
『リハビリ室のとなりで』 第13話 リハビリ室のとなりで
春木総合病院リハビリテーションセンターの朝は、いつも少し早く始まる。
訓練室の照明がつく。
平行棒の高さが確認される。
歩行器が壁際に並べられる。
椅子の位置が整えられる。
記録室のパソコンが立ち上がる。
まだ患者さんの声は少ない。
家族の姿も、送迎車の音も、もう少し後になってから増えてくる。
けれど、リハビリは、その静けさの中でもう始まっている。
誰かが来る前に、誰かが準備をしている。
誰かが歩く前に、誰かが床を見ている。
誰かが座る前に、椅子の向きが少し直されている。
誰かが名前を呼ばれる前に、担当表の中で、その人の昨日の言葉が確認されている。
新人理学療法士の宮瀬陽斗は、記録室の入口で立ち止まった。
手にはタブレット。
画面には、今日の担当表が表示されている。
吉村芳枝。
藤岡誠一。
内田幸江。
沢村和彦。
名前が並んでいる。
以前なら、宮瀬はまず時間を見ていた。
何時から誰を担当するのか。
どの訓練を行うのか。
どのくらいの時間で終わらせるのか。
もちろん、それは今も大事だった。
けれど、最近は名前の横に、数字だけではないものが浮かぶようになっていた。
吉村芳枝。
名前を呼ばれる前から、足元を見ていた人。
呼ばれたらすぐ立たなければと思っていた人。
藤岡誠一。
靴ぐらい、と言いながら、左足だけは自分で入れた人。
足を見るのも疲れる、と言った人。
内田幸江。
病棟へ戻る前に、廊下で外を見た人。
膝がそこにある感じがする、と言った人。
沢村和彦。
階段の前で止まる練習を続けている人。
そこまで行くのが、前より遠くない、と言った人。
同じ名前でも、少し違って見える。
患者さんの名前は、訓練を始めるための合図だけではない。
その人の昨日までの時間を、今日へつなぐ入口なのだと思った。
「宮瀬」
背後から声がした。
振り向くと、中本悠真が立っていた。
手には記録用のファイルを持っている。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
「少し、昨日の記録を見ていました」
「吉村さん?」
「はい。あと、藤岡さんと内田さんも」
中本は、少しだけ笑った。
「見るものが増えたな」
「増えました」
宮瀬は素直に答えた。
「前は、何を見ればいいのかも、よくわかっていませんでした」
「今は?」
「今も、全部はわかっていません」
そう言ってから、宮瀬はタブレットの画面を見た。
「でも、訓練室に入る前から見ることがあるんだと、少し思うようになりました」
中本は頷いた。
「いいと思う」
「ただ、見ようとすると、どこまで見ればいいのかわからなくなります」
「それも自然だよ」
「自然ですか」
「見えてくると、迷うことも増えるから」
宮瀬は、少し安心したように息を吐いた。
迷いが減ることが成長だと思っていた。
けれど、最近はそうでもない気がしている。
患者さんの言葉を聞くほど、簡単にまとめられなくなる。
表情を見るほど、記録にどう残すか迷う。
待つ時間に気づくほど、すぐに声をかけてよいのか考える。
迷いは、できない証拠ではないのかもしれない。
雑に見ないために、必要な時間なのかもしれない。
訓練室の扉の向こうで、準備をしていた作業療法士の大場由衣が顔を出した。
「中本さん、宮瀬くん、おはようございます」
「おはようございます」
「河野さん、今日も通所で来られます。お茶の練習、続きです」
「難しいお茶の練習ですね」
宮瀬が言うと、大場は笑った。
「そうです。河野さんがそう言っていました」
家から来る利用者さん。
送迎車から降り、玄関を歩き、待合の椅子に座る。
訓練室に入る前から、いくつもの動作を積み重ねている人。
河野正雄のことを、宮瀬はまだ直接多く担当していない。
けれど、送迎車の窓から本館を見ていたという話は、村上から聞いていた。
