
短編小説 「非常停止ボタンの向こう側」
「一体、何人に迷惑をかけたと思っているんだ」
静まり返った教室に、担任の怒声だけが落ちていた。
担任教師は、眉間に深い皺を刻んだまま、下の階まで響き渡るほどの大声を放つ。
そして、隣の学年主任は眉一つ動かさずに、ただただ冷徹に事実を述べていった。
窓の外では雀の声が優しく響き、数分前まで見えていたはずの生徒の背中は、もうどこにもない。
「すみません。反省してます」
何度も、この言葉を小さく呟いて、私は机の木目を睨みつける。
指紋のように段々と膨れ上がっていくこの模様とこんなにも長い時間、睨めっこをすることになろうとは、夢にも思わなかった。
こうなったのは、全部、無駄に偶像を掴もうとしたせいだ。
「コトン」
硬いローファーが地面についた音が、朝の静寂に響いていく。
日光を反射して、白く鋭い光が佇む線路。
ゆらりとホーム内に立ち並ぶ人の背中を見渡して、頭がズキンと痛んだ。
その拍子に、映像が流れてくる。
色覚は白い膜に覆われたかのように曖昧で、音や光だけが異様に鋭い世界。
その世界の中、スーツの男が線路の中へ落ちていった。
まただ。
あと、10秒であの人は死ぬ。
そう、私はいつからか、頭痛が来ると、脳裏に10秒後の未来を見ることができていた。
しかも、見るのは大抵、悪い未来。
今のように自殺とか、事故とか、殺人とか。
本当は多分、人を助ける為に託された能力なのだろう。
でも、私はただの高校生で、無償の愛を授ける神じゃないし、人の代わりに死にたくもないし、事後処理だって面倒臭い。
無駄に罪悪感が降り積もるだけだから、この能力のことだって嫌いだし、本当は勘弁してほしい。
「ハア」
小さく息を零して、その男性の表情を覗く。
目の下には隈があって、頬は酷く痩せこけていた。
人道的にはよくない考えだが、助けたところで、どうせまた死ぬ。
意味ないよな。
そう思って、再びため息を吐いた途端、彼の鞄についていたキーホルダーが目に入った。
風に揺らされて、細い耳が力なく靡いて。
なぜかそれが酷く悲しそうで、苦しそうで。
愛おしさに似た変な痛みで胸が引き裂かれた。
ちょっとだけ、少しだけ、顛末なんてどうとでもなると甘く見て、私は頭の上にあった赤いボタンを押した。
山吹色のボタンの中に赤が沈み込んで、指に嫌な痛みが走る。
「カンカンカンカン」
それと同時に、電車の警報音が繁殖範囲を広げるように、大きく鳴り響いた。
ホームのランプは、ぼんやりと夥しい赤を放ち、静謐に包まれていたはずの空間にざわめきを齎す。
空は、相も変わらず薄い雲を引き延ばしていた。
黒の制帽とジャケットを羽織った駅員は忙しなく、私の目の前を駆けていく。
その隙に、私は震えていた指をボタンから退けた。
その指先には、何処か生理の血に似た生臭い匂いが残っていた。
死ぬはずだった男性は、点字ブロックの前でただただ唖然とその現状を眺めていた。
「ああ」
そして、やっと気を取り戻したと思うと、小さな呟きを漏らす。
首をゆっくりと回して、現状を掴んで、忙しなく肩で呼吸を繰り返す。
心配になって顔を覗くと、視界の先が重なった。
その瞳は、人間味がなく赤く充血していて、ただの無機質な物体として観察されているような、一切の感情も通っていない視線だった。
小さな雀が頂に止まった電柱。
ひび割れた点字ブロック。
がくんと電車は揺れて、目の前に停止する。
異常なしと判断した電車は、本来止まる筈だった場所へ移る為に、ゆっくりとタイヤを回し始める。
また、飛び込めば、成功するのかもしれない。
だが、頭痛が訪れることはなく、耳を切り裂くようなブレーキ音が鳴り響くこともなかった。
「本当に反省しているのか」
担任の声で、私は現実に引き戻される。
「はい。すみません」
机に伏せていた顔を再び上げて、また同じ言葉を述べる。
でも、脳内に浮かぶのは、反省の意志でも何でもなく、暗澹たる思いだった。
「もう、やりません」
それはもう人を見殺しにすると、同義。
いつも、定型文のように「命は大切に」とか言うくせに。
存在しない底なし沼に、吐き出したい言葉はどんどん沈んでいく。
紡ぐたびに、一滴一滴、何かが心臓から落ちていく音がする。
じゃあ、どうしたらいいんですか。
本当はそう問いたい。
迷惑をかけても駄目だし、人を見殺しにしてもいけない。
そんなの正解の選択肢がないじゃないですか。
どうしたって、罪悪感に付き纏われて、苦しい。
私はどうするべきなんですか。
その、正論だけで子供を納得させられると思っている脳に、その言葉を撃ち込みたい。
だけど、そうしたところで信じてもらえる可能性は限りなく低いし、納得のいく答えを目の前の人間が出してくれるとも思えない。
ああ、ほんと、もうどうしたらいいのさ。
額に深く刻まれた皺。
黄ばみが付いたワイシャツの袖。
