
迷子石はささやく 1/3
窓辺の訪問者
氷河によって運ばれ、置き去りにされた岩石を、迷子石というらしい。
赤茶けた広大な景色の中にぽつんと取り残された丸っこい石。
そいつに妙な親しみを感じながら、テレビのスイッチを切った夜の事だった。
シャワーを浴びて、濡れた髪をタオルでぬぐいながら、ベッドルームに戻った時、男はかすかな空気の流れを肌に感じた。
ふと目を上げると、窓辺のレースのカーテンが闇をふくんで揺れている。
窓は閉めたはずだが……?
テーブルにおかれた灰皿には、一本のすいさしが乗っている。
そうだ、たしか一服しながら月をながめ
それから窓を閉めてバスルームに行った。
それとも、閉めなかったのだろうか?
不審に思いながらカーテンに手をのばした時、その影に見慣れないものを発見して、男は息をのんだ。


それは、片手にのるほどの石だった。
青味を帯びたなめらかさの奧で
小さな星のようにきらめく光の点が明滅している。
「ねえ、君は寂しくないの?」
どこからともなく、そんなささやきが心に響いた。
その瞬間、あたりの空気がゆらめく感覚に男は軽いめまいを覚える。
翌朝、目が覚めた時は、もう十時を回っていた。
「しまった」昨夜は目覚まし時計をかけ忘れたらしい。
フローリング張りの広いリビングを横切って仕事部屋に入ると、整然と置かれた二台のパソコンと五台のモニターが出迎える。
急いで電源を入れモニターを立ち上げたが、幸い今朝の東京市場は静かなものだった。
安堵のため息をもらしながらキッチンに立ち、パスタをゆでる間に手早く野菜サラダにかかる。
一人暮らしが長いため、料理は手慣れたものである。
そろそろ野菜がなくなりそうだ、久しぶりに買い物に出るとするか……そんな事を考えながらフォークを動かしていると
「まったく、一週間も十日も閉じこもって人に会いたくないなんて、普通じゃないだろ」軽蔑するような表情の兄の顔が浮かんだ。
「人の弱みにつけ込んで、金をむしりとる仕事の方が理解できないね」と言い返したいところだが、男にはそれもできない。
自信たっぷりの野心家で、他人は皆、自分の思い通りになると思い込んでいる兄と、人付き合いが苦手で、ほとんどコンピュータ世界の住人である男の間には、会話が成り立たない。
一回りも年の離れた兄はやり手の弁護士で、父が若くしてなくなった後、
その事務所を引き継ぎ、男の学資から生活いっさいの面倒を見てくれた。
自分の片腕にするつもりでいたから、男が法学部から情報工学への編入を望んだ時以来、二人の仲は疎遠になってしまったのだ。
結局、兄の方が折れたが「卒業したら、いっさい援助はしないからな」とクギをさすのを忘れなかった。
だが、皮肉な事に在学中に始めた株式投資が性に合っていたのか
男の収入は二十代半ばにして兄をはるかに上回り、そういった成り行きが、いっそう二人の仲を複雑なものにした。
高層マンションの最上階、この居心地のよい部屋で、男の一日の仕事は始まりそして終わる。
絶え間なく神経をすり減らす作業だが、かといってそんな毎日の繰り返しに特に苦痛を感じているわけでもない。
だが、その日はあまり気分が乗らなかった。
疲れを感じてベッドに腰をおろすと、奇妙な浮遊感に襲われる。
クーラーをつける程でもないが、窓から入る風はもう夏のにおいだ。
そういえばこの石はいつからここにあるのだろう?
男は窓辺に手を伸ばしたが、どうにも記憶があいまいだ。
ただ、指にふれるすべすべした感触が、このところ胸の内に押し込めていた姪の彩花を思い出させる。
「彩花……」
兄の一人娘で当時小学五年生の彩花が失踪してから、もう一年になる。
いや、失踪と言っていいかどうか。
続く
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