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    <title>Brewx</title>
    <description>平凡な日常を非凡に考えてみたり、くだらないことを掘り下げたり。慌ただしい世の中、その物語が過ぎ去ってしまう前に——。</description>
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    <lastBuildDate>Wed, 07 Oct 2026 14:40:06 +0900</lastBuildDate>
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      <title>小説『ベルガマスクの再会　クラウン#5』</title>
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      <description><![CDATA[<p name="F9B04D7C-6F27-4E5D-A2E3-2B6C3671CD25" id="F9B04D7C-6F27-4E5D-A2E3-2B6C3671CD25">処暑の候——。<br>『臨時収入があったから、ご飯行こうよ。ご馳走するし！』<br>久しぶり、に明日香からメッセージが来た。<br>『いいね！』<br>『由佳の都合は？』<br>『金曜が休みだから、木曜の夜希望！』<br>『じゃあ、それで。また連絡する』<br><br>明日香は高校の同級生だ。<br>明日香は進学したが、私は就職した。<br>高校時代ほどではないが、今でもたまに顔を合わせてくだらない話をする。<br>私は、彼女との気取らないストレートな会話が好きだった。<br>週末、ただでご飯が食べられるというのなら、少々きつい仕事でも気合いが入る。<br>介護職を続けていくには、体力とモチベーションとアルコールが不可欠だ。<br>だから明日香とのただ飯は、私にとって一石三鳥だった。<br><br>待ち合わせは『ビストロ　ベルガマスク』に十八時半。<br>木曜日の仕事終わり、職場を出てまずアパートに向かった。<br>しかし、たった十五分の道のりで、運悪く『煽り運転』に遭遇してしまった。<br>片側一車線の道路で、右に左に蛇行する車庫短の軽自動車がルームミラーに映る。<br>車間を詰め、今にも追突しそうな勢いでまだら金髪がクラクションを鳴らす。<br>こういった輩は何が目的なのであろう。<br>私はイライラしながらも冷静を装った。<br>それから五分ほど、車高短を従えて進み、国道を右折したところで、まだら金髪はいなくなった。<br>私は最後まで屈しなかった。<br>「ばっかみたい」<br>車の中で一人で声に出した。<br><br>ジーンズにベージュのTシャツに着替え、薄手の上着を手に持ち、タクシーで『ベルガマスク』に向かった。<br>約束の五分前に目的の店に着いた。<br>赤を基調にした洒落た店だった。<br>半分だけ降りたロールスクリーンの向こうに、店内の灯りが見える。<br><br>「ゆーか」<br>後ろから明日香の声だ。<br>「お、久しぶり……なんだ、殿方もご一緒か」<br>明日香の隣にいたのは細身で、緩いパーマの無精髭だった。<br>「こちら、立花さんです」<br>無精髭が口角と右手を上げた。<br>「まあ、店の前で自己紹介もなんですから、入って、入って」<br>ドアを開け、店内へ——。<br>赤いカウンターと、ボックス席がある。<br>壁には『星月夜』が飾られていた。<br>私たちは、賑やかなボックス席の横を通り抜け、奥の個室に案内された。<br>空色のソファに座り、私の向かい側に明日香。<br>その隣に、無精髭の立花が腰を下ろした。<br>「飲み物は？」<br>「はい！　ビール」<br>明日香が勢いよく手を挙げた。<br>「君も？」<br>「あ、はい」<br>「すみません！　ビール二つと炭酸水を」<br>「一番軽いコースを頼んであるから、あとは好きに頼んだらいい」<br>立花が言った。<br>「ねえ、明日香の彼氏なの？」<br>私は目の前の二人に聞いた。<br>「ぜんーぜん違う。俺は、この白石君の後輩で——君の従兄妹だ」<br>「え？　どういうこと？」<br>「君の父親と俺の親父は、兄弟なんだ」<br>「……『立花』っておじさんのところには子供はいないって言ってたけど……」<br>「それは、武史伯父さんだろ。俺の親父は武史伯父さんの弟だ」<br>「ずいぶん前に亡くなったっていう？」<br>「まさにそうだ」<br>「あー、そういえば聞いたことがあったかも……」<br>「俺もしばらく会ってなかったから、見てもわからなかったよ」<br>立花が言った。<br>「いつ……会いました？」<br>「親父の葬式だから、二十年前だな」<br>「私、二十歳なんですけど……」<br>「うん、面影はないな」<br>あたりまえだ。<br>「やっぱり、懐かしくもなんともないな」<br>立花は一人で笑っている。<br><br>「なんで従兄妹が、明日香と一緒にいるわけ？」<br>「話すと長くなるから、順番にいこう」<br>「まあいいけど……それでなんでまた、二人のデートに私を？」<br>「それがさ、立花さん、あの傘の持ち主だったのよ」<br>「あの傘って……『ちばようた』？」<br>「そう、正しくは『ちば　ようたなり』だ。あの傘を返してもらった代わりに、食事をご馳走しようというわけさ」<br><br>明日香の家に忘れていった傘……。<br><br>「まずは、再会を祝して乾杯と行こうか」<br>再会って……。<br><br>乾杯の後、前菜の小皿が三種類ずつ並んだ。<br><br>「ところで、由佳さん、あの傘を手に入れた状況を教えて欲しいんだが？」<br>「あれはね——」<br>あれは、足の小指を骨折したときだった。<br>記憶を頼りに、スマホの写真を探す。<br>「あった。二年前の七月七日。ほら」<br>ケーキの箱と傘の柄が写真に写っている。<br>「病院行こうと思ったら、傘がこれしかなくて、しょうがなく使ったのよ」<br>「いつから、あの傘は君の家に？」<br>「その日、初めて見た」<br>「誰が持ってきた？」<br>「母が家を出ていった後だから、父しかいない」<br>今は、アパートで一人暮らしだが、二年前は父と暮らしていた。<br><br>「誰かが持って来たとかは？」<br>「それはないと思う」<br>「なんで？」<br>「うん、その夜、コンビニに自分の傘を忘れてきちゃって……」<br><br>同じようなビニール傘だった。<br><br>「そのとき父は帰ってきてなくて、玄関には、父の黒い傘しかなかった」<br><br>うちに傘立てはない。<br>みんな、下駄箱に引っ掛けている。<br><br>「それで、次の日、『ちばようた』の傘だけがあった」<br><br>父は自分の黒い傘を持って仕事に行ったのだろう。<br><br>「だから、あの夜に父がどこからか持ってきたはず」<br><br>「このケーキの箱は、駅前のショッピングモールの？」<br><br>「あ、そうです。この後、明日香の家に行って、また傘を忘れたわけ。二日連続で」<br><br>シーザーサラダが到着した。<br>明日香がビールを頼んだので、私も便乗した。<br>明日香がやらないから、私がシーザーサラダを取り分けた。<br><br>「ところで、なんなのあの傘は？　『ちばようた』って誰なの？」<br><br>「『ちばようたなり』は、俺の名前を並べ替えて書いたんだよ」<br>立花が、足を組み変えて言った。<br><br>明日香が紙ナプキンに『たちばなりょう』と書いて、並べ替えている。<br><br>「……あー、なるほど。それで『なり』の意味がわかった。でも、普通に書けばいいのに」<br><br>「で、あの傘は、二十年前、親父が死んだ日に消えたんだよ」<br><br>「どうしてですか？」<br><br>「親父を殺した奴が、雨に困って持っていったんだろう」<br><br>「えー、殺したって……月島さんが言ってたことって本当だったんですね」<br><br>「表面上は自殺になってる。だけど、違うんだ」<br><br>「それは、どうして？」<br><br>「遺書がない。それに、親父に自殺する様子なんてなかった」<br><br>「じゃあどうして自殺に？」<br><br>「俺が気づかなかっただけで、親父はおふくろが死んだことが相当ショックだったということらしい」<br>「うちは金属加工業だったから死因の素となった『青酸カリ』の入手も出来たし、その上密室だった」<br><br>「密室って？　鍵がかかってたってこと？」<br><br>「そうだな。俺が鍵を開けて入ったんだ」<br><br>「窓が開いてたとか」<br><br>「警察が全部調べたよ。それに工場の二階が自宅だったから、窓からの出入りは簡単じゃないんだ」<br><br>「そうなんだ……」<br><br>「お母さんは、なんで亡くなったんですか？」<br><br>「病気だ。親父が死ぬ五ヶ月前に……癌で」<br><br>「でも八年後に、俺の誕生日プレゼントが用意してあったのを天袋から見つけたんだ」<br>「それで、やはり親父は自殺じゃないんじゃないかと考えるようになったんだ」<br><br>「天袋ってなに？」<br>明日香が聞いた。<br><br>「押し入れの上の、ちっちゃい押し入れ」<br>教えてあげた。<br><br>「ふーん、で、あの傘は？」<br><br>「そう！　あの傘は、親父が死ぬ前の日に、買ってきたんだ」<br>「で、無くさないように、名前を書けと言われ、俺が『ちば　ようたなり』と書いた」<br><br>立花は、雑談をするように父親の死と遠い日の思い出を語っている。<br>私は、感情を抑えるのが精一杯で、頭がうまく働かない。<br><br>「当時は事件だと思ってないから、傘のことなんて忘れてしまっていた」<br><br>「ところが、あの傘を見た瞬間に、親父は、殺されたと確信したんだ」<br><br>「なーるほど。じゃあ、由佳のお父さんが犯人ってことだね」<br><br>「おい、勝手に殺人犯にしないでよ。人の親を」<br>明日香のおかげで、涙の気配が引っ込んだ。<br>能天気な彼女を見ていると、この話をおとぎ話と勘違いしているようにさえ感じる。<br><br>「俺は感情ではなく、客観的な事実だけで、叔父さんを疑ったんだ」<br><br>「それで？」<br>明日香の目が輝いている。<br><br>「とんだ見当違いだった。叔父さんは、傘の重要性をまったく認識していなかった。俺が持っていたのを、不思議に思ったみたいだったが、慌てる様子はまったくなかった」<br><br>「それに、親父が死んだ日は、愛知にいたということだから、叔父さんには不可能っぽい」<br><br>「『アリバイ』ってやつだ」<br><br>「そう、だから、あの傘がどっからきたのか知りたいんだ」<br><br>「父に聞かなかったんですか？」<br><br>「聞いたよ。でも、『いつのまにかあった』って」<br><br>「君の方から、なんとか探れないかな」<br><br>「ちょっと難しいですね……今は一緒に住んでないし、そもそも会話なんてほとんどしないし……」<br><br>「じゃあ、何か思い当たる事とか……」<br><br>あの頃なにがあったっけ……。<br>足の小指は、仕事でポットを落として骨折。<br>その日は、車を置いて父に迎えに来て貰った……会社のタクシーで。<br><br>「あ、ちょうどその頃、個人タクシーのキャンセル車両とかで、いい条件の新車があったらしいんですよ」<br><br>「でも、お金が足りなくて、いろいろ当たったけど、だめで、結局諦めて、安い中古にしたんですけど….…」<br><br>「いろいろって？」<br><br>「さあ？　職場とか、出ていった母とかじゃないですかね」<br><br>「叔母さんか……連絡つくの？」<br><br>「まあ、普通に」<br><br>オニオンとベーコンのスープがテーブルに乗った。<br><br>叔父さんが、若いときに亡くなったのは、なんとなく知ってはいたが、自殺とか殺されたとかというのは初耳だった。<br>立花と明日香は軽く喋っているが、私はなかなか言葉を発することが出来ない。<br>傘が証拠と言われても、今聞いたばかりの私には理解が追いつかない。<br>ただ……父がとぼけて『いつのまにかあった』と言ったとするなら、何か心当たりがあるということなのでは……。<br><br><br>「由佳、最近、面白いことないの？」<br><br>「ないよ。仕事は忙しいし、煽り運転には遭うし」<br><br>「煽り運転？」<br><br>「そう、蛇行して、車間詰めて、クラクション鳴らしてさー馬鹿みたい」<br><br>「そんなの、さっさと先行かせたらいい」<br><br>「絶対、嫌だ」<br><br>立花が肩をすくめ、ため息をついた。<br><br>「もしかしたら、その煽り運転は、最愛の人が危篤だったからかもしれないぞ」<br><br>「でも、車高短の軽だけど……」<br><br>「車高短の軽にも、最愛の人はいるんだよ」<br>立花の真剣な顔を見て、吹き出しそうになった。<br><br>「まだら金髪ですよ」<br>言いながら、頬が緩んでしまった。<br><br>「まだらの金髪でもさ」<br>立花も白い歯を見せ、ニンマリしている。<br><br>テーブルには、『オマール海老のトマトクリームパスタ』が運ばれた。<br>殻付きの大きな海老が乗っていた。<br><br>「『密室』ってよくいうけど、合鍵なんかいくらでも作れるでしょ？」<br>明日香が苦労しながら、海老の殻を剥いている。<br><br>「警察がちゃんと調べるんじゃないの？」<br><br>「えー、こっそり作って、黙ってればわからないじゃん」<br>明日香の指がオレンジ色に染まっている。<br><br>「いいね！　しかし、その発想はミステリー泣かせだな」<br>立花は、ボウルに残ったシーザーサラダを片付けている。<br><br>「それに、『密室殺人』なんて立花さんがよく言う『インチキ』ですよ。密室で殺人は起こり得ませんから」<br><br>「ただし、犯人が室内にいる場合を除くけどな」<br><br>「え？　可能性はあるんですか？」<br><br>「中にいたのは、俺だけだ。朝起きたら親父が死んでいたんだ」<br><br>「じゃあ、立花さんも容疑者の一人だ」<br><br>「形式上そうなるな」<br><br>「あと、自殺の動機なんて、いくらでも作れるじゃないですか」<br><br>立花は、持ち上げたグラスを途中で止め、明日香の方を向いた。<br><br>「……」<br><br>立花が口を開くより先に、明日香が続けた。<br>「それに、『青酸カリ』もきっとその気になれば手に入れられるだろうし」<br><br>「いや、それは、ちょっと難しいな……」<br><br>立花が、グラスを置いた右手でおでこを押さえている。<br>そして、組んだ足が、微かに揺れていた。<br><br><br>「立花さんって、お酒飲まない人なんですか？」<br>立花が炭酸水を口に含んだ。<br><br>「俺さ、酒飲むと暴れるんだよ」<br>貧乏ゆすりが止まり、たちまちにやけ顔に変わった。<br><br>「『昔は飲んでた』って月島さんは言ってましたけど」<br><br>「まあな。あの傘を見つけてからやめたんだ」<br>立花が素手で、レタスを摘んで口に入れた。<br><br>「どうしてですか？」<br><br>「いざというときに、見失わないようにさ」<br>立花が、おしぼりで指を拭く。<br><br>「じゃあ、もういいじゃないですか」<br>明日香が、飲み干したグラスを置いた。<br><br>「いや、だから、飲むと暴れるんだってば」<br>口角を上げてほくそ笑んでいる。<br><br>私は、真顔のままで明日香にメッセージを送った。<br><br>『立花さんって変人？』<br><br>すぐに返って来た。<br><br>『まさに、そう！　八月生まれのAB型で、缶コーヒー好き。そして、座右の銘は一石二鳥』<br><br>「もしかして、立花さんってAB型ですか？」<br><br>「え、なんで知ってる？」<br>立花が、自分のオマール海老を明日香の皿に乗せた。<br><br>「そして八月生まれでしょ？」<br><br>「そう！」<br><br>目が合った。<br><br>「で、缶コーヒーが好き」<br><br>「なんだ？　お前は探偵か？」<br><br>立花が、嬉しそうにしている。<br><br>「いえ、介護職です。好きな言葉は『一石二鳥』ですよね？」<br><br>「あー、それは白石に適当に言ったやつ！」<br><br>慌てた明日香が、グラスを倒した。<br><br>「詰めが甘いんだよなあ、君は」<br><br>立花がおしぼりでテーブルを拭きながら、明日香に言った。<br><br>きっと父は、何かに気がついているんだろう。<br><br>そして立花も。<br><br>私は、巻き込まれるのだろうか。<br>それとも、すでに巻き込まれているのだろうか。<br><br>天井からピアノの音が優雅に流れていた。<br><br>とらえ所のない立花は、きっと笑顔の仮面を被って生きてきたんだろう。<br><br>肌寒くなってきたので、持ってきた上着を羽織った。<br>私の三杯目は、『スプモーニ』。<br><br>グレープフルーツとカンパリの苦味が口の中に広がる。<br><br>オレンジ色のグラスを目の高さに掲げて立花の顔を隠す。<br><br>グラスの向こうに見える照明の淡い黄色が、まるで月の光のようだった。</p><p name="35E075E6-B994-4A02-9AE0-6319D3CE4DD7" id="35E075E6-B994-4A02-9AE0-6319D3CE4DD7"><br></p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n11537f3b20e8'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Wed, 27 May 2026 20:00:50 +0900</pubDate>
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      <title>小説『アナグラムの傘　クラウン#4』</title>
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      <description><![CDATA[<p name="1DC15C03-DFCB-4A19-9F3E-58588023A032" id="1DC15C03-DFCB-4A19-9F3E-58588023A032">小説『アナグラムの傘　クラウン#4』<br><br>俺は二年前まで、食品メーカーの企画室にいた。<br>ある日、営業担当と広報担当を伴って、イベント開催の打ち合わせをするためにショッピングモールへ行った。<br>七夕だというのに雨は本降りだったが、夜には上がる予報だった。<br>駅から目と鼻の先にあるモールまで、俺たちは傘を差して歩いた。<br>予定より早めに到着したので、テナントのカフェで時間を潰すことにした。<br>何気なく傘を置こうとしたとき、傘立てにあった一本の傘を見て衝撃が走った。<br>記憶の底に沈んでいたものが、そこにあったからだ。<br>一瞬で、その背景が繋がった。<br>ビニール傘の白い柄に、『ちば　ようたなり』——その歪な文字。<br>これは、こんなところにあるべきものではない。<br>いったい誰が……。<br><br>同僚たちは、風除室のすぐ隣にあるカフェへ入っていった。<br>俺も、震える足を動かして後に続くしかなかった。<br>注文したコーヒーには一口も手を付けず、一秒たりとも落ち着くことができない。<br>何度も窓越しに、外の傘立てを盗み見た。<br>約束の時間が近づき、店を出る。<br>まだある。あの傘は、そこにある。<br>打ち合わせは一時間半の予定だ。<br>もし終わるまで残っていたら、持ち主が現れるまでここで張り込んでやろう。<br><br>「おい立花、行くぞ」<br><br>「あ、はい……」<br>上司に促され、俺は後ろ髪を引かれる思いでその場を去った。<br><br>その後の会議の内容は、何一つ頭に入ってこなかった。<br>意味もなく何度も時計を確認し、焦燥感だけが募っていく。<br>脳裏には、あの日の記憶がリピートされていた。<br>あれは、親父が死んだ日に消えた傘に間違いなかった。<br>親父を殺した犯人が、持っているはずの物だ。<br><br>打ち合わせが終わった一時間半後、俺は脱兎のごとく傘立ての前へ戻った。<br>しかし、あの傘はすでに消えていた。<br>天を仰ぎたくなるほどの後悔が押し寄せた。<br>目を離すべきではなかった。<br>二十年ぶりに訪れた千載一遇の好機を、みすみす逃してしまった。<br>それ以来、仕事が休みで雨が降る日は、必ずショッピングモールへ通った。<br>何度も、何度も傘立てを確認した。<br>しかし、再びあの文字を目にすることはなかった。<br><br>梅雨が明けると雨はめっきり減り、休日だけを頼りに探すのは効率が悪すぎた。<br>俺は考え抜いた末、退職を決意した。<br>周囲には強く引き留められたが、意志は揺るがなかった。<br>あの傘は、親父の死が自殺ではないという、唯一の証拠なのだ。<br><br>俺はあの傘立てが一番よく見えるカフェ『フラワー』で、アルバイトとして働き始めた。<br><br>俺が小学四年生の三月、母が癌で亡くなった。<br>そして八月に、親父が死んだ。<br>死因はシアン中毒。いわゆる『青酸カリ』による自殺というのが、警察の下した結論だった。<br>俺は、親父が自殺するなど絶対に信じられなかった。<br>だが、状況はそれ以外の可能性を冷酷に否定しており、子供だった俺は受け入れるしかなかった。<br><br>家は金属加工の工場だった。<br>父の兄である勝伯父さんが工場を引き継いで、俺の面倒も見てくれた。<br>しかし、高校を卒業するころ、工場を閉鎖して自宅も売却することになった。<br>俺は大学の寮に入るので、家の物はほとんど処分した。<br>そのとき、物置きになっていた部屋の天袋から、百貨店の包装紙に包まれた物を見つけた。<br>それは、『ハニービー』という当時流行っていた赤外線ヘリコプターだった。<br>いわゆるラジコンのおもちゃだ。<br>さすがにこの時は、涙が出た。<br><br>親父は俺の誕生日の三日前に死んだ。<br>包装紙にレシートが挟んであった。<br>日付は、親父が死ぬ前日のものだった。<br>俺は親父の死が自殺ではないと、このとき確信したのだ。<br>しかし、伯父さんにそのことを言うと、困った顔で俺を慰めるだけだった。<br>伯父さんに心配をかけるのは心苦しかったので、それ以降は口にしないことに決めた。<br>俺はこの疑念を胸の奥深くに封印したのだ。<br><br>カフェ『フラワー』で働きだして一年半、やっとその日が来た。<br>三月の終わり、冷たい雨が降る午前中だった。<br>店の窓からいつものように覗いた傘立てに、あの文字が見えた。<br>——『ちば　ようたなり』。<br>「ちょっと、用事が出来たので早退します」<br>俺は躊躇なくそう言って、着替えを済ませた。<br>そして、駐輪場の脇で傘を差し、持ち主が現れるのを待った。<br>四月が近いというのに、冬に逆戻りしたような冷え込みだった。<br>時折吹く風と、それに運ばれてくる雨粒が氷のようだった。<br>三十分後、若い女がそれを掴んだ。<br>知らない女だ。<br>ジーンズにベージュのトレンチコートを羽織り、黒いトートバッグを肩に掛けていた。<br>すぐあとをつける。<br>駅前からバスに十五分ほど乗り、郊外で降りた。<br>五分ほど歩き、彼女は大きな倉庫へと入っていった。<br>看板には『吉野運送　道明寺センター』の文字。<br>通用口から入ったところを見ると、ここが彼女の職場なのだろう。<br><br>俺は翌月には『フラワー』を辞め、吉野運送で働き始めた。<br>傘の持ち主は、『白石明日香』。<br>大学二年生の二十歳。<br>父親が働いている関係で、長い間吉野運送でアルバイトをしているという。<br>彼女が、俺の親父と関係があるとは思えない。<br>探った感じでは、彼女の両親とも接点があるようには感じられなかった。<br>いくら考えてみても、あの傘を彼女が持っている合理的な理由はなさそうだった。<br>そして、あの日以来、雨が降っても彼女は例の傘を持って来なかった。<br>そして、待ち続けた梅雨のある日、ついに彼女があの傘を持って現れた。<br><br>「あれは、君の物ではないだろ」<br>頃合いを見計らって聞いた。<br><br>「まあ、友達が置いていって、いらないって……」<br><br>「友達って、誰だ？」<br>鼓動が強く打った。<br><br>「……桜庭さんだけど」<br><br>「え？　桜庭って、もしかして桜庭……由佳？」<br>想定外というか、想定内というか、そんな感覚だった。<br><br>「そうですけど……なんで知ってるんですか。気持ち悪いんですけど……」<br><br>桜庭由佳は俺の従兄妹だ。<br>親父の弟の娘である。<br>しかし、彼女が赤ん坊のときに会ったきりだった。<br>桜庭の叔父さんは『桜庭勇』という名前だった。<br>親父の弟なのだが、腹違いということで苗字が違っていた。<br>いわゆる「妾の子」として扱われていたこともあり、親父や勝伯父さんとは折り合いが悪く、よく金の無心で揉めていたのを覚えている。<br>世間に対して斜に構えた様子と、あの冷めきった目が子供心にも好きになれなかった。