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サミツチ別伝 その4

 暫く下って行くと尾根から随分と低い位置になだらかな傾斜がありその上に一塊の集落が見えた。
「きっと、あれがそうだ」
サミツチは足を早めて下りていく。集落の左手遥か下には山女魚の漁をしていたツジノサワの流れをも集めた(オオカワ)が流れている。更に漸く下って、その集落の入口に高く聳える二本の柱、杉の木の皮を剥いだ丸太を地中に深く打ち込み、その先に鳥の木彫りの置物を取り付けた杉の丸太柱に辿りついた。邪気を払う(聖域の境としての丸太柱)をサミツチは横切り、部落内を歩き始める。そこに十棟程の住まい(竪穴住居)が点在していた。
「干し魚と籠はいらないか」
いっぱしの背振りとなっていたサミツチは自慢の籠を翳し、手始めにたまたま入口近くにいた初老の女にはっきりとした口調で問いかけた。老女は言った。
「今はいらないよ」
「ここは?ここの名前は?」
サミツチが更におんなに尋ねると
「ここって?あんた初めてかね、此処はリュウノトだよ」
「リュウノト?」
女の言葉にふたたび訝しさを覚えながらサミツチはゆっくりと歩いて行く。サミツチの姿をまじまじ見たその女は驚きを隠せないようで大声を上げて自分の家の中にばたばたと入って行った。
〈どうしたのだろう、あんなに慌てて〉
とサミツチは思いながら村の中を進んだ。 暫く歩みを進めた。何故か無意識的に右に折れ、ある住まいの前まで辿り着いた。サミツチが大声で言った。
「干し魚と籠はいらないか」
すると赤ん坊を抱いた一人の若いおんながその家から出てきた。両手で子供を抱きかかえながら、左手には猪の干し肉を吊すように持っている。おんなは干した魚と籠をたわわに背負ったサミツチに向かってくる。
「大きめの籠を一つおくれ」
若いおんなは言った。鹿の皮を鞣した上着の下には細い藤の糸で編んだ衣が見えている。髪は太く、黒く、後ろで束ね、二重瞼のはっきりとした瞳、微かに微笑む、やや厚い唇、小柄ではあったがふくよかな肢体・・・サミツチは混乱した。どこかで見かけた事がある。あの姿もあの衣服も・・・
「サクヤメ!サクヤメ!」
サミツチは無意識的に叫んだ。若いおんなは驚いて干し肉をもったまま後ずさりをし
「おっかちゃ!おっかちゃ!」
と若いおんなは急いで家の中にいる母親を大声で呼んだ。
「どうしたんだい?」
そういいながら、家の中から白髪交じりのおんながゆっくりと出てきた。
「このひと、おらにむかって(おっかちゃ)の名前を呼んだに」
「そうかい」
老婆は訝しげにサミツチの顔を見た。すると見る見るうちに表情が変わっていった。
―驚いていた。白髪混じり、年老いているとはいえ、自分の夫であることが解からぬわけがなかった―
「あんた?ああ、ああ」
それからしばらく言葉をひそめた。立ちすくんだまま、嗚咽が続いた。再びサミツチを見つめ、次いで激しく駆け寄ったおんなはサミツチに抱きすがった。たじろぐサミツチを顧みもせず、泣きながら叫んだ。
「サノカ!おまえのおとっちゃだ」
「えっ?おとっちゃは死んだづら?」
サミツチは思い出していた。確実に思い出していた。
「サクヤメ!サノカ!」
サミツチは涙を流しながら二人の名を呼んだ。あれから十五年も経っていた。娘のサノカも二十歳を過ぎようとしていた。母娘二人それぞれ混乱と喜びの中にいた。さっき会ったあの初老の女もサミツチを覚えていて村じゅう走ってふれまわっていた。続々とリュウノトの、周りの家から村人が集まってくる。皆それぞれ大声歓声を上げている。二人の取りすがる力強さと温かさとその懐かしい声に促され、サミツチは確実に昔を思い出し始めていた。
〈そうだここは私の故郷リュウノトだ。私がサクヤメと思っていたのは娘のサノカだ。この家にも覚えがある。杉皮葺の屋根に自分の乗せた岩と随分朽ちてしまった屋根押さえの止め木がある。この胸の中にいるのはまぎれもなく愛おしいサクヤメとサノカだ〉
「サクヤメ!サノカ!」
「あんた!おとっちゃ!」
