
【ショートショート]最後の"絵"
「彼が描いた最後の絵です」
美術館に飾られた1枚の絵画には、そんな一文が添えられていた。
人々は、その前で熱心に議論していた。
「この飛沫のランダム性には、宇宙の混沌と秩序の融合が見られる!」
「いや、これは構造主義へのアンチテーゼだ。不規則な飛散こそ現代社会の閉塞感を打破する叫びだ!」
議論は白熱し、シンポジウムでは顔を赤くして相手を論破しようと必死になっていた。
この絵を描いたのは、とても気難しく人嫌いで有名な画家。
独特な世界観の絵を描き、沈黙の巨匠と呼ばれた。
彼は長年の病に倒れ、この世を去った。
議論の対象は、そんな画家の最後の1枚だった。
真っ白なキャンバスに、血飛沫のような“赤”が広がっていた。
オークションでは過去最高額で落札された夜、家政婦はアトリエを片付けていた。
イーゼルの陰に落ちていた日記帳を見つける。
最後のページには、死の前日に書かれた走り書きがあった。
『夕食のパスタのソースがキャンバスに跳ねてしまった。恥ずかしくて誰にも見せられない。明日こっそり処分しよう』
家政婦は、そんな彼の遺作に最高額の値が付いた事に小さく息を漏らした。
「あなたのドジな失敗作が、こんなにも人々を真剣にさせましたよ」
長年共に過ごしてきた家政婦は、画家のことをよく知っている。
彼は人嫌いではなく、極度の人見知りでコミュ障。
気難しいと有名だが、実はかなりのおっちょこちょい。
雨の日、鞄から取り出したのは折りたたみ傘ではなく、絵筆を巻いた布だった。
「どうしてこうなんだろう」とつぶやく彼。
そんな画家は誰からも理解されず、孤独と共に生きてきたのを家政婦は知っていた。
彼女は、日記をそっと暖炉で燃やし、灰を見つめ、目を細める。
これからも、この絵の議論は永遠に続くだろう。
存在しない答え合わせのために、人々は明日も大金を積み、顔を赤くして語り合うのだ。