく滲んだ。
1/22 凍る響き
帰り際、駅のホームを抜けて階段を降りていく。
視界がコンクリートになると同時に、空気は凍りつくほどに冷たく響いた。
車は澄み渡るようなタイヤ音を響かせて抜けていく。
心の雑念を払っていくように、静かに虚しく。
車通りが止むと、木々のさえずりが映えた。
風に小さく揺らされて、小さくしわがれた落葉を歩道に落としていく。
その道を抜けて、歩道橋に上った。
階段の1段飛ばしは駄目という、あってないようなルールから逸脱して、1段飛ばしで上へ上へと昇っていく。
歩道橋の上からの光景は信号機が届きそうなくらいに近く、立体的に見えた。
車の音からは遠のいたのに、この世界の臨場感が増した。
電柱から黒い羽を持った鳥が飛び立って、遠くへと羽ばたいていく。
行先は、遠い。
1/23 揺れる屈折
机に反射した山吹色のカーテンが川のせせらぎのように緩くたゆみなく流れていた。
どこからか流れてきた風が頬に当たる。
僅かに乱れて、はみ出した髪が揺れた。
「あと、20分で教室を閉めるから早く終わらせちゃいなね」
美術の先生の背骨はピンと伸びていた。
その声に急かされて、絵筆を手に取り、青の絵具をつける。
すっと線を描いて、空の部分を塗っていく。
キャンパスの上に不恰好な世界が創造されていく。
青が掠れ切って、私は絵筆を水に晒す。
その瞬間、微かにへばりついていた青の分子が水に溶け広がった。
お葬式の煙のように水中を漂い、奥深くへと堕ちていく。
時計の針が12の上に止まり、私は急いで絵具を洗う。
バケツに入った濁り水を手洗い場にひっくり返し、束の間の汚染された川が出来上がる。
廊下に置かれていた鞄を勢いで担いで、階段を駆け降りていく。
窓から夕焼けの光が差して、眼鏡に付着していた塵が曖昧な輪郭を纏う惑星のように写った。
1/27 寒さの下で
木漏れ日に照らされた落ち葉は神様からの恩寵かのように光り輝き、温もりを演出していた。
空は青白くグラデーションを描いて、天高く伸びていく。
鋪道を隔てる柵に陽の光が反射して、黄金色に眩しく光る。
自分の足音もいつもよりどこか遠く、寒さで握り込んだ指は厚い膜が張られたかのように感覚が淡い。
吸い込んだ息は空気を白く染め、悔しくて苦しくて、それでも涙をどうにか耐え込んだ時に吸い込む、冷たい空気の味がした。
1/31 黄昏の光
空は、雫のイラストを描く時に塗るような人工的な水色をして、その中央には真っ白い満月が浮かんでいた。
息を吐き出すと、冷たい空気が体内に溜まった血泥を溶かし出していく。
車に乗り込み、静かにドアを閉めた。
枯れ草が目立つ畑、視界の先に静まり返った学校、静穏な景色が過ぎていく。
車道の先に聳え立つ信号が黄色に変わり、ブレーキを掛けた。
束の間の黄色の信号と知らぬ間に過ぎていた時間を映し出す、空の隅に漂う夕焼けのオレンジが共鳴していて、それは視界を揺らすほどに美しかった。
信号が青に変わって走り出す。
陽光は打ち上げ花火のように強靭な放物線を描いて、私の眼に跳んでくる。
街灯は夜の帷の中、その真っ黒な夜の闇を吸い取ったかのように、激しく光っていた。
2/3 透徹の檻
空は恨みたくなるほどに透き通っていて、私の感情を反芻させてきやがる。
その透き通った空に鳥の群勢が飛ぶ。
空を大袈裟に駆け回り、電柱に止まった。
この空を、世界を侵略していく。
枯れ果てた猫じゃらしが風に揺らされている。
そんな他愛もない情景すら美しく見えて、葉の落ちた木々すら偉大に映る。
建物の影すら無常に物寂しく見える。