<br><br>桜庭家に傘があったとするなら、桜庭の叔父さんが家から持っていったということになるが——。<br><br>十年前の八月。<br>俺が二十歳になる三日前、親父の命日のことだ。<br>三月のおふくろの命日以来の墓参りに行った。<br><br>「おい、お前、亮だろ？」<br>墓地の入り口で声をかけられた。<br>桜庭の叔父さんだった。<br><br>「よく、わかりましたね」<br>十年ぶりだ。俺の見た目はだいぶ変わっているはずだった。<br><br>「盆直前の平日にここに来るのは、命日のやつぐらいだろ」<br>俺は会いたくない人に会った気分だった。<br><br>「墓参り……ですか」<br><br>「俺の兄貴だからな」<br>叔父さんは、舐めるように俺を見る。<br><br>「お前、今何してるんだ？」<br><br>「大学……行ってます」<br><br>「ああ、そう。じゃあな」<br>叔父さんは背中を向けて歩き出した。<br><br>「あの！」<br><br>「どうした？」<br>叔父さんが振り返る。<br><br>「親父、自殺じゃないんです」<br>俺は唐突に切り出した。<br>叔父さんの反応を確かめたかった。<br><br>「なんだ、今さら」<br><br>「俺の誕生日プレゼントがあったんです」<br><br>「へー、それで……警察には話したのか？」<br>叔父さんは動じる風もなく、煙に巻くような態度を崩さない。<br><br>「いや、伯父さんにだけ……」<br><br>「勝の兄貴か……」<br><br>「だから、親父は誰かに殺されたんです」<br>俺は叔父さんがどんな態度を取るか、じっと見ていた。<br><br>「お前、もしかして俺を疑ってるのか？」<br>叔父さんが俺の目を見て言った。<br><br>「いえ、そういうわけでは……」<br><br>「進の兄貴は変死だったからな。俺もさんざん警察には調べられたよ。でも、残念ながら俺は、愛知に出稼ぎに行っていたのが証明されているぞ。じゃあな」<br><br>俺は、桜庭の叔父さんが親父を殺した犯人かもしれないと思っていた。<br><br>お墓には雑草もなく、すでに線香と花が供えてあった。<br>『立花家之墓』と彫られた黒い石を伝う水滴が、盛夏の陽を強烈に反射させていた。<br>あのとき、何の証拠もなく、ただなんとなく疑うというのは無意味だと理解した。<br>真実を得るには、感情が邪魔になると知ったのだ。<br><br>白石の友人の桜庭由佳は、叔父さんの娘で間違いないだろう。<br>そうなると、再び叔父さんへの嫌疑が強くなる。<br>しかし、傘があったとしても、アリバイが崩れない限り、桜庭の叔父さんが犯人である可能性はない。<br>二十年前に警察が調べて証明したものを、ひっくり返すことなんて出来るのだろうか。<br><br>このビニール傘は、二十年前のものとは思えないくらい綺麗な状態だ。<br>油性ペンで書かれた名前も、しっかり残っている。<br>ここからわかることは、この傘は誰かが保管していたか、意図せずどこかで眠っていたか、だ。<br>叔父さんがしまっておいたのを、娘の由佳が見つけて勝手に使ったと考えれば、辻褄は合う。<br>しかし、しまっておくぐらいなら、さっさと処分してしまったほうが安全だと思うが……。<br>どちらにしても、桜庭の叔父さんには会う必要があった。<br><br>八月十日。<br>今年も親父の命日は晴れだ。<br>親父が死んだ日も昼間は晴れていた。<br>しかし、あの日は夜遅く激しい雨が降った。<br><br>墓地の駐車場に車を入れた。<br>目立たないよう、奥の木陰に車を停める。<br>窓ガラスを全開にしてエンジンを切り、桜庭の叔父さんが来るのを待った。<br>俺の他に、毎年親父の命日に墓参りに来ている人がいる。<br>予想が正しければ、それは桜庭の叔父さんのはずだ。<br>滲み続ける汗をタオルで拭いながら、油蝉の声を聞いていた。<br><br>十一時——。<br>エンジンの音が近づいてくる。<br>個人タクシーが滑るように駐車場に停まった。<br>運転席から降りてきたのは、少し痩せ細った桜庭の叔父さんだった。<br>トランクを開け、紙に包まれた花と手桶を取り出し、歩き出した。<br>叔父さんの姿が奥へ消えるのを確認し、俺はあの傘を手に後を追った。<br><br>「叔父さん」<br>墓前で、静かに声をかけた。<br><br>「なんだ、亮か……久しぶりだな」<br>叔父さんは少し痩せたようだ。<br><br>「十年ぶりです」<br><br>「そんなになるか……」<br><br>「これ、わかります？」<br>俺は傘を見せた。<br><br>「なんだ……あ、それは……」<br>叔父さんは鋭い視線で傘を睨んでいる。何かを考えているように見えた。<br><br>「何でお前が、それを持ってんだ？」<br>視線は傘に釘付けのままだ。<br><br>「それは、こっちの台詞ですよ。なぜ、叔父さんが持ってたんです？」<br>叔父さんが、傘を俺の手から奪った。<br><br>「意味がわからんよ。この『ちば』なんとかって、いったい何なんだよ」<br>その叔父さんの答えを聞いて、俺の見当が的外れだったという予感がしていた。<br><br>「この傘、どこで手に入れたんですか？」<br><br>「……知らんよ。いつの間にかあったんだよ」<br><br>「本当に知らないんですか？」<br><br>「いったい誰なんだ、『ちば　ようたなり』って」<br>叔父さんは、傘を俺に返した。<br><br>「これは、俺が書いたんです。親父が死ぬ前の日に」<br><br>——「おい、亮、すぐ失くすんだから名前書いておけ！」<br>親父に言われた。<br>——「嫌だよ、恥ずかしいし」<br>俺はそう答えた。<br>——「今度無くしたら、買ってやんねえぞ！」<br><br>「それが、親父が死んだ日、無くなってた。あの日は、夜中に激しい雨が降った」<br><br>「本当にそうなのか？　勘違いじゃないのか？」<br><br>「間違えるはずがないんだ」<br><br>俺はこの傘の存在をずっと忘れていた。<br>ショッピングモールの傘立てで、これを見るまでは。<br>だから、誰にも傘のことは話していなかった。<br>——プールから叔母さんと帰って来て、鍵を開けた。<br>その時には、傘立てにちゃんとあった。<br><br>「そうか……」<br>叔父さんは、何かを思い出そうとしているようだ。<br><br>「でも、俺は何も知らないぞ」<br><br>「いつからこの傘を持ってるんです？　思い出してくださいよ」<br><br>「たしかにうちにあったが、それがどこから来たのかなんて、知るわけがない」<br><br>「お前は、どうしたんだよ、それ」<br><br>「由佳さんが使ってたみたいです」<br><br>「なるほどな。そういうことか」<br><br>「そもそも俺はその日、岡崎にいた。物理的に不可能なのは警察が証明しているし、俺がお前の親父の守兄さんを殺す理由がない」<br><br>「よく金のことで喧嘩していた……」<br><br>「たしかにな。でも殺したら金も貸してもらえないだろ」<br><br>「それに、密室だったんだろ。家にはお前しかいなかったはずだ。だから……自殺だったんだよ」<br>そんなはずはないんだ。<br><br>「動機がないよ、親父が自殺する……」<br><br>「弘美さんを亡くして、ショックだったんだろ」<br><br>「そんなことで、親父は死なないよ」<br><br>「いずれにしても、兄貴の死に俺は関係ない」<br>叔父さんは俺の傘を、じっと見ていた。<br>叔父さんは、何かを隠しているように見える。<br>「もし、何か思い出したら、連絡をください」<br>電話番号を書いて叔父さんに渡した。<br><br>「叔父さん、毎年来てるんですか」<br><br>「ああ、そうだな」<br><br>「どうしてですか？」<br><br>「お前の親父には、世話になったからな」<br><br>叔父さんはそう言って、花の束を俺に寄越した。<br><br>「そういえば、お前はあの日、悦子さんとプール行ってたんだよな？」<br><br>「そうですけど……それが何か？」<br><br>「いや、ちょっと思い出しただけだ……じゃあな」<br>叔父さんは右手を挙げ、線香もあげずに帰ってしまった。<br><br>真夏の小さな墓地にいるのは、俺一人だけになってしまった。<br>やはり、二十年前の事件を掘り起こすのは簡単ではない。<br>根本的な見当違いなのか。<br>それでも振り出しではない……はずだ。<br>これからどうするか。<br><br>中途半端に覚醒したつもりで、自分で仕掛けた罠にずっと踊らされていたみたいだ。<br><br>側から見たらすっかり道化のようだが、俺に後悔はない。</p><p name="D324BFEA-E6ED-442C-962D-524A560348CB" id="D324BFEA-E6ED-442C-962D-524A560348CB"><br></p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n1829cfb07714'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Wed, 29 Apr 2026 19:27:29 +0900</pubDate>
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      <title>小説『ホロスコープの雨　クラウン#3』</title>
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      <description><![CDATA[<p name="9337E679-C47A-4DD3-B331-DC1528D8F628" id="9337E679-C47A-4DD3-B331-DC1528D8F628">そろそろ梅雨が明けそうな、五月雨の土曜日——。<br>シフトに入っていた一人から、急用で遅刻するという連絡が入った。<br>そのため、午前中はいつもより少ない人数での作業となった。<br><br>「『占い』って信じます？」<br>会社の食堂で海苔弁を食べ終え、向かいに座る立花さんに聞いてみた。<br><br>「占いって、予言者みたいなやつか？」<br>立花さんは、パイプ椅子の上であぐらをかいていた。<br><br>「そう、よく当たるって評判の人のところに行ってきたんですよ」<br><br>「あんなもん、インチキだろ」<br>立花さんは、手近な缶コーヒーに手を伸ばした。<br><br>「それが、当たるんですよ！」<br><br>「へー」<br>器用にあくびをしながら、コーヒーを啜っている。<br><br>「あんまり、興味なさそうですね」<br><br>「そりゃそうさ。金を払った人にだけ災いを教える予言者なんて、信用できるわけないよ」<br>……出た、屁理屈おやじ。<br><br>「予言者だって、生活していかなければなりませんから」<br><br>「予言者なら、株でも競馬でもやって稼いだらいい。もしその能力が本物なら、自分の懐を肥やすんじゃなく、人類のために使うべきだ」<br>立花さんは立ち上がり、ブラインドの隙間から外を覗き込んだ。<br><br>「ところで、何が当たったって？」<br><br>「水難に遭うって言われて……その帰り道、案の定びしょ濡れに」<br><br>「へー、他には？」<br><br>「……ちょっと前に、風邪をひいたとか。知り合いが怪我をしたとか」<br><br>「それ、予言じゃないね。ただの日常だ」<br>そう断言されると、急に不安になってきた。<br><br>「身近な人に大変なことが起きるって。あと……人前に出る仕事より、裏で支える方が向いてるって言われました」<br><br>「ふーん、で、いくら払った？」<br><br>「三千円……」<br>自分の声が、どんどん小さくなっていくのがわかった。<br><br>「三千円払って、びしょ濡れになっただけだな。大方、雨で道路が冠水でもしてたんじゃないか？」<br>気分が悪くなってきた。<br>私は後悔した。<br>占いに行ったことも、それを立花さんに話したことも。<br><br>「白石さん、立花さん、おはようございます……すいません、遅れちゃって」<br>遅刻の連絡があった小林さんが入ってきた。<br><br>「あ、小林さん、おはよう。遅刻なんて珍しいね。なんかあったの？」<br>小林さんは二十五歳のパートタイマーだ。<br>近所の一軒家に二世帯で住む主婦でもある。<br><br>「ここだけの話なんだけど、叔父さんが警察に呼ばれちゃってさ」<br>彼女は椅子に座り、テーブルに肘をついて声を潜めた。<br><br>「え……それはまた、なんで？」<br><br>「参考人だって」<br>みんなに聞こえる程度の小声だった。<br>もっとも、この部屋には今、私たち三人しかいない。<br><br>「参考人って、何かの事件の？」<br><br>「そう、何日か前に夫婦が殺されたやつ」<br><br>「団子坂の……？」<br><br>「そう。それで、叔母さんが具合悪くなっちゃって。今朝、うちに連れてきたのよ」<br><br>「それは、いろいろと心配ですね」<br>『身近な人に大変なことが起きる』<br>占いが当たった。<br>私は直感的にそう思った。<br><br>三日前、元酒屋の夫婦が刃物で殺害され、現金を奪われた事件。<br>犯人はまだ捕まっておらず、今朝のニュースでも大きく報じられていた。<br><br>「強盗殺人か。死刑だな」<br>立花さんが、吐き捨てるように言った。<br><br>「まだ捕まったわけじゃないんですから」<br><br>「いや、犯人が、ということだよ……この事件か……」<br>立花さんは手元のスマホを操作している。<br><br>「……現場って、詳しく知ってるか？」<br><br>「知ってますよ」<br>一時は大騒ぎだったから、この辺の住人はみんな把握している。<br><br>「ええと、団子坂の信号を弁天団地の方へ向かって……橋を渡って、すぐ左にある元酒屋です。店の前だったところが駐車場みたいに広くなってるから、すぐわかると思いますよ」<br>記憶を辿りながら説明した。<br><br>「もしかして、その叔父さんって、やばい人だったりして？」<br><br>「いや……高校の先生だし、やばくはないと思うけど……」<br><br>「じゃあ、大丈夫じゃないですか。その夫婦とは面識はないんですよね？」<br><br>「それは、ないはず。でも、『そんなことするような人には見えなかった』なんて、ニュースでよく言うじゃない？」<br>小林さんは、ひどく不安そうだ。<br><br>「それは他人の場合でしょう？　よく知ってる人なら、人となりはわかるんじゃないですか」<br><br>「叔父さんって、平安高校か？」<br>立花さんが唐突に口を挟み、貧乏ゆすりを始めた。<br><br>「そうですけど、なんでわかるんですか？」<br><br>「現場から一番近いからな」<br><br>「四十五歳くらいか？」<br><br>「父の弟なんで、それくらいだと思いますけど……」<br>「もしかして、緑色の車に乗ってるとか？」<br><br>「え、そうです。グリーンのミニですけど……」<br>ここで、昼休憩の終わりを告げる予鈴が鳴った。<br><br>「そうか。たぶん……叔父さんはすぐ戻ってくるよ」<br>立花さんはそう言い残し、足早に食堂を出て行ってしまった。<br><br>いつになく神妙なその横顔に、私と小林さんはただ狐につままれたように立ち尽くしていた。<br><br>午後の休憩。<br>立花さんは窓の外を眺めていた。<br>雨が激しくなり、時折、風がサッシの隙間を鳴らして入り込む。<br><br>「雨、嫌ですね」<br>厚い雲が太陽を遮断し、外の世界を重苦しい色に染めていた。<br><br>「そうだな……。でも、俺はこの日を待ち焦がれていた」<br><br>「どうしてですか？」<br><br>「傘を使うからな」<br>相変わらず、この人の言うことは要領を得ない。<br><br>「立花さんは、なんでここで働いてるんですか？」<br>出会ったときから抱いていた疑問を、ぶつけてみた。<br>「君は、何で働いてる？」<br>立花さんは外を見たまま問い返した。<br><br>「私が先に聞いたんですけど……」<br><br>「同じ答えだよ、きっと」<br><br>「私は……学費のためですけど」<br><br>「違うだろ、小遣いだろ？」<br><br>「まあ、そうですけど……」<br><br>「一生懸命やって『独立を目指します』なんて仕事じゃない。当然、金のためってことだ」<br>彼は窓から離れ、パイプ椅子に深く腰掛けた。<br><br>「でも、なんでここなのかなと思って。家も近くないのに。前はずいぶんいいところで働いていたんですよね？」<br><br>「それは、君がいるからだよ」<br>ふいに立花さんと目が合った。<br><br>「……え？」<br>自分の心臓の音が耳元まで届いた気がした。視線が交差したまま、時が止まる。<br><br>「なーんてな」<br><br>「正確に言えば、君が今日持ってきた傘のせいだ」<br>彼は腕を組み、首を傾げた。<br><br>「え、どういうことですか？」<br>ただの、どこにでもあるビニール傘だ。<br><br>「あれ、君の物じゃないだろ」<br><br>「まあ、友達がうちに忘れていって、いらないって言われたから……」<br><br>「友達って、誰だ？」<br>立花さんの表情が、一瞬で真剣なものに変わった。<br><br>「……桜庭さんって人ですけど」<br>立花さんが、大きく目を見開いた。<br><br>「え？ 桜庭って、もしかして桜庭……由佳か？」<br><br>「そうですけど……なんで知ってるんですか？  気持ち悪いんですけど……」<br>底知れない気味悪さを感じた。立花さんはいったい何者なんだろうか。<br>しかし、当の立花さんは頭を抱えて沈黙していた。<br><br>「……もしよかったら、あの傘を譲ってくれないか？ 今度、食事をご馳走するからさ」<br>彼は下を向いたまま、絞り出すような声で言った。<br><br>「別にいいですよ、あんな変な傘。どうぞ」<br>白い、なんの変哲もないビニール傘。ただ、持ち手に下手くそな字で『ちば　ようたなり』と書かれている。<br><br>由佳は高校の同級生で、今でも時々会う仲だ。あの傘は、由佳がうちに忘れていったものだった。連絡したら「いらない」と言われたので、私は盗まれてもいいと思ってそれを使っていたのだ。<br>「どういうことなんですか？」<br><br>「……まだ、わからないんだ。はっきりしたら、君にはきっと話すよ」<br>立花さんにしては珍しく、言葉に歯切れが悪かった。<br><br>「叔父さん、無事に帰ってきたみたいです！」<br>小林さんが、安堵の表情でスマホを握りしめて駆け寄ってきた。<br><br>「立花さんは、なんですぐ戻るってわかったんですか？」<br>小林さんが尋ねた。<br><br>「滅多刺しで二人殺しているのに、家の中は荒らされていない。そして財布の中の金しか盗られていない。しかも、わざわざ旦那さんが帰ってくるのを待って犯行に及んでいる」<br>立花さんは淡々と語りだした。<br><br>「犯人は、怨恨による殺人を、稚拙な工作で強盗殺人に見せたかったんだろう。警察もマスコミも、とっくに被疑者の目星がついているはずだ」<br><br>「最新の記事だと、息子が犯人であるかのような書き方をしていた」<br>立花さんが画面を指さす。<br>——なお、同居する四十五歳の長男とは、連絡が取れていない——。<br><br>「あー、たしかに……。でも、緑の車なんてどこにも載ってないですよ？」<br><br>「スマホの地図で現場の写真を見たら、元酒屋の駐車場に緑のミニが停まってたんだ。だから、もしかしたらと思っただけさ」<br><br>「……あ」<br><br>「目撃情報かカメラに映っていた該当車両と人物を、警察は念のために当たっていたんだろう。だから、全くの他人である小林さんの叔父さんが解放されたということは、その四十五歳の長男が、十中八九犯人だということだ」<br><br>「立花さんって、なんか凄いですね……」<br>小林さんが、羨望の眼差しで見つめている。<br><br>「そんなことない。当てずっぽうが、たまたま当たっただけだよ」<br><br>「本当ですか？」<br><br>「他人の粗ばかり探す癖がついてしまってな。自分が嫌になるよ」<br><br>「あ、それでゆっくり眠れないんですね？」<br>いつか彼が漏らした話を思い出し、口にした。<br>立花さんは、それには答えなかった。<br><br>いつものニヒルな笑顔が消えている。<br>まるで別人のようだ。<br>もっとも、たった二ヶ月足らずの付き合いで、彼の何がわかるというのだろう。<br>私はただ、なんとなく彼の胸元にある名札を見つめた。<br>（立花さんって、『亮』っていう名前なんだ……）<br><br>「それよりもさ、先月の健康診断の結果で、難聴にチェックが入ってたんだよ」<br>急に立花さんが話題を変えた。<br><br>「あら、大丈夫ですか？」<br><br>「いや、それが間違ってるんだよ」<br><br>「はい？」<br><br>「俺は、聞こえてたんだ」<br><br>「どういうことです？」<br>小林さんが真剣に聞き返す。<br><br>「聞こえた瞬間に、間違いなくスイッチを押したんだ」<br>立花さんは、ボタンを連打する真似をしてみせた。<br><br>「……聞こえていない音があった、ということじゃないんですか？」<br>小林さんが諭すように言う。<br><br>「いや、全部聞こえたんだよ」<br>立花さんが、いたずらっぽくニヤけた。<br><br>「それはそうでしょうけど……」<br>小林さんもつられて笑いそうになっている。<br><br>「いや、本当なんだって！」<br>小林さんと立花さんが、どっと笑い出した。<br>私は、二人の笑い声にようやく胸を撫で下ろした。<br><br>退社する際、約束通り立花さんと傘を交換した。<br>彼が渡してくれたのは、私のものとよく似た白い柄のビニール傘だった。<br><br>「なんで、由佳のことを知ってるんですか？」<br>これだけは、どうしても聞いておきたかった。<br><br>「もし、俺が知っている人物と同一人物なら……彼女は俺の従兄妹なんだ。じゃ、また明日」<br>立花さんは傘を握りしめたまま、愛車へと走っていった。<br><br>台風が近づいているのか、風が渦を巻いている。<br>私は、立花さんから譲り受けた傘を差して歩き出した。<br>由佳が彼の従兄妹だなんて、世間は狭い……。と思ったが、さっきの話だと傘を追ってここに来たことになる。<br>後輩として入ってきた、十歳上の立花さんとの出会いは偶然ではなく、必然だったのだ。<br><br>適当で自由奔放だと思っていた立花さんは、いったい何者なのだろう。<br>ますます激しくなった風が暴れ、横断歩道の途中で傘がひっくり返ってしまった。<br>元に戻そうと風上へ向けた途端、突風にあおられてビニールが剥がれ、一瞬で骨だけになってしまった。<br>なす術のない私は、道端の青い自動販売機の横に、無惨な姿になった骨組みを置いた。<br>短い命だった、立花さんの傘。<br><br>痛いほどの雨粒を全身に浴びながら、ふと、あの占い師の得意げな顔と言葉を思い出した。<br>水難。<br>身近な人に、大変なこと……。<br><br>私は覚悟を決め、ずぶ濡れになりながら、激しい風の中をゆっくり進んだ。</p><figure embedded-content-key="embfce7df591c2c" embedded-service="note" data-src="https://note.com/real_ibis7850/n/na9008ac1f57d" contenteditable="false" name="3AFE7AB9-83B9-48F6-99A1-26054AFF95F5" id="3AFE7AB9-83B9-48F6-99A1-26054AFF95F5" data-identifier="na9008ac1f57d">                                        </figure><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/nf41560ba876f'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Thu, 23 Apr 2026 20:06:45 +0900</pubDate>
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      <title>小説『マリオネットの月　クラウン#2』</title>
