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国際結婚の、光と影——子どもを取り戻すまでの2年間グローバル母ちゃん ドクターM



プロローグ 消えた日

その日、私は助産師の実習中だった。

病院に泊まり込みの実習で、2ヶ月近く家を離れていた。そんな午後、友人からメールが届いた。

「旦那さん、行方不明だけど大丈夫?」

意味がわからなかった。

隣にいた友人が言った。「一度、家に帰ったほうがいい」。私はそこまで深刻に受け止めていなかった。どこかに出かけているだけだろう。そう思いながら渋々、実家に電話をした。

母が出た。「ここ2、3日、連絡が取れていない」。待てば帰ってくると思って、知らせなかったと言う。様子がおかしい。何か隠している。そう思った。

急いで家に帰ると、車がなかった。家の中は静まり返っていた。子どものおもちゃが、遊んだままの状態で置かれていた。

嫌な予感がして、2階に駆け上がった。

私のパスポートがない。預金通帳もない。

頭が真っ白になった。

子どもたちがいない。夫とも連絡が取れない。その現実が、ゆっくりと私の中に落ちてきた。


一章 光——あの頃の私たちへ

少し、時間を戻させてほしい。

私は若い頃から、海の向こうに強く惹かれていた。バックパックを背負って、一人でヨーロッパを旅した。言葉も通じない国で道に迷って、見知らぬ人に助けられて、世界の広さに震えた。あの頃の私は、自分の人生を自分の足で切り拓いていくことが、何より誇らしかった。

イタリアで、彼と出会った。

よく笑う、人懐っこいフランス人の男性だった。私たちは文化も言語も違うのに、不思議なほど話が合った。愛は国境を越える——そんな言葉が、あのとき初めてリアルに感じられた。

一時帰国し、私は再びフランスへ。彼に会うために。しばらくフランスに滞在し、結婚を意識した。彼の希望で日本に帰国し、結婚した。

ただ、日本語が全く話せない彼の仕事をどうするか——それは私が考えた。フランス語の語学学校なら、と目星をつけ、来日前から面接の準備を整えておいた。彼はすぐに採用された。人懐っこい性格は、確かに天性のものだった。

子どもが生まれた。長男、そして娘。二人は日本とフランスの文化の中で、すくすくと育っていった。

しかし彼の仕事は長続きしなかった。友人のフランス料理のシェフが雇ってくれて、そこでは7年ほど働いた。やがて「自分の店を持ちたい」と言い出した。私の両親が出資した。

彼は「すぐに流行る」と信じて疑わなかった。でも日本は違う。地道に、丁寧に、信頼を積み上げていく。彼は待てなかった。

開店からわずか3ヶ月後のこと。彼は全てを放棄し、逃げた。


国際結婚は、確かに素晴らしかった。二つの文化が交わるところに生まれる、豊かさがあった。でも今なら言える。私はあのとき、「影」を見ていなかった。


二章 影——全てを持って、消えた

話を元に戻そう。

友人からのメールの後、家に戻った私は、現実を受け止めた。

まず夫の店のスタッフに連絡した。スタッフは口々に、「お店はしばらく休む」と言われていると答えた。胸の奥で何かがざわついた。

以前から、関係を疑っていた女性の従業員がいた。彼女に連絡すると、携帯は解約されていた。彼女の両親に連絡すると、「娘はイタリアに旅行中」と言われた。しかしそれは嘘だった。

すべてがつながった。

彼は多額の借金を抱えたまま踏み倒し、愛人を連れて、子どもたちを連れて、遊びに来ていた義理の母と一緒に——消えていたのだ。

2階に駆け上がると、私のパスポートがなかった。預金通帳も。銀行に問い合わせると、口座は全額引き出されていた。残されたのは——膨大な借金だけだった。

ETCの履歴を問い合わせると、車は成田空港へ向かっていた。すでに3日が経っていた。友人たちに背中を押されて、私は深夜に成田へ向かった。駐車場に車はあった。出入り口に一番近い場所に、鍵をつけたまま。

空港で出国記録を確認しようとしたが、「個人情報なのでお見せできない」と言われた。警察に行った。「実の父親が連れて行った場合、誘拐にはなりません」と言われた。お金を持ち出されたことを訴えると、「家族間のことは窃盗にはなりません」と言われた。

誘拐でもない。窃盗でもない。事件ではない。

全身が凍りついた。

子どもたちは、本当にフランスへ行ってしまった。もう会えないかもしれない。


三章 壁——法律という名の絶望

私のパスポートは持ち去られていた。フランスへ行くには、まず作り直さなければならない。時間がかかる。お金もない。すべての問題が山積みだった。

パスポートができるまでの間、私はフランス大使館へ向かった。そこで初めて、状況が動き始めた。フランス大使館から日本大使館へ。そしてインターポールへ。子どもたちの捜索願いが出された。「これは国をまたぐ問題なんだ」と、初めて実感した瞬間だった。

