
短編小説 故郷の海
曇天の空の下、男は久方ぶりの故郷の地を踏み締めた。
日々移ろいゆく都会の喧騒と景色の中で、疲弊した心を抱えて、堤防の欄干に手をついた。
変わらぬ景色。
男の目まぐるしい毎日が嘘のように、少年の頃から、故郷の海は同じ姿で、男の心を癒す。
はずだった。
少年の頃と同じように、堤防から海面を見下ろす。
曇り空は陽の光を遮り、照りかえすことなく澄んだ水が海面の下を映し出す。
しかし、この日見たそこには、かつての少年が目を奪われて、時間を忘れた光景ではなかった。
堤防の岸壁に付着した、牡蠣の殻やフジツボの間を啄んでいた、コバルトブルーのスズメダイや、フラッシュイエローのチョウチョウウオの姿がない。
岸壁をうごめく船虫の群れ以外、目に映る動くものはいなかった。
おかしい。
顔を上げた男の目の前、少し沖の場所に、新しい防波堤があり、無数のテトラポッドがそれを囲むように積み上げられていた。
潮流がかわったのか。
瞬時に察知した男は、もう一度海を見下ろす。
透き通った水は深くはない海底まで、視界が届いていた。
初めて海底を見た。
いや、少年時代も見えていたはずだった。
視点が水面に戯れる小魚たちを捉え、底まで届かなかったのだ。
この日は、何もいない。
ただ海の底の白い砂まで。
男の視点を奪うものが、存在していなかった。
色鮮やかな、水中の幻想的で、空想の世界のような景色は消え失せてしまい。
演者のいない、空虚な舞台のように静まり返っていた。
変わらないはずの故郷の海も、こうやって緩やかながらも姿を変えている。
白い雲に覆われた空を、男は見上げ、目を閉じてため息をついた。
世の中で、変わらないものは無い。
何ひとつ存在しない。
自分自身も、あの世界に心を奪われた少年ではない。
自分の手で、学んだことを活かして生活の糧を得て、生きている。
目の前の海面は、あの頃より遠く、広く見える。
時間の流れが早いか遅いかだけで、変化は必ず訪れるのだ。
男は、足元の小石を投げ込んだ。
じゃぽん。
という音が鳴り、ゆっくりと波紋が広がっていった。
彼の記憶をひとつずつ、やさしく紐解いていくように。
その波紋が広がり、ゆっくりと姿を消すまで、じっと見つめていた。
男は振り返り、歩み出した。
また、自分の居場所、自分の成すべきことの元へ帰るために。
変わらないものは存在しない。
ならば、移ろいゆくものを恐れない。
そう、決意して。
その時、振り返った男の背中に沖の凪いだ海から、一匹の鰡が大きく飛び跳ねた音が聞こえた。
今作は、花澤薫様が主催する。
第二回一枚の写真から文芸賞に応募するために書きました。
花澤薫様の著書
『すべて失われる者たち』
のレビューを集めた記事です。