わけがわからず驚いて泣く赤ん坊を含め四人はお互いにしっかり抱き合ったままだ。
「スムキはどこにいる?」
サミツチは息子の事を聞いた。
「スムキは今狩りに行っているよ」
「そう、おとっちゃと同じ猪狩りだよ」
サクヤメとサノカが嬉しさ極まって答える。
「そうか」
「あんたの遺した黒い石の鏃を使い、もう六十もの猪を取ったんだに」
「そうか、それは凄いな」
サミツチは感極まって涙した。マルカムとの出会いを思い出していたのだ。
「おとっちゃ、家に入ろうよ」
「そうだな」
萱の束を幾つも広げ、それを横にし、竹で何か所かを押さえ周りを囲った入口の戸は開いていて、入ると土間があり、囲炉裏には熾火が見える。土間の奥、径三寸長さ六尺ほどの材木が三畳程敷き詰められ、その上に繋ぎ合わされ、拡げられた、厚い毛皮の床が見える。
「懐かしい。変わらないな。時が止まったようだ」
「あんたの家だもの」
「そうだな。ほっとする」
「そうだ、サノカ、おまえいくつになったんだ?」
「わしは、はたち、あにいは、はたちと七つ」
サノカは身体を乗り出すように話す。嬉しくて、嬉しくてたまらないのだ。
「それよりおなかが減っているら、あんたの好きな野蒜の塩漬けと(猪の茹で肉)があるから食べて」
サクヤメが深底の土器の中から暖かい猪の肉を取り出して、以前サミツチが大きなタブの木を切り、割って作った平らな台の上に、広く鞣しておいた竹の皮を敷き野蒜とともに置いた。
「本当に美味い、懐かしい味だ」
サミツチが微笑むと、サクヤメ、サノカの顔にも満面の笑みが零れる。さっきまでサノカに抱き着いていた赤ん坊も泣き止み、ニコニコとサミツチに纏わりついてくる
「この子は?」
「サノカの娘 アヤ」
サクヤメがサミツチに言う。
「えっおまえの子?誰と夫婦になったんだ」
「となりの部落カウチのマヤチ」
「ああ、あのいたずら坊やのマヤチか」
「ふふ」
サノカは子供をあやしながら笑っている。部落の人々もサミツチを見ようと家の中まで入ってきて声をかけたり、手を握ってくる。猟師仲間だったフミオとミチオはあまりの嬉しさに二人共サミツチを抱きしめたまましばらく(おいおい)と声をしゃくり上げ、涙を流し続けた。
夕方になってスムキとマヤチが二人で仕留めた雄の猪四つ足を縛り、棒に担いで猟から帰ってきた。大きな猪だ。二人ともサミツチよりも頭半分ぐらい背が高い。がっちりとした身体にサミツチと同じように髭を蓄えている。見慣れぬ男が家にいるのを不思議に思った二人が尋ねる。
「この人は?」
「スムキ、あんたのおとっちゃだよ」
「ええっ」
スムキもマヤチも驚いて声を上げた。あの黒い鏃の持ち主だった父が戻ってきたのだ。信じられないという思いと同時に憧れの男と出逢ったのだ。二人とも興奮していた。
 サミツチは語り始めた。サクヤメの見たという猪の近くに散乱していた骨は実はマルカムが、自分の事が分からなくなったサミツチの為、彼を捜す人の為に、また彼への記憶を封印する為、別の場所にあった(山に迷い横死していた)他人の骨を持って来て置いたらしい。またその時、槍についていた鏃もマルカムが父母の形見として持っていた物をつけておいたようだ。察するにマルカムは近くの部落・たとえばこのリュウノトであってもサミツチを決して近づかせない様にしていたのではないだろうか(何故なら記憶が戻るのか解らない者をむやみに知らない近くの集落に連れていく事、或いは戻しに行く事は本人自身が混乱してしまうばかりか、危険にも晒される事にもなる。一つの部落といってもいつも同じように続いている訳でもない。何らかの事情で争いがあってその部落に入った途端、敵と見做され二人とも殺されるかも知れないという、マルカムの経験から来る危惧もあっただろう)
「わしはマルカムという人に助けられた。ツジノサワで漁をしていた瀬振りの人だった。もう死んでいてもおかしくない状態だったようだが、介抱し看病してくれたおかげで命を取り留める事ができた。ただあの赤石の先の崖から猪の奴と一緒に墜ちた時、記憶の何もかもなくしてしまった。その時から、すがる人はマルカムしかいなかったんだ」