フランスに到着して、私は夫の実家を探した。住所はわからなかった。手がかりは、半年前に一度だけ訪れたときの記憶と、数枚の写真だけだった。

南フランスの小さな村。石造りの家が続く路地。あの角を曲がった気がする。あの教会を見た気がする。地図もない。言葉もろくに通じない。それでも私は歩き続けた。引き返すという選択肢が、頭の中になかった。

そして——見つけた。

夜、震える手で玄関のドアをノックした。

出てきたのは、義母だった。

奥から夫が現れ、「帰れ!」と怒鳴り続けた。でも家の中から、子どもたちの泣き声が聞こえた。私は隙を突いて家に飛び込んだ。そして——衝撃的な光景を見た。

愛人の膝の上に、私の娘が座っていた。

胸の奥で何かが爆発した。私は娘を抱き上げ、愛人の頬を打った。騒ぎを聞きつけた近所の人が通報し、フランスの警察が来た。しかし警察は夫の言葉を信じた。「彼は良い人だ」「逃げるはずがない」。私が必死に事情を説明しようとすると、「これ以上騒ぐなら連行する」と言われた。

私はその場を離れるしかなかった。子どもたちをあの家に残したまま。

翌朝、嫌な予感は的中した。彼の家はもぬけの殻だった。

後になって子どもたちが話してくれた。私が玄関のベルを押したとき、義母が長男を、愛人が娘を、きつく抱きかかえていたと。「あのとき、動けなかったんだよね」——その言葉を聞いたとき、胸が締めつけられた。

フランスで子どもたちを取り戻すためには、司法の手を借りるしかなかった。その名目は——離婚裁判。離婚するつもりなどなかった。ただ、話し合う方法がそれしかなかった。こうして、2年にわたる国際裁判が始まった。


四章 知らなかった現実——そして、フランスへの感謝

裁判の過程で、私は多くのことを知った。

当時、日本はハーグ条約(国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約)に加盟していなかった。私はそのことを、ずっと恨んでいた。なぜ日本は私を守ってくれなかったのか、と。

でも後になって、違う側面を知った。

日本がハーグ条約に加盟しなかったのは——もう一方の日本人を守るためでもあったのだ。夫のDVや宗教的問題から逃げるために、命がけで子どもを抱えて日本へ帰国した、多くの日本人女性たちを。

法律は、全ての人を救えない。どちらかを立てれば、どちらかがこぼれ落ちる。私はそのこぼれ落ちた側にいた。ただ、それだけのことだった。

ある国では、DVから逃げるために子どもを連れて帰国した日本人女性が、条約に基づき引き渡され、刑務所に入れられた。別の国では、「私が誘拐犯になるまで」という本を書いた日本人女性がいた。インターネットもほとんどなかったあの時代に、私は必死に情報をかき集めて、そのことを初めて知った。

日本だけが悪いのではない。そして——フランスだけが悪いのでもない。

それどころか、私を救ってくれたのは、皮肉にも、フランスの友人たちだった。国や文化が違っても、手を差し伸べてくれた人たちがいた。裁判を通じて出会った人たちが、子どもたちを守るために動いてくれた。だから私は今でも、フランスが好きだ。憎むべきは国ではなく、一人の人間の選択だったのだと、今はわかる。


五章 二つの戦場——それでも、私は立っていた

2年間、私の日常は二つに引き裂かれていた。

フランスの弁護士とは、時差のあるメールでやり取りをした。そして、子どもたちを取り戻した後の生活を考え、助産師の実習を続けた。

分娩室に入るたびに、心のどこかが痛んだ。

幸せそうに手を繋ぐ夫婦の隣で、生まれたばかりの赤ちゃんが泣く。私にも、あんな日々があった。何故壊れてしまったのか。何が足りなかったんだろう。そんな思いが、ガラスの破片のように胸に突き刺さる。

でも、私は進むしかなかった。

ゴーグルの奥で涙をこらえ、笑顔で言った。「おめでとうございます」。その言葉を、何度繰り返しただろう。仕事が終われば、また一人。実習仲間が寝静まった後、布団の中で声を殺して泣いた。

でも仲間たちは気づいてくれていた。黙って隣に来て、一緒に泣いてくれた日もあった。

ある日、私は学長に申し出た。「学校を辞めたい」と。

学長は首を縦に振らなかった。きっぱりと言った。「辞めさせません。絶対に助産師になりなさい。今後あなたはひとりで子どもたちを育てるの。助産師なら大丈夫。育てられる。子どもたちのために、頑張って」。

