正しい楽譜に戻したら、彼女の歌ではなくなりました
アイリスは楽譜の上に巻物――スクロールを重ね、最後の小節にあたる場所へ、筆で術式の一行を書き入れた。
文字が淡く光り、下の楽譜へ沈んでいく。消えかけていた音符の輪郭が戻り、原本と同じ位置に、同じ形で並んだ。
秋祭りの当日、昼。集会所の隅の長机は、祭りのあいだだけ借りたものだ。宿代の代わりに引き受けた修復だった。
「終わった。最後のとこ」
「さすが修復師さん!」
「……修復師じゃない。見習い。魔法使いの」
楽譜を受け取ったルーナは、ツインテールを揺らして五線をなぞり、小さく歌いはじめた。
その歌が、終わりの小節で下へ降りた。静かに、行儀よく、原本どおりに閉じる旋律。
ルーナの声が途切れた。
「――待って。そこは戻さないで」

スクロールを巻きかけたアイリスの指が、こわばる。
「……原本と違ってたから。その音も、消えかけの傷だと思った」
「違うの。そこだけは、私が変えたの」
ルーナは楽譜の端を指でつついた。並び直した音符の下に、鉛筆で書いては消した跡が、何重にも透けている。
「音が消えるのは困ってる。でも終わり方は、自分で決めたやつなの。下がって終わるの、地味じゃん」
アイリスはスクロールを見下ろした。
近くの魔法は、頼まなくてもこの紙に浮かぶ。いまも、楽譜にしみた魔法の痕が、かすれた文字で並んでいるだけだ。
どの音が消えかけで、どの音がルーナの選んだ音なのか、そこには何も書かれていない。
「……どっちを残すか、言って」
「上のほう! 絶対そっちがキラキラするもん」
即答だった。
アイリスは終わりの小節の術式だけをほどいた。原本の音符が抜け、ルーナの鉛筆の線が、薄いまま戻ってくる。
◇
夕方の風が、舞台袖の幕を冷たく揺らした。乾いた落ち葉が一枚、足もとへ転がってくる。
広場の鐘が三つ鳴ったら開演なのだと、ルーナは言った。
「去年もここで歌ったの。楽譜どおりに、ちゃんと。拍手ももらったよ。でも今年は、終わりを変えたの。毎晩練習したんだから」
言いながら、ルーナは楽譜を胸に押し当てている。指先が少し白い。
術式をほどいたあの小節は、消える癖を抱えたままだった。開演を前に、音符がまた薄れはじめている。
アイリスは持ってきた原本へ手を伸ばしかけた。
原本に揃えるなら、術式は一行で済む。昼にもそうした。写そうとした筆先がスクロールの上で迷い、墨が一滴、端に落ちた。
筆を引いた。
「……最後の四つ。歌って」
「え、今?」
「今」
ルーナは息を吸い、低く口ずさんだ。アイリスは鉛筆の書き込みと声を、一つずつ照らし合わせていく。
三つ目までは同じだった。四つ目で、声が紙より一段高く跳ねた。
「最後、ここ?」
「あ、それ昨日の夜に変えた。もう一個上」
ルーナが自分の鉛筆で丸を書き直す。その線を、アイリスはしばらく見ていた。

スクロールを広げ、筆を立てる。原本の形は写さない。
書いたのは「この小節は、ルーナが書いたとおりに残る」という一行だけだった。
文字が光り、楽譜へ沈む。薄れていた音符が、鉛筆の線ごと紙に落ち着いた。
「消えない?」
「消えるのは、止めた。……歌は、知らない」
「それは私の仕事だもん」
ルーナが笑ったとき、鐘が一つ鳴った。
◇
三つ目の鐘で、ルーナは舞台へ出ていった。
明かりの下で、耳元の月の飾りが揺れる。最初の一声は少し硬い。それでも二小節目から、広場のざわめきがすっと引いていった。
アイリスは袖の暗がりで、スクロールを膝に置いていた。風が黒髪を頬に貼りつかせても、払わない。
終わりの小節。去年なら下へ降りたはずの旋律が、上へあがる。いちばん高い音で、声がわずかに揺れた。
アイリスの手が、癖のように筆に触れる。
触れて、そのまま止まった。
ルーナは顔をしかめもせず、短く息を継ぎ、もう一度その音を押し上げる。
届いたのかどうか、アイリスには聞き分けられなかった。けれど歌は途切れず、上へあがったまま終わった。
拍手が起きた。アイリスは筆を、スクロールの留め紐の下へ戻した。

◇
「ねえ聞いた? 最後ちょっと揺れたけど!」
袖に戻るなり、ルーナは頬を赤くしたまま詰め寄ってきた。
「来年はもっときれいに上まで行くから。だから、来年も見に来て?」
「……来年、ここにいるかは分からない」
「じゃあ、いたらでいいよ」
「……いたら」
ルーナは満足そうにうなずいて、広場の明かりのほうへ駆けていった。
借りた長机に戻り、アイリスは修復の記録を開いた。
『終わりの小節。原本と異なるが、不具合ではない。本人の旋律。残す』
書き終えても、しばらく筆を浮かせていた。
それから次の依頼のために空けた欄へ、項目を一つ足した。
『本人が残したいもの――』
その先は、空けたままにしておいた。
窓の外で、祭りを片付ける音がしていた。

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