
『休暇強制課』第9話 自由とは、選ばされたことに気づかない状態だ
休暇省の上層階。窓の外では、一定の速度で歩く人々が、流れるように街を満たしていた。歩幅はほぼ揃い、信号の切り替わりと人々の歩行速度が妙に一致している。広告パネルは歩行速度に合わせて内容が切り替わり、視線の高さに合わせて最適化されていた。まるで街全体が巨大な動線装置として設計されているようだった。
人々は自分の意思で歩いているつもりだが、その歩幅も速度も視線も、制度が設計した“最適値”に収束している。逸脱者だけが、その流れから外れる。しかし外れた瞬間、テレビが変わり、通知が変わり、街頭モニターが変わり、周囲の視線が変わる。制度は暴力を使わない。必要がない。人々は自分で選んでいると思い込むことで、制度に従う。
長官は机に置かれた資料を軽く叩きながら言った。
「今回の休暇制度だが、うまく機能しているか。」
休暇強制課の職員は淡々と答える。
「はい。ごく一部に“絶対に従わない”者が出ますが、その者たちは働くこともしませんので、休暇省の管轄外です。」
長官は小さくうなずいた。
「勤労者、労働者はどうだ。」
職員は資料の別ページをめくった。そこには個人の「資本状態」が数値化された一覧が並んでいた。心拍、歩行速度、消費額、視線の動き、睡眠時間。すべてが「資本調整指数」として記録されている。
「休暇強制課の指示に、おおむね従っております。休暇を満喫できなければ仕事が与えられない以上、レールから外れる者はほとんどいません。」
職員は淡々と続けた。
「資本状態が安定している者は、休暇推奨エリアで一定額の消費を行い、一定の歩行距離を達成し、一定の心拍数の変動を記録します。これらが満たされれば、休暇は“満喫”と判定されます。満喫できなければ、仕事が減らされます。仕事は特権ですから、誰もが休暇を満喫しようとします。」
長官は資料を閉じた。
「……従わない者や、疑問を持つ者がいたらどうする。」
職員は声を落とした。
「そのときは、休暇強制課直属の“レジスタンス課”が動きます。」
長官の眉がわずかに動く。
「今の時代、暴力はいかんぞ。」
職員は静かにうなずいた。
「はい。暴力は使いません。ただ“気づかせる”だけで十分です。行動予測AIが逸脱者の生活リズムを解析し、テレビ番組やスマホ通知を個別に最適化します。」
職員は淡々と続けた。
「逸脱者が路地裏に入れば、路地裏の危険性を強調する番組を流し、逸脱者がゴロゴロすれば、ゴロゴロを否定するバラエティを流し、推奨エリアを拒否すれば、推奨エリアを礼賛する番組を流します。本人は“自分で選んだ番組”だと思い込む。そこが重要なのです。」
さらに職員は続けた。
「行動予測AIは、逸脱者の心拍の乱れ、視線の揺れ、歩行速度の変化をリアルタイムで解析します。逸脱者が不安を感じれば安心を与える番組を流し、逸脱者が怒りを感じれば怒りを鎮める番組を流します。逸脱者が制度に疑問を持てば、制度を肯定する番組を流します。すべては“本人が選んだ”という形を保ったまま行われます。」
長官は静かに息を吐いた。
「人は、自分で選んでいると思うと、よく従う。」
職員はうなずいた。
「はい。制度は、うまく機能しております。」
長官は資料の最後のページを押さえた。
「この国の経済もこれでまわるというものだ。国の運営は安泰だな。」
職員は淡々と答えた。
「資本調整は、休暇と労働の循環で最適化されています。勤労者が休めば消費が生まれ、休暇を満喫できなければ労働が生まれる。どちらに転んでも、経済は止まりません。」
長官は満足げにうなずいた。
「よし。続けろ。」
休暇強制課の職員は静かに部屋を出て行った。
長官は窓の外に目線を移した。歩く人々の流れは、巨大な機械の部品のように均一だった。誰も走らない。誰も立ち止まらない。誰も、自由に見える行動をしているだけで、その自由が制度に最適化されていることに気づいていない。
長官は静かに口を開いた。
「人間は、自分の意思で歩いていると思っている。しかし実際には、歩行速度も歩幅も視線も、制度が設計した“最適値”に収束している。制度は人間の行動を直接操作しているわけではない。人間自身が“そのほうが楽だ”と感じるように設計している。だから誰も逆らわない。」
長官は続けた。
「自由とは、選ばされたことに気づかない状態のことを言うんだよ。人間は、自分で選んだと思い込むことで、制度に従う。制度は選択肢を提示するだけでいい。人間はその中から選ぶ。選ばされた選択肢を、自由だと思い込む。」
長官は窓の外の人々を見つめた。歩行速度は揃い、視線の高さは揃い、消費行動は揃い、休暇の過ごし方は揃っている。人々は自分の意思で行動しているつもりだが、その意思は制度が設計した“最適値”に沿っている。
長官は静かに言った。
「人間は、自分の意思で歩いていると思っている。しかし実際には、制度が歩かせている。制度が休ませている。制度が働かせている。制度が消費させている。制度が幸福を感じさせている。制度が不安を感じさせている。制度が怒りを感じさせている。制度が疑問を感じさせている。すべては制度が設計した“最適値”に沿っている。」
部屋には、空調の音だけが残った。