その言葉が、私を踏みとどまらせた。学長先生の計らいで、元警察官の警備員さんが相談に乗ってくれた。たくさんの人が、私を支えてくれた。だから私は壊れずにいられた。

そんなある日、フランスに連れ去られた娘が日本で通っていた保育園から、連絡が届いた。

「卒園式に、ぜひいらしてください」

娘はフランスにいる。出席する意味があるのか。困惑する私に、ママ友たちが「ノアちゃんも、この園の一員だから」と背中を押してくれた。

式は静かに進んだ。そして園長先生が、ゆっくりと名前を呼んだ。

「ノアちゃん」

BGMが止まり、講堂が静まり返った。

涙が止まらなかった。ごめんね、ママがそばにいられなくて。もう、会えないかもしれない。でもその涙は、絶望だけじゃなかった。支えてくれる友人たちへの、感謝の涙だった。

この一枚の卒園証書が、娘と私が社会と繋がっている、たった一つの証だった。

大丈夫だよ。ママが必ず、迎えに行くからね。


六章 敗訴——そして、もう一度

日本に戻り、裁判の結果を待った。

そんなある日、フランスから一枚のファックスが届いた。裁判の判決だった。

子どもたちはフランスへ留まることとする。

信じられなかった。すぐにフランスの友人ジュリアンに確認した。

ジュリアンは、もともと夫の友人だった。店を開くときには出資までしてくれた人だ。夫が姿を消した後も、彼だけは私の話を信じ続けてくれた。言葉の壁を超えて、弁護士を紹介し、書類を翻訳し、日本とフランスの間に橋を架け続けてくれた。

電話口の彼は、いつもの落ち着いた声ではなかった。「……判決は、敗訴だ」。

敗訴の理由はこうだった。「虐待の可能性が否定できない。子どもたちはすでにフランスで生活している。私は学生で収入がない」。

虐待——。

法廷で夫は、腕の傷を証拠として見せていた。かつて義母の家で、夫に腕をつかまれ投げ飛ばされそうになったとき、私は必死に抵抗した。殺されると思った瞬間、思いきり噛みついた。あのときの傷だった。

私が生き延びた証が、虐待の証拠にされた。

しばらくして、ジュリアンが言った。「まだ方法がある。控訴しよう」。

資金はすでに底をついていた。でも、一つだけはっきりしていた。このまま何もしなければ、子どもたちは戻ってこない。

「……やります」

控訴の準備を進めながら、私はずっと考えていた。どうにかして、子どもたちと連絡を取る方法はないだろうか。

思いついたのは、学校だった。彼の住んでいる地域の学校を調べ、何校かに電話をかけた。ようやく子どもたちの学校にたどり着いた。事情を説明すると、先生は「少し待ってください」と言ってくれた。

電話の向こうで、誰かを呼ぶ声が聞こえた。

そして——

「ママ?」

その声を聞いた瞬間、涙があふれた。変わらない声だった。懐かしい声だった。

学校はどうか。元気にしているのか。ちゃんとご飯は食べているのか。ごく普通のことを聞いた。先生は気を遣ってくれて、息子と娘、両方を電話口に呼んでくれた。その時間が、本当に嬉しかった。

でも、ある日。先生の態度が急に変わった。「もう電話はつなげられません」。夫が学校に何か言ったのだと思う。それから、子どもたちと電話で話すことができなくなった。

それでも、泣いてはいられない。必ず連れ戻す。私は決意を新たにした。


七章 再会——庭の木の下で

二度目の裁判でフランスへ渡ったとき、子どもたちと再会できた。

夫がいない時間、子どもたちが話してくれた。「お腹がすいても、すぐご飯は食べられなかった」「毎日、草むしりしてた」。子どもたちは笑いながら話していた。でも私は、笑えなかった。

裁判所は、子どもたちとの1ヶ月の同居を認めた。私たちは南フランスの静かな家で過ごした。庭には大きな木が一本立っていた。子どもたちは毎日その木に登って遊んだ。笑い声が戻ってきた。

私は毎日ご飯を作った。洗濯をして、買い物へ行き、子どもたちと一緒に眠った。ただそれだけの生活だった。でも、その「普通」がどれほど幸せなことなのか、私は初めて知った。

正直に言えば、このまま日本へ連れて帰ろうと考えたこともあった。感情で動くか、法で戦い抜くか。何度も迷った。でも私は決めていた。感情だけで終わらせない。きちんとした形で、必ず子どもたちを取り戻す。