嫌気がさす物体を客観的に見て、感情を殺す。
生かしたら、泣くから。
反省して泣いてるだなんて、絶対に思われたくないから。
「ハア。埒が明かないし、もう終わりにするか」
担任の溜息と共に、答えのない無駄な説教は終わりを告げた。
誰もいない下駄箱に、私はわざと自分の足音を響かせて歩く。
死にたいという明確な感情が自分の身の中にある訳でもないのに、なんとなく今、生きているという実感が欲しかった。
身体に纏わりつく無音の肌。
純粋に見たら変な色をしている。
肌の色は黄色に近いというけれど、どちらかと言うと茶色、焦げ茶に近いような、綺麗な色とは到底言えない色。
ローファーを掴んで、立ったままの状態で上から落とした。
「バタン」
静まり返った下駄箱にその音が、鋭く響き渡っていく。
それが、少し暗澹を切り裂いたような気がして、妙な快感が走る。
靴はそのまま跳ね返って、右側だけ反対向きに落ちた。
面倒臭いと分かりながら、行う行為。
足でそれを上向きに戻してから、足をコンクリートにぶつけるように私は歩き出した。
家々が映り込んだ水田。
水面が揺らされて、ゆらりと波紋が繋がっていく。
当たり前の見慣れた風景の筈なのに、それが途方もなく、美しく思えて辛くなる。
自分だけが苦しいとか、他人は何も考えずに生きられて羨ましいとか。
無責任なことばかり呟いて、でも泣く自分を認めたくなくって、虚ろにコンクリートを見つめる。
ぼんやりと光の束の塊のようにしか見えない視界。
もう、半分くらい泣いてるって分かりながら。
誤魔化せないって分かりながら。
私は下を向いて歩いてく。
一面、灰色の地面。
本当はある筈のコンクリートの境界線も、目に付着した汗のせいで見えていない。
泣いては駄目だという冷静な感情と、胸の奥に絡まった物苦しさ。
親にこの泣き顔を、見られたくなかった。
「何かあったの?」って。
答えられないから、聞かれたくなかった。
その時、反対側の道に赤い滑り台のようなものが見えた。
汗。
や、涙のせいで分からないけれど、多分、公園。
中に誰か一人、人影が見えたけど、そんなのは構わなかった。
それを気にできる余裕なんか、私にはなかった。
俯き顔のまま、その相手に見られないように私は入口の一番近くにあったブランコに座る。
脳は靄がかかったように重たく、冷めていたはずの感情が自分を支配するように覆いかぶさってくる。
ブランコの下にある黒いぶつぶつ。
幼稚園でその、小さい丸を一個ずつ取って遊んでたっけ。
途端に、幼い頃のことを思い出して涙が溢れ出してくる。
地上の砂に、一滴一滴。
雨粒のように、印が刻まれていく。
能力のせいの涙と分かりながら、幼い頃を思い出した懐かしさのせいと言い訳をする。
鼻から垂れだす鼻水。 啜って、啜って、ポケットから取り出したティッシュで拭う。
頬に振り付ける風は静かで冷たい。
でも、それすらも優しくて。
リュックから取り出した水筒から一口、喉を潤したところで、奥にいた人が立ち上がった。
「だいじょ……」
言い掛けたところで、その人は口を噤む。
瞳は、私の顔を確認したところでサッと引いていく。
そして、何事もなかったように、隣のベンチに腰を掛け直した。
そりゃ、話しかけづらいよな。
だって、その人は痩せこけていて、目の下に濃い隈があるあの男性だったのだから。
そう、死ぬはずだったあの男性。
まだ、生きてたんだ。
どうせ、死ぬなんて不謹慎なことを思っておきながら、それだけで胸の奥がじんわりと熱くなる。
こっぱずかしいような顔で大の大人が顔を赤らめている。
その顔になんだか、笑いが零れた。
本当はそれすらも、失礼なんだけど。
深呼吸をして、赤くなった瞳を抱えて、私はブランコから立ち上がった。
吸った息は、冷たく静謐だった。
心の中で「またね」って呟いた。
爽やかな色をした紫陽花の花に、透き通る空の色。
世の中は、最高に美しく綺麗だ。
今度、未来を見たらどうするんだろ。
こそばゆいような変な浮き方をしている胸の内に問いかけてみる。
分かんない。
でも、分からないけど、その場の気分でいいと思う。
怒られたっていい、とまでは言えないけど、怒られたって、多分いい。
神の言うとおりに生きるぜ、ともなれないし、また罪悪感に悩まされるだろうけど、それでも。
このまま生きていくし、このまま生きていけばいいのだろう。
私のこの厄介な能力も、いつか御守りだと思える日が来るのだろうか。
誰かの秒数を測れる能力だって、私の未来が見える能力だって、誰かの関係性の賞味期限が見える能力だって、貴方の個性だって、きっと自分が幸せになるための御守り。
それがあなたを幸せにしてくれますように。
自分の能力が嫌いな貴方へ。
物語の中だけでも、私はそう信じたい。
きっと、大丈夫だよって。
無根拠だけど、きっと。
私はそれを切に願う。