 マルカムは背振りであって、しかも妻を持たない完全なる放浪者だったから、普段は単独で行動するのが当たり前だった。マルカムの死後、サミツチもその行動に従うにつれ、本当に必要な時以外は他人と接触せず自然そのものと向かい合うだけの生活となっていた。当然家族での生活ということは村を訪れる度、見聞きし知っていた。彷徨い行く先々でその睦まじさを感じてはいた。サミツチの周りはマルカム以外全て人間の香りのしないものの世界・木々を揺らす風、身を切るような谷川の水の流れ、夏の焼けつく太陽、ズルズル滑る大地、つまり自分の肉体から先はすべて他者としての自然で充満していた。ただそれらの全てをサミツチは微塵も違和感として感じていなかった。生まれてからいつもこうだった。そんな思いを絶えず抱いていた。  
ただ時折、特に女人と出会うと、記憶の中にはもうどこにもいない母性に対して仄かに切なさを覚えるくらいであった。豊漁であったり、作った籠が行く先の部落人に喜ばれて二人の望む食料や衣類、漁に使う銛や網といった小物を手に入れた時の細やかな喜び以外二人の生活は決して楽なものではなかった。害獣―熊、猪、毒蛇―を初め、山賊、積雪、日照り、行き止まりの崖、洪水、不漁、異邦人としての冷たい村人の反応といった事柄が絶えず目前にあって、それに飢餓感が重なると確かに体は疲れ切ってしまうのだった。ただそうであればあるほど、なぜか生きようとする意志だけはいよいよ研ぎ澄まされていくのだった。その事を二人は愛し、互いに理解していた。
マルカムが瀬振りになったのは両親の死が大きく影響していたと思われる。ひとつの部落共同体で生活する事は、そこで起きる全体の災禍を、個人が甘受する、しなければならない。部落共同体という集団における善悪の規定の中、負い・災いを自らの集団の中から起るだけではなく、他者から受ける事を知ったマルカムは直感的に・或いは本能的?に部外者としての師匠を鏡として行動するようになったのであろう。そこには家族という集団の持つ決まりもその掟という束縛もない事、しかもマルカム自身、おのれがただ独りである事も重なり、共同体から〈自由〉であることを選んだのだろう。
その夜サミツチは夢を見ていた。
 マルカムとカイの部落から眺めていた遥か高いところに雪を頂いていた美しい台形をしたフジという峰、ムサシという茫洋としていつまで続くとも解らない広葉樹の林の群れの中の彷徨、舐めてみれば塩鹹い(海)という波立つ水の溢れんばかりのサガミの有様、山女魚豊漁時のマルカムの笑顔、そして己の死を覚悟した時の毅然とした顔と声・・・
「もういいんじゃ、お前はわしをここにおいて行くがいい」
「わしは、父母の所に行こうと思う。ただおまえのことを思うと不憫じゃ」
「さらばじゃ、元気でな」
これらの言葉を残して一人奥深いヒダの山の中にゆっくりと入っていったマルカムの後ろ姿、それが二十七歳の時に死んでしまった実父の姿に重なり、夢の中でおもわずサミツチは叫んでいた。
「マルカム!おとっちゃ!」
小さな囲炉裏の僅かな明るみの中サクヤメが声をかける。
「どうしたの」
「夢を見たんだ。おとっちゃの、マルカムの」
「そう、でもいいのよ、もうみんないるから。寂しくないわ」
「サクヤメ」
「あなた」
うす暗い寝床の中、仄かに映るそれぞれの表情には言いようのない喜びと哀しみが浮かんでいた。二人は寄り添い抱き合ったまま、再び眠りについた。 
                 完  


(後記)
 さてさて、サミツチは帰郷し、家族と一緒に暮らし始めることが出来るようになりました。危険と隣り合わせの生活でもありますが「皆で助け合って生きる」その覚悟は、危険でありまた貧しいがゆえに一層確固たるものになっていくのです。命をながらえているだけのように見える生活は不透明な実存に終始していると言っても良いのかも知れません。生を味わう事は大事であり他者との連携をなすうえで不可欠な要素だと思います。より深く他者を(究極的に自らを)味わえるからです。


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