統合失調症が教えてくれた「理解より認めること」の大切さ
最近、脳の仕組みについて書かれた本を読んでいると、人は他人の気持ちを理解するとき、自分自身を基準にして想像しているらしいです。
「自分ならこう感じる。だから相手もそう感じているだろう」
「自分ならこう考える。だから相手もそう考えているだろう」
私たちは、そんな心のシミュレーションを通して相手を理解しようとしているそうです。
でも、それが本当なら、私たちは結局のところ自分の世界から完全に出ることはできないのかもしれません。
そう思うようになった背景には、私自身の統合失調症の経験があります。
二十年前、私は統合失調症を発症しました。当時の私が見ていた世界と、周囲の人たちが見ていた世界は大きく違っていました。私には確かに見えていたものが、周囲には見えていない。私には確かに感じられていたことが、周囲には理解されない。
その経験は苦しいものでした。しかし、その出来事は長い年月をかけて私のなかに問いを残しました。そして最近になって、強く感じることがあります。
人はそれぞれ違う世界を生きている。
もちろん、家族や友人、同僚と気持ちが通じ合う瞬間はあります。しかし、それでも相手の世界を完全に知ることはできません。相手もまた、私の世界を完全には知ることができないでしょう。そして、それは自分自身についても同じなのかもしれません。自分のことですら、完全に理解することは難しいのです。
そして、人は自分の世界を通して周囲を見ています。同じ出来事でも、不安が強いときには世界全体が脅威に見えることがあります。反対に、心に余裕があるときには、人の優しさや小さな幸せに気づきやすくなります。
だからといって、「もっと前向きになろう」と考えれば簡単に変われるわけではありません。脳は急激な変化を好みませんし、無理に自分を変えようとすると心に負担がかかることもあります。私自身、統合失調症を経験してから、ネガティブな考え方に引きずられにくくなるまでには長い時間がかかりました。
その変化は、自分の努力だけで起きたものではありません。
仕事で少しずつできることが増えていく。家庭では家事や会話を通して妻を支え、その積み重ねによって関係が深まっていく。そんな日々のなかで、自分が誰かの役に立てていることを感じる機会がありました。
そして、自分が周囲に受け入れられていることを感じるうちに、少しずつ自分自身を認められるようになっていったのです。
だから今の私は、理解することよりも、認めることの方が大切なのではないかと思うようになりました。
理解しようと努力することは大事です。しかし、理解には限界があります。相手を完全に理解することはできません。けれども、相手には相手の世界があることを認めることはできます。
それは諦めではなく、人との距離感を心地よく保つための知恵なのだと思います。
人間関係を支えているのは、案外「理解された感覚」よりも、「認められている感覚」の方なのではないでしょうか。
精神疾患の回復においても、自分を認めてくれる人や環境との出会いは大きな意味を持ちます。そうした場所で関係を築きながら、自分自身も少しずつ自分を認められるようになっていくのだと思います。
違いを認め合える社会になってほしい。そして私自身も、その一員でありたいと思います。
相手を完全に理解することはできなくても、その人なりの世界があることを認めることはできる。
それが、統合失調症を経験した私がたどり着いた、人との向き合い方なのかもしれません。