ネガティブな感情を追い出そうと、歌を口ずさんでも、浮かんでくるのは悲痛を叫ぶ歌ばかり。
無心を装って、目の奥に溜まる涙を硬めさせる。
歪曲した気の幹すら私を避けて、佇む。
風の呼吸音が車道に響いた。
風は無惨にも私の髪を捲り上げる。
涙を隠してはくれなかった。
2/7 黄金に輝く冬の田園
前向車の円筒から白い排気ガスが篭り、なびく。
「なんか雪降りそうだね」
そう言う母の声は冷たい空気にスッと溶けた。
空は白く落ち込みを纏う厚い雲が立ち込めている。
その下に青い山々が空中を覆う白い雲のせいでくっきりと映る。
サイドミラーに目を落とすと、鏡の上部に映る自分の首筋の下に風景が流れていく。
大きな看板、道に立ち並ぶ電柱、それよりも長く枝を伸ばした木。
穏やかな田園風景だった。
その田園は稲穂の刈り残しと枯れ草が埋めていた。
それは、今、まさに黄金色に輝いていた。
冬にしか出せない、静かで深い色がそこにあった。
2/8 白の侵食
朝、窓を開けると、世界が雪に覆い被されていた。
屋根の上、ボンネット、木の枝、塀の隙間までが雪景色。
その景色がこんなにも美しく映るのは何故だろうか。
白の神秘にそそられてしまうから、だろうか。
車の横部に付着していた雪粒が僅かな日光に溶かされ、流れ、地面に零れていった。
庭をふわりと覆っていた雪。
足を入れると、飛沫を踏み締めたように地面が弾けた。
くっきりと靴の跡が残り、その奥は透明に映る。
地面に積もっていた雪に触れると、塊は解けていく。
その手は傷口に水が付着した時のようなひりひりとした痛みを発する。
雪は線状に空中を彷徨って地面に落ちる。
その小さな粒が一夜で世界を違う色に変えてしまうのだと。
2/9 跡形もなくという贅沢
空に貼り付いていた白い雲は消え去り、空は青く漲っていた。
風は吹き荒れ、鳥は囁く。
大木は揺らされる。
雪は一夜で跡形もなく消える。
ということはなく、日光に押し除けられたかのように隅に小さく蹲っていた。
砂利を噛み込み、虫に食われた葉のように歪な形。
昨日まではあんなにも主役顔をしていたのに、惨めだ。
庭に小さく、昨日作った小さな雪だるまの土台だけが残っていた。
2/22 鳥瞰
山肌は、青空に溶け込みながらも、鋭利な境界面を描く。
その下で、川の雫は躍動感を体現しながら、弧を描いて踊る。
青の瑞々しさと世の平穏さを響かせる。
そのシンボルを守る三角形の塀は受けた日光を瞬く間に翻してしまう。
颯爽と、その上を鳥が羽ばたいて過ぎていく。
電波塔は鮮やかな朱色を形取る。
街の真ん中の高みを誇るように、肩幅を大きく立ち構える。
この私という鳥よりも低いのに、まるで自分が最強という顔をして立ちはだかる。
私は、その電波塔を見下して、颯爽とその上を駆けていく。
2/25 滴の石飛礫
周期的に響く雨音が冬を掻き消した。
足元の水溜りでは続け様に滴が飛び込み自殺を図っている。
その飛沫の環はズームされて、水溜りに馴染んで、消えていく。
横の枯れ草は水を含み、日だまり色と化していた。
寄り掛かったら暖かかったりしないかな、なんて思えるほどのボリュームとクッション性。
ライトを照らす乗用車は、タイヤの下で大量の滝を発生させながら、道路の上を漕いでいく。
足を踏み込むたびに、地面は弾けるような音を鳴らして、拒絶する。
ふくらはぎに滴の小石を投げられて、私は思わず振り返った。
スカートの裾は段々と湿り気を帯びていく。
2/28 空を駆ける
長閑な青空を真っ白い雲のタイヤ痕が縦断していた。
全開に開けた窓から清々しい風が入り込み、横髪を揺らす。
心地よい風に美しい景色。