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      <description><![CDATA[<p name="7C4893F4-0E9D-41F1-915B-E65333C4CD62" id="7C4893F4-0E9D-41F1-915B-E65333C4CD62">これからまた、恒例の三文芝居が始まる。<br>「社長が焦っているぞ！」<br>社長のいない会議室で、部長が息を荒らげ、一人で焦っていた。<br>役員たちは、ゴルフで欠席だ。<br>俺は、資料の数字を見ながら、部長が欲しがる言葉を返し、焦っているふりをした。<br>予想できたことだ。<br>説得できない俺にも問題はあるが、あの部長が経営の舵をとっている限り、この会社の飛躍は望めそうにない。<br>そして、デスクに戻った俺の顔色をうかがう部下たちもまた、焦っているようだった。<br>でも、たぶん何も変わらない。<br>ブラインド越しの青空に、すじ雲が一つ見えていた。<br>それなりに尽くした働き蜂の成れの果てか……。<br>うっかり、ため息が出た。<br><br>十八時十分——。<br>ようやく一人になれた。<br>五分待ってパソコンの電源を切り、席を立つ。<br>退社時間の早さが、会社の現状を示している。<br>陽春の空は、いつのまにか薄紫に変わっていた。<br>すっかり肌寒さは遠のき、もはや上着を必要としないほどだ。<br>ほとんど沈んでいる太陽を背中に、十分ほど歩けば俺のマンションが見えてくる。<br>三階まで階段を登り、角部屋の鍵を開ける。<br>革靴を脱いで、カバンをテーブルの上に置く。<br>スーツをソファの背もたれに掛け、普段着に着替える。<br>段ボールが積まれたワンルームはテレビもなく、殺風景だ。<br>小ぶりなキッチンからは、微かに生ごみの腐敗臭が漂う。<br>ゴミ出しの日は……いつだったか忘れた。<br>ここでの生活は、まだ一ヶ月。<br>しかし、俺がこの部屋でくつろいだことは、今のところ一度もない。<br><br>この部屋に一秒でも長くいたくない俺は、さっそくポケットに財布とスマホを放り込んで、部屋を出た。<br>階段を駆け降り、湿り気を帯びた暗い路地へと踏み出す。<br>首を回し、凝り固まった右肩を回した。<br>目当ては、食事ができて、酒も飲める店だ。<br>今日は気分を変えたかった。<br>しかし、月曜日は看板が消えている店が多い。<br>いつもの居酒屋で手を打とうかと考え始めたころ、通りの先に『DINING BAR』の文字が見えた。<br>煉瓦塀に格子の窓、店の前にはワインの樽が三つ山に積まれていた。<br>看板には『Marionette』。<br>入口のボードにおすすめメニューが書いてあったが、構わずドアを開けた。<br>ダークカラーでまとめられた落ち着いた内装だ。<br>ビッグバンドのジャズが、静かに流れている。<br>L字型のカウンターと、ボックス席が六つ。<br>板張りの床を進み、カウンターの短辺に腰を下ろした。<br>目の前のメニューを手に取り、『海老とマッシュルームのアヒージョ』と『ジントニック』を注文した。<br>天井にぶら下がるスピーカーから『テイク・ファイブ』が流れ出した。<br>店内を見渡してみると、半分ほど席が埋まっていた。<br>俺のすぐ横にあるボックス席には、予約の札も載っている。<br>いつ洗ったか覚えていない手を、おしぼりで拭う。<br>ほどなくジントニックと、お通しの『唐辛子ツナ』が到着した。<br>しかし、まだ口をつける気になれない。<br>何をきっかけに手を伸ばそうか。<br>五拍子のリズムが終わったらにしようか……。<br>リズムを取ろうとするが、結局最後までうまくいかなかった。<br>ジントニックに手を伸ばす。<br>グラスに刺さったライムはそのままで一口。<br>沙樹の顔が脳裏をよぎる。<br>遅れて運ばれてきたアヒージョのミニトマトとブロッコリーをつまみ、ジントニックで流し込んだ。<br>ゴルフに行っているうちは、まだ大丈夫か……。<br>店のドアが開く音がした。<br>俺の席からは、出入り口が真正面に見える。<br>見覚えのある姿が現れた。<br><br>「おい、立花！」<br>つい、声が弾んでいた。<br>目を細めて奴は近付いてきた。<br>「なんだ、月島蓮じゃないか」<br><br>「二年、ぶりか？」<br>立花は、ジーンズに黒いジャケットを羽織り、黒いワイドパンツに白ブラウスの女を連れている。<br>黒エプロンの店員が、立花たちをボックス席に案内した。<br>どうやらすぐ隣にあった予約席は、彼らのものだったらしい。<br><br>「一人か？」<br>鋭い目で俺を見る。<br><br>「そうだ」<br>俺は視線を外した。<br><br>「せっかくだ、月島もこっちで一緒にどうだ」<br><br>「デートの邪魔しちゃ悪いだろ」<br>こっちは、そんな気分ではない。<br><br>「おい、変な邪推はよせ、こいつは罰ゲームだ」<br><br>「どうぞ、ご一緒しましょうよ……人数は多いほうが楽しいと思いますし」<br>女が言った。<br><br>「すみません！　この人、こっちへ移動しますよ！」<br>立花が、俺のグラスとアヒージョを勝手に持って行ってしまった。<br><br>窓際に女、通路側に立花だ。<br>「白石です」<br>女が言った。<br>「あ、月島です」<br>「こいつは、大学の同期だ」<br>立花がメニューを見ながら言った。<br>「お前、悩んでんのか？」<br>続けて立花。<br>「な、なんでだよ」<br><br>「一人でカクテルなんか飲んでるからさ。離婚でもすんのかと思って——あ、すいません！」<br>立花が、通りすがりの店員を呼び止めた。<br><br>「『馬刺しの盛り合わせ』を三人前、それと『ジンジャーエールの辛口』、君は？」<br>「私は、『ハートランド』で」<br><br>「罰ゲームって言ってたけど、何？」<br><br>「立花さんが、賭けに負けたんです」<br>白石という女は、ナチュラルメイクで飾り気がない。身につけている装飾品は、左手のスマートウオッチだけのようだ。<br>沙樹とは正反対だな……。<br><br>「賭け？」<br><br>「副所長が頼んだ弁当当てさ」<br><br>「なんだ、それ……で、正解は？」<br><br>「幕の内弁当だ」<br><br>「立花は？」<br><br>「スペシャルスタミナ弁当」<br><br>「だって、副所長って女なのに、スタミナ弁当はないですよね？　しかもスペシャルですよ」<br><br>「幕の内だってイレギュラーだ」<br>立花が不満そうに言う。<br>「どうして？」<br><br>「あの身体じゃ、絶対に量が足りないだろ。きっと朝飯はステーキでも食って来たんだよ」<br>白石が腹を抱えて笑っている。<br><br>ジンジャーエールとハートランドが到着した。<br>「では、世の中の操り人形に、乾杯」<br>立花がグラスを上げた。<br><br>「なんだよそれ？」<br>「ここは、『Marionette』だろ」<br><br>「ああ、そういえばそういう名前だったな」<br>それで、カウンターの壁には紐のついた人形が二体飾られているのか。<br><br>「かわいいですね」<br>白石が人形を指差す。<br><br>「そうかな、俺は怖いな」<br>立花は人形を見ない。<br>俺はどっちだ？　わからない……。<br><br>「そういえば、昔麻雀してたときも、立花はそんな感じだったな」<br><br>「え、そんな感じって？」<br>白石が身を乗り出す。<br><br>「いきなり当たり牌を捨てちゃうんだよ」<br><br>「それじゃ、勝てませんね」<br>白石が嬉しそうに言う。<br><br>「勝つってなんだ？」<br>立花も嬉しそうだ。<br><br>「普通は『トップ』を目指すだろ」<br><br>「君たち、仲間が一生懸命作り上げた作品の完成を、みんなで邪魔するゲームなんて、ただの意地悪じゃないか」<br><br>「変なの」<br><br>「立花らしいよ」<br><br>「本当はさ、俺の読みが正しいか確かめたくなっちゃうんだよね」<br><br>大皿に乗った馬刺しが運ばれて来た。<br>紙の札が乗っていた。<br>たてがみ、ふたえご、ロース、赤身。<br>「当店自慢、熊本直送の馬刺し盛り合わせです。ニンニク、玉ねぎと一緒にお召し上がりくださいませ」<br>店員の言葉が、芝居の台詞のようだ。<br>もしかしたら、これも『Marionette』の演出なのか。<br><br>「俺は面白いんだけれどさ、いつのまにか誘われなくなったんだ」<br><br>「そりゃそうだ、勝負の邪魔だからな、やりたきゃ雀荘にでも行けばいい」<br><br>「バカだな、仲間でもない奴の協力なんて、絶対嫌だろ」<br><br>「それが麻雀だ」<br><br>「……あ、そうかなるほど！」<br>こいつはやはり掴みどころがない。<br><br>「やっぱり立花さんって昔から変なんですねー」<br>「別に、変じゃないだろ」<br>「今日だって、『刺身』って言うから魚だと思ってたら馬だし」<br>「それは、固定観念だ」<br><br>「おいしいから、いいけど」<br><br>「月島も、大概だぜ。就活だって仲間について行って、そのまま就職だ」<br>「で、当の本人は、そこを蹴ったんだ」<br><br>「そういえば、そうだったな……」<br>俺には、やりたいことなんてなかった……。<br><br>「立花は今、何の仕事してんだ？」<br>「物流倉庫の仕分け」<br><br>「バイト？」<br>「そう、この白石美帆さんは大学二年生で、十歳下の先輩だ」<br>「明日香ですよ！」<br><br>「へえ……お前、スパッと会社辞めたもんなー」<br><br>「まあ、奨学金返し終えたからな」<br>「勿体なかったよな、あの会社……そのあとは、たしかカフェだろ？」<br>「まあな」<br><br>「それだったら、大学行かなければ良かったんじゃないですか？」<br><br>「お、いいね、それ！　君ならそうするかい？」<br>「….いやあ……どうだろう」<br><br>「そうやって、ちょっと大人になるんだぜ」<br><br>「じゃあ、立花さんはずいぶん大人なんですね」<br>「いや、ちょっと待て。大人っていうのはいったいなんだ？」<br>こいつは、自由で昔から変わっていない。<br><br><br>「そんなことより、沙織さんは元気か？　別居してるのか？」<br><br>「沙樹だよ……ていうか、なんで別居してるってわかるんだよ。俺は誰にも言ってないぞ」<br><br>「今、自分で言ったじゃん……だって、指輪してるから、まだ離婚はしてないんだろ」<br><br>「沙樹から聞いたのか？」<br><br>「いや、緑のパーカーに、黄色の靴下なんて沙織さんが許す訳ないだろ」<br><br>「食事が沙織さんで、ファッションが大学生だ」<br><br>沙樹だけどな……。<br><br>「大学生というより、高校生じゃないですか？」<br>白石が真面目な顔で言った。<br><br>「あーあ、俺が気を遣ったというのに」<br><br>「あ、ごめんなさい」<br><br>「いいんだよ、気なんか遣わなくて」<br><br>「そうか、それはいい！」<br><br>立花が笑いながら席を立った。<br><br>立花がいなくなってから、皮肉に気がついた。<br>俺はあの頃のままか……。<br><br>「あいつ相変わらずだな」<br>つい、本音が出る。<br>でも、立花が変わってないのは本質の部分だ。<br>俺とはたぶん違う。<br><br>「いっつも、変なことばっかり言うんですよ」<br><br>「ああ……そうだな」<br><br>「『八月生まれの魚座だろ』、とか『傘に名前は要注意』とか」<br><br>「格言みたいだな……あいつが言うと、意味がありそうに聞こえるからな」<br><br>「そう、この間なんか『おふくろが死んで、親父が死んだ』とか言うから、しばらく考えちゃいました」<br><br>「あ、それは、事実だよ……あいつ、ずいぶん小さい時におふくろさんを病気で亡くして、その直後に親父さんが、自殺したんだって」<br><br>「え……そうなんですか」<br><br>「でも、『親父は本当は殺されたんだ』って酔っ払って言ってた」<br><br>「……その話、本当ですかね」<br><br>「どうだろうな、あいつの言うことは、どうかわからんな」<br><br>「それよりも、立花さんってお酒飲むんですか？」<br><br>「前は飲んでたよ。もっとも酔っ払ったのはその一回しか知らないけど」<br><br>立花は誰かと立ち話をしている。<br><br>別居してたら、元気かどうかもわからないだろ。<br>奴は、わかっててなぜ聞くんだ。<br>なぜ、俺の気分を逆撫でする。<br>飾られている男のマリオネットの手が動いた。<br>グラスに手を伸ばす。<br>結露した水滴が、気持ち悪い。<br>部長の顔を思い出した。<br>わざとらしい深刻な表情。<br>目を閉じてグラスを掴んだ。<br>うんざりして吐き気がした。<br>コリンズグラスの冷たさが、右腕を伝い、心臓を叩く。<br>沙樹の声がする。<br>(私の言う通りにして！)<br>暗闇で、細い紐のついた人形が不恰好に踊っている。<br>卑屈な笑顔と、チグハグな手足。<br>立花は、天使か？　それとも悪魔か？<br>目を開けてグラスを持ち上げた。<br>頭頂部に痛みが走り、目が眩む。<br>俺は、操られているというのか。<br>家庭が終わり、会社が終わる……。<br>いや、まだ何も終わってはいない。<br>俺は、胸を張れる……はず。<br><br>緑のパーカーでジントニックを飲むさ。<br>黄色の靴下で、アヒージョを食うんだ。<br>(沙織さんの好みは、休日でもセットアップだろ？)とでも立花が言いそうだ。<br>ろくに飲んでないのに、もう酔いが回ったのか。<br><br>真っ白なたてがみを、玉ねぎと一緒にニンニク醤油で口に入れる。<br>味がわからない……。<br><br>「たてがみは、赤身と一緒に食うと、またうまいんだぞ」<br>立花が戻っていた。<br>「知り合いか？　さっきの」<br><br>「いや、違うよ」<br>立花が素手で馬刺しを口に入れた。<br><br>「立花、お前、楽しいか？」<br>立花は俺を見ないで、おしぼりで指を拭いた。<br><br>「いや、全然」<br>ジンジャーエールに手を伸ばし、当然のように言う。<br><br>「なんでだよ」<br>俺は、食い下がった。<br><br>「ゆっくり眠れないからな」<br>立花が急に俺の眼を刺す。<br><br>「それで、いいのか？」<br>もうひと押しだ。<br><br>「ずっと、そうさ」<br>だめだ、また、逃げていく……。<br><br>「でも、楽しそうだ」<br><br>「そうか？」<br><br>「いいな、お前」<br>俺の目線が下がっていく。<br><br>「月島、アヒージョが冷めちゃったじゃないか」<br>油まみれのマッシュルームが、真っ黒い新月のようだ。<br>まったりとしたニンニクの香りのせいなのか、箸が伸びない。<br><br>「ジントニックも進んでないし」<br>薬草のような匂いが鼻につくんだ……。<br><br>「やっぱり、お前はもつ煮だろ？」<br><br>「もつ煮？　ここには、ないよな？」<br>沙樹は絶対に食べない……。<br><br>「いや、あるよ、ほら」<br>メニューの下のほうに載っていた。<br>さっき見た時は、なかった。<br>いや、きっと見ていなかっただけだ。<br><br>「焼酎にしましょうか？」<br>白石の声。<br>「ああ、そうだな、レモンサワーを……」<br>俺は震える声で言った。<br><br>「なあ……お前なら、部長をどうやって動かす？」<br><br>「俺は、他人を操るなんて、ごめんだね」<br><br>「逃げるのか？」<br><br>「まあな」<br><br>「お前はいいよな……」<br><br>『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』が流れている。<br>ジントニックのライムが、黄昏の月だ。<br>レモンサワーのレモンは、暁の月だ。<br>俺は、まだまだこれから……。<br><br>——「月島さん、大丈夫かな？」<br><br>明日の一時限目は休んだらいい。<br><br>——「大丈夫さ、手遅れなんてものはないんだよ」<br><br>立花が、レモンサワーのレモンの上に、ジントニックのライムを入れた。<br>「ほら、ここに月島君がいるぞ。黄色に緑。いいじゃないか」<br><br>ずっと就活の予定はない……。<br><br>「なあ立花、俺はどうしたらいいんだ？」<br>ついに言ってしまった。<br><br>「そうだな、とりあえず指輪を外してみたらいい」<br><br>「ふざけんなよ！　そんな簡単に出来るかよ！」<br><br>「あ、それって、マリオネットってことですよね？　ほら」<br>白石が『Marionette』の箸袋をひらひらさせる。<br><br>「俺は、そんなんじゃない！」<br><br>「でも……復縁は難しそうですよね？」<br><br>「うん。そうだろうな」<br><br>「お前らが、勝手に決めるなよ！」<br>ライムとレモンを、グラスから出した。<br><br>俺は、沙樹を失いたくないのか？<br><br>それとも、離婚という概念が嫌なのか？<br><br>仕事はどうする！<br><br>転職が怖いのか？<br><br>「本当はわかってるんだろ、だったらいつかは糸を切らないと」<br><br>「そんなもん、今すぐに全部切ってやるさ！」<br>途中で声が裏返ってしまった。<br><br>「まあ、落ち着け、今週はまだ、始まったばかりだぞ。まずは沙織さんだな」<br><br>「立花さん、沙樹さんです」<br>白石が小声で訂正した。<br><br>「う……」<br><br>「まあさ、山にでも行って、とびきりうまいコーヒーでも飲もうぜ」<br><br>「山なんか、行かねえよ」<br><br>「山の上なら、きっと糸もないぜ？」<br><br><br>「でも……立花さんの場合は、缶コーヒーですけどね」<br>白石が、人形のように首をかしげた。<br></p><figure embedded-content-key="embb8c9795441c7" embedded-service="note" data-src="https://note.com/real_ibis7850/n/na9008ac1f57d" contenteditable="false" name="D95BBDEE-FA6E-4054-AA92-CDAFD4E6F520" id="D95BBDEE-FA6E-4054-AA92-CDAFD4E6F520" data-identifier="na9008ac1f57d">                                        </figure><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/nc174b3b412cd'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Tue, 14 Apr 2026 22:35:55 +0900</pubDate>
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      <title>小説『アンカジュアルコネクション』——最終章　旋風のレクイエム——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="21E33D17-215A-489A-8984-BB76BC72F57C" id="21E33D17-215A-489A-8984-BB76BC72F57C">警察署の冷房はとても強かった。<br>乾いた空間が、機械のようだ。<br>無機質な部屋が、事件を記録として処理する。<br>諭の遺骨が見つかり、梅沢の罪は決定的となっていた。<br>あの事件で思い出したことは、前回の聴取ですべて話した。<br><br>「諭は……どうなったんでしょうか？」<br>勇気を振り絞って訊いた。<br><br>「梅沢は、取引に失敗した後、諭君を公園に放置するつもりだったらしい」<br>担当の刑事は淡々と続けた。<br>「ところが、アパートで泣き叫びだしてしまった。泣き止ませようと布団を被せ……気がついた時には、もう動かなくなっていたそうだ」<br><br>目を開けたまま聞いた。<br>涙を、流れるままに任せた。<br>ティッシュを出されたが、手が伸びなかった。<br><br>実父についてはまだ捜査中だが、共犯という形になりそうだった。<br>諭を殺害した実行犯ではなかったことだけが、せめてもの救いだった。<br>「二宮さんの実家は資産家だから、孫の諭君を狙ったんだろう」<br>「当初は諭君だけを連れ去るつもりが、結局二人とも連れていった……」<br>「想像でしかないが、三浦は帽子の名前を見て、あなたを自分の娘だと気づいて逃がしたんだろうな」<br>刑事の声が、遠くで響いていた。<br><br>赦されない。<br><br>鼓動が……心臓から喉を通過して、後頭部へ抜ける。<br>頭痛がしばらく早鐘を打つ。<br>めまいの後、視界に光が走る。<br>そして、ゆっくり鼓動が心臓に戻ってくる。<br></p><hr name="5B2786B0-3B8D-430C-9A95-3311C66C19E1" id="5B2786B0-3B8D-430C-9A95-3311C66C19E1"><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n133c704b53c6'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 22:51:57 +0900</pubDate>
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      <title>小説『アンカジュアルコネクション』——第八章　残像のダカーポ——</title>
      <media:thumbnail>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/266423323/rectangle_large_type_2_f480017fc5bd095c72dde43ec1455b9e.jpg?width=800</media:thumbnail>
