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マンモスを狩らない私たちは、キャリア面談で命を削る

「今後はどんなキャリアプランを考えている?」

上司とのキャリア面談のたびに、私の脳内はフリーズする。一応、返答はする。
「成長していきたいです」とか「幅を広げたいです」とか。

だけど本当は、毎回うっすら思っている。
いや、そうじゃないんだよな。と。

今の仕事が嫌いなわけではないが、何かに魂を込めるほどの熱量もない。

かといって、転職してまでやりたい仕事もない。

この状態のまま「キャリアプランを語る人間」であることを求められる時間が、苦痛だった。

それでも、慶應卒の自分として「こうあるべき像」はあった。賢くて核心を突いた発言でバリューを発揮する、シュッとした私。
(実力の伴わないプライドだけは高いのだ...)

プライベートでの結婚や出産の予定が白紙である以上、せめてキャリアだけでも「あるべき像」で満たさなければ、自分の存在価値がなくなる気がして、いつも焦っていた。


そんな焦りから、私は迷走期へと突入する。

◇

まず、転職活動。

外資戦略系コンサルの門を叩いた。ポテンシャルでいけるだろうと高を括り、準備ゼロで挑んだ結果、適性検査のwebテストであっさり撃沈。
お受験ならいけると思っていた私は、画面上のテスト1本で足切りを食う。

続いて、社内の部署異動。

「賢くて勉強熱心、お客さんの相談には何でも応える」という、私のあるべき像を具現化したような上司のいるコンサルティング部署へ異動希望を出した。
こんな風になりたい!と必死に引っ付いて仕事をした。

だが、驚くほど内容に興味が持てない。借りたビジネス本を開くのすら苦行で、商談の席ではストレスで胃がキリキリ痛んだ。ここでも魂が込められない。泣きながら「やっぱりビジネススクールに通おうと思っているんです」と上司に電話し、「なーに言ってんだ」と一蹴される夜もあった。

そこでふと思った。

「べき」の1本足打法でここまできたけれど、何かが違う。

そのとき、高校時代の先生の言葉がフラッシュバックする。
「オール4を目指すより、絶対的な5があれば他は2でいい」

そうだ。思い返せば私の高校時代は、早々に理系を捨て、得意の英語と日本史に全振りして偏差値を30近くアップさせたのだった。

得意なことや好きなことなら、ナチュラルに努力も惜しまず夢中になれる。逆に、苦手なことや嫌いなことで「ナチュラルボーンで出来てしまう人たち」と同じ土俵で戦うのは、分が悪い。

「じゃあ、私の人生を逆転させる『絶対的な5』の土俵ってどこよ?」

そう考えた私は、あろうことか「お勉強という机の上の戦いならまだいけるかも」と、入社5年目で司法試験の受験を検討し始める。

...そうだ、弁護士になろう。
深夜のベッド、スマホの放つブルーライトの中で、私は生成AIに「社会人から最短で弁護士になるルート」を必死に問いかけていた。

画面に表示された「総勉強時間10,000時間」の文字と予備校費用。

なるまでのコストと、なった後のメリットを考えると我に返る。

法で人を救いたいわけじゃなかった。
私はただ、生涯独身でも周りを黙らせられる「箔」が欲しかっただけだ。

スマホの画面を閉じると、暗転した画面に、マヌケな私の顔が映っていた。

◇

いよいよ、土俵候補が尽きた。

おまけに、無趣味。

何のために明日も生きたらいいのか分からず途方に暮れ、半分投げやりになっていた。

ただそんな時、母親と一緒に尾瀬の山小屋に泊まったのがきっかけで、登山という趣味ができた。
山にいるとは思えないファミレス会話をしながら歩いたり、山小屋でご飯を食べたりするのは楽しかった。

それまでは、ソロ登山をしている人を見て、「一人で時間かけてこんな過酷な道を登って、何が楽しいの?」と本気で思っていた。
山に登るなら、誰かとの思い出という副産物がないともったいない、とさえ考えていた。