電柱が巨大な鉄杭のように細く真っ直ぐな腕と電線を震わせながら、落ちてくる地面を必死に押さえ付けていた。
緑の葉の狭間から漠々と広がる枝が垣間見え、家の屋根瓦が中央から離れていくにつれて階段状に短くなっていく。
高密度のふわふわの雲の隙間から、上下逆にコマ切れに流れていく。
黒い翼を有する鳥が悠々と滑空していく。
その鴉を見つめていると、視線の矛先がぶつかった。
瑠璃色に光る眼球の中央の瞳に、真っ青な空が映り込んでいる。
磨りガラスの向こう側から覗かれているような、鴉の方は自分の後ろの背景を見ているだけ。
地面はゆっくりと過ぎていく。
3/5 デッドエンドの帰り道
僅か数ミリセンチの朱色の蕾が日だまりを浴びて、仄かに心を色付けた。
幸せを象徴するかのように、空は煌々と輝いている。
コンクリートに映った先の尖った瑞々しい葉の影に、私の涙は嵌められ、冷たく笑われる。
剥き出しになった小石の上を何も感じないように、無心に、歩く。
急に、空が晴れ渡った。
遮られていた建物が姿を消し、裸になる。
乾き切った土壌の粒の合間に痩せた草が顔を見せている。
手を繋いだ親子が車道を挟んで、反対側を歩いていった。
我が子と笑いながら、楽しそうにお日様を浴びている。
小説ならあっちはハッピーエンドで、私がデッドエンド。
最初から最後までずっと澄み切らないまま。
私は卑屈に帰路を進んでいく。
目の奥に涙の粒を貯めながら。
でも、私はただのハッピーエンドの小説より、暗澹としたデッドエンドが好きだ。
3/9 哀愁と工事誘導
屋外時計の影が昔ながらの木でできたヨーヨーのような形に見えた。
小学校で遊んだ薄い記憶。
「バイバイ」
横断歩道の向こう側で、黄色の通学帽をがぶった小学生が大声を上げていた。
声がどこまで響くのか競って、静かだった田園風景を染め上げていく。
足元では、闇へ連れ込む深緑色の葉の隙間から桃色の小さな花が顔を出していた。
胸を押し上げた哀愁を誤魔化すように、私は朽ちた猫じゃらしにハイタッチをしながら、進んでいく。
見知らぬおじさんなのになぜか親近感を抱く緑の光の向こうに、白煙を立てながら漆黒のタイヤをゆっくりと転がすロードローラーの姿が見えた。
反射ベルトを着たおじさんが遠慮がちに赤い誘導棒を回している。
反対側から来た車両は少しずつスピードを緩めて、コーンの外側を器用に回っていった。
3/11 取り残された孤独
小鳥は雲を啄み、草木は四肢を振り回していた。
「〇〇ちゃんは、高校行ったら何したい?」
いつも帰っている子が見つからないと言うその子は、いつも通り一人で帰っていた私を呼び止めた。
「アルバイトかな」
少し思案して、小さく声に出す。
「それな!」
太陽の光を受けて、唇の合間から見えた歯が白く煌めく。
けれど、数秒後には痺れる沈黙。
「ごめん。またね」
横を通りかかった同級生。
その背中を見つけて、その子は走り出してしまう。
唖然と過ぎ去る背中を見つめた後、踏み付けられた地を見た。
心臓の外側の肌を踏み付けられたような感覚。
「仕方ない」という言葉が心で淡く揺らめく。
その2人の背中は小さく小さく、消えていった。
3/12 何故か零れる涙
心は味のない空気が押し込まれたような感覚だった。
熱いものなんて一ミリもない筈なのに、鼻の奥がむず痒いのは、目頭が痛いのは、教師の顔を直視出来ないのは、何故だろう。
この、四方八方から涙が溢れる、ムードに影響されたのか。
私は泣いている前の席の子の涙と手の仕草を見て、客観に逃げる。
教師の声は、雑音のように遠く響く。
