誕生日を祝われたくない偏屈な私の言い訳を聞いてくれ | エッセイ
誕生日を祝われたくない。
そう思うようになったのは、いつからだろうか。
これは、歳をとるのが嫌だから、という理由ではない。
SNSは誕生日を設定できる。そして、設定していると、友達に通知がいく。
「もうすぐ誕生日のお友達がいます」「誕生日が近い友だち」だの。
しかし、私は、自分の誕生日の設定をことごとく解除している。
平たく言うと、祝われるのが鬱陶しいからだ。
ここで、勘違いしないで欲しいのは、真心から祝ってもらえるのは嬉しいということだ。
SNSの通知で思い出す程度の知り合いの誕生日なら、祝わなくてもいいだろう、ということだ。
多忙を極めていた20代も半ばの頃だろうか。
せっかくの誕生日だからと、ひとりでゆっくり過ごすことに決めていた。
それなのに、しっぽりひとり時間を満喫していると、通知がぴろんぴろん鳴って仕方なかった。誕生日のお祝いだ。普段付き合いのないような人まで連絡をくれている。
スッとトーク画面を開くと、ひとつ前の連絡は、私の1年前の誕生日のお祝いだった。ああ、私はこの人の誕生日お祝いをしてなかったな、という小さな罪悪感が浮かんだ。そして、それも含めてなんと返信をすればいいものか頭を悩ませた。そうしている間にも通知は次々にきて、返信は溜まっていく。
せっかくの誕生日なのに、通知がうるさくて返信に追われるなんて、本末転倒ではないか。
私は空を仰いだ。
そして、SNSの誕生日設定を、全て解除することに決めたのだ。
それからというもの、誕生日には、家族と本当に仲のいい友人からしかお祝いの連絡は来なくなった。少し寂しい気持ちはあったが、安堵の方が大きかった。
連絡をくれたこの人たちは、私のことを大切に思ってくれている人たちなんだなと、じんわりと嬉しさが込み上げてきた。
そんな方法で人を測るなんて浅はかじゃないか、と言われればそれもそうだと頷ける。
けれど、義理のお祝いは、なくてもいいと感じてしまったのだ。
お互いの時間は有限なのだから、有意義なことに使うべきである。
そして、かつて友人だった人だって、もう10年以上も会ってないのなら、それはもう、そういうものである。
私は誕生日は祝わないけれど、どこか知らない場所で、知らない人と、幸せに過ごしていることを祈っている。
