反応と痕跡

私のSNSはロム専だ。
noteという場所を知り、昔のブログ以来、久々に書いてみようと思った。
外には出したい、否定はされたくない、いくつか記事を読んでみるとコメント欄も雰囲気が良いと思った。
反応はスキとフォロー。なるほど良さそうだ。
まさか、そんなささいな反応に思いを馳せることになるなんて思わなかった。

私のnoteは過疎化している。
タイトル表示だけでもビューカウントされるはずなのに、アルゴですら拾ってくれないくらいだ。裏付けはある。いっこもないという詩は、初速3週間ビュー数1だった。この1、自分がみたのかもしれない。
次に投稿した、目が多くなるはずの応募作品、右利きにされた左手もたいした数字はつかなかった。
だからこそ、来てくれた人がよく見えたのだ。 スキに心が躍る。押してもらえたら読みに行く。いいなと思ったらスキを押したりなかったり。
迷ったが誰のフォローバックもしない、そう心に決めた。そう決めたのは、過疎化しているnoteに、祝3回目のスキとフォローが一瞬だけついた。きっかけはそれだった。

どんな人だろうとほいほいと読みに行く。私はスキを押した。その後、その人のスキが消えていた。フォローはついている。システムのエラーか何かかな。と思った。
…祝2回目のスキフォローの時もなぜか両方消えさってしまった事がある。同じ現象になりそうだな。予感はあった。
 なぜだろう。フォローを外す方が楽に思う。
スキを押してくれた人のページ読みに行ってスキを押して、自分のページを見るとその人のスキが消えている。フォローは残る。
フォローは1週間するとなくなっていた。私側もフォローをしていたら私はなんだか無性に悔しくて外していたと思う。合理的に大人気ない自分も見ずに済んだわけだ。
 ただ、フォロー外しよりもスキ消しの方が、作品や自分を否定されたような気持ちが残った。

AIに聞くと、営業、スキ欄の整理、誤操作など、いくつも可能性を並べてくれた。
なるほど、そういう考え方があるのか。
理解したいが、腑に落ちない。スキの重量感についてだ。
躊躇する気持ちはわかる。私も押せない時がある。
でも、せっかく誤操作したなら、ほいほいとくれてやっても良いのではないか。誰でも花咲か爺さんになれる良い機会だ。
なぜ、わざわざ痕跡を消すのか。こちらには残っているのに。自分の棚に残したくない?うう、仕方ないのか。

そもそも私はフォロー外しよりスキ消しがなぜこんなに悲しいのか。
はじめてのフォローは、どきっとした。背中からじわっと汗が出て私の周辺の温度が少し上がるくらい嬉しかった。何度も読みにいった。その人は、私にとっては難しい事も書いていて私の目は要所要所の言葉だけをつまみ始めたが、文章に気迫があった。分からなくても時間を置いてから読んで、その人の生き様に触れたくなった。なのに、フォローするかどうかをすごく悩んでいる自分に嫌気が指した。

脇道に逸れてしまったが、一つの側面としてフォローをする行為は、同じ温度の未来作品や思考回路への期待があるのではと思う。
私にとってその側面は、流し込まれたガムシロップみたいにきれいに溶けずに私の思考を掻き乱す。書きたいもののテーマやラベルすら定まっていない自分もいる。だから、フォロー外しは期待と違ったのだろう、と悲しみと共に飲み込むしかない。それが、大人なのだ。
 一方、スキはサイト側の想定としても、"読んでくれた"が前提にあるだろう。相手の読んだという現実をスキ通知として受け取っていたのだろうか。だから読んでないよと、消せる設定なのか。
慣れない私は、一瞬でも共有したはずの時間を、この文で共有したくないという意思表明、と感じてしまった。その瞬間ごと、消されてしまった。と。
 投稿しても全く人の目に触れないのなら、noteというプラットフォームから私は消えていくと思う。私は家で日記を書くタイプではない。瞬間だけでも誰かに共有してもらえるかもしれない、という小さな報酬がおそらく私を書かせているのだ。だからこそ、相手のスキ消去という反応は私によって文字にされ、残されている。

相手からすれば消したはずの、私からすればあったはずの小さな痕跡。
その痕跡は私に長い時間思考を馳せさせ、一編にされてしまい、大きな痕跡となってしまったのではないか。


なんて仰々しく空想にふけりながら、コーヒーに息を吹きかける。ぐっとカップを傾けると舌に一瞬ヒヤっと苦味があたる。ぬるい…
熱は消えていたのに。消された痕跡みたいだ。

ああ、妙味たるやこの時間。壮大に締めようとする脳とは裏腹に、カップを持つ指先に力がこもって白くなっている。

私は繊細なのか、神経質なのか。はたまた。
お湯、沸かそ。





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