周囲の景色が睫毛に付着した涙で、僅かに尾を引いて靡いていた。
3/13 泣けない卒業式
自らの感情と現実の徒競走。
現実は猛スピードで走り抜け、感情は周回遅れで走っていた。
鼻を啜る音。
荒く白い息。
卒業証書を湿らす手汗。
感情が揺れ出している気配が会場に響き渡っている。
なのに、私はその横で達観して、来賓の話の間違い探しをしている。
四方八方、泣いていた。
充血した瞳から流れる赤い涙。
羨仰。
あっさりとこの場を去っていくであろう私には、その込み上げる感情が、ただただ、羨ましかった。
3/17 僅かに残った冬の香り
地面へ垂れ下がった桜の木。
一枚一枚の花弁は使い古された薄紙のように脆弱なのに、それを5枚かき集めて、またそれを数十個、数百個、数万個と幹にくっつけると、こんなにも美しく映るというのが不思議だ。
その桜の汁が空へ一滴、一滴と滴り落ち、青かった空が赤く染まっていく。
そんな春に染まり切った光景に、一つの雲。
青い地面に覆い被さる柔らかな雪を撫でて、手袋に張り付いた雪玉をギュッと握りしめて、拳の中に残った雪の跡。
それの形によく似ていた。
空に浮いたその雲だけが冬の名残を帯びていた。
3/18 忘去の予感
空は雲に抑え込められて、低く晴れ渡っていた。
雲の抑揚が青く映るせいで、空の青さは吸い取られていく。
室内には秒針が時を急かす音だけが響き、私は何のせいかも分からない焦燥感に追われる。
茶色くコーティングされた古い机。
所々に削られたような跡があり、空気が出入りしていた。
その表面に真新しい真っ白のカーテンの弛みが映り込む。
それらは同化して、この部屋の空気に染まっていく。
そして、1週間もすれば、この違和感もなくなるのだろう。
前についていたカーテンの記憶は忘れられ、いつかはこの新しいカーテンが古いとなって忘れられる。
3/24 涙を乾かす夜道の静謐
煌々と淡々と光る電灯の光が、黒く闇がかった道路へ白く細い架け橋を繋ぐ。
車輪の影はガードレールを飛び越えて、大きな顔で横たわっていた。
対向車線は誰もいなくて、何の意味もなくただ目の前の信号が青に変わるのを待つ、この瞬間が私は好き。
音がなくて、闇の密度が濃くなる気がして。
視線を泳がせて、私は周囲の光の先を追った。
川の上に電灯の光が跳ね返って、陽炎が縫い込まれて、それが異様に美しく映る。
そして、信号が青へ変わった途端、目の奥に滲む涙を乾かす為に、奥の闇へと自転車を走らせる。
このまま進んだら、闇に溶けないかな。
そんな幻想を浮かべながら、また走り慣れた道へハンドルを切る。
ライトの光は家壁を瞬き、影が乗っかったその中に静かに溶けていった。
3/30 世界、ずっと歪に回る。
心臓に緩く張られていた弦が引っ張られたような自責と焦燥。
人差し指の1ヶ月ほど前から切っていない爪で、親指の第一関節を鋭く掻く。
ズキズキと痛みが疼くが、その痛みすらも心地いい。
空は相変わらず、薄いライトブルーに染まっていた。
それを背景に、桜の花が逃げ場を失った塊のように枝先に固まっている。
世界にクラゲが降った所で、驚きの声を上げるだけで、数日経ったら、何にもなかったように忘れ去られる。
それは実にリアルなのだろう。
何が起ころうと、風は草木を揺らすし、自動車は道路を走るし、誰かが死んで、誰かが生まれる。
いや、誰かが生まれて、誰かが死ぬのか。
始まりは希望で、終わりは絶望。
終わることで生まれる希望もある筈なのに、そんな固定観念は当たり前に貼り付いている。
世界は実に不動で、残酷。
つくづく歪だ。
晴れ、時々くらげを呼ぶ/鯨井あめ、読了!