      <description><![CDATA[<p name="A6D48A5F-6BF1-4FD0-9CFE-A637FF7BF3A1" id="A6D48A5F-6BF1-4FD0-9CFE-A637FF7BF3A1">不穏な空気のまま車に戻った。<br>結局、他の写真を見ても、記憶はあやふやなままだ。<br>再び、雨が降り始めている。<br>助手席で記憶を整理した。<br>弛緩した手足の感覚が鈍くなる。<br>昔味わった懐かしい感覚。<br>不快な記憶が、思考の邪魔をし、身体が震える。<br>痺れも悪寒も怖くない。<br>恐ろしいのは、現実だけ……。<br>あのころに戻ってしまったら、自分の頭を撃ってしまう。あんな時間にまた戻るくらいなら、終わりにした方が良い。<br>これがゲームなら、もうやらない。<br><br>赤信号。<br>風景が止まり、ウインカーの音が響く。<br><br>「私も、諭と一緒に連れて行かれたの」<br><br>「……え？　そんなこと、どこにも……」<br>信号が変わり、ゆっくり左に曲がる。<br><br>「私、あの頃の記憶、なくなってた……」<br><br>「……変だとは思った」<br><br>「テレビであの顔を見て、引っかかってはいたけど、わからなかった……」<br>エンジンの振動が、下腹部に重く響く。<br><br>「じゃあ、二人一緒に？」　<br>黙って頷いた。<br><br>「でも、『拳銃』の方が私に逃げろって」<br>「拳銃の方って……親父？」<br><br>目を瞑って思い出す。<br><br>「たぶん……」<br>くわえタバコの——。<br><br>「やっぱり……」<br><br>「でも、確証はないの」<br><br>左側に見えていた海が、後ろに去って行く。<br><br>交番から、パトカーに乗った。<br>転んで膝が痛かったけど、我慢した。<br>家が見えたら、涙が溢れた。<br><br>「男の二人組、黒い座席、諭の顔……それだけだった」<br><br>「公園で、諭が連れて行かれるのが見えて……私は追いかけた。そうしたら、『お母さんが倒れたから』って、坊主頭に言われて一緒に車に乗せられた」<br><br>「タバコの匂いが強くて、車の中が青白くて……」<br><br>「でも、お母さんは家で寝てた」<br>お母さんが……ソファに座ったまま寝ていた。<br>霞が晴れていく。<br>揺らしても、起きない……。<br><br>「車から降りようとしたら、坊主頭がナイフを出した」<br>吐き気が気道をせり上がる……。<br><br>「それで……車を運転していたのが『拳銃』」<br><br>「でも、『ナイフ』がいなくなったとき、『拳銃』が私に、『逃げろ』って」<br>くわえタバコで、お腹に響く低い声……。<br><br>「砂利の駐車場を飛び出して、振り返らず無我夢中で走った。途中で諭のことを思い出して慌てて戻ったけど……もうどこかわからなかった」<br><br>窓の外は、単調な草原が続く。<br>スニーカーを脱いで、痺れた足をシートに乗せた。<br><br>「交番でも諭が連れて行かれたこと、ちゃんと言えなくて……」<br>「パトカーに乗って、お母さんがいた」<br><br>「警察の人に何度も聞かれたけど、同じことしか答えられなかった」<br><br>青白い煙、タバコの匂い。<br><br>(……役立たず！)<br><br>「警察がいなくなった後、お父さんがリビングをめちゃくちゃにしてた」<br>「お皿とか、テレビとか、壁の絵とか」<br>「それから、お母さんは……」<br>「『見られてる』と言ってカーテンを閉め切って、無表情で薄暗いテーブルに座ってた」<br><br>「お父さんは、私に一切口を利かなくなった」<br><br>「私が公園に行くとね、いつのまにか、みんないなくなるの」<br>目尻から涙が流れた。<br><br>断片的な記憶が、少しだけ残酷を和らげた。<br><br>「疲れているお母さんの代わりに、諭を公園に連れて行った」<br>手足の痺れが、感覚を完全に奪う。<br><br>「違うだろ……悪いのは」<br><br>「最低だ……」<br><br>現実は、腐っていても、賞味期限が切れた牛乳のようには捨てられない。<br>腐ったまま現実はずっと続いていく。<br>——「捨てられるよ」ルアが言った。<br><br>靄がかかった視界をワイパーが通過すると、薄い雲の隙間から幾筋もの光が、雲の隙間から差し込んでいた。<br>この薄明光線が、再び降りだした雨が終わっていく予感をさせる。<br><br>フロントガラス越しに、拾った貝殻を光に透かして見る。<br><br>私は何をする。<br>何が出来る。<br><br>治療中の歯が疼いた。<br>今日は歯医者の日だった。<br>しかし、行けそうにない。<br><br>こんなとき、姉は何を……。<br><br>「私ね、お父さんとお母さんを殺そうとした」<br><br>「え……いつの話？」<br><br>「五年生の冬」<br><br>「俺と一緒だ……」<br><br>「私とは全然話さないのに、二人で楽しそうにしてたから、玄関にあったゴルフクラブをね、リビングで振り回したの」<br><br>「……凄いな」<br>「でもね……お父さんに当たったんだけど、なんともないの」<br><br>「俺には、そんな勇気なかったな……」<br><br>「私は本気だった……」<br><br>「だから……しょうがなかったんだよ」<br><br>「……」<br><br>雨がすっかり止んで明るくなってきた。<br>道路の先には虹がある。<br>窓を開けると湿った暖かい風が髪の毛を揺らした。<br><br>カバンを拾ってもらったお礼を言おうかと思ったが、お別れの始まりみたいになってしまうからやめた。<br><br>「どうする？」<br>コウを見た。<br>「うん……」<br>コウが呟く。<br>雑木林を思い出す。<br>腐葉土の匂い、カラスの羽根……。<br>あのときは、一人。<br>たぶん、コウも。<br>「意味、あんのかなー」<br>「……うん」<br>「疲れた……」<br>「うん……」<br>胸騒ぎがなくなったかわりに、心が痛む。<br>痛くて、痛くて、目を瞑る。<br>呼吸が激しくなり、嗚咽が漏れる。<br>我慢して、我慢して、解放した。<br><br>コウは、ずっと、黙っている。<br>諭……。<br><br>道路の繋ぎ目を過ぎる規則的なタイヤの音。<br>風が身体の痺れを持ち去る。<br>満開のしだれ桜が通り過ぎた。<br><br>「思い出って何？」<br><br>「……過去の遺物」<br><br>「じゃあ、これは？」<br>海で拾った貝殻。<br>「それは今日の物だから、あえて言うなら、記念……」<br>風の渦が髪の毛をボサボサにしていった。<br>「そうか……じゃあこれは？」<br>ボロボロになったスカイツリーの入場券。<br><br>「よく、持ってたな……それは思い出かもな」<br><br>「——残念。これも、記念です」<br><br>「なんで？」<br>「まだ、上があるから」<br><br>「意味がわからないよ」<br><br>「展、望、回、廊……」<br>——ルアが、「拳銃」と言う。<br><br>「ねえ、私の拳銃は？」<br><br>「グローブボックス……」<br>コウは前を見たまま、少し間を置いて答えた。<br><br>「これは……返してもらう」<br><br>「使えるようにしておいたから、危ないぞ」<br>「どうすんだ？」<br>冗談めかして言ったが、声はわずかに硬かった。<br>そして、それ以上は何も言わなかった。<br><br>「教えなーい」<br><br>コウは小さく息を吐いた。<br>「じゃあ、拳銃は何だ？」<br><br>「記念です」<br><br>「いや、思い出だ」<br><br>「違います」<br><br>弟の頭をかき回し、髪の毛をボサボサにしてやった。<br>「おい、やめろよ！」<br><br>私は、酷い泣き顔のまま言った。<br><br>「ねえ、今から、スカイツリーに行こうよ」</p><p name="6A74611B-6E17-4181-8873-338232BCAA83" id="6A74611B-6E17-4181-8873-338232BCAA83"><br></p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n968d135eda2b'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 22:49:45 +0900</pubDate>
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      <title>小説『アンカジュアルコネクション』——第七章　転調のプアゾン——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="2483954A-17AD-4C07-BC23-C44F0B5DF9E5" id="2483954A-17AD-4C07-BC23-C44F0B5DF9E5">重い身体を引きずったまま、海の近くで食事をした。<br>外観は古めかしく、中は妙に整っていて、落ち着かない綺麗さだった。<br>先客は、二組。<br>揚げ物の音が響き、油の重たい匂いが漂う。<br>お昼を過ぎていたためか、海が見える窓際の特等席が空いていた。<br>木の硬い椅子に座る。<br>窓から見える海は、モネの油絵のよう。<br><br>正面に座ったコウは、少しやせて見えた。<br>コウが窓枠に立ててあったメニューを開き、反転させてテーブルに置いた。<br>顔をうかがうこともできず、<br>「アジとエビフライ定食」<br>とだけ言った。<br>困ったら、上から二番目のものを頼んでおけばいい、とコウが前に言っていた。<br><br>威勢のいい声が厨房の方からする。<br>横目でコウを見る。<br>表情が固い。<br>私は……。<br>おしぼりで手を拭き、窓から仰ぐ。<br>曖昧な藍白の空が、私を操る。<br>コウにとって悪い人が、私にとっていい父親であるわけがない。<br>何度もそう思った。<br>でも、今は何を喋っても……。<br><br>「私、九官鳥なんだよ」<br>アジフライを一口。<br>「みんなそうだよ」<br>コウが唐突に立ち上がり、マガジンラックから新聞を取った。<br>一瞥して、私の方へ滑らせる。<br><br>一面の見出しが、『死刑囚の告白』。<br>息が止まる。<br>なんで、わざわざコウがこれを私に……。<br><br>写っている顔写真から、目が離せない。<br>坊主頭で、吊り上がった眉毛、顎のホクロ。<br>やはり、どこかで——。<br>事件があったのが十一年前。<br>三月だから、私は十二歳。<br>——雑木林。<br>逮捕が六月。<br>私は……中学一年生。<br>見ているとしたら、それ以前。<br>私の拳銃は——。<br>どこで、この顔を……。<br><br>「弟がいたんだろ？」<br>不意にコウが話しかけてきた。<br>ん？　弟はコウではないのか？<br>「誘拐された、弟が……」<br><br>心臓が、喉のすぐ下で鳴っている。<br>身体に力が入る。<br>……誘拐。<br>（役立たず……）<br>両腕が小刻みに震えだす。<br>【——が、身代金一千万円の受け渡しに犯人は現れず、誘拐された被害者Sちゃん（当時二歳）は行方不明のままで——】<br><br>知らない道を、お母さんのところを目指して走った。<br>自分の足音が、追いかけて来て、振り返れなかった。<br>角を曲がって転んだら、足音が消えた……。<br>蝉がずっと鳴いていた。<br><br>私には、一緒に誘拐された弟がいた。<br>銀色の車と、銀色に光るナイフ。<br>もう……二十年も前。<br><br>砂利の駐車場と、黒い拳銃。<br>パトカーとお母さん。<br>……諭は、まだ見つかっていない。<br><br>でも、その話は黙っていなければ。<br>お母さんが困る。<br>お父さんとお母さんが喧嘩になる。<br>——「子守りもできないのか！」<br>お父さんが顔を真っ赤にする。<br>——「役立たず！」<br>お父さんは喋らない。<br>私はずっと仲間外れ。<br><br>「その梅沢が、誘拐は自分がやったと供述してるんだ」<br>コウは新聞を覗き込んでいた。<br><br>ああ……そうか。<br>あの顔は……。<br><br>ナイフ……。<br><br>「でも……なんで、コウが……」<br>声が震える。<br>「母さんのとこに刑事がきたんだ」<br><br>「……どうして？」<br><br>「親父が、共犯者なんだって」<br><br>「え……うそ」<br><br>「なんで、そういうことになるの？」<br><br>「知らないよ……」<br><br>「梅沢が、親父を共犯だって……言い始めたんだ」<br><br>【——なお、Sちゃんの行方につきましては、梅沢の供述に基づいて、警察が捜索中——】<br><br>あのとき、私だけ逃げた……。<br><br>私と諭は、公園から梅沢に連れ出された。<br>私は四歳だった。<br>あの顔は……白い開襟シャツの……ニヤケ顔。<br>梅沢はナイフで、もう一人は……拳銃だ。<br><br>拳銃……。<br>見えない鎧を纏っているように、身体が重い。<br><br>「死刑なのに、なんで……」<br>「執行を遅らせるためだろうって」<br><br>私は、共犯者……拳銃の顔も……。<br><br>「親父は多分……犯人だ」<br><br>「どうして？」<br>「恐喝と傷害の前科があるんだ……」<br>「ろくに働かないで酒ばっかり飲んでさ、俺と母さん殴ってギャンブルして……最低なんだよ」<br>「だから、親父は人殺しだ」<br>「……で結局さ」<br>コウが、視線を外した。<br>「俺も人殺しなんだよ」<br>静かに呟いた。<br><br>「まだ、決まったわけじゃないんでしょ？」<br><br>「いや……」<br><br>諭が生きていないのなら。<br>私が、置いてきたから……。<br>私だって人殺し。<br>コウと同じ。<br>父親が人殺しで、私も——。<br>お金なんて……。<br>誰でもいいなら、私でよかったのに。<br><br>箸がずっと止まったまま。<br>コウの顔を、見ることができない。<br><br>——甦る。<br>皿のエビフライがナイフで、食べかけのアジフライが拳銃……。<br><br>急に身体の力が、抜けていった。<br>もう、疲れた……。<br><br>「母さんに呼ばれて、そんな話をされて……」<br>「もう、ダメだなって」<br><br>「水面でもがいてた親父の姿、思い出しちゃって」<br><br>「やっぱり、正義なんて……」<br><br>「まだ、わからないんでしょ」<br><br>「そうだけど、親父はもういないし」<br><br>「ねえ、写真は？　お父さんの」<br><br>「……え、なんで？」<br>「いいから！」<br><br>「たしか遺影が……」<br><br>もし、そうだったらどうすればいい？<br>——「だから、一人でいいんだろ」ルアが言う。<br><br>「ほら、遺影をスマホで撮ったから、ちょっと粗いけど」<br><br>どうだろう……似てる……。<br>車に詰め込まれたとき、こっちを向いた。<br>黒いシャツと、黒い拳銃。<br>左手に、缶コーヒー。<br>充満したタバコの匂い。<br>吐きそう。<br>髪が短くて、顎が細くて、二重瞼。<br>くわえタバコで、『逃げろ』と言った。<br><br>「他の写真は？」<br>コウがスマホをスクロールしている。<br><br>私は、空から眺めている。<br>テーブルに向かい合って座る二人。<br>入学式の思い出なんて、ない二人。<br>父親の写真なんて、いつまでも見つからなければいいのに。</p><p name="605171B7-50DC-4CE9-A8D7-55B5E9C7A174" id="605171B7-50DC-4CE9-A8D7-55B5E9C7A174"><br></p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n88493521418b'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 22:47:52 +0900</pubDate>
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      <title>小説『アンカジュアルコネクション』——第六章　旋律のインレイ——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="66C05118-0215-44B5-89A9-3F423A922D00" id="66C05118-0215-44B5-89A9-3F423A922D00">あの日以来、気が付くとコウのことを考えている。<br>河原での出来事は、偶然ではなかった。<br>当時、私が事実を知ったとしたら、どうなっていただろうか……。<br>この十年間は、姉弟の準備期間ということで良かったのか。<br>今は両親の正体よりも、コウが気がかりだ。<br>あの暗さの意味が、わからない。<br>きっと、後ろめたさだけではない。<br><br>花見から三日後の昼休み。<br>窓から見える曇り空を尻目に、コウの番号を押した。<br>自分から電話をかけるのは、初めてだった。<br>「時間がある時に、会いたいんだけど」<br><br>「仕事を辞めたから、美咲の都合でいいよ」<br>冷めた声。<br>「……じゃあ、明日にしよう」<br>一呼吸置いて言った。<br><br>明日は仕事だが、構わずに約束をした。<br>乱れた呼吸が、すぐには戻らない。<br>会ってどうする。<br>何て話す……。<br>転がっているものを止める自信はない。<br>でも、コウだけは違う。<br>何があっても、彼を止めなくては。<br><br>長井係長の席へ向かう。<br>「あの、すみません」<br>係長は書類を眺めていた。<br>「ん、何だ？」<br>下を見たまま。<br>「急で申し訳ないんですが、明日、休みを頂きたいです」<br>ようやく、私を見た。<br>「本当に急だな。もしダメだって言ったらどうする？」<br>……退職。<br>「でも、休みます」<br>「そうか。じゃあいいよ、休んで」<br>緊張が解けていく。<br><br>翌日。空は薄い灰色。<br>細かい雨が柔らかく街を包み、冷たい風が舞う。<br>Tシャツにパーカーを羽織り、ビニール傘を差して待つ。<br>やがて、コウが白いハッチバックで迎えに来た。<br>「どこに行く？」<br>いつもの声。<br>「……どこか、遠くへ」<br>核心に迫る糸口を探る。<br>「じゃあ、とりあえず真っ直ぐ」<br>後戻りができない予感がした。<br>姉弟と知って以来、少し不自然。<br>しかし、顔を見ればいつもと変わらない。<br>緑の看板をくぐり、有料道路に滑り込む。<br>視界が徐々に高くなった。<br>この車が、風に乗って空を漂う舟のよう。<br><br>「ねえ、なんで仕事を辞めたの？」<br><br>沈黙を取り繕うように、コウがラジオをつけた。<br>——トロイメライ。<br><br>「……なんか新しいことをしたいと思って」<br>妙に穏やか。<br><br>「新しいことって？」<br>外は霧雨。<br><br>「いや……これから……」<br>——ルアが、「聞け！」と言った。<br><br>「何か、隠してるでしょ？」<br>ワイパーの音に、鼓動が重なる。<br><br>「違うとこに行こうかなーってさ」<br><br>料金所をくぐると、正面に白波が立つ海が現れた。<br>「どうして？」<br>左に道がカーブして海と平行に進む。<br>コウの横顔の向こうに、鈍く光る海原。<br><br>「生まれから、ずっと地元だから……」<br>私だって同じなのに。<br><br>「近くに、姉がいるから？」<br><br>「そんなんじゃないよ」<br>肩透かし……。<br><br>有料道路を終点まで走り抜けた。<br>海岸沿いの通りに出ると、視界が開けた。<br>半分が空で、残りが駐車場。<br>奥には土手があって、その先が、きっと海。<br>季節外れの管理小屋は無人だ。<br>少ない車が、ぽつりぽつりと停まっている。<br>コウは、土手の近くに車を寄せた。<br><br>「……桜、散っちゃったな」<br>コウがシートを倒した。<br><br>「桜の木なんか、ないよ」<br>顔は見えない。<br><br>「……そうだな」<br>——今日のテーマは、『入学式の思い出』です。皆さんの懐かしいお話を——。<br>白々しいFMを、消した。<br>窓を少しだけ開けた。<br>雨に濡れたアスファルトの匂い。<br><br>コウのほうに身体を向けた。<br>「絶対、何かあるでしょ！　姉弟なら話してよ！」<br>……たぶん、コウは泣いていた。<br><br>繰り返す波の音を数える。<br><br>重いため息の後、ようやくコウが口を開いた。<br>「俺の親父……事故で死んだことになってるけど、本当は違うんだ」<br><br>コウの父親が、小学五年生の時に事故で亡くなったのは知っている……。<br>「海から引き上げられた親父は、酔っ払いの転落事故として処理されたんだ」<br>「警察には……助けようとしたけど、ダメだったって言った」<br>コウは、頭の下で指を組んで、目を瞑ったまま。<br>私は、身体を戻した。<br><br>「いつも荷物持ちで連れて行かれるんだ」<br>「俺、親父のこと大嫌いだったから……助けたくなくてさ」<br>「いっつも殴られて……」<br><br>ワゴン車が一台、静かに通り過ぎて行く。<br><br>「風に煽られて落ちたんだ……」<br>「親父は、いつも家で酒を飲んでから、車で行く」<br><br>フロントガラスの霧が集まって、ひと筋流れた。<br><br>「飯もなくて、腹減ってスーパーで万引きして、見つかって……」<br><br>「寒いし、眠いから、行きたくなかったんだ」<br><br>「お下がりのグローブで野球やって……練習の差し入れでおにぎり食べて……」<br><br>私はコウのことなんて、なにも知らない。<br>知ろうともしなかった。<br>明るくて、トラックに乗って、野球少年で、川に飛び込んで、スカイツリーに行って……。<br>それしか知らない。<br><br>「惨めだけど、生きてた。死にたいと思うことはあったけど、いつか普通になると思って、耐えてたんだ」<br>「中学が終わるまで……って」<br><br>「でも、親父は、飼ってたサスケを八つ当たりで蹴飛ばして……」<br><br>コウの荒い息づかいが聞こえる。<br><br>「それから、もう死のう、って……」<br><br>フロントガラスの外が、雨で歪む。<br><br>「寒くて……指先の感覚がなくなっても、親父に背中を向けて耳を塞いでしゃがんでた」<br><br>「バケツのロープがあったんだ」<br><br>「そのロープを……海に捨てた」<br><br>「助けても、また殴られるし、俺には……助ける理由がなかった」<br>「怖かったけど……」<br><br>ハンカチを持った掌が汗ばむ。<br><br>「……嬉しかったんだ」<br><br>「親父が死んで、みんなも嬉しそうにしてたから、これで良かったって」<br>「キレイな部屋にも引っ越してさ、母さんは夜の仕事を辞められたんだ」<br><br>「でも……見殺しにしたんだ」<br>コウは噛み締めるように話していた。<br><br>私には、答えなんてわからない。<br>ただ……胸の奥が、苦しい。<br><br>雨上がりの合図のように、トンビが鳴いた。<br>サーフボードを持ったカップルが、肩を並べて海へ向かう。<br>私は、考えていたことを忘れてしまい、ついさっきの記憶を手繰り寄せる。<br>届きそうで届かない記憶の背中に、ルアが言う。<br>——「一人で死ぬんじゃなかったのか？」<br>薄灰色の空が、光を透かしている。<br>羽根を広げたままのトンビが、高く消えていった。<br><br>「よしっ」<br>コウが静かにシートを起こした。<br>そして、窓を閉め、エンジンを止めた。<br>「せっかく来たし、海……行こうか」<br><br>駐車場のアスファルトを踏みしめ、コンクリートの階段を登る。<br>開けた視界は、薄灰色の空が映る海。<br>押し寄せる、幾重の白い線。<br>少しだけ濡れた砂は思いのほか歩きやすい。<br>後ろ向きに歩いて、自分の足跡を確かめた。<br>これでいいのか？　と。<br><br>磯の香りが鼻を突く。<br>波を近くで感じるのは初めて。<br>浜を平らに滑る波は透明で、ずっと沖の方まで歩いて行けそうだ。<br>海は冷たい真水のように感じたが、想像していたよりも暖かくてしょっぱかった。<br>太めのデニムを膝まで捲り、スニーカーを両手に持って波打ち際を歩く。<br><br>コウのことを考える。<br>——ルアが、「放っておけ」と。<br>私は、死にたかった。<br>今でも……。<br><br>初めて足に触れた波が、私の毒を奪っていく。<br>波に触れると、浸透圧で私の不幸が海に移っていく。<br>波を感じれば感じるほど、身体が軽くなる。<br>波の囁きが、メロディのように……。<br><br>私から誘っておいて……無理に聞き出しておいて。<br><br>急かすような、波が来たところで水から離れた。<br>負の濃度を上げてしまうと海に悪い。<br><br>コウの父親は、私の父親。<br>でも、もういない人。<br>見たこともないし、今は実感も湧かない。<br>コウは苦しそうだ。<br>私は外にいる。<br>姉弟だと言われたというのに。<br>頼りない、不甲斐ない、役立たず。<br>（役立たず——？）<br>……背筋が、すっとなる。<br><br>人の心配……。<br>私の不幸なんて。<br>考えることがたくさん。<br>私は宙に放たれた、赤い風船。<br>これから、どこに飛んで行くのか。<br>コウは……。<br>偽物のお父さんは……。<br>私は……。<br><br>砂浜の丸太に、コウが腰を掛けている。<br>水平線をまっすぐ見ている。<br>私は、拾った貝殻をポケットに入れた。<br>自分のことなら、どうにでもなる。<br>でも、他人にはどうすればいいのかわからない。<br>いや、弟か……。<br><br>コウは、どこかへ行こうとしている。<br>あまり、遠くでなければいいけど。<br>私は慣れない感情に立ち向かう。<br><br>鈍く光る妖しい海。<br>不幸を蓄えた海は、暖かくて冷酷だ。<br>繰り返す浜辺の波が、いつまでも終わらないから。</p><p name="49C6BC5C-AFBA-4D59-8097-339A922059BC" id="49C6BC5C-AFBA-4D59-8097-339A922059BC"><br></p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/nda5e73102c3f'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 21:47:46 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/real_ibis7850/n/nda5e73102c3f</link>