だが、私史上最高峰の標高2,763mの山頂に立ったとき、世界が変わった。見渡す限り広がる圧倒的な山脈、地球のてっぺんに立っているという事実。生まれて初めての空気だった。ソロ登山民にも共感。

山にいた、あるアラフォーのソロ登山男性が印象に残っている。

普段は外資コンサルでバリバリ働き、きちんとキャリアも築いている。仕事も好き。だけど彼は、山で感動する一瞬のために、必死に休暇を作って一人で山へ向かうのだという。

恐竜にハマっている子どものような目で山を語る彼を見て、ハッとした。精神的に優先させてきたのは仕事より山。そんな心のきらめきを軸に生きている。

一瞬の自分のワクワクのためだけに、お金や時間、労力を使っていいんだ。
それこそが「魂を込める先」の定義なのか。

そう思うと、私の日常にはワクワクする瞬間があふれていた。

他の山にも登りたいし、こうして自分が感じたことをこねくり回して考えていると没頭できる。会社帰りにカフェでチルするぞ、と思うだけでウキっとするし、明日休みというだけで小踊りする。

そう。
何にもないと思っていた私のつまらない生活こそが、すでに土俵だったのだ。

いやそれどころか、私のつまらない生活は、生物として大優勝していた。

◇

私のポンコツ体力では、小学生が元気に登る道でも、二足歩行すらままならないことがある。ほぼハイハイで山頂にゴール。

もう一歩も無理、下山できないわ、と確信しながら
放心状態でコンビニのパンをかじる。

すると、身体中の細胞にコンビニパンが染み渡って、足が動いた。
「生きとる、私...!」
休んで、食べると、体が動く。人間の身体のメカニズムってすごい。

初めての山でのテント泊もそうだった。雨女っぷりを発揮した私は、雷雨にビビり散らかしていた。

ゴロゴロ鳴っている雷、落ちてこないかな。
草のガサガサ音にいちいち、熊!?
ボーナス払いで買ったおニューのテント、無事?
と、ハラハラしながら朝を迎えた。

「朝だ…!」
死ぬ可能性だってある、生物としての自分を感じた。
朝日を浴びながら、生命維持活動の尊さに感激した。

都心OL生活では、毎日命の危険を感じずにスヤスヤ眠り、納豆キムチご飯を食べ、街を練り歩き、ヨガもする。

マンモスを狩っていたころの人間からすると、衣食住が当たり前に確保されている私なんて、生物としてはこれ以上ない最高の環境を実現させていた。


この謎の全能感に満たされた私は、もっと原始的な視点でこの世を知りたくなり、登山の帰り道、サービスエリアで宇宙系のYouTubeを見た。

どハマりして、2週間くらい見漁った。寝不足で体調を崩した。

しかし、ひとつの重要な真理に突き当たる。

壮大だと思っている宇宙の誕生も、地球の誕生も、ただの物理現象の結果であり、そこに特別な「意味や目的」などないということ。
ならばもちろん、人間の誕生にも。

本来、生物としての人間に与えられている事実はただひとつ。「生まれたら、死ぬまで生きる」ということだけ。

なるほど、本来人生で「目指すべき望ましい状態」など存在しなかったのだ。

◇

星が生まれては消えるだけの宇宙の法則から見れば、あんなに囚われていた「キャリア」や「市場価値」も、人間社会のローカルルール。

キャリアに夢中になれない、結婚の予定もない、これといった特技もない。

だから私の人生の本番はまだはじまっていないような気がしていた。

高校の先生は「絶対的な5があれば他は2でもいい」と言い、私はその「5」を、ずっとキャリアの中で見つけなきゃいけないと思い込んでいた。

でも違った。
死ぬまで生きるという大きな土俵においては、私の「5」は、ただ生きることを面白がり、山を見て、カフェでチルできる、このナチュラルな感情そのものだった。