4/4 不慣れな春
履き慣れないローファーで、踵が痛んだ。
小さな小石によろけそうになる。
幹だけの姿に慣れ切っていた木に青葉が付き始めていた。
鶯が定番の鳴き声を響かせて、春を引き寄せる。
桜の花弁が風に惑い、地面に静かに落ちていく。
空は、雲が押し込められたように真っ白で、切れ端すら見えない。
それでも、僅かな段差はあって、雲の後ろに淡い青や紫、橙が隠れていて。
その雲に向かって、何色にも染まれない漆黒の鴉は飛んでいく。
4/9 入学式の暗澹
大人は、簡単に「不安」という言葉で心の暗澹をパッケージする。
先生も、親も、かかりつけの歯科医師も、入学式の来賓も。
不安とは、対象がはっきりしない漠然とした恐れや気掛かりのこと。
意味的には間違っていない。
だけど、私はその言葉になんとなく嫌悪感が走ってしまう。
平凡な、ありふれたものとして扱われるたび、私の本当の輪郭が削られているようで、苦しくなる。
着慣れない制服は重く、蒸し暑かった。
生地の硬いワイシャツが齎す閉塞感が、肌にべったりとへばり付く。
波のように、人の声がひしめき合う体育館。
金や銀のキラキラした折り紙のセットの中に紛れ込んだ赤色の鋭い刃。
目がチカチカして、こめかみが鼓動を打つ。
雲に覆われた曇天に、ふと、その刃捌きの隙間が見えた。
僅かに焦燥が和らいで、完璧じゃない空模様に救われる。
4/10 鳩尾に澱む熱
空は白く透き通っていた。
規則正しく跳ねる前の人のローファーを、なぞるようにして、ゆったりと通学路を歩く。
視界の隅で、二人の影が重なった。
見合って、笑って、当たり前のように連絡先を交換し合っている。
中学で一人ぼっちは慣れていたし、元々、人付き合いは苦手だし、辛くなる位なら、逃げればいい。
そう割り切っているはずなのに。
鳩尾付近に焦燥か疲労か、正体すらわからない熱がどろりと煮えてくる。
そんな私の心など知る由もなく、銀色の車体が無遠慮な風を撒き散らしながら、車道を通り過ぎていった。
4/11 第二の桜
空は所々に雲が浮かび、からりと晴れ渡っていた。
軽やかに風が吹きつけて、少し涼しげ。
鼠色のコンクリートには、水を多く含んだ筆で描いたような、淡い木の影が落ちていた。
そこにポタリと桜色が零れて、すっかり青葉に変わった木の下に、第二の桜が築かれる。
淡く、暖かい、その名残。
過去の哀愁に誘われるように、私は中学の通学路を無駄に寄り道した。
懐かしい草花の紺色。
人の少ない道に籠る木漏れ日。
「やっぱりこっちの道の方が好きだ」
独り言のように、そう思った。
4/15 脆さの共鳴
黒い檻の向こう側、タンポポの綿毛が丸々と佇んでいた。
風に解かれた一房が、ゆったりと空中を彷徨い、地面へ降り立つ。
手を伸ばせば届く距離なのに、冷たい鉄格子のせいで触れることは叶わない。
空には、三日月を模したような雲の切れ間があった。
その隙間から夕暮れの片鱗が零れ落ち、忘れていた疲労感がどっと滲み出す。
歩くたびに足裏に突き刺さるような痛みが足に走り、重いリュックを背負う首と肩は、感覚を失うほどに強張っている。
不意に、黒い自家用車のウインカーが中央の光の塊から鋭い閃光を棚引かせた。
道路の端まで、光子を四方八方に引き延ばして、私の視界を横切っていく。
それが、どこか悲痛に映った。
まるで、細く小さな手で救いを求めているのような。
そんな筈ない。
でも、そうだったらいいのに、と思う。
通学路に咲く優美な薔薇だって、幾重もの花弁を外側へ懸命に広げて、助けを乞うているのだとしたら。
そんなのは、ただの空想。
けれど、もし、現実だったなら。
私が「美しい」と見上げる対象ですら、私と同じくらい脆く、救いを待っているのだと思えるのに。
いつか、悔いのない日々を過ごせたら。
未熟で、ませた私のまま、それを切に願う。