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      <title>小説『アンカジュアルコネクション』——第五章　変遷のユニゾン——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="C7CB4137-E3A0-495B-9AEC-6B468D4C051B" id="C7CB4137-E3A0-495B-9AEC-6B468D4C051B">淡い桜の残像を連れたまま、鰻屋へ向かった。<br>食事にお金をかけない私が、自分から選ぶことは決してない店だ。<br>重厚な藍色の暖簾をくぐると、外の静けさを塗り潰すような活気と、甘辛い脂の匂いが迫ってくる。<br>「予約席」と書かれた札のない席は、どれも幸せそうな喧騒で埋まっている。<br>私たちは、小上がりの畳に、向かい合って座った。<br><br>「アパートの給湯器が壊れてさ、大家に——」<br><br>コウが喋り出すが、落ち着かない。<br><br>「——で、結局一週間、銭湯だよ」<br><br>言葉の表面をなぞるのが精一杯だった。<br>胸のざわつきが、早鐘を打っている。<br>コウの話より、後ろの家族の会話ばかりが耳に残った。<br>ゴールデンウィークにディズニーランドに行く、とか。<br><br>食事は、完全に上の空だった。<br>この居心地の悪さは、コウのせいでもある。<br>私は、味音痴だ。その上、さっき目にしてしまったスマホの画面が、網膜に焼き付いて離れない。<br>なぜ、私の登録名が『ねえちゃん』なのか。<br>違うんじゃなかったのか？<br>折を見て問い詰めようと思っていたが、絶え間なく喋るので、切り出せない。<br>今日のコウは、不自然なほどに良く喋る。<br>だから、何も聞けなかったし、鰻の味もわからなかった。<br><br>濃い藍色の空を仰ぐ。<br>淡い月の光。<br>四月でも、まだ冬の星座が端に見えた。<br>「オリオン座だ！」<br>指を差し、コウに場所を教える。<br>「オリオン？　ビールだ」<br>「竜がいる、りゅう座だ」<br>今度は北極星の辺りを指さして、竜の形を教えた。<br>「逆さまだな」<br>コウが空を仰ぐ。<br>潮の香りを連れた夜風が吹き抜けた。<br>街灯に照らされた白い花びらが、螺旋に降ってきた。<br>「海風……」<br>呟いたコウの横顔が、一瞬、深い影に飲み込まれたように見えた。<br>「桜。もう一度、見に行こうよ」<br><br>賑やかな昼とはまた、一味違う雰囲気。<br>桜の下に集まる人の様子は、すっかり妖怪たちの宴会。<br>「あれが欺瞞かー。昼よりも楽しそう」<br>「茶番な。どうかな、半分ぐらいは楽しいんじゃないか」<br>「半分？　そうか……それも大変だね」<br>来年は、『桜の憂鬱』がなくなるかもしれない。<br>「半分の人が、半分の人のためだから、みんな楽しいんだ……表面上は」<br>「それを断る自由はないのかな」<br>「人、それぞれだな」<br>「自由って、何だろう」<br>「……不自由かな」<br>コウがポツリと言った。<br>「難しい」<br>「意識してしまうと、不自由になる」<br>「じゃあ、自由はない、と？」<br>「いや、自由は無意識の中にある」<br>「よくわからない」<br>「俺もわからないけどさ、なーんにも考えない中に、自由があると思うんだよね」<br>「そうすると、大人になると自由は難しいね」<br>「そうだな、いろいろ考えてしまうからな。でも、自由はきっとある。ただ、気が付くのは、ずっと後なんだ」<br><br>——ルアが、「今だ！」と叫んだ。<br>「ねえ、ところで……なんで私が『ねえちゃん』なの？」<br><br>「……」<br><br>「違うんでしょ？」<br><br>「ん？　ああ、それか。……俺のほうがさ、年下だから」<br>コウは、夜の闇に視線を逃がした。<br><br>言いにくそうに答えた姿を見て、すぐに後悔したが、勇気を出してもう一度聞いた。<br>「それだけ？」<br><br>「……うん。最初は『ボサボサ』にしてたんだけど、そのあとすぐにボサボサじゃなくなったから」<br>そう言ってコウがベンチに腰を下ろした。<br><br>「変なの」<br>コウは桜を仰ぐこともせず、真っ黒な地面を凝視していた。<br>私が四月で、コウが三月だから確かに年上とは言えるけど……。<br><br>「いや……美咲は、俺の姉さんなんだ」<br>地面を眺めたまま。<br><br>「だから、違うんでしょ」<br>隣に腰を下ろして頭上の桜を眺める。<br>スマホの画面を思い出す。<br><br>「……本当なんだよ」<br><br>「何が？」<br><br>「……いや、やっぱいい」<br><br>「言って！」<br><br>「……本当に姉さんなんだよ」<br><br>花びらが、掌に……。<br><br>驚きよりも、最初に訪れたのは安堵感……。<br>冷たい眼差し….怒鳴り声。<br><br>あの父親は本当の父ではなかった。<br><br>「コウは、いつ知ったの？」<br>「中二のとき」<br>「じゃあ、スカイツリーの……」<br><br>「……あの後、ばばあに問い詰めたんだ。でも、美咲には絶対に言うなって」<br><br>自分をコントロールする間もなく、視界が滲み、涙が溢れ出した。<br>「なんでもっと早く教えてくれなかったの！」<br>桜の下に響いた。<br><br>「……どうすればいいか、わからなかったんだよ」<br>遠くで誰かの笑い声が虚しく響く。<br><br>「私だけが、何も知らなかったなんて」<br>「いつもそう……私はただ、生きてるだけ」<br>握った手を開くと、さっきの桜が……。<br><br>「ずっと……死にたかったのに」<br><br>「……知ってるよ」<br><br>「え？　なんで……」<br>顔を上げると、コウが私を見ていた。<br><br>「そうじゃなきゃ、あんな風にならないだろ」<br>「授業中ずっと外を眺めて、誰かが話しかけても態度悪くて、表情が無くてさ……」<br>「俺もそうだったから、わかるよ」<br>俺もって……。<br><br>涙が止まらなくなる。<br>「それで、ちゃんと聞いたんだ。美咲のこと」<br><br>「親父は美咲の母親と付き合っていて、美咲を身籠った」<br>桜の塊が風で揺れる。<br><br>「だけど、両親に反対されて別れさせられて、俺の母さんと結婚したんだって」<br>ハラハラと花びらが。<br><br>「だから、美咲のところの親父さんも……たぶん全部知ってると思う」<br><br>あの冷たさの正体。<br>高鳴る胸の理由。<br>感情がわからない。<br>涙は小さい美咲。<br>大きい美咲は無敵。<br>私は……真ん中。<br><br>コウが私の相手をしていた理由がわかった。<br>「同情なの？」<br>「ちがうよ、ねえちゃんだからだよ！」<br>また涙が激しくなる。<br><br>ルアの声が聞こえない。<br>涙が終わらない。<br>コウの顔は見られない。<br>「コウは……どう思ったわけ？」<br><br>「寂しかったからさ……単純に嬉しかったよ」<br>「美咲の助けになれば、俺も……さ」<br><br>「何？」<br><br>「いや……とにかく……」<br>嬉しかった……。<br><br>何もしてあげたことなんてないのに。<br>本当は、私のほうが嬉しい……はず。<br>素直に嬉しいと言えるコウが、羨ましい。<br><br>落ち着いた涙の隙を見て、桜を仰ぐ。<br>春の夜風が、ノクターン。<br>桜の間の月が、猫の目みたい。<br>猫の目が、桜の涙を散らす。<br><br>ずっと感じていた桜の憂鬱。<br>その正体は、ぬくもりへの嫉妬……。</p><p name="936E03A4-51F6-4B82-B4B1-87B6839AA29A" id="936E03A4-51F6-4B82-B4B1-87B6839AA29A"><br></p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/nbcfc32fc0d04'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 21:42:07 +0900</pubDate>
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      <title>小説『アンカジュアルコネクション』——第四章　輪唱のモノローグ——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="6E64F5BE-5077-4482-A87B-4ABB0008218F" id="6E64F5BE-5077-4482-A87B-4ABB0008218F">「美咲！　例の書類整理、今日中に終わらせろって係長に言われちゃった」<br>先輩のカオルだ。<br>「私、今日は残業できませんよ。歯医者の予約があるので」<br>コピー機の動作音とオゾン臭。<br>「忘れたふりをすれば、大丈夫ですよ」<br>印刷した会議資料をまとめる。<br>「でも、念を押されたから、それはさすがにまずい」<br>「じゃあ、ちょっと私、交渉してきます」<br>ホッチキスで留める。<br><br>顧客対応はバリバリの先輩だけれど、こういうことはまったく頼りにならない。<br>入社したてのころは、カオルにはよく助けてもらっていた。<br>しかし、今は二人の能力に差はなく、お互いの得意分野を生かして、うまく働いている。<br><br>「すみません長井係長、あの、『今日中に』と言われました例の書類整理の期限を明日までにしていただきたいのですが」<br>会議資料を渡しながら言った。<br>「まーたそんなこと言って、いつまでもやらないだろ」<br>耳が痛い。<br>しかし、そのせいで困ったことはない。<br>つまりこれは、ただの係長の圧力だ。<br>「申し訳ありません。おっしゃる通りなのですが、今日急に言われましても、私は本日予定がありまして、残ることができないのです」<br>「どうしても今日というのであれば、用事を済ませてから戻ってきますが、もし明日でもいいのであれば、そうしていただけると助かります」<br>なるべく丁寧に言った。<br>係長は椅子に座ったまま、口角を上げた。<br>「あ、そう、じゃあいいよ明日で、急いでるわけでもないし」<br>「でも明日必ず終わらせろよ！」<br>この上司が、厄介な人じゃないのは知っている。<br>うまく持っていけば、何とかなると初めから踏んでいた。<br>「オッケーもらいましたよ」<br>「さすが、美咲！」<br>「そこでお願いなんですけどー」<br>「喫煙所でしょ、いいよ私やっとくから」<br>私はタバコの匂いが苦手。<br>吐き気がして、たまに本当に吐く。<br><br>大学を卒業してここに就職し、一年になる。<br>「あんた、私の半分じゃーん」<br>中学時代、英語の点数を鵠沼にバカにされ、勉強を始め、大学まで行った。<br>おかげで、まだ生きている。<br><br>「でも、美咲ってさあ、悩みないでしょ」<br>カオルが鏡を見ながら、マスカラをつける。<br>「なんでですか？」<br>「テキパキしてるじゃん」<br>「そんなことないですよ。死にたいと思ったことは何度もありますよ」<br>「よく言うよ。本当に悩んでたら、そんなこと言わないって」<br>「そうですか？」<br>「変なやつー」<br>テキパキなんてしていない。<br>私は九官鳥だ。<br>意味もわからない言葉を覚え、喋っているだけ。<br><br><br>歯医者へ向かう。<br>川辺の桜が風に舞い、手の甲に一枚貼りついた。<br>桜は嫌。<br>——ルアが、『振り払え』と言う。<br>私に桜は必要ない。<br><br>無機質な待合室のテレビが、不意に私の意識を引き留めた。<br>大きな画面に映し出されていたのは、一人の男の顔写真。<br>指先が冷たくなっていく。<br>座るのも忘れ、字幕を目で追う。<br>【十年前、老夫婦を拳銃で殺害し、現金を奪った強盗殺人事件。<br>当時、犯人はすぐに逮捕され、すでに死刑が確定した】<br>画面が、被害者夫婦の写真に変わった。<br>首吊りに失敗した、あの頃だ。<br>家でそのニュースを見た。<br>でも……なんであの顔が。<br><br>坊主頭……高校の担任……いや、もっと前か。<br>雑木林の前……。<br>小学校……家、学校……家……。<br><br>【死刑囚・梅沢は、新たに二十年前の誘拐事件についても自供を始めたという】<br><br>——誘拐？<br>背筋が冷たくなった……なぜ？<br><br>「二宮さーん。二宮美咲さーん」<br>診察室から呼ばれた。<br><br><br>部屋に戻り、夕食の準備をする。<br>冷蔵庫にはなにもない。<br>調理器具も、ほとんどない。<br>三秒考えて、カレーライスに決めた。<br>カレーもご飯も電子レンジ。<br><br>カレーはずっとレトルト。<br>母は私のカレーに薬を入れた。<br>私はすぐに気がついた。<br>食べたふりをして捨てた。<br>レトルトは安心。<br>薬では死ねないし。<br><br>スマホが鳴った。<br>コウからだった。<br>一年ぶり。<br>「……はい」<br>「次の土曜日さ、飯行こうよ」<br>気のせいか、少し暗い。<br>殺風景な部屋に掛けてあるカレンダーを見る。<br>この部屋は、大学時代のアルバイト代だけで借りた。<br>だから、狭い部屋を見渡しても冷蔵庫とベッドしかない。<br>でも、覗きも、盗聴も心配がないから楽。<br>「六日ね。うん、わかった」<br>カレンダーに丸をつける。<br>「じゃあ、また連絡する」<br>私の誕生日は四月五日。<br>コウが高校を卒業して就職してからは、毎年この時期にご馳走してくれる。<br>しかし、彼は何も言わない。<br><br>カレーを食べていると、テレビで見た写真が頭をちらついた。<br>窓を開けても、星は見えない。<br>風が吹き込み、カレンダーを揺らした。<br>——ルアが、「考えるな」と言った。<br>そんなこと、言われても……。<br>電話のせいで、死刑囚の写真に、コウの顔が重なった。<br><br>でも、コウは事件に関係ない……はず。<br><br><br>四月六日、花曇りの中、コウと会った。<br>予約まで時間があると言うので、<br>「公園に行って、桜を見たい」<br>と言った。<br><br>コウと会うのは一年に一、二回程度。<br>いつもコウから。<br>私も就職したなら、お返しをしても良さそうだけれど、そんな気の利いたことなんて……。<br>スカイツリーから、もう十年。<br>家族から誕生日を祝ってもらったことなど一度もない。<br>コウが何も言わないのは、きっと気を使っているのだろう。<br><br>いつもは桜が散ってしまっているが、今年はまだ咲いている。<br>コウとなら、嫌いな桜を見られそうだ。<br>満開は過ぎてしまっていたが、私の花見は、それでいい。<br><br>今日の彼はいつもと違う。<br>静かで、妙に落ち着いている。<br>「最近、変わったことなかった？」<br>コウがそんなことを聞いてきた。<br>「取り立てて言うほどはないかな。歯医者に通い始めたぐらい」<br>「あ、そう」<br>ちょっと、よそよそしい。<br>「死刑囚の告白、知ってる？」<br>「あー歯医者のテレビで見た。それが？」<br>「……いや、今話題になってるからさ」<br><br>「美咲は、どんな子供だった？」<br>「……子供」<br>「……覚えてない」<br>「あ……そう」<br>彼は明るい性格で、社交的だ。<br>学校の成績は良くなかったが、頭は良い。<br>でも、頑張っている姿を見た記憶がない。<br>だから、彼の明るさは作られたものではないかと思ったりする。<br><br>大通りの向こうに、桜の並木が見える。<br>信号を渡り、自転車ガードをかわして公園に入った。<br>薄紅色のトンネル。<br>露店のソースが漂う。<br>わたあめが桜の木みたい。<br><br>肩車の親子。<br>自分への殺意が湧く。<br><br>土曜日というのもあり、賑わっていた。<br>なるべく下を向いて歩く。<br>通路の端には花びらが溜まり、爽やかな香りがした。<br>池にも花が浮く。<br><br>並木から外れた、広場のベンチに座る。<br>人ごみの中よりも落ち着く。<br>時おり吹く風が花びらを運んでくる。<br>ちゃんと桜を眺めるのは初めて。<br>私の非日常。<br>しかし、みんなにとっては日常の延長。<br>暖かくなったらコートを脱ぐように、花が咲いたら人が集まる。<br>私には日常の延長がない。<br>しかし、これが花見なら、いつかはきっと日常に変わる。<br><br>「花見ってなんだろう？」<br>「……欺瞞」<br>「え？　みんな楽しそうだけど？」<br>「そうかー、じゃあ、茶番」<br>「あー、それだったら何となくわかるかも」<br>「でも、真面目に答えるなら、油かな」<br>「あぶら？」<br>「潤滑油。誘われたら、行った方がいいってこと」<br>「それで、茶番かー」<br>「そう、しかし、花見には必要なものがある」<br>「何？」<br>コウに着信があったようだ。<br>「出ないの？」<br>画面を見ているだけで、出る様子がない。<br>「ほら」<br>『ばばあ』と表示されていた。<br>「面倒なんだ、長くなる。何だったらさ、相手してよ！　俺、ちょっと行ってくるから」<br>スマホを預けて、行ってしまった。<br>コウの『ばばあ』は母親だ。<br>震えている画面を見ながら持っていると、止まった。<br>ふと思った。<br>私は何という名前で登録されているのかと。<br>自分のスマホでかけてみた。<br>『美咲』とか『二宮』なら普通だが、その可能性はおそらく低い。<br>母親を『ばばあ』とするぐらいだから、『ネクラ』とか『変人』あるいは『ブス』ぐらいはあり得る、と繋がるまでの間考えていた。<br>しかし、そのいずれの予想も外れたのがわかったころに、コウが缶ビールを持って戻ってくるのが見えた。<br>震える液晶に表示されていたのは——。<br><br>——ねえちゃん——？<br><br>「何か話した？」<br>スマホを返すと、コウは探るように言った。<br>「出られるわけないでしょう」<br>「そうかー、はい、これで立派な花見だ」<br>口の中を軽く潤した。<br>「これが、花見かー」<br>赤い風船を持った子供が、楽しそうに過ぎていく。<br>足音が、カノンのように。<br><br>私は、迫り来る胸騒ぎを抑えた。<br>ベンチに座ったまま、桜の花びらが光る風に舞っているのを、だんだん低くなってきた陽光の陰に見ていた。</p><p name="D0EB98FC-EBE5-4704-9DD8-ED91AF134CE3" id="D0EB98FC-EBE5-4704-9DD8-ED91AF134CE3"><br></p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/nfc279a77fa76'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 20:17:02 +0900</pubDate>
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      <title>小説『アンカジュアルコネクション』——第三章　黎明のモデラート——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="8BFFE4B4-4541-48EA-981C-7AB1B36AC133" id="8BFFE4B4-4541-48EA-981C-7AB1B36AC133">私は、この世に何も期待しない。<br>お母さんが、完全におかしくなったころから、人付き合いが面倒になった。<br>気を遣うのは、先の長い人がすればいい。<br>私にはルアがいる。<br>そして、あれもある。<br><br>「二宮さんも一緒にご飯食べようよ」<br>話しかけてくる偽善者もいた。<br>「……私はいい」<br>窓ガラスに映る自分を、ぼんやり眺める。<br>かわいそうなんて、思われたくない。<br>他人が何とかできるわけもない。<br><br>中学二年の初夏。<br>帰り道。<br>クラスの中心人物、鵠沼美海が、二人の取り巻き——目の細い（狐）とおたふく顔の（狸）を引き連れて絡んできた。<br>「おまえ、いつもスカして生意気なんだよ」<br>ただ、聞き流す。<br>ヘドロの匂いを風が運ぶ。<br>こいつらと私の匂い。<br>電車が通り過ぎ、蝉の声だけ残る。<br>「死ね」<br>一言で十分。<br>「おまえが死ねー！」<br>狐がカバンを川に放り投げた。<br>これで、終わる。<br>放物線は、長く伸びた草の陰に消え、川に落ちた。<br>奴らは笑いながら駆け上がって行った。<br><br>川辺に降りると、カバンはもう手の届くところにはなかった。<br>護岸から二メートルほど先を、ゆっくりと回転しながら流されていく。<br>中に家の鍵が入っていた。<br>合鍵をもらうための母親との会話。<br>それは、さすがに憂鬱……。<br>その時、視界の端から一筋の影が川へ飛び込んだ。<br>なんだ、こいつ……。<br>彼は汚れた水の中でカバンを掴み、こちらを仰いだ。<br>「ちょっと、手貸して」<br>その制服は呼吸を乱し言った。<br>我に返り、その男子の手を引っ張った。<br>胸あたりまでびしょ濡れになってカバンを拾い上げたのは、同じクラスの片瀬航だった。<br>彼と口を交わしたことは一度もない。<br>私はほとんど話さないが、男子とは一切口を利かない。<br>「ほら」<br>差し出されたカバンは重く、冷たかった。<br>感謝を伝える言葉を、私は持っていない。<br>片瀬は土手に座ってズボンをまくり、靴下を絞っている。<br>「バカみたい」<br>草いきれが鼻をつく。<br>立ち去るわけにもいかず、少し離れて腰を下ろした。<br>片瀬は、明るいお人好し。<br>こいつがなんで……。<br>泥くさいカバンの中を、意味もなく覗く。<br>偶然、カバンの行方を見てしまい、引くに引けなくなったのか。<br>水面に反射した光が、網膜を刺すように眩しい。<br><br>「もう少し、うまくやればいいのに」<br>片瀬は、眩しそうに川面を見ていた。<br><br>「関係ない！」<br>鋭い声になった。<br><br>何も知らないくせに……。<br>胸の奥が重苦しい。<br>払い除けたい。<br>視界が滲む。<br>カバンの中のハンカチは、使い物にならないし。<br><br>遠くに見えるスカイツリーが、小刻みに震える。<br><br>沈黙が続く。<br>次の声は、聞きたくない。<br>電車の音……。<br>——ルアが、『逃げろよ』と。<br>カバンのファスナーを閉め、土手を一気に駆け上がる。<br>声をかけられるかと思ったが、何もなくて、そのまま家まで走った。<br><br>部屋に入り、慎重に侵入の痕跡を探す。<br>単行本が一冊、反対になっている。<br>それだけ。<br>引き出しのテープを確認した後、ベッドに倒れた。<br>カバーのない天井のライトが、無機質な光を放っている。<br>涙は出たけれども、流れてはいなかったと言い聞かせた。<br>まだ、充血している目をゆっくり瞑ると、少し痛かった。<br><br><br>学校が早く終わった日、片瀬の後をつけた。<br>大通りの郵便局を曲がって、静かな住宅地に入る。<br>公園の角で、不意に片瀬の足が止まった。<br>私は道路の端に寄り、ブロック塀にくっついた。<br>片瀬はカーブミラー越しに、こちらを見ていた。<br>彼は振り向いて、私の方へ戻ってくる。<br>「なんか用か？」<br>「……」<br>視線を逸らしてしまった。<br>『ありがとう』と言えば終わる。<br>「あ……」<br>言葉が出ない。<br><br>公園の蝉が、ベートーヴェンの第九を歌っている。<br><br>「二宮、時間ある？」<br><br>「えっ？」<br><br>「今からさ、スカイツリーに行こうよ」<br>突拍子もない提案に、視線が空中を泳ぐ。<br><br>「……行こうぜ」<br>私の意志を確認もせず、手を取って歩きだした。<br>黙って後ろをついていった。<br>いつでも、走って帰ればいいと思った。<br><br>構内アナウンスと電車が止まる金属音。<br>「行くでしょ」<br>——ルアが、『やめとけ』と言った。<br>視線を上げ、片瀬の顔を見る。<br>頷いた。<br>わからない。<br>断れなかったのか。<br>それとも、行きたかったのか。<br>こんなのは、始めて。<br><br>電車は空いていた。<br>冷房が肌を刺す。<br>片瀬は一言も喋らない。<br>隣の様子は窺えない。<br>正面の人が降りて、車窓に片瀬が映った。<br>目まぐるしく過ぎる風景の中の、片瀬を睨む。<br>押上駅から、エスカレーターを乗り継いだ。<br>外へ出た瞬間、視界が白く爆ぜた。<br>見上げると、巨大なスカイツリーがそこにあった。<br>ずっと鼓動が早い。<br>雑踏が、不気味な囁きのようだ。<br>雑音と人ごみとエスカレーター。<br>巨大な塔とそれに群がる建物の群れ。<br>私は、遠くから見る小さなスカイツリーがいい。<br>現実が、私を押し潰す。<br><br>桜のエレベーターに乗った。<br>液晶の数字が私を置き去りにし、三百五十で止まった。<br>鼓膜が引っ張られ、音が遠くなる。<br>ドアの隙間から光が覗き、一気に視界が開けた。<br>高所の恐怖に、虚勢を張る。<br>眼下の隅田川に架かる橋、ビルに紛れる赤い東京タワー、東京ドーム、新宿、銀座……。<br>作りものの一部。<br>遠くに富士山。<br><br>私が暮らす街。<br>ゆるく蛇行する銀色の川が、境目。<br>低い建物がずっと続いて、道路や線路が浮かび、その奥に海。<br>すっかり腐った現実。<br><br>ここは張りぼての世界。<br>きっと、誰にも干渉されない権利を持っているかのように、錯覚できる。<br>だから、死ぬ人は死ねばいいし、生きる人は勝手に生きるのがいい。<br><br>帰りの電車。<br>片瀬が口を開いた。<br>「二宮、髪ボサボサだな」<br><br>「別に……」<br>「そっちだって、ボサボサ」<br>隣のイガグリ頭を見た。<br><br>「うわ、たしかに」<br>頭を抱えて笑う。<br><br>「ねえ、なんでスカイツリーなの？」<br><br>「——この前、河原で泣きながら見てただろ」<br>「泣いてない！」<br>「いや、俺は見た」<br><br>「違う」<br>「ぜーったい、泣いてた！」<br><br>めんどくさい。<br><br>電車がすれ違い、車内が揺れる。<br>「なんで、あのとき河原にいたの？」<br><br>「あ、……たまたま、だよ」<br><br>「帰り道、逆でしょ？」<br><br>「だって、ばばあがさ……」<br><br>「ばばあって？」<br><br>「二宮が、俺の姉ちゃんだって……」<br><br>「……は？　変な嘘」<br>冷たい手を握り込んだ。<br><br>「死んだ俺の親父が、二宮の父親だって言うからさ……」<br><br>「え？　本当の話？」<br>「さあ、ばばあ酔ってたけど……」<br><br>暗くなった分かれ道。<br>「二宮、番号教えてよ！」<br>「携帯、持ってない」<br>「なんだあ……じゃあ、俺の教えるから、なんかわかったらかけて」<br>片瀬の番号をメモ帳に書き留めた。<br>「ワタルって、どんな字？」<br>「航海の、コウ」<br>「コウカイの、コウ？」<br>私の頭には『後悔』という漢字しか浮かばなかった。<br>「コウね」<br><br><br>学校で片瀬は、一方的に挨拶して去っていく。<br>「あんた、なんで生きてんの？」<br>鵠沼が言った。<br>「なんでだろ」<br>素直な言葉が、静かに出た。<br>「バッカじゃないの」<br>「じゃあ、あんたはなんで生きてんの？」<br>「……あんたを笑うために決まってるじゃん」<br>「殺す」<br>呟いた。<br>「おー怖っ」<br><br>段ボールで塞いだ部屋の窓を開け、新月に照準を合わせる。<br>冷たい右手に、夜の生温い風を当てた。<br>私は、大人になれるのか？<br>見えない月は、未来の私。<br>片瀬の話が本当だとしたら、私は……。<br><br>『電話が欲しい』と紙に書き、震える手でダイニングテーブルに置いた。<br><br>夏休み、八月の中旬。<br>天色の空。<br>真っ白な日差し。<br>今日の蝉は、三拍子のワルツ。<br>郵便局の角を曲がった公園。<br>木陰のベンチも熱かった。<br>入道雲の手前を、飛行機雲が横切る。<br><br>ハーフパンツ姿の片瀬が現れた。<br>ポケットのスマホを出して見せた。<br>「お！ 俺にかけてよ」<br>急ぎ足で片瀬が近づいてきた。<br><br>「ほら、俺はもう、ボサボサじゃないけどな」<br>短い髪を撫でて、白い歯を見せた。<br>「ばばあにもう一回、確かめたんだよ」<br><br>「それで？」<br>私は相変わらず跳ねたままの髪を触った。<br>「そんな話、知らないって言われた」<br>ほっとしたような……。<br>「……変な話」<br>片瀬は、緑の風に揺れる私の寝癖を、勝手にスマホで撮っていた。<br><br>カバンを開ける。<br>奥の方、手探りで触れる……。<br>——あった。<br>少し戸惑い、拳銃を取り出す。<br>——ルアが、『だめだ！』と叫んだ。<br><br>「これ……拾ったの……」<br><br>「事件の——」<br><br>「お、……トカレフじゃん。ちょっと見せて」<br>無邪気な片瀬の手が、伸びて来た……。<br><br>「あっ！」</p><p name="A7EAF67D-5472-4FCD-A012-6A51BCFB32D6" id="A7EAF67D-5472-4FCD-A012-6A51BCFB32D6"><br></p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n0a50d5de5ba3'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 20:13:06 +0900</pubDate>