前は、あっちから家に帰る練習をしていた。
今は、家からこっちへ来る練習をしているみたいだ。
その言葉を聞いたとき、宮瀬は少し驚いた。
リハビリは、退院で終わらない。
家に帰る練習のあとに、家から出てくる練習がある。
病院へ来ることも、また生活の一部になる。
そこにも、リハビリ室のとなりの時間があった。
午前九時前。
病棟から、最初の患者さんがリハビリセンターへ送られてきた。
車椅子に座っている藤岡誠一だった。
後ろには、介護福祉士の村上千景がついている。
「おはようございます」
宮瀬が声をかけると、藤岡は軽く顎を動かした。
「おはよう」
村上が車椅子を入口の靴履き替えスペースへ寄せる。
「藤岡さん、今日は靴を確認してから行きましょう」
「毎日それやな」
「毎日大事です」
「靴ぐらい、もう慣れた」
「慣れてきたから、確認します」
村上は、いつもの調子で返した。
藤岡は文句を言いながらも、左足を少し前へ出した。
靴の入口に足先を入れる。
少し引っかかる。
村上は手を出しすぎず、靴だけを支えた。
「もう少し内側です」
「こっちか」
「はい。いいです」
左足が靴に入った。
藤岡は、少し得意そうに足元を見た。
「左は、今日も自分で入れた」
「はい」
村上が頷いた。
「今日も、歩く前から一つできています」
「みんな、それ好きやな」
「大事なので」
宮瀬は、そのやり取りを見ていた。
靴を履く時間。
ただの準備。
記録には残らないかもしれない時間。
けれど、藤岡にとっては、自分の足を自分で見る時間だった。
歩く前に、歩く人になる時間だった。
その少し後、訓練室の扉が開いた。
かちゃり。
内田幸江が、理学療法士に付き添われて出てきた。
午前のリハビリを終えたところだった。
車椅子に座っているが、表情は穏やかだった。
病棟へ戻る前に、廊下の窓際で少し休む予定になっている。
看護師の森下玲奈が、病棟から迎えに来ていた。
「内田さん、今日は窓際で少し休んでから戻りましょうか」
「はい。お願いします」
幸江は、廊下の窓の方を見た。
「今日は、少し風がありますか」
「窓は開けられませんが、木が揺れていますね」
森下が答えると、幸江は小さく笑った。
「それだけでも、外がある感じがします」
中本は、その会話を少し離れたところで聞いていた。
外がある感じ。
その言葉もまた、記録に残せるかどうか迷うような言葉だった。
けれど、幸江にとっては大事な感覚だった。
病院の中にいても、外がある。
病棟に戻っても、生活の時間は完全には消えない。
廊下の窓から見える中庭が、そのことを少しだけ思い出させてくれる。
森下は、車椅子を押す前に幸江の顔色を見た。
「痛みはどうですか」
「大丈夫です」
「疲れは?」
「少しあります。でも、外を見る時間があると思うと、戻るのが少し楽です」
森下は頷いた。
「では、少しだけ止まりましょう」
その言葉を聞いて、中本は森下を見た。
一度止まりましょう。
森下が患者さんに向けて言うその言葉は、昨日、長椅子で自分にも向けられた言葉だった。
森下は中本の視線に気づいたのか、ほんの少しだけこちらを見た。
何かを言うわけではない。
ただ、短く目が合った。
それだけで、昨日言わなかった一言のことを、中本は少し思い出した。
また、申し送りで。
言えたのは、それだけだった。
けれど、今日もそれで十分な気がした。
午前十時。
待合の時計の下で、沢村和彦が順番を待っていた。
右手で杖を持ち、椅子に座っている。
足元を見ているようで、見ていないようにも見える。
中本が近づくと、沢村は顔を上げた。
「今日は階段か」
「はい。階段の前まで行きます」
「降りるんか」
「今日は、昨日の様子を見てから決めましょう」
「また前までか」
「前まで、です」
沢村は少し不満そうにした。
けれど、すぐに杖の位置を確認した。
立つ前に、左足を見る。
