
鞄の中の、開けないお守り
大学1年生のある日、短時間の外出後、帰宅し部屋に入ってすぐ、体がダルくて床にうつ伏せに横たわった。上半身を絨毯、下半身をフローリングに投げ出して呆然とした。足が冷えると思ったが動けない。レースのカーテン越しに青空が見えた。付けっぱなしだったテレビが煌々と光っていた。
青空だった空は少しずつ夕暮れのオレンジへと変わり、空が暗くなっていくのと反比例するかのように、テレビの光が強くなっていく。
カーテンを閉めなきゃ。見てないテレビを消さなきゃ。立ち上がらなきゃ。部屋の電気をつけなきゃ。
そんなことをぐるぐると考えながらも動けない。すべての動作は簡単なのに、それを実行することができない。寒かった。せめて体の全体を絨毯に移動させたかった。それさえできないのが、精神疾患なのだ。
自分の意思と体を連動させることができない。
この、自由の利かない身体の始まりは、どこだっただろうか。記憶を遡ると、高校1年生の春に突き当たる。
それまで齧り付くように寝食忘れて読んでいた本が読めなくなった。高校にある学校図書館は行ける。むしろ、図書館は居心地が良い場所だった。中学校の図書館にはなかった、読み応えがありそうな本がたくさんありワクワクした。
本を借りて帰る。
ただ、その本を開くことはできない。
慣れない環境による疲れかと思った。けれど、本が読めない時間は長く続いた。
高校2年生の頃から本格的に体調が悪くなっていった。わたしは進学校に通っていたので、予習復習は必須だ。しかしそれができない。勉強がしたいという気持ちはあるのに、勉強と向き合うことはできなかった。入学時は学年の半分くらいの順位だった成績は、入学後から落ちていき、あっという間に下から数えた方が早いところまで下がった。行きたい大学があり、大学でやりたいことも決まっていた。しかし、それに向けて行動することが難しかった。
心療内科に通うようになり、環境適応障害だと言われた。
そのうち治ると思ったが、一向に治らなかった。成績は最低ライン。そのうち授業の出席も満足にできなくなり、単位制高校だったので、単位を落として留年しかけたこともある。何とか進級でき、3年生になった頃には、いよいよ身体が鉛のように重く、起き上がれなくなっていた。
勉強がしたいのに教科書が開けない。
予習必須授業が多かったため、予習しなければいけないのにそれができないから、よく授業をサボるようになった。教室は怖い場所へと変わり、保健室で眠る時間が増えていった。
家から学校まで自転車で1時間ほどかけて通う毎日。
ある週末、模試を受けるために学校へ行った。門の前に到着した。しかし、学校の敷地に入ることがどうしてもできなかった。しばらく呆然としたのち、元来た道を帰った。ただ2時間自転車を漕ぎ、疲弊して家にたどり着いた。
高校最後の体育祭には体調不良のため欠席することにした。それを知った体育委員のクラスメイトに、最後の体育祭なのだから一緒に出てほしい、と説得をされながら泣かれた。クラスメイトに泣かれて驚いた。一生懸命委員の仕事に取り組む彼女に申し訳ないと思う。それでも、体育祭には出ることができない。わたしの体も心も限界だったのだ。
家庭環境も複雑だった。一緒に住む家族はわたしのケアを必要としていた。
家族のケアと自分の勉強。どちらも重要だったが、家族は目の前にいる。目の前にいるケアを必要とする人々を放っておくことはできなかった。
学校に行きたくなくて、たまにマクドナルドやスターバックスに登校前に寄っては時間を潰した。一人の時間が必要だった。誰の視線もない、わたし一人の時間が。それは多分幼い頃からいまだに持っている性質で、わたしはひとりぼっちの時間がないと苦しくなる。誰の視線にも晒されない、知った人の気配がない、そんな時間がわたしの生活には必要不可欠なのだ。
誰の視線もない場所にいて、初めて息ができる。
一人でいることが特別好きだとは思わない。けれど、他者との間にある交じり合う気配が切り離された時間を得ることで、やっとリラックスできる瞬間が昔からあった。
大学へは浪人した後進学した。そして進学と同時に上京した。
一人暮らしを始めると、当たり前だけど、家族に割いてきたリソースをすべて自分にまわすことができた。それに安堵し、緊張の糸が切れたのか、わたしの体調は一気に悪くなった。今まで家族のケアをしなければいけないと、と張っていた気が一気に抜けたのだろう。
過食のような症状も現れた。お腹が空いてコンビニに行っては、たくさんのお菓子を買って、吐きそうになるくらい食べた。体にも経済的にもよくない行動であることは分かりきっていたが、止めることができない。そんな日々を一人で抱えて生きていた。
高校までの教室では、誰がどこにいて何をしているのか一目瞭然だ。わたしはその透明性が、他者に監視や管理されているように感じ居心地が悪かった。
大学での人の動きは高校までと違い不透明だ。初回授業に行き、初めて友人と同じ授業を取ることを知る。友人と授業を一緒に受け、授業が終われば別れる。人と話したい時は、今空きコマ?と友人にチャットを送り、空き教室や学食でお喋りをしたり、一緒に課題をしたりする。そうやって人との接点を自分で調節できる大学制度はわたしの性質に合っていた。