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      <title>小説『アンカジュアルコネクション』——第二章　福音のトカレフ——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="26704604-D050-4805-A139-1CE923F25E5A" id="26704604-D050-4805-A139-1CE923F25E5A">来月から中学生になる。<br>その前に、私は死ぬことにした。<br>——ルアも、「それがいい」と言った。<br><br>土曜日の昼下がり。<br>お父さんはたぶんゴルフで、家にはお母さんが一人。<br>お母さんは、出かける私を見ようともしない。<br>空は鉛色。<br>もう三月だというのに、冷たい向かい風が自転車を重くした。<br>錆びかかったチェーンの音だけが単調に響く。<br>「みんなを殺すより、美咲が死んだほうが簡単」とルアは言う。<br>両親とは、ずっと話をしていない。<br>特にお父さんとは。<br>お母さんはいつからか、借りてきた他人のような顔になった。<br>もう、幼いころの記憶は曖昧だ。<br>小学校の六年間が、やっと終わった。<br>だから、中学校はもう、いい。<br><br>つい最近、老夫婦が拳銃で撃たれて死んだ。<br>拳銃があれば、簡単なのに。<br>すぐに終わらせたいから、飛び降りを最初に考えた。<br>けれど、ふさわしい場所が見つからない。<br>だから今日、この雑木林で首を吊ることにした。<br><br>前輪の泥よけには、私の名前が書いてある。<br>二宮美咲。<br><br>自転車を草むらに倒した。<br>周りを見渡し、雑木林へ入る。<br>風に揺れる枝がアリア。<br><br>素肌に刺さる空気が、一段下がる。<br>踏みしめる乾いた枯れ葉が、進むにつれて湿っていく。<br>適当に、獣道を外れた。<br>ゆく手を遮る枝を折る。<br>赤茶色の葉っぱが、落ちてきた。<br>指先の感覚が鈍い。<br>靴の中に枯れ葉が入った。<br>木漏れ日さえ届かない、薄暗い場所へと導かれる。<br>湿った土の匂い。<br>お母さんの箪笥から盗み出した、朱色の帯締めを取り出す。<br>カラスが一度、笑った。<br>私は、何の感慨もない。<br>遺書もない。<br>書きたいことも、その相手もない。<br><br>帯締めを枝に結び、躊躇なく輪に首を通す。<br>何も考えず、地面を蹴った——。<br>乾いた音がして、枝が折れた。<br>黴臭い風が通り抜ける。<br>丈夫そうな別の枝でもう一度。<br>首に圧迫感——。<br>しかし、完全に体重が乗る前に、一気に弛んだ。<br>今度は朱色の布地がぷつりと切れた。<br>枝はいくらでもあるが、帯締めはもうない。<br>枯れ葉の上に投げ出され、緩やかな斜面に横たわっていた。<br>枝の間から空を見ていると、ため息が漏れる。<br>腐葉土の刺激臭が、やけに甘い。<br>死ねない……。<br>また、あそこに戻るのか……。<br>段ボールで塞いだ窓。<br>開かない押し入れ。<br>テープで留めた引き出し。<br>鍵のかからないあの部屋に……。<br><br>身体が震えた。<br>汗が冷え、体温を奪っていく。<br>奥歯が鳴り、全身に倦怠感が……。<br>二回も地面に打ちつけた、尾骨が疼いた。<br>枝の間から、天を仰ぐ。<br>全部、灰色。<br><br>神様なんてくそくらえ。<br>生きていく気力だけ奪っておいて。<br>中身はとっくに空っぽなのに。<br><br>また来よう。<br>獣道へ戻るのが面倒だった。切れた帯締めを放り投げ、広葉樹の間を縫うように歩いた。<br>木の根をかわし、枯れ葉を撒き散らす。<br>靴が湿った黒い土で汚れる。<br>指先が痺れ、足先の感覚がなくなっていく。<br>カラスの羽根が、ふわりと降ってきた。<br>不意に、足を取られる。<br>朽葉色の地面が目の前に迫り、両手で押さえた。<br>手のひらに泥が……。<br>尾骨と右膝に、ゆっくりと熱い痛みが走った。<br>お母さんの無表情が笑う。<br>勝手に涙が落ちる。<br>怪我なんて！<br>いっそ、殺してよ！<br><br>カラスが私を馬鹿にする。<br>手のひらの泥をクヌギの木で拭う。<br>白いものが落ちている。<br>湿った軍手。<br>拾って、無造作に投げる。<br>奥の枯れ葉が不自然だ。<br>盛り上がりを足で探る。<br>何かある……。<br>茶色い袋がのぞいた。<br>鈍く重い手応え。<br>膝をつく。<br>袋の端をつまみ、恐る恐る持ち上げる。<br>腐った枯れ葉に、黒い塊が……。<br><br>（心臓の音）<br><br>——？　これは……。<br><br>——拳銃？<br><br>まさか……。<br>伸ばした指先が止まる。<br>風で枝が鳴る。<br><br>——「平気だ」ルアが言った。<br><br>手で触れると氷のように冷たい。<br>これがあれば、いつでも終われる。<br><br>冷たいお父さんの顔が過った。<br><br>鳥が羽ばたく音——カラスが二回、笑っていた。</p><p name="FABE4017-E430-4CF7-9EF3-7980CADF68E4" id="FABE4017-E430-4CF7-9EF3-7980CADF68E4"><br></p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/nfd9cbe54ddb9'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 14:07:33 +0900</pubDate>
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      <title>小説『アンカジュアルコネクション』——第一章　落日のイントロ——</title>
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      <description><![CDATA[<figure name="7E7E8875-124C-4F40-AE2D-BD80D2B448AC" id="7E7E8875-124C-4F40-AE2D-BD80D2B448AC"><blockquote name="7E7E8875-124C-4F40-AE2D-BD80D2B448AC"><p>——あらすじ——<br>誘拐事件によって日常を引き裂かれた一家の記憶と、その傷を抱えた少女・美咲の成長を軸に、過去と現在が交錯していく物語。家庭の歪みや孤独の中で生きる美咲は、ある出会いをきっかけに少しずつ他者と関わり始める。しかし、断片的に蘇る記憶と不可解な事件の影が、彼女の現実を揺さぶっていく。やがて繋がっていく人と出来事の因果の中で、彼女は自分自身の過去と向き合うことになる。過去の傷跡をなぞりながら、絶望の果てに彼女が見つけた「血の繋がり」の真実とは。痛切な旋律が響く、再生と鎮魂の物語。</p></blockquote>
<figcaption></figcaption></figure><p name="C2876E17-1C85-4A8B-97FF-1275175F85EB" id="C2876E17-1C85-4A8B-97FF-1275175F85EB"><br><br>暗闇で電話が鳴り響く。<br>どこで鳴っているのかわからない。<br>弾かれたように目を開けた瞬間、不意に音が止まった。<br><br>朦朧とした意識で目をこすり、壁の時計を仰ぎ見る。<br>そのとき、また呼び出し音が鼓膜を突いた。<br>アナログ時計の長針は十一時を少し回ったところを指していた。<br><br>昨夜、義父が倒れた。<br>手術は終わったが、予断は許さない。<br>夜通しの付き添いで、意識が鈍い。<br>電話のもとへと向かう。<br>もしかしたら義父の容態に何か変化があったのかもしれない。<br>受話器を取る。<br><br>「……はい、二宮です」<br><br>「お宅の子供を預かった」<br><br>頭の中が真っ白になる。<br>これは、たちの悪いいたずらだ。<br>ゆっくりと首を巡らせた。<br>奥の和室に視線を這わせる。<br>乱れた布団がある。<br>だが……。<br><br>美咲も、諭も、いない。<br><br>「簡単だ。一回しか言わない」<br>膝の力が砕け、受話器を耳に当てたまま崩れ落ちた。<br><br>「午後四時。和田公園。ブランコのゴミ箱に一千万円だ。白いビニール袋に入れろ」<br>電話の声はくぐもっていた。<br>蝉の鳴き声と重なる。<br>男の声だが、聞き覚えのある声ではない……はずだ。<br><br>「俺は見ている。警察が動いたらおしまいだ」<br>一方的にそう言って電話は切れた。<br>息を飲み込んだ。<br>自分の子供が誘拐——。<br>床に落ちた受話器の音で、辛うじて現実に戻る。<br><br>もしかしたら、トイレに行っているだけなのかもしれない。<br>「諭！　美咲！」<br>喉を枯らし、家の中を掻き回す。<br>だが、返事はない。<br>玄関へ駆け下りると、並んでいたはずの、小さな靴が、二足とも消えていた。<br>鍵が開いている。<br>そんなに広いわけでもない庭にも手掛かりはない。<br>家の周りを走る。<br>荒い息づかいだけが聞こえる。<br>視界が歪み、熱い塊が頬を伝った。<br>力が入らない。<br>——お前は、何をやらせてもダメだな。<br>忌まわしい声だけが残る。<br>夫は夜まで帰ってこない。<br>仕事中は連絡をするなとも言われている。<br>警察には……。<br>玄関の上がり框に座り込み、途方に暮れる。<br>家の中は、なんの音もしない。<br><br>すると、ポケットの中で携帯が鳴った。<br>「私だけど」<br>義母からだった。<br>「頼んでいた物を用意して、五時に迎えにきて頂戴」<br>相変わらず事務的だ。<br>私が、タオルや着替えを持って行く予定になっていた。<br>義母なら、携帯にかけてくる。<br>義母には相談できない。<br>携帯電話の時計は、もうすぐ十二時になる。<br>思考が沈む……身体が鎧のように重い。<br>時間だけが、ただ過ぎていく。<br><br>外から子供の声……。<br>大きく深呼吸し、外へ出た。<br>声の方へ……誰もいない。<br>無風で、静まりかえっている。<br>暴力的な日差しが体力を奪う。<br>さっきの道を、もう一度。<br>角を曲がる度、絶望が深くなる。<br>乳母車が見えた。<br>心臓が痛い。<br>——違う。<br><br>走って、いつもの公園へ行く。<br>ブランコ、鉄棒、ベンチ——。<br>いない。<br>——砂場、見覚えのある赤いバケツ……。<br>無邪気な子どもに訊いた。<br>「諭と美咲は？」<br>「……知らない」<br>怯えた声に眩暈が襲う。<br><br>再び走る。<br>血の気が引く。<br>汗が滴る。<br>涙と混ざり、口の中に入ってくる。<br>乾いた喉が鳴る。<br>全身に悪寒が……。<br>蝉——電話の声。<br>——俺は見ている——。<br>振り返った。<br>真っ白な太陽が見ていた。<br><br>風に乗った柔軟剤の匂いで我にかえる。<br>夫に連絡するしかない。<br><br>「諭と美咲が……誘拐されて……」<br>「なんだと！　何をやっていたんだお前は！」<br>怒号が虚しく響く。<br>「電話が来て……」<br>「落ち着いて話しなさい」<br>「布団にも……公園にバケツが……」<br>「警察には連絡したのか！」<br>「知らせたら……おしまいって……」<br>「すぐ帰る。お前は動くな、家にいろ」<br><br>家の前にパトカーが見えた。<br>全力で走る。<br>警官が小さな影を連れていた。<br>美咲が泣いてる。<br>「よかった……」<br>足元から崩れる。<br>アスファルトが、暖かかった。<br><br>……諭がいない……。<br><br>「帰ってください！」<br>「奥さん、落ち着いてください。事情を——」<br>「いいから、帰って！お願い！」<br>溜まっていたものが爆発し、私の慟哭が響いた。<br>「諭が、誘拐されたんです……」<br>消えてしまいそうだった。<br><br>若い警官と入れ替わり、背広の男たちが入ってきた。<br>見たことのない物が運び込まれ、現実が遠のく。<br>リビングがタバコの臭いで、知らない部屋になっていく。<br>私は座っていたダイニングテーブルの端に、傷を見つけた。<br>諭がスプーンでつけたものかもしれない。<br>私は、そこから目を逸らせなかった。<br><br>隣に整髪料が強い刑事が腰を下ろした。<br>「美咲ちゃんは、泣きながら歩いているところを、通りがかりの小学生が連れてきてくれたんだ」<br>「よかったよ、名前が書いてあったからな」<br><br>何がよかった？<br><br>「美咲ちゃんは一人で逃げたと言っている」<br>「二人組だったらしいが……パニックでよく覚えてないようだ」<br><br>美咲は、奥の和室で寝ている。<br>リビングから声が聞こえる。<br>「——で保護された女児は二宮美咲、四歳で間違いありません」<br>「はい、犯人は二宮諭、二歳を人質にしている模様です。——現金を要求しており——」<br>人質って……。<br><br>夫が戻ってきた。<br>二時半だ。<br>「おい、おまえ、たかが子守り一つ満足にできないのか！」<br><br>——春先に、美咲と諭の三人で河原で桜を見た……。<br>犯人は、きっと今も見ている。<br>夫は、私も美咲も見ることもなく、銀行へ向かった。<br>警察が動いたらおしまいだと言っていたのに……。<br><br>整髪料の刑事が……お前が悪いと囁く。<br>ほかの刑事も私を盗み見している。<br>聞こえないように、みんなで私の悪口を言っている。<br>家の中がタバコの青白い煙で満たされる。<br>義母の冷たい顔が浮かぶ。<br>新品のタオルはある。<br>着替えは……。<br>「奥さん！　どこへ行くんです！」<br>「着替えを買ってきます」<br>「今は、家に居てください！」<br>刑事が立ちはだかる。<br>「病院ですから！」<br>頑張ったのに、視界が捩れて気が遠くなる……。<br><br>蝉の鳴き声の下に諭がいる。<br>背中を見せて、砂場でしゃがんでいる。<br>なんだ……いるじゃない。<br>「諭ー！」<br>振り向いた顔は、……逆光で真っ白……。<br>「お母さん……お母さん……」<br>布団の中で意識が戻る。<br>「お母さん、大丈夫？」<br>美咲だ。<br><br>「諭は……？」<br>襖を乱暴に開ける。<br>リビングには、知らない男たち。<br><br>「ねえ、お母さんってば」<br>美咲がズボンを引く。<br>「うるさい！　役立たず！」<br><br>秒針の音が響く。<br><br>あと五分で、四時だ。<br><br>無線の音……。<br>——今のところ、ゴミ箱に接触する者、なし。公園内の捜索を続行するも、手がかりなし——。<br><br>早く、お金を渡して、早く病院へ。<br>でないと、またみんなに苛められる……。</p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/nb42420d3ccde'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 13:55:31 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/real_ibis7850/n/nb42420d3ccde</link>
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      <title>短編小説『ノーペイバック』</title>
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      <description><![CDATA[<p name="F30D8F6B-5383-425A-BE63-CAA369ED768C" id="F30D8F6B-5383-425A-BE63-CAA369ED768C">短編小説『ノーペイバック』<br><br>桜の花が完全に落ちて一週間になる。<br>空は灰色だ。<br>コンビニで、紅鮭とツナマヨのおにぎりとお茶を持ってレジに並んだ。<br>前にいるのはスーツで、その前が、学生風。<br>後ろは俺と同じブルーの作業着だが、同じ会社ではない。<br>レジに立つ、無愛想な坊ちゃん刈りのメガネが、レジの液晶に、「ありがとうございました」と抑揚なく話しかけている。<br>俺の前の人にも、俺にも。<br>俺は、メガネの奥の濁った瞳をずっと覗いていたが、坊ちゃん刈りは、顔を上げようとはしない。<br><br>休憩所の会議テーブルに白いコンビニの袋を置き、窓を半分開ける。<br>パイプ椅子に座り、白い袋の中身をぶちまける。<br>いじめを苦にして自殺した小学生のニュースを思い出しながら、ツナマヨのおにぎりをかじる。<br>灰色の空を仰いで、ペットボトルのお茶を飲む。<br><br>小学一年のとき、親父が仕事中に倒れて死んだ。<br>急性心不全だった。<br>親父は独立したばかりで、無理をしていた。<br>借金が残った。<br>おふくろが借金を返しながら、一人で俺を育てた。<br>貧乏だったが、おふくろは、優しかった。<br>貧乏だったから、遠足も体操服で行った。<br>貧乏だったけど、おふくろは行事には必ず顔を出した。<br>俺は背が低くて、痩せっぽっちだった。<br>学校では「チビ」と呼ばれた。<br>親父も、おふくろも小柄だった。<br>四年生から、小田桐先生が担任になった。<br>小田桐先生もチビと呼んだ。<br>小田桐先生は、おばさんパーマで俺を嘲笑う。<br>小田桐先生は、デブ。<br>小田桐先生は、絶対に許さない。<br><br>チビと言い出したのは、松田だ。<br>松田は背が高くて一重瞼の河童。<br>松田は床屋の息子。<br>松田の家は、学校を挟んで反対側。<br>俺は、バリカンで坊主頭だから、床屋へは行かない。<br><br>俺は友達が少なかった。<br>でも、石川とはよく話した。<br>石川は、お地蔵さんみたいな顔だった。<br>石川の父親は暴君で、母親はスナック勤めだった。<br>石川の父親は昔、人を二人刺したという噂だ。<br>でも、石川には聞けなかった。<br>石川は勉強嫌いだから、勉強の話はしなかった。<br>二人で、テレビのことをよく話していた。<br>家の方角が同じだったから、よく一緒に帰った。<br>石川の父親は有名な危険人物だったから、石川はいじめられない。<br>でも、石川は父親にいじめられていた。<br>母親には邪魔にされていた。<br>石川とは、たぶん友達だ。<br><br>ランドセルの中身を校庭にばらまいたのが、山本。<br>山本は酒屋の息子で豆タンク。<br>小太りなのに、足が早い。<br>カッコをつけているが、カッコ悪い。<br>陰湿そうには見えないが、陰湿だ。<br>何を考えているのか、よくわからない。<br><br>体操服を便所に入れたのが、久保。<br>坊ちゃん刈りのメガネ。<br>見た目は優等生だが、頭が悪かった。<br>九九も間違えるし、『類』を読めない。<br>自分の意志では何もできないパシリ。<br>久保の家は、さっきのコンビニだ。<br><br>画鋲を上履きに入れたのは、たぶん松田で、机の中を水浸しにしたのは久保。<br><br>体育の後片付けの最中に山本にドロップキックをされて、右腕を骨折した。<br><br>松田と山本と久保も絶対許さない。<br><br>白いギプスに「チビ」とマジックで書かれた。<br>嫌になって、夏休み明けから学校に行くのをやめた。<br>首でも吊ろうかなと思ってたら、石川が遊びに来た。<br>二人でテレビを観た。<br>石川が来ると、おふくろは嬉しそう。<br>でも、二か月経ったぐらいから、おふくろが寂しそうになった。<br>おふくろがかわいそうだったから、学校に行くことにした。<br>学校に行かない間に、勉強がわからなくなった。<br>石川に聞いても無駄だった。<br><br>休み時間、松田がBB弾を撃ってくる。<br>学級委員長の渡辺も一緒に楽しそうだ。<br>俺は……。<br>副委員長の小泉は、見て見ぬ振りをして、いつも羅生門を読んでいる。<br>小田桐は、俺の手が汚いと叩いた。<br>小さい頃の火傷の痕なのに。<br>小田桐は許さない。<br>通信簿の点数が下がった。<br>『落ち着きがなく、協調性がない』<br>と書いてあった。<br>石川はオール１でもお地蔵さんの顔のままだった。<br><br>委員長の渡辺の家は十三階建てのマンションだ。<br>居住者のおばさんについて行き、オートロックをすり抜けた。<br>エレベーターで十三階まで行き、通路の手すりから下を見た。<br>コンクリートの床があり、植え込みが点々と。<br>そこに、自由があった。<br>目の前の手すりが、境界線。<br>……でも俺は越えられなかった。<br><br>ニュースの小学生は超えた。<br>よほど……。<br><br>次のおにぎりは、とっておきの紅鮭——。<br><br>意気地なしが、中学生になった。<br>小学校の卒業アルバムと卒業証書は、ゴミ箱に捨てた。<br>松田と山本は、学区が違った。<br>久保は一人だと何もできない。<br>久保は中学でも、パシリだ。<br>俺をいじめる奴はいなくなった。<br><br>石川の両親が離婚した。<br>石川の父親が、出て行った。<br>石川の苗字はそのまま。<br><br>俺は、サッカー部に入った。<br>身長が低くて体重も少ないから、ずっと補欠だ。<br>マラドーナやロベルトカルロスやメッシにはなれなかった。<br>試合には一回も出なかった。<br><br>石川は金髪になった。<br>石川はタバコで補導された。<br>石川は学校に来なくなった。<br>心配だったが、石川の家に行く勇気がなかった。<br><br>中学を卒業して、自動車部品の下請け工場に就職した。<br>十歳も上の人に、こき使われる。<br>五十キロの俺が、三十キロのカゴを三百個。<br>また、いじめの日々が始まった。<br>でも、なぜか辛くない。<br>いじめられても、お金が入るから。<br><br>石川が少年院に行った。<br>大麻所持だと聞いた。<br>ずっと会っていない。<br>俺は、何もできない。<br><br>断り切れずに、嫌な先輩に付き合わされた。<br>初めて食べた特上カルビがとても美味しかった。<br>給料が出たら、おふくろにご馳走しようと思った。<br>「美味かったら、『ご馳走様』ぐらい言えよ」<br>嫌だった先輩が、嬉しそうに言った。