日常は、人生の前座なんかじゃなかった。

この謎が解けた状態で、いざいつもの会社に戻ってみると、毎年キャリア面談で首を傾げていた「違和感の正体」が見えてきた。

◇

「毎日ルーティンワークをして、定時に切り上げて一杯やって帰る生活、憧れるな」
と口にする、会社のハイパフォーマー男性。

しかし、続けてこうも言う。
「いや、でも俺には無理かも。毎日同じことの繰り返しなんて耐えられない」
どうやら憧れてはいても、なりたいわけではないらしい。
実際、彼が普段から尊敬する人として話に出すのは、思考力が高く成長意欲に溢れたピカピカの経歴を持つ人たち。

そんな常に上を目指す彼は、
成長実感を持てずに悩む後輩へのアドバイスに困っていた私に、こう助け舟を出してくれた。
「日々コツコツ積み上げていることを感じるのも成功体験のひとつ。一生やっていくことじゃないかな?」

その言葉自体は、後輩へのアドバイスとしても大いに参考になった。
しかし、私は心の中で、思わずツッコむ。
(……えっ、一生何かを積み上げ続けるのが前提なの!?)と。

定時まで淡々と役割をこなすだけの人に対する評価が、「いけてない人」だったとき。周囲の人はこう言った。
「そういう価値観も別にいいと思う。僕らとは違うんだと思う」

その瞬間、すべての点がつながった。

「価値観は人それぞれだから、どっちが上でどっちが下もないよね」と、口では言いながら、無意識に序列をつけていない?

「成長」や「前進」をし続ける人生を大前提に是として置いた上で、それ以外の生き方には「それもありだよね」と許可を与えていない?

スーツを着てサラリーマンをしていると、私たちはつい、キャリアや自己実現を「高尚なもの」、散歩や昼寝を「ささやかなもの」と考えてしまう。

会社という組織の中で戦い、期待に応え、きちんとキャリアを築いてきたからこそ染みついた、至極真っ当な考えだと思う。


かく言う私も、その序列に自ら囚われ、魂の置き場所を固定していたからこそ、ずっと迷走していたのだ。

私の推しには、栃木の実家からゲーム実況配信で生計を立てている兄弟がいる。満員電車の殺気と無縁な彼らの生活を、心の底では羨ましいと思いながらも、レールから外れた生き方を選ぶことを恐れていた。

それは私自身が、身を置いている「キャリア」をメインレース、それ以外の生き方をするのはドロップアウトだと位置付け、序列をつけていたから。


しかし原点に立ち返ると、死ぬまで生きるという大きな土俵が元からあり、そこにキャリア、家庭、趣味、日常など各自好きな土俵(パーツ)をカスタムする。

キャリアや自己実現という土俵の中から人生を見ていると、無意識のうちにそんな序列ができるのだろう。

だけど、一歩引いて、死ぬまで生きるという大きな土俵から人生を見ていると、そこには偉いも優秀もない。

違和感は、見ていた土俵のレイヤーの違いから生じていたのだ。

仕事でやりたいことを見つけるのも、
自己実現のために日々成長するのも、
仕事終わりの晩酌を楽しみに定時退社するのも、
子育てが生きがいなのも、
納豆キムチご飯を食べ、快適な部屋でダラダラするのも。

どれも、そうしたい人は、そうすればいい。

どれも、等しく、その人が魂を置いている場所に過ぎないのだから。

◇

私は、相変わらず明確なキャリアプランはないし、
次の面談でもきっと返事に困るだろう。

でも、無理に「あるべき像」に魂を売るのをやめたから、仕事と個人の感情を切り離して、健やかに働けている。
外に正解を求めなくなったから、他人の眩しさに焦って司法試験のページを開くこともない。

私の人生の「5」は、今夜のピリッと辛い納豆キムチご飯の中に、そしてふかふかのベッドの中に、もうすでにあるのだから。

マンモスを狩らなくたって、私たちは今日も、この大優勝の日常を生きている。


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#キャリア #30代  #人生

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