別れの日、私は子どもたちに言った。「必ず迎えに来るから」。


八章 勝訴——そして「空っぽ」

1ヶ月の同居の後、子どもたちの精神鑑定が行われた。鑑定書にはこう記されていた。

「最初に会った子どもたちは、大人の顔色をうかがい、感情を押し殺すような様子だった。しかし、母親と1ヶ月過ごした後、子どもたちは笑顔を取り戻した。子どもらしい反応が増え、安心した様子が見られた」

裁判所の判断が下りた。

私の勝訴。
子どもたちが母親と共に日本へ帰国することを許可する。

涙が止まらなかった。

でも——何かが欠けていた。

日本に帰ってから、よく聞かれた。「帰りの飛行機、どんな気持ちだった?嬉しかったでしょう」。そのたびに、少し困った。嬉しかったはずだ。でも、あの時の気持ちを、私はあまり覚えていない。

ただひとつ。最後に彼が私を抱きしめて、聞こえた気がした「ごめん」という言葉。あれは幻だったのか。今でも分からない。その一言が、ずっと胸の奥に刺さったまま、抜けなかった。

今ならわかる。私は子どもを取り戻したかっただけじゃなかった。勝訴でも、帰国でも、埋まらないものがあった。失った家族を——私はまだ、どこかで諦めきれていなかったのだ。その答えが出るまでに、長い時間がかかった。


九章 再生——最高の復讐

帰国してすぐ、私は子どもたちをフランス系の学校に入れた。両親は反対した。「まだ6歳と8歳よ」「電車での通学はかわいそうだ」と。

でも私には、譲れないことがあった。

壊れたのは結婚だった。子どもたちのせいじゃない。父親が不在でも、彼らにはフランスの言葉も文化も、ちゃんと受け継いでほしかった。憎しみだけで、子育てをしたくなかった。

ある朝、長男がPASMOを忘れた。私も財布を持っていなかった。駅で困っていると、通りすがりのおばさんが声をかけてくれた。「この子たちは毎朝私と一緒に乗ってるから、大丈夫よ」。そう言って、そっとお金を貸してくれた。

知らない人が、この子たちを見ていてくれた。涙が溢れた。感謝しかない。わたしはひとりじゃない。そう思えた。

息子はやがてフランスの大学へ進んだ。5年間、パリの友人が我が子のように面倒を見てくれた。気づけば二人は、言葉だけでなく、考え方も感覚も、自然と両方の文化を持つようになっていた。

二つの言葉を持ち、二つの世界を知っている。それが、私から子どもたちへの最高の贈り物になった。

待つのをやめた日が、本当の意味での終わりだった。恨むのをやめた日、少し楽になった。

私の最高の復讐は、彼を憎み続けることじゃない。
彼が奪おうとした私の人生を、誰よりも輝かせること。


エピローグ あなたへ

国際結婚は、素晴らしい。文化の違いを乗り越えた愛は、人生を何倍も豊かにしてくれる。私はそれを知っている。

でも、忘れないでほしい。

国が変われば、法律も変わる。制度も、常識も、子どもへの考え方も、全部違う。愛だけでは越えられないものがある。

国際結婚を夢見ていたあの頃の私に、一つだけ伝えられるなら——愛と同じくらい、現実を見てほしい。それだけだ。

そして今、絶望の中にいるあなたへ。

どんなに大変な時でも、必ず誰かが手を差し伸べてくれた。人の手を借りていい。助けを求めていい。一人で抱えなくていい。

道は、必ず開ける。

愛は、国境を越える。でも、法律と文化は、国境を越えさせてはくれない。それを知った上で、それでも愛を選ぶなら——その愛は、本物だと思う。

子どもたちは今、元気だ。

そして私は今、あの日々をこうして書いている。

20年前、私はこの物語を「国際結婚の光と影」というタイトルで書こうとして、書けなかった。涙が溢れて、ペンが止まった。何度も書いては、やめた。

でも今、時代が私を助けてくれた。言葉が、ようやく出てきた。

そして今。子どもたちはそれぞれの人生を歩いている。あの日、成田空港に鍵のついたままの車を残して消えた人がいた。置き去りにされた私には、想像もできなかった未来だ。

振り返れば、この2年間は一人で戦ったようで、一人ではなかった。

実習仲間、学長先生、警備員さん、保育園の先生、ママ友たち、駅のおばさん。そしてジュリアン。

彼らがいなければ、私はきっと途中で立ち止まっていた。

子どもたちを取り戻したのは、私一人の力ではない。たくさんの人の善意が、国境を越えて私たち親子を支えてくれた。

人生は壊れる。でも、終わらない。

これが、私の答えだ。


現役助産師・分娩2000件以上。国際結婚・離婚、子どもの国際的連れ去りと2年の国際裁判を経験。


#創作大賞2026 #エッセイ部門

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