<br><br>工場でも俺は『チビ』と呼ばれた。<br>後輩からは、『チビ先輩』だ。<br>おふくろを焼肉屋に連れて行った。<br>おふくろはたぶん、泣いていた。<br>年上の後輩も連れて行った。<br>笑顔で「ご馳走様です」と言われた。<br><br>二十歳で班長になり、二十三歳で主任になった。<br>でも主任はいっぱいいた。<br>俺は運が良かった。<br>いじめのない中学と、体育会系の工場。<br>あと石川。</p><p name="C8282435-7A6A-4C84-9206-8DF83AB678BA" id="C8282435-7A6A-4C84-9206-8DF83AB678BA">いじめで命を失くした小学生に、悪いと思った。<br><br><br>松田は不動産屋で、山本は酒屋を継いでいる。<br>久保はプータローで、実家のコンビニの手伝いだ。<br>小田桐は知らない。<br><br>見栄っ張りの松田の車は、二世代前のドイツ車だ。<br>タイヤの側面にネジを突き刺して、ドライバーでねじ込んだ。<br>空気が抜ける音とゴムの匂いが、ゆっくり辺りに広がる。<br>二人で二箇所ずつ。<br>石川が手伝ってくれているのは内緒だ。<br>石川の方が乗り気なのはもっと内緒だ。<br>罪悪感は、まったくない。<br>山本はバイクだ。<br>これも中古で１８００CCの大型。<br>二輪だから、一人一箇所で済んだ。<br>石川はいつになく真剣な表情だ。<br>久保は、国産の軽自動車だから、パチンコでサイドのガラス二枚を撃破した。<br>俺は、途中で思った。<br>これは復讐になるのか……。<br><br>小田桐は郊外の一軒家に住んでいた。<br>石川が、調べてくれた。<br>平日の昼間、留守を見計らって庭に侵入する。<br>俺は、エアコンの室外機と給湯器の配線を切断した。<br>石川が、勝手口と玄関の鍵穴にコーキング剤を流し込んだ。<br>脱出して、振り返ると小田桐が戻ってくるのが見えた。<br><br>「石川、先帰って」<br>石川は背中を見せ、右手を挙げて去っていく。<br><br>一人で小田桐の元へ。<br><br>「誰なの？」<br><br>「あ、『チビ』です」<br><br>「先生の生徒だった……」<br>訝しげに、俺を見る。<br><br>「先生に『チビ』って言われて嫌だったんですよ」<br>小田桐は、何も言わない。<br><br>「この手に見覚えありますか？」<br>右手を差し出す。<br>火傷の痕。<br>小田桐は、一瞬だけ見て、すぐに視線を外した。<br><br>「これを先生は、汚いって言って叩いた」<br><br>「……そんなつもりじゃ……」<br><br>「松田や山本と一緒に笑ってた」<br>小田桐は、何も言わない。<br>目も合わせない。<br><br>「覚えてないですか」<br>少し間があって、<br><br>「……いろんな子がいたから……」<br>そう言った。<br><br>俺は、うなずいた。<br><br>「そうですよね」<br>しばらく沈黙が続いた。<br>風で、どこかの洗濯物が揺れている音がした。<br><br>「これは復讐なんです」<br>小田桐は、黙ったまま。<br><br>「でも、たぶん先生には関係ないんですよね」<br>返事はない。<br><br>「何回も先生を殺そうと思いました」<br>小田桐は、何も言わない。<br><br>「おい！　なんか言えよ！　デブ！」<br>小田桐の肩が一瞬、動いた。<br><br>「それでは」<br>俺は背を向けた。<br><br>数歩歩いてから、振り返る。<br><br>小田桐は、まだ同じ場所に立っていた。<br>俺の方は見ていない。<br><br>自殺した小学生の記事を思い出した。<br>何も変わらない。<br>最初からわかっていた気がする。<br><br>石川が、少し離れたところで待っていた。<br>「あんなんで、よかったのか？」<br><br>「さあ」<br>俺はそう言った。<br><br>「すっきりしない」<br>石川が、少しだけ笑った。<br><br>「……な」<br>俺も、少しだけ笑った。<br><br><br>実際、俺は自分のことで精一杯だ。<br>空の灰色は心なしか薄い。<br>今日も坊ちゃん刈りのコンビニで、おにぎりを買う。<br>チビでも、痩せっぽっちでも、まあ、生きている。<br><br>石川は……たぶん、友達だと思う。</p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n5c71c453e029'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Mon, 06 Apr 2026 18:55:16 +0900</pubDate>
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      <title>小説『世界の果て　クラウン#1』</title>
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      <description><![CDATA[<p name="63080B5E-D3AA-4978-8CBC-5A827CD6D7AD" id="63080B5E-D3AA-4978-8CBC-5A827CD6D7AD">いつもの四両目に立っていた。<br><br>「——北海道と沖縄なら？」<br>「だったら、北海道。ウニが食べたい」<br>「じゃあ、今回の気分転換は、北にしようか」<br>背後から、女同士の会話が聞こえた。<br>首を少し傾けると、ショートカットの女がベージュのスーツ、その隣の黒縁メガネの女が黒いパンツスーツを着ていた。<br>北海道も沖縄も、俺には関係がない。<br><br>うちの会社は、残業のないホワイト企業を目指しているので、毎日定時で終業する。<br>だから、毎日１７：４２の電車に乗る。<br>座席が空いていても、俺は座らない。<br>最寄りの駅には九分で着く。<br>最短距離をとるために、電車を降りて、階段の左側を登る。<br>改札も一番左だ。<br>壁に沿うようにして左方向へ進む。<br>そのまま吸い込まれるように隣接する駅ビルに入り、エレベーターで二階から七階へ。<br>清潔感の溢れる、真っ白なカウンターのスポーツジムで、筋トレと有酸素運動で九十分間汗をかく。<br><br>駅ビルの一階に降り、奥の目立たないクリーニング店で、ワイシャツを一枚受け取る。<br>そのまま駅ビルを通り抜け、牛丼チェーン店に寄る。<br>カウンターの一番左が空いていなかったので、右から二番目に座り、夕食を済ませる。<br>牛丼屋を出ると２０：２５だ。<br>七分ほど歩いて、マンションの一階にあるコンビニで朝食を買う。<br>郵便受けの中を確認し、裏にある宅配ボックスから、荷物を取り出す。<br>エレベーターに乗り、八のボタンを押す。<br>エレベーターを降りて、左に進んだ角の部屋が俺の家だ。<br><br>カバンと荷物をテーブルに置き、風呂にお湯を張る。<br>コンビニの袋ごと冷蔵庫に入れる。<br>クリーニングされたワイシャツをハンガーラックの右にかけ、宅配便の段ボールを開ける。<br>洗濯洗剤とシャンプーだけだ。<br>ドラム式の洗濯機から、洗濯が終わった洗濯物を取り出し、所定の位置へ収める。<br>スーツを右のハンガーに掛け、脱いだワイシャツは、畳んで通勤カバンへ。<br>CS放送のニュースを見ながら、歯を磨く。<br>お湯張り完了の知らせを聞き、靴下、下着を洗濯機に放り込み、風呂に入る。<br>浴槽の掃除も済ませ、２２：００に風呂から上がる。<br>それから、二時間以内の映画を一本見て、１２：００に就寝する。<br><br>６：５８。目覚ましの前に目を覚ます。<br>冷蔵庫からコンビニの袋を出す。<br>ゆで卵、キャベツとレタスのサラダ、BLTサンドイッチ。<br>歯を磨き、髭を剃り、顔を洗う。<br>洗濯物を洗濯機に放り込み、スタートボタンを押す。<br>白いワイシャツは、六枚並んでいる。<br>一番左のハンガーを手にとった。<br>ネイビーのスーツは四着。<br>これも左から。<br>家を８：００に出て、ワイシャツをクリーニング店に出す。<br>８：２３の電車に乗り、８：５０に職場に着く。<br><br>誰にでも出来る仕事を１２：００までして、昼休み。<br>社食で幕の内弁当を食べる。<br>「——焼き肉か、イタリアンならどっち？」<br>「んー、お肉は食べたいけど、気分転換なら、イタリアンかな！」<br>「——じゃあ、『カンパネラ』予約するね」<br>おそらく、総務課の二人だ。<br>焼き肉、イタリアン……。<br>午後もルーティンで、１７：１５でタイムカードを切る。<br>エレベーターで一階へ降りる。<br>「——たまには、キャバクラ行かね？」<br>「おっ、いいねえ」<br>「時間、まだ早いからさ、ラーメン食ってからにしようぜ」<br>ロビーで前にいた若い二人。<br><br>駅の様子がいつもと違った。<br>「——停電のため、運休となっております。復旧の予定は立っておりません。他の路線やバスなどを——」<br>駅員が拡声器で声を張り上げている。<br>どんどん人が増えていく。<br>タクシー乗り場が、パンダの行列のようだ。<br>バス停は、隅田川の花火大会だ。<br>諦めて人混みから離れた。<br><br>アナログの腕時計は１７：１７だ。<br>一時間あれば歩いて帰れるが……。<br>メイン通りに交差する飲食店街へ。<br>——北海道、沖縄、ラーメン——<br>とりあえず、ラーメンでも……。<br>あたりを適当に見渡し、『札幌ラーメン』という黄色い看板の店へ滑り込んだ。<br>メニューで五秒迷い、食券を買った。<br>左上の味噌ラーメンだ。<br>カウンターの左が埋まっていたので、しょうがなく真ん中あたりに座る。<br>チャーシューではなく、挽き肉ともやしが乗っていた。<br>左の客の右肘が、俺の左肘に当たった。<br>黄色い麺を初めて食べた。<br>腕時計を見ると、１７：１７で止まっている。<br>この店には時計がない。<br>手首から外し、竜頭（リューズ）を引っ張って回す。<br>手ごたえがない。<br>おそらく、ゼンマイ切れだろう。<br>匂いがしないスープをレンゲで掬う。<br>口に運ぶのをやめて、丼をカウンターの上に乗せ、席を立つ。<br>突然、眩暈がして転びそうになった。<br>床の油で滑ったからだろうか。<br>顔を上げると黒縁メガネの店員。<br>「あ、昨日の電車で……」<br>黒縁は、無言で目で逸らした。<br>ポケットの携帯がない。<br>券売機も無くなっている。<br>不確かな足取りで、手動のドアを開け、赤い暖簾をくぐる。<br>入る時は黄色だったはず。<br>後ろから「ありがとうございました」と黒縁の声。<br>なぜか、黄色い麺の味を思い出せない。<br>歩いて来た方向がわからない。<br>とりあえず、左へ歩いた。<br><br>引き寄せられるように、裏路地へと曲がる。<br>無表情なキャバクラの呼び込み。<br>山盛りの自動販売機横のゴミ箱。<br>スナック、居酒屋、フィリピンパブ、雀荘。<br>進む方角を見失う……。<br>気づくと行き止まり。<br>右手にある子綺麗な古民家に、看板がぶら下がっていた。<br>低い瓦屋根で、玄関のような扉が二つ連なっている。<br>奥の方に『BAR URCHIN(アーチン)』という看板。<br>壁は焦茶の板張りで、窓には木の桟が付いている。<br>桟の隙間から窓ガラスの奥を覗く。<br>板が横に張り巡らされたログハウス風の店内には、カウンターが見える。<br>壁際のアップライトピアノがひっそり電球色に照らされていた。<br>店の中の様子を伺っていると、ガラスの引き戸が開いた。<br>カウンターの一番左は空いていた。<br>「あら、いらっしゃいませ」<br>赤いネルシャツを着たリッチー・ブラックモアみたいな髪型の女性が、微笑んだ。<br>立ち止まって、看板と店の中を交互に見た。<br>『アーチン』って……。<br>「さあ、どうぞ」<br>赤いネルシャツは、ドアを開けたまま、箒とちりとりを持って店の前の掃除を始める。<br>腕時計を見る。<br>１７：１７……。<br>いつのまにかカウンターの前に……。<br>「いらっしゃいませ」<br>「どうぞ、こちらへ」<br>黒エプロンでオールバックのマスターに、一番左の席を薦められた。<br>外観は、昭和の長屋だが、店内は重厚なカウンターの奥にスタイリッシュなボトルラックがあり、すっかり本格的な『BAR』だった。<br>一番左の止まり木に座り、メニューを眺める。<br>一番上に、ギネス。<br>だが、ビールの一番下にあったオリオンをオーダー。<br>マスターがココットに入ったナッツを左側へ置いた。<br>そして、程なく黒いゴムのコースターの上に明るい琥珀色のグラスが乗る。<br>店内の座席はカウンターに八席とピアノの前に一つ。<br>先客は二組。<br>奥に、グレージャケットを着た、白髭の紳士。<br>六十代後半ぐらい。<br>俺の隣の隣に男女のカップル。<br>男は黒いパンツに白い長袖のカットソー。<br>髪の毛は、ちょっと長めのゆるいウエーブ。<br>年齢は、俺よりちょっと上……三十三歳というところか。<br>女性はデニムに黒のブラウスでロングヘア。<br>二十歳ぐらい……大学生かもしれない。<br>なにやらマスターに促されて、その大学生がピアノへ向かう。<br>店内に、フローリングの床に当たるサンダルのヒール音が響く。<br>ピアノの前に座り、一呼吸聞こえた後、鍵盤を叩き出した。<br>みんな大学生の方を向いたので、俺もグラスを持ったまま体勢を変えた。<br>激しく流れる旋律を聴き、記憶を辿る。<br>聞いたことはあるが、曲の名前は知らない。<br>どこで耳にしたのかも分からない。<br>高音部分の連打が、空のグラスの音みたいだった。<br>グラスに口をつけるのも忘れ、聴いていた。<br>マスターと紳士が笑顔で手を叩く。<br>俺も遅れて叩いた。<br>隣の隣の三十三歳に聞いた。<br>「今のは、何という曲ですか？」<br>「『ラ・カンパネラ』ですよ」<br>「カンパネラ……イタリアン……」<br>「でも、こいつの『ラ・カンパネラ』は、優しすぎる！」<br>「このスピードでは、鐘じゃなくて、すっかり木魚だよ」<br>「そんなことないよ。上手よ」<br>赤いネルシャツが言う。<br>「じゃあ、立花さん弾けるの？　弾いてよ？」<br>女子大生が、座りながら三十三歳に挑戦的に言った。<br>三十三歳は『立花』という名前らしい。<br><br>「愚問だな」<br>立花は立ち上がり、大きな手振りで演説を始めた。<br>「もし、俺が『FUJIYAMA』のような速さで弾けるのならば、ただで君たちに聴かせるわけがあるまい」<br>「そして、もし、君よりも下手ならば、俺がピアノの側に寄ることは、絶対にない」<br>「なんだ、弾けないんじゃない」<br>「いや、弾けないんじゃない、弾かないんだ」<br>「どうして？」<br>「おふくろが死んで、親父が死んだからさ」<br>「いや、そんなことより、そこの青年が熱心に聴いてたから、感想を聞いてみるといい。きっと、彼は一流企業のエリートだぜ」<br>「また、適当なこと言って……すみません本当に」<br>「あ、いえ、いいんですよ」<br>「私は、音楽、ほとんど聞かないんですけど、さっきのピアノ、鳥肌が立ちました」<br>「ほらっ！　やった」<br>女子大生が笑って立花を振り返る。<br>「だから、お世辞だよ。音楽ほとんど聞かないって言ってるじゃん」<br>「それでも、いいの！」<br>「ありがとうございます。すっごく嬉しいです」<br>「私、白石といいます。大学二年生で二十歳です——で、この人は立花さん、年齢は三十歳ぐらい」<br>立花は同じ年か。<br>「私は岡田と申します」<br>名刺を渡した。<br>「……ねえねえ立花さん！　本当に一流企業だよ！」<br>「お、『藤丸物産』か、超が着くな」<br>「ねえ、なんでエリートってわかったの？」<br>「そりゃあ、地味だけど、本切羽のオーダースーツだし、パリッと糊の効いたワイシャツ。カバンはダンヒル、靴は革底でガラスレザー」<br>「私には全然わからないけど」<br>「そしてハンサムボーイだ。でも、GMTマスターの針は止まっている」<br>いつの間に……。<br>背筋が冷たくなった。<br><br>「あと、血液型はBで、六月生まれ。趣味はソロキャンプで、足繁くジムに通う」<br>立花が流れるように言った。<br><br>「合ってます？」<br>白石が苦笑い。<br><br>「いえ、四月生まれのA型です……でもジムには通ってますが……」<br>「立花さんって、いっつも適当なことばっかり言うんですよ」<br><br>「岡田さん、なんでそっちに寄ってるんです？」<br>立花が横に来た。<br>「あ……右側に自分のスペースが増えると安心するんですよ」<br>「おもしろいですね」<br>「岡田さん、もう『オリオン』がありませんね。おかわりはいかがですか？」<br>立花がにやけながら言った。<br>「じゃあ、何か違うやつを……」<br>「マスターにお任せするといい」<br>「ねえ、マスター！」<br>立花が、指を鳴らした。<br>「それじゃあ、何か……お勧めを」<br>「ロック？　水割り？　それともカクテルにでもしますか？」<br>「では、ソーダ割りで」<br>「かしこまりました」<br><br>「大企業って大変なんでしょ？」<br>白石が、カクテルグラスを傾けながら言った。<br>「俺の部署はそんなことないよ。高校生でも出来ることを毎日やってるだけだ」<br>「でも……入社するのは、大変そう」<br>「それは、まあね……」<br><br>「ワイルドターキーのライです」<br>目の前のコースターにグラスが乗った。<br><br>「……やっぱり、勉強一筋でした？」<br>「両親がね、本人よりも一生懸命で……」<br>「でも、おかげで良かったじゃないですか」<br>「そうかな……」<br>ゆっくりグラスを持ち上げ、口をつけた。<br><br>「いくら武将に尽くしても、戦に負けたらそれでおしまいだよ」<br>立花が老紳士と盛り上がっている。<br><br>「そうですよ、安定は宝です。いいなー、私も大企業ー」<br>「でも、一年経って口座の数字がちょっと増えるだけだ……そして、毎年一つずつ歳年をとる……」<br><br>「なんか暗いな」<br>立花が戻ってきた。<br>「岡田さんがね、贅沢な悩みを——」<br>悩み……？<br>立花の鋭い視線をかわす。<br>「岡田さん、今度の夏、海に泳ぎにでも行きません？」<br>「……私は泳ぎが、苦手なもので……」<br>カウンターに眼を落とし、グラスを覗く。<br>「なるほど、岡田さんは新しい刺激を求めてらっしゃる」<br>俺は、そろそろ帰らないと……。<br>時間はまだ１７：１７。<br>立花が鼻歌を歌いながら立った。<br><br>「立花さんって探偵とか？」<br>「ちーがいますよ」<br>白石は笑った。<br>「心理学の先生？」<br>首を横に振る。<br>「全然ハズレ……倉庫で仕分けをしているただのバイトのおっさん」<br>「私のバイト先の後輩なの」<br>「へえ……」<br>「でね、鋭いんだけど、たまにバカなの」<br>「ガソリン入れるのに、自転車でガソリンスタンドに行っちゃったり」<br>白石は、子供のおもちゃみたいに笑った。<br><br>俺は、早く帰らなければ……。<br><br>立花がピアノに近づき、一つ音を鳴らした。<br>椅子に腰を下ろして続ける。<br>静かに、ゆっくりと音が流れ出す。<br>低音と高音が交互に聞こえる。<br>優しい音色でゆっくりなぞられる、不安を煽るような物悲しいメロディ。<br>たしか、昨日の映画で……。<br><br>老紳士がロックグラスを持ちながら、天井を仰いでいる。<br>「これは？」<br>白石に聞いた。<br>「グノシエンヌ」<br>白石が頭の後ろで指を組み、瞼を閉じている。<br>マスターもカウンター内のスツールに寄りかかり、目を瞑っている。<br>「いいとこ、持っていくねー」<br>赤いネルシャツが呟いた。<br><br>俺の悩み……。<br><br>「マスター、同じものを」<br>込み上げてきたものを誤魔化すように言った。<br><br>ライを嗅ぐ。<br>心の匂い……。<br><br>ちっとも進まない文字盤を見ながら、ちっとも変わらない未来を想像した。<br>こんなところに、いるべきではない。<br><br>１７：１８？<br><br>「俺は、切腹なんて絶対嫌だね！」<br>立花の声。<br><br>辿り着いたはずの、俺の世界……。<br><br>『ラ・カンパネラ』のメロディが、『グノシエンヌ』に……。<br>——それが、怖い。<br><br>「岡田さんは、これから牛丼なんですよね？」<br>白石まで……。</p><p name="B83C6E05-F3C9-4956-969E-07B2CF5EACF5" id="B83C6E05-F3C9-4956-969E-07B2CF5EACF5"><br></p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/na9008ac1f57d'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Thu, 02 Apr 2026 01:47:05 +0900</pubDate>
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      <title>外道と邪道——それでも釣りは楽しい——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="636919CE-FBC8-4B08-8320-43E0BF2CA3EC" id="636919CE-FBC8-4B08-8320-43E0BF2CA3EC">スーパーの刺身売り場に、タカノハダイが並んでいた。<br>メジナ狙いでたまに釣れる魚だが、私にとってはリリース一択の外道だ。<br>手元の釣り図鑑にも「まずそう」としか書かれていなかった。<br>当然、口にしたことはない。<br>それがマダイやマグロと並んで商品になっているのだから、少し驚いた。<br>価値があるのなら、一度くらい食べてみてもいいのかもしれない。<br>しかし『まずい』とインプットされている私は、どうしてもカゴに入れることができなかった。<br><br>外道で持ち帰るのは、カワハギ、サンバソウ（小さいイシダイ）、ブダイあたりか。<br>私が嬉しいわけではない。家で待つ家族が、酒のアテにと喜んでくれるのだ。<br><br>久しく行っていない魚釣りの記憶が蘇った。<br><br>魚釣りの中でも、メジナのフカセ釣りはアクティブで楽しい。<br>コマセを打ち、水中のウキが不自然に動くのを待つ。<br>強い引きに大型を期待するが、最初は木端メジナだ。<br>メジナは小型でもよく引く。<br>小メジナを釣るのは比較的簡単だ。<br>大物はその下にいる。<br>問題は、そこへ付け餌をどう運ぶかである。<br>たとえ大物が釣れなくても、その試行錯誤が楽しいのだ。<br><br>渡船で沖磯へ行くこともあったが、天候によって出港できない日も多い。<br>年に何度も釣行できない私たちは、地磯へ向かう。自由に場所を選べる。<br>しかし、大量の荷物を持って駐車場から釣り場まで歩くのは、かなりの苦行である。<br><br>まだ暗い朝方、釣り道具一式を背負い、竿と昼飯を手に林の中を登り降りする。<br>すっかり山岳部のトレーニングだ。<br>転びそうになりながら磯の上を歩き、ひたすらポイントを探す。<br>メジナの旬は寒い。そして大物はなかなか釣れない。<br>本当に好きでなければできないだろう。<br><br>知り合いが２３フィートのレジャーボートを購入した。<br>マリーナまで車で行き、荷物を船に載せて座っていればポイントに着く。<br>汗のひとつもかかない。<br><br>——楽すぎる。<br><br>気がかりは船酔いだけだ。<br>魚探でポイントを探り、糸を垂らす。<br>電動リールを使う。操作ひとつで、ウィーンだ。<br>高級魚が釣れても盛り上がりにかける。<br><br>ふと、思う。<br>邪道だな、と。<br><br>もちろん、ボートの持ち主には言えない。<br><br>ある冬の凪。<br>全然釣れなくてみんな飽きていた。<br>帰る間際、二十センチほどのアジが釣れた。<br>たった一尾なので、迷子だったのかもしれない。</p><figure data-align="center" name="A1F35797-1F46-40BC-BCFC-5857EE436C1B" id="A1F35797-1F46-40BC-BCFC-5857EE436C1B"><img src="https://assets.st-note.com/production/uploads/images/261510902/picture_pc_e1f7a69610718f50bd7608a357266d2a.png" width="620" height="620" id="image-A1F35797-1F46-40BC-BCFC-5857EE436C1B"><figcaption>楽々</figcaption></figure><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n00d0266dc086'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Mon, 23 Mar 2026 19:46:47 +0900</pubDate>
