この恋は、うまくいかない
彼女はコーヒーの苦さに少しだけ顔をしかめて、「まだ慣れない」と笑った。
その仕草を見たとき、この恋はきっとうまくいかないのだと、私は静かに理解してしまった。
理由はうまく説明できない。
ただ、彼女が恋に慣れていないことや、言葉の選び方のぎこちなさや、ふとした沈黙の長さが、どこか決定的な距離としてそこにあった。
それでも私は、その時間を嫌いになれなかった。
帰り道、私は何度も言おうと思った。
「好きだ」と、その一言を。
言葉にしてしまえば、この関係は前に進む。
あるいは、そこで終わる。
どちらにしても、今のこの曖昧な時間は失われる。
彼女はときどき、会話の途中で少し考え込むように黙る。
その短い沈黙のあいだ、私は不思議と安心していた。
何も決まらず、何も進まないまま、ただ同じ場所にとどまっているような感覚だった。
私はそれを壊したくなかったのだと思う。
帰宅してから、何度もスマホを開いた。
メッセージでなら言える気がしたからだ。
画面に「好きだ」と打ち込んでは、消した。
そのたびに、何かが少しずつ形を失っていく気がした。
結局、何も送らないまま、画面を閉じた。
あの夜、私の中では何も起こらなかった。
何も始まらず、何も終わらなかった。
それなのに、その時間だけが、どこにも進まずに残り続けている。
流れていくはずのものが、そこに留まり続けている。
それは、どこか死に似ていると思った。
変わらないということ。
どこにも行かないということ。
生き続けることでも、終わることでもないまま、ただ在り続けるということ。
後になって、葉隠の一節を思い出した。
想いを告げず、一生胸に秘めて死ぬことこそが真の恋である、という考え方だ。
それは、関係を守るための美学ではない。
想いを外に解放せず、内に留め続けることで、感情を極限まで純化していく態度だ。
叶えることも、失うこともない。
どこにも着地しないまま、その想いだけが研ぎ澄まされていく。
私はあの夜、その入り口に立っていたのかもしれない。
恋が実ることには、もちろん意味がある。
けれど、実らなかった恋は、単なる失敗として消えてしまうものではない。
どこにも行かなかった感情は、
どこにも行かないまま、残り続ける。
今でもときどき、彼女がコーヒーに顔をしかめたあの瞬間を思い出す。
そして私は、そのとき確かにあったものを、まだうまく言葉にできないでいる。