右手で杖を握る。
椅子の肘掛けを押す前に、一度止まる。
森下が病棟でつないでくれた声かけが、ここにも残っている。
一度止まる。
その言葉は、沢村の中で少しずつ形になっている。
「沢村さん、準備できそうですか」
中本が尋ねると、沢村は少し眉を寄せた。
「できそうかどうかは、立ってみなわからん」
「では、立つ前の準備から確認しましょう」
「細かいな」
「細かくいきます」
「わかってる」
沢村はそう言いながら、足元をもう一度見た。
その様子を、少し離れたところで宮瀬が見ていた。
名前を呼ばれる前。
立つ前。
歩く前。
階段の前。
どの「前」にも、患者さんの時間がある。
支援者が見落とせば、ただの待ち時間になる。
気づけば、そこからリハビリが始まる。
午前十一時過ぎ。
地域リハビリテーション棟の玄関前に、通所リハビリの送迎車が戻ってきた。
窓の向こうで、河野正雄がこちらを見ている。
大場由衣が玄関へ向かった。
村上も、病棟への付き添いを終えて戻ってきたところだった。
「河野さん、来られましたね」
大場が言うと、村上は頷いた。
「今日は奥さんが、装具のベルトをもう一度確認してくださったそうです」
「お茶の練習を楽しみにされていますかね」
「楽しみにしているかは、わかりません」
村上は少し笑った。
「でも、『難しいお茶やな』とは言われると思います」
送迎車のドアが開く。
河野が左手で手すりを握る。
右足の位置を見る。
一度止まる。
それから、ゆっくり地面へ足を下ろす。
送迎車から降りるその動作は、訓練室の中の歩行練習とは違う。
けれど、確かに生活の中の一歩だった。
宮瀬は、少し離れた窓からその様子を見ていた。
病棟の患者さん。
通所の利用者さん。
訓練室。
廊下。
送迎車。
スタッフステーション。
家の玄関。
それぞれの場所で、人は少しずつ自分の動きを取り戻していく。
そのすべてを、一人の支援者が見ることはできない。
だから、誰かが見たものを、誰かが受け取る。
記録で。
申し送りで。
短い会話で。
声をかけない沈黙で。
靴をそろえる手で。
車椅子を止める判断で。
名前を呼ぶ前の待ち方で。
午後になり、リハビリセンターは少し落ち着いた。
宮瀬は記録室で、午前中の記録を書いていた。
吉村芳枝の記録。
藤岡誠一の記録。
沢村和彦の記録。
書きながら、宮瀬は思った。
全部は書けない。
藤岡が靴を見たときの少し得意そうな顔。
内田が窓の外を見たときの表情。
沢村が「前まで」と言いながらも足元を見た一瞬。
河野が送迎車から降りる前に、自分で止まった時間。
森下が中本に向けた短い視線。
中本が言わなかった何か。
それらをすべて記録に残すことはできない。
けれど、残せるものはある。
次の人が、患者さんを少し丁寧に見られるように。
次の声かけが、少し急がないものになるように。
次の訓練が、生活のどこかにつながるように。
宮瀬は、ゆっくり入力した。
立ち上がり前、本人が自発的に足元確認を実施。
歩行前に停止動作を確認し、本人ペースで開始。
リハビリ後、疲労感はあるが、廊下で短時間休息後に表情やわらぐ。
次回も開始前の不安感と準備時間を確保する。
保存ボタンを押す。
記録が確定される。
画面の中の一文は、患者さんの時間のほんの一部でしかない。
それでも、明日の誰かに渡る。
「宮瀬くん」
声をかけられて振り向くと、森下が記録室の入口に立っていた。
「吉村さん、病棟へ戻られてからも落ち着いています。立ち上がる前に、ご自分で足元を見ておられました」
「そうですか」
「『呼ばれてから慌てなくていいと言われた』と話されていました」
宮瀬は少し照れたように笑った。
「そんなふうに覚えておられたんですね」
「覚えておられましたよ」
森下は、記録室の机の上にあるタブレットを見た。
「記録、進んでいますか」
「はい。少しずつ」
「中本さんみたいに、止まらずに書きすぎていませんか」