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      <title>陽があたる場所へ——太宰をなぞる——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="04121E7C-C314-4102-811B-EF92F61DF171" id="04121E7C-C314-4102-811B-EF92F61DF171">昨年、まとまった休みが取れたので、実家のある青森へ帰省した。<br><br>北国は十月も末になれば、もう冬の気配である。<br>今暮らしている神奈川と比べれば、厚手の上着が一枚必要だった。<br><br>家族の用事に付き合い、ついでに斜陽館へ寄ってもらった。<br>五所川原市街を抜け、国道を北に進む。<br>開けた景色に点々と広がるリンゴ畑には赤い果実がぶら下がっていた。<br><br>斜陽館とは、言わずと知れた太宰治の生家だ。<br>文豪の生家だった豪邸は、宿泊施設になったのち、経営悪化で売りに出されたという。<br>いったい「斜陽」館などという皮肉な名称は、誰が命名したのだろう。<br>はじめて訪れる私は、そんなことを思いながら案内を聞いていた。</p><p name="1D2CB6AE-FC9D-4D31-8976-122910C64E40" id="1D2CB6AE-FC9D-4D31-8976-122910C64E40">私は太宰が好みではない。<br>あの強烈な物語のあとに残るのは、金持ちのお坊ちゃんが好き勝手に生きたという背景ばかりだ。いろいろ理屈をつけて、その評価をひっくり返そうとしても、最後にはやはり否定的になってしまう。<br><br>斜陽館には、感動を求めて行ったわけではない。彼が小説の中で繰り返し語る、言い訳のような独白が、もしかしたら私にも理解できるかもしれない、と思ったからだった。</p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n2c2637e2dcd4'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Tue, 17 Mar 2026 20:14:08 +0900</pubDate>
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      <title>永遠の四十秒——『探偵物語』のエンディング——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="1531E724-40C0-483A-9BBE-183A2C712626" id="1531E724-40C0-483A-9BBE-183A2C712626">珍しく、ゾクッとするような寒気を覚えた。<br><br>少々の熱なら市販薬を飲んで職場へ向かうのが常だった。<br>最近の風邪薬はよく効くし、たいていの熱はすぐに下がる。<br><br>だから今回も、まさか数日後に寝室で『探偵物語』を全話観ることになるとは、夢にも思っていなかった。<br><br>三日目の朝、熱は微熱程度まで落ち着いたが、念のため出社前に病院へ寄ることにした。<br>検査の結果は、新型コロナウイルスの「陽性」。<br><br>さて、仕事は休まざるを得なくなった。<br>気は重かったが、アポイントをリスケし、ほかの案件も同僚にお願いする。<br>図らずも、心置きなく療養できる体制が整ってしまった。<br><br>「仕事は簡単には休めない」——<br>そう思い込んでいただけかもしれない。<br><br>こうして数日は家にこもり、回復を待つことになった。<br><br>しかし、ウイルスを甘く見ていたようだ。<br>翌日から四日間、喉の痛みに苦しめられた。<br>食欲も匂いも味も、どこかへ行ってしまった。<br>なんせ、愛犬の糞が臭くないのだ。<br>だが、具合が悪いとはいえ、ずっと眠り続けられるわけでもない。<br>幸い意識ははっきりしている。<br><br>気を紛らわせようと、手元にあった『探偵物語』を寝室で横になりながら観はじめた。<br>1979年放送、全27話。<br>こういうときにちょうどいい長さだ。<br><br>久しぶりだったが、何度も観ている作品だ。<br>それでもやはり、面白い。<br>回を追うごとに、ふざけ具合が加速していく。<br><br>次回予告が本編とは関係のない現場の内輪ネタになったり、<br>劇中ではフランスパンで敵を殴り飛ばしたり。<br>そんな探偵ドラマなど、後にも先にもこれくらいだろう。<br><br>そして、たまらなく懐かしい。<br><br>若き日の名優たち。<br>今も第一線で活躍している人がいれば、すでに鬼籍に入った人もいる。<br>すっかり街で見かけなくなったベスパ。<br>劇中で何度もあおる、あのスペインのドライシェリー。<br>昭和のはじめに建てられた探偵事務所の建物。<br>その風景を、一度この目で見ておきたいと思っていたが、三十年近く前に取り壊されてしまった。</p><figure data-align="center" name="9F8492C1-D941-47FC-B3DE-2A96D76A03BD" id="9F8492C1-D941-47FC-B3DE-2A96D76A03BD"><img src="https://assets.st-note.com/production/uploads/images/257859380/picture_pc_b346d1e3d6d0c23da10441f538b96abd.png" width="620" height="286" id="image-9F8492C1-D941-47FC-B3DE-2A96D76A03BD"><figcaption>今はなき同和病院</figcaption></figure><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n7eb2ec5a7b21'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Mon, 09 Mar 2026 22:25:42 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/real_ibis7850/n/n7eb2ec5a7b21</link>
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      <title>今日がいちばん平和な日</title>
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      <description><![CDATA[<p name="B1DE6FEE-0D4E-4B85-B7B5-BAB00D1AB442" id="B1DE6FEE-0D4E-4B85-B7B5-BAB00D1AB442">いじめっ子は、世にあふれている。<br>狭い世界で生きてきた私の、勝手な実感だ。<br>いじめを無くすのは、本来なら簡単なはずなのに。<br><br>強い立場の人が、やめさせればいい。<br><br>だが現実は違う。<br>なぜなら、立場の強い者がいじめをするからだ。<br><br>例えば虐待。親が子に。<br>例えば体罰。先生が生徒に。<br>例えばしごき。先輩が後輩に。<br>例えばパワハラ。上司が部下に。<br><br>強い者が弱い者へ向ける力。<br>抵抗できない相手にだけ向けられる力。<br><br>いじめを止めない人間は、その支配下にあるということだ。<br>しがらみなのか、あるいは恐怖ゆえか。<br>何人死んだら、世間はわかるのだろう。<br><br>これでは、いじめは無くならない。<br><br>テレビのドッキリ企画も、同じ構図に見えることがある。<br>周到に準備をしてターゲットを引っかけ、笑う。<br><br>サプライズとして和むものもある。<br>けれど、見苦しいものもある。<br><br>笑わせるのではなく、笑われる。<br>演出だと分かって楽しめる人もいるだろう。<br>だが、その「構造」を容認しているのが問題だ。<br><br>テレビがお墨付きを与えていたら、<br>いじめなんて無くなるわけがない。<br><br>ある首長がパワハラ問題で失職し、その後再選したことがあった。<br>「成果があればパワハラは許される」――<br>多数決が導いた結末だった。<br><br>世間の認識は甘すぎる。<br>いつ気がつくのだろう。<br><br>死ななくても――と思うが、<br>それが自分でできる最善の策なのだ。<br>今のところは。<br><br>警察の不適切な取り締まりが明らかになったという報道もあった。<br>不正な権力の行使は、最上級のいじめだ。<br><br>お人好しなバイトの子が、マンション投資詐欺の被害にあった。<br>警察に相談したが、思うようには進まなかったらしい。<br><br>通帳もカードも契約書も印鑑も、相手の手にある。<br>「まずは契約書を持ってきて」と言われても、<br>詐欺師が応じるはずもない。<br><br>一千万円ほどの価値の物件を三千万円で契約し、<br>年収二百万円の彼は途方に暮れた。</p><figure data-align="center" name="50290003-CDFA-49E5-B241-D4BB01B30EEA" id="50290003-CDFA-49E5-B241-D4BB01B30EEA"><img src="https://assets.st-note.com/production/uploads/images/256716711/picture_pc_5518927791ad20f479b8931a92757e49.png" width="620" height="178" id="image-50290003-CDFA-49E5-B241-D4BB01B30EEA"><figcaption></figcaption></figure><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/ncf6d866cc0d8'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Thu, 05 Mar 2026 18:42:15 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/real_ibis7850/n/ncf6d866cc0d8</link>
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      <title>雨の水曜日——A LONG VACATIONとオートリバースの記憶——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="F4C5228A-1C5E-4871-AB49-5FFF14FA0C9E" id="F4C5228A-1C5E-4871-AB49-5FFF14FA0C9E">二月最後の週、せっかくの休みだというのに、朝から雨だった。<br>出かける気力も薄れ、今日は一日家にいようか、などと考える。<br>そういえば、しばらくぶりに降るまとまった雨だ。<br><br>先週、宮ヶ瀬湖を通ったとき、たくさんの車が路上駐車していた。<br>みんな、渇水によって露出した湖底を見に来ていたのだ。<br><br>これで水不足も少しは解消されるのだろう、と濡れた芝生を眺める。<br>頭の中で『雨のウェンズデイ』のイントロが流れ始めた。<br>雨が降ると、自然に浮かぶメロディーである。<br>そういえば、今日は水曜日だった。<br><br>私が子供のころ、家にはカセットプレーヤーがなかった。<br>その代わりにあったのが「ハチトラ」だ。<br>食パンのような形をした大きなカセットテープで、今では名前すら知らない人も多いだろう。<br>車にまでハチトラが搭載されていて、中身は父の趣味なのか、歌謡曲がほとんどだった。<br><br>そんなある日、電気屋に勤めている親戚の叔父からラジカセを譲ってもらえることになった。<br>おさがりだったが、飛び上がるほど嬉しかった。<br>「聴くものがないとつまらないだろう」と一緒にくれたのが、『A LONG VACATION』のカセットテープだった。<br>中学一年の春だ。<br><br>当時の私にとって、音楽は貴重な存在だった。<br>テレビで流れるものを偶然聴くか、好みとは言えないハチトラの音楽を聴くか。<br>だがラジカセを手に入れたことで、その世界は一気に広がった。<br>小遣いでテープを買い、FM放送を録音し、友達にレコードをダビングしてもらう。<br>音楽が、初めて「自分のもの」になった瞬間だった。<br><br>なかでも『A LONG VACATION』は、繰り返し聴いた。<br>タイプの異なるメロウな十曲は、すっと心に染み込んできた。<br>再生ボタンを押すと、四十分間の短い映画が始まるようで、アルバム全体にひとつの物語を感じていた。<br><br>当初、周囲にはこのアルバムを知る人はいなかった。<br>ひそかな優越感もあった。<br>だがやがて「名盤」として世に広まり、テレビCMにも使われるようになる。<br>天邪鬼な私は、それを境に別の音楽へと興味を移し、『A LONG VACATION』から遠ざかってしまった。<br><br>大人になって、雑談の中から「ロンバケ」の話題になることがある。<br>懐かしさに駆られて、車で聴いてみた。<br>叔父からもらったカセットはいつの間にか失くしてしまい、CDを買い直した。<br>十数年ぶりなのに、歌詞はすべて覚えていた。<br>それだけ、当時何度も繰り返し聴いたのだろう。<br><br>久しぶりに聴いたその音源は、色褪せるどころか、むしろ以前よりも輝いていた。<br>それ以来、車のマイクロSDカードには、必ずこのアルバムが入っている。<br><br>収録曲はどれも好きだが、一曲選ぶなら『雨のウェンズデイ』か。<br>イントロが流れた瞬間、今でも鳥肌が立つ。<br>間奏後の転調で、ふっと我に返り、そのあとは余韻を楽しむ。<br><br>A面最後の『我が心のピンボール』が終わり、わずかな無音ののち、ヘッドが回転する音がしてB面が始まる。<br>オートリバースだ。<br>そして『雨のウェンズデイ』が流れ出す。<br><br>CDには、その「ガチャッ」がない。<br>すんなりと曲が始まる。<br>違うんだよな、と毎回思う。<br>だが、楽曲の良さは変わらない。<br>AメロとBメロだけで、すべてが穏やかなサビのようなこの曲は、やはり深く沁みる。<br><br>ベランダから雨空を眺める。<br>フェードアウトする『我が心のピンボール』のギターソロの余韻から、『雨のウェンズデイ』が頭の中で再生される。<br>オートリバース・バージョンで。<br><br>私の記憶は、ずっとこの形なのだ。<br><br>四十五年も前の作品が、今なお輝き続けている。<br>それだけで、ただただ感服する。<br>今は亡き大滝詠一さんに、心からの敬意を。<br><br>水曜日の雨は、ラジカセやハチトラ、オートリバース、A面とB面――<br>もう姿を消してしまったものたちと過ごした時間を、そっと呼び戻してくれた。<br><br>たまには、雨の休日も悪くない。<br><br>昔話をするなんて、気の弱い証拠なのさ。<br>なんて。</p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n96eb7898b37f'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Mon, 02 Mar 2026 18:31:03 +0900</pubDate>
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      <title>カニカマと缶コーヒー　「心ばかりの贅沢を」</title>
      <media:thumbnail>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/254340488/rectangle_large_type_2_d2bd9844fce076177c2c5a463000a28a.jpg?width=800</media:thumbnail>
      <description><![CDATA[<p name="576790CA-8DDA-490D-8821-CD2CD5A4E737" id="576790CA-8DDA-490D-8821-CD2CD5A4E737">私はコーヒーが好きだ。<br>だが、本物のコーヒーを知っているかと問われると、少し自信がない。<br>きっかけは、カニカマと缶コーヒーだった。<br><br>その昔、カニカマをかじりながら、微糖の缶コーヒーを飲んでいたことがある。<br>そのとき、缶に印刷された成分表を眺めていて、ふと「コーヒーって何だろう」と思ったのだ。<br><br>コーヒー牛乳、コーヒーゼリー、インスタントコーヒー、缶コーヒー、そしてスターバックスのカフェモカ。<br>どれも、文句なくおいしい。<br><br>だが、これらは本物のコーヒーというより、コーヒー風味の“何か”ではないだろうか。<br>よりにもよって、カニカマと一緒に飲んだのがいけなかった。<br>カニカマも、カニエキスが入った偽物だからだ。<br>つい、余計なことを考えてしまった。<br><br>私は自慢ではないが、本物のカニを食べたことはある。<br>だが、本物のコーヒーはきっと知らない。<br>それならば、一度とことん追求してみよう。そう思った。<br><br>まずマキネッタを買った。<br>キャンプ用だったが、家でも使ってみた。<br>するとすぐに物足りなくなり、今度はエスプレッソマシンに手を出した。<br>イタリアの「saeco」というメーカーのもので、それなりに高価だったぶん、味にも満足していた。</p><figure data-align="center" name="BF3EABE5-BF65-4ED8-A62E-B4D648EE0EF8" id="BF3EABE5-BF65-4ED8-A62E-B4D648EE0EF8"><img src="https://assets.st-note.com/production/uploads/images/254353008/picture_pc_1c629b5d1a96001d8c00d5cf7373117b.png" width="620" height="310" id="image-BF3EABE5-BF65-4ED8-A62E-B4D648EE0EF8"><figcaption>マキネッタとsaeco</figcaption></figure><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n797d6f827227'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/251959172/profile_812af95113ad5efe326ee7df41a30f7d.jpeg?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Tue, 24 Feb 2026 22:14:26 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/real_ibis7850/n/n797d6f827227</link>
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      <title>ささやかなエスケープ ——自由時間の使い方——</title>
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      <description><![CDATA[<p name="3F087816-9DAD-4426-B6C0-1ED6A5B959BE" id="3F087816-9DAD-4426-B6C0-1ED6A5B959BE">時間があれば、その使い道をあれこれ考える。<br>映画鑑賞は、その選択肢のひとつだ。<br><br>今は、わざわざ映画館へ足を運ばなくても、観る方法はいくらでもある。<br>便利な世の中になったものだと、つくづく思う。<br>もちろん大きなスクリーンとは違う部分もあるだろうが、私にとってはそれで十分、楽しめる。<br><br>さて、問題は作品選びである。<br>これがいつも難航する。時間があるとはいっても、あくまで「ささやかなエスケープ」だ。当然、何本も観られるわけではない。だからこそ厳選する。<br>その結果、新作がずらりと並んでいるにもかかわらず、気づけば古い作品を選んでいることが多い。<br><br>理由はおそらく、映画の楽しみ方が、いつの間にか変わったからだ。<br>今の私にとって、作品を選ぶ基準に、ストーリーはそれほど重要ではない。<br><br>映画マニアでもなければ、特別詳しいわけでもない。それでも、近年の作品の物語は、どうやら私の好みとは少し違うように感じている。<br><br>二時間半という限られた時間の中で、観る側が受け取れるものにも限度がある。<br>私にとって「名作」となり得る二時間半は、もうすでに出尽くしてしまったのかもしれない。<br><br>展開があまりに早かったり、細かなエピソードが詰め込まれていたりすると、絵から生まれる余韻が薄れてしまう。<br>内容を理解しても、映像として記憶に刻まれることがほとんどない。<br><br>だから私は、胸が高鳴るものよりも、どこかあっさりとした作品を好む。<br>最後まで観終えたとき、心や脳に何かが残っていれば、それだけで十分な収穫だ。<br>景色でも、食べ物でも、文化でもいい。<br><br>記憶に残る映像や、絶妙な「間」。<br>それこそが、私が映画を観る大きな理由のひとつである。<br>コメディでも、アクションでも、サスペンスでもかまわない。<br><br>もちろん新作も観る。<br>楽しめはするけれど、どこか「愉しむ」という感覚には至らない。<br>きっと何かのバイアスがかかっているのだろう。いつの間にか私も、頭がかたくなってしまったのかのかもしれない。<br><br>けれど、新しいものがあるからこそ、古いものの良さを再確認できる。<br>私はその愉しみ方を知っているのだと、密かに優越感を覚えたりもする。<br><br>と、一本観ながら、そんなことを考えていた。<br><br>やっぱり、マックイーンはカッコいい。<br><br>あっさりしていないし、二時間半にも収まっていないけれど。</p><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n9bfebd3e88e4'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Thu, 19 Feb 2026 20:10:20 +0900</pubDate>
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      <title>回転式スイーパー「彼との別れ」</title>
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      <description><![CDATA[<p name="0C431232-D068-4AAB-90D7-8BF86D9C2045" id="0C431232-D068-4AAB-90D7-8BF86D9C2045">二年前、家の音がひとつ消えた。<br>私の家で暮らしていた十四歳のヨークシャー・テリアが、静かに旅立った。</p><figure data-align="center" name="61F5222D-4994-4900-B9C1-9356FB0D1FFC" id="61F5222D-4994-4900-B9C1-9356FB0D1FFC"><img src="https://assets.st-note.com/production/uploads/images/252011928/picture_pc_58216cbb96e08eb727bad20fa7096433.png" width="620" height="572" id="image-61F5222D-4994-4900-B9C1-9356FB0D1FFC"><figcaption>若き日の彼</figcaption></figure><br/><a href='https://note.com/real_ibis7850/n/n1ef5a87bfae0'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>Brewx</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 15 Feb 2026 21:22:53 +0900</pubDate>
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