宮瀬は一瞬きょとんとしてから、笑った。
「それ、中本さんにも言っていましたよね」
「言いました」
「今日は、僕にもですか」
「はい。支援者にも止まる時間は必要なので」
森下はそう言って、スタッフステーションへ戻っていった。
宮瀬はその背中を見送りながら、少しだけ笑った。
そのあと、中本が記録室に入ってきた。
「森下さん、何か言ってた?」
「止まる時間が必要だそうです」
中本は、少し困ったように笑った。
「広がってるな」
「良いことは共有されます」
宮瀬がそう言うと、中本は大場の言葉を思い出したのか、小さく笑った。
「それも、広がってるな」
夕方。
リハビリテーションセンターの長椅子には、再び静かな時間が戻っていた。
その日、最後のリハビリを終えた患者さんが病棟へ戻り、通所リハビリの送迎車もすべて出発した。
訓練室の扉が閉まる。
かちゃり。
宮瀬は、その音に自然と顔を上げた。
以前なら、ただの扉の音だった。
今は違う。
誰かが出てきた音。
誰かが入っていった音。
家族が顔を上げた音。
患者さんが少し緊張した音。
支援者が次の準備へ向かう音。
その全部が、少しずつ重なって聞こえる。
中本は、長椅子の前で足を止めた。
誰も座っていない椅子。
けれど、そこにはたくさんの時間が残っているように見えた。
待つ家族の時間。
記録を書く前に迷う時間。
靴をそろえる時間。
扉の音に顔を上げる時間。
廊下で車椅子を止める時間。
時計を見ながら不安を言葉にする時間。
声をかけないで見守る時間。
送迎車の窓から、病院と家の間を見る時間。
名前を呼ばれる前に、足元を見る時間。
申し送りのあとで、同じ患者さんの違う時間が重なる瞬間。
そして、言わなかった一言を、急いで形にしない時間。
それらは、訓練単位にはならない。
歩行距離にもならない。
介助量にもならない。
けれど、患者さんの生活につながっている。
中本は、長椅子に手を置いた。
古い木の感触が、指先に少し残る。
「中本さん」
宮瀬が声をかけた。
「はい」
「リハビリって、訓練室の中だけじゃないんですね」
中本は、すぐには答えなかった。
その言葉を急いでまとめたくなかった。
廊下の向こうでは、村上が靴履き替えスペースを整えている。
大場が通所リハビリの記録を確認している。
スタッフステーションへ続く廊下では、森下が患者さんの夕方の移動に向かっている。
それぞれが、自分の場所で、同じ一日を次へつないでいる。
「そうだね」
中本は、ゆっくり答えた。
「訓練室の中で見えることも大事だし、訓練室の外で見えることも大事だと思う」
「はい」
「でも、全部を一人で見ることはできない」
「だから、つなぐんですね」
「うん」
中本は宮瀬を見た。
「記録でつなぐ。申し送りでつなぐ。声かけでつなぐ。待つことでつなぐ。時には、何も言わないことでつなぐ」
宮瀬は、少し考えるように頷いた。
「難しいですね」
「難しい」
中本は笑った。
「でも、だから一人で抱えなくていい」
宮瀬は、その言葉を静かに受け取った。
リハビリ室のとなりには、多くの人がいる。
患者さん。
家族。
看護師。
介護福祉士。
作業療法士。
理学療法士。
送迎の運転手。
スタッフステーションで記録を読む人。
病棟で夜の移動を見守る人。
家で装具のベルトを確認する家族。
それぞれが、少しずつ見ている。
少しずつ待っている。
少しずつ支えている。
誰かの一歩は、その人一人だけでできているわけではない。
けれど、支える人が前に出すぎてもいけない。
本人の足が、自分の足として床をとらえる時間を残すこと。
そのために、となりにいる。
宮瀬は、長椅子を見た。
「僕、最初は、リハビリは訓練室で何をするかだと思っていました」
「うん」
「今も、それは大事だと思っています」
「大事だよ」
「でも、その前と後に、こんなに時間があるとは思っていませんでした」
中本は頷いた。
「僕も、最初から見えていたわけじゃない」
「中本さんもですか」
「うん。患者さんや家族や、病棟の職員や、通所の人たちに教えてもらって、少しずつ見えるようになった」
「今もですか」
「今も」
中本は、廊下の奥を見た。
森下がスタッフステーションへ戻っていく姿が見えた。
少し離れている。
声は届かない。
けれど、森下はこちらに気づき、軽く会釈した。
中本も小さく頷いた。
それだけだった。
けれど、その一瞬にも、これまでの申し送りや、言わなかった一言や、同じ患者さんを見てきた時間が重なっていた。
宮瀬は、そのやり取りを見て、何かを言いかけた。
けれど、言わなかった。
言わない方がいいこともある。
今の宮瀬には、それが少しだけわかるようになっていた。
リハビリセンターの外では、夕方の光が少しずつ薄くなっている。
送迎車の音はもう遠い。
病棟では、夕食前の時間が始まっている。
家では、誰かが明日の通所リハビリの準備をしているかもしれない。
靴を玄関にそろえる。
装具のベルトを確認する。
連絡帳を鞄に入れる。
明日は雨かな、と窓の外を見る。
その時間もまた、リハビリ室のとなりに続いている。
宮瀬は、タブレットを胸の前に抱えた。
「明日も、見落とすと思います」
中本は少し意外そうに宮瀬を見た。
宮瀬は続けた。
「でも、見落としたままにしないようにしたいです」
中本は、ゆっくり頷いた。
「それでいいと思う」
「はい」
「気づいたら、次につなげればいい」
訓練室の扉が、最後にもう一度だけ開いた。
中の確認を終えた大場が顔を出す。
「戸締まり、こちら終わりました」
「ありがとうございます」
中本が答えた。
大場は廊下を見渡し、長椅子に目を止めた。
「今日も、ここ、いろんな人が座っていましたね」
「そうですね」
村上も靴履き替えスペースから戻ってきた。
「明日の朝も、またすぐいっぱいになりますよ」
「靴もいっぱい並びますね」
宮瀬が言うと、村上は笑った。
「靴を見る人も、いっぱいです」
「見るのも疲れるそうです」
「藤岡さんですね」
「はい」
「明日は、少し早めに来てもらいます。靴で慌てないように」
村上の言葉に、中本は頷いた。
明日の準備は、もう始まっている。
今日の記録が、明日の声かけになる。
今日の申し送りが、夜の見守りになる。
今日の沈黙が、明日の待ち方になる。
今日の一歩が、家での小さな動きにつながる。
リハビリ室のとなりには、終わりきらない時間がある。
その時間は、今日から明日へ、病院から家へ、患者さんから家族へ、支援者から支援者へ、少しずつ渡されていく。
中本は、最後にもう一度、長椅子を見た。
誰も座っていない。
けれど、空っぽには見えなかった。
そこには、待っていた人たちの時間があった。
言葉にならなかった不安があった。
声をかけずに見守った人の手があった。
立ち上がる前に集めた勇気があった。
そして、その一つひとつに気づこうとした人たちのまなざしがあった。
中本は、静かに照明を落とした。
廊下に、やわらかな影が伸びる。
リハビリ室の扉が、ゆっくり閉まった。
かちゃり。
その音は、一日の終わりの音だった。
けれど、終わりだけではなかった。
明日また、誰かがここへ来る。
誰かが長椅子に座る。
誰かが名前を呼ばれる前に足元を見る。
誰かが靴をそろえる。
誰かが扉の音に顔を上げる。
誰かが、声をかけるか、かけないかを迷う。
誰かが記録に一文を残す。
そして、その一文を読んだ誰かが、次の支援へつなげていく。
リハビリは、訓練室の中だけでは終わらない。
そのとなりにある時間が、誰かの生活へ続いている。
リハビリ室のとなりで。
今日も、誰かの一歩を支える時間が、静かに流れている。
完
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