大学生になったわたしは優れた学生になりたかった。それは高校時代、できなかった勉強を取り戻したいかのような衝動のようでもあった。学術書をたくさん読み、仲間たちと学術的議論を行い、優れたレポートを書き、優れた発言を授業中に行う。
学年が進むにつれ、偶然優秀な学生と友人になることが多かった。彼らは学外の勉強会に顔を出し、優秀な成績を収め、皆留学していた。そんな友人たちに憧れて、わたしも彼らの仲間になりたかった。けれど結果としてなれなかった。
わたしは大学生になっても、今を生きることで精一杯だった。
なのに、自分の理想像をいつも追いかけていた。自分の理想像は、自分ではない。それは架空の誰かだ。
あの頃のわたしはいつもエゴにまみれていた。とても醜かったと思う。しかし、年齢や経験を重ねた今、いつしかそのエゴは薄れていった。他者と比べず、自分だけにフォーカスする日々は居心地がいい。ただ、当時はそれに気がついていながらも、なかなか一度持ってしまったエゴを手放すことができずにいた。
大学生活は進み、3年生の後期も終わる頃、わたしは留学するという目標を諦めきれずにいた。そもそも進学先を選んだ基準の一つに、国際交流が盛んなことがあった。
中学生の頃、テレビで見たイタリアのドキュメンタリー番組を見て、海外に強烈な興味を抱いた。その頃は外国の文学作品も貪るように読んでいたし、海外の生活への関心は日に日に増していった。大学では留学がしたい。そう胸に決めて進学したのはいいものの、成績が悪く、交換留学の出願に必要な語学のスコアも得られなかったため、交換留学は応募さえできなかった。
しかし、それでも留学が諦められない。方法を模索していると、運がいいことにドイツに行けることになった。ドイツでの10ヶ月の語学留学だ。
わたしは留学まで海外に行ったことがなかった。飛行機さえ乗ったことがない。
パスポート申請を行い、航空券を買った。
航空会社のサイトで必要事項を入力し購入ボタンを押し、購入できたという画面を見た瞬間、緊張で頭が痛くなった。
本当に海外に行くんだ。しかもずっと憧れていたヨーロッパ。
不安と緊張と期待が、ドッと押し寄せた。
ドイツ留学はしんどかった。
大学附属の語学学校へ通っていたため、周りの学生は皆、国外からドイツの大学への進学を目的とし、語学の習得に励んでいた。
初級クラスのほんの最初の頃だけ、先生は英語を使っていた。しかし、すぐに教師はドイツ語に切り替えたので、ドイツ語をドイツ語で教わる時間が平日は毎日、朝8時から13時まで続いた。
放課後は時間があったが、体調が悪く勉強ができない。
課題と予習を何とかこなし、学校が終わると部屋に帰り、体調が悪いためベッドの中で大半の時間を過ごした。活動的に過ごす、周りの留学生達が羨ましかった。
食べる気力がなく、朝から何も食べていない日が多かった。そのような日は、夕方頃、空腹に耐えかねてよく近所のケバブ屋へ行き、ピタパンにぎゅうぎゅうに詰められた、野菜や肉を食べた。ケバブ屋のおじさんとはいつしか顔見知りになり、店内で食べるときはチャイを飲むか?と訊いてくれ、ケバブと一緒にサービスのチャイも飲んだ。
ケバブ屋に行くようになる頃には簡単なドイツ語を話せるようになっていたので、店主やスタッフとたまに話をした。そこで過ごす時間は、空腹を満たすと共に、ホッとするひと時でもあった。
わたしは夏にドイツに行った。日が長く、暑い、けれど低い湿度のおかげで快適に過ごす時期はあっという間に終わり、季節は冬になった。
ドイツの冬は、暗く長い。
冬季鬱、という病気もあるように、精神疾患をもつ人の中には冬に具合を崩しやすい人が多くいる。わたしもその中の一人だ。日照時間の減少が大きな原因だ。
できる限りの時間をベッドで過ごした。出かけることもあったが、活動的、とは言い難い生活だった。
それでも元気がある時は本が読みたかった。日本から数冊、紙の本をドイツへ持ってきていたが、読んだことのない本を紙媒体で読みたい、という欲求が限界に達した。
日本のアマゾンのサイトで何冊か本を買い、それをドイツまで配送した。ボロボロの箱に入って届いた本(ドイツでは郵便物の外箱が頻繁に破損した状態で届く)は、輝いていた。ウキウキしながらどれから読もうかと、ベッドに本を並べた。とても幸福な時間だった。
そんな束の間の楽しい時間もあったが、鬱々とし、ネガティブな発言も多く、冬はとにかくつらかった。語学学校の最後のセメスターは酷い有り様で、授業に行けない日が増えた。クラスメイトの中に唯一、授業に来られないわたしを心配してくれる年下の友人がいた。彼女からの、今日学校に来てないけれど大丈夫?と言うチャットだけが、その時のわたしの居場所だった。そのテキストを見るたびに、わたしはここに居ていいのだと思えた。
ドイツ滞在最後の一ヶ月は、学校に行くことをやめた。わたしはドイツに来て、全然楽しい時間を送れていないと思ったからだ。やりたいことだけやろう。辛い語学学校は行くのをやめよう。学校に行かず、気ままに過ごす時間は、気が楽だった。ドイツに来て、初めて息ができたと思った。
季節は春になっていた。
そして間も無く、わたしは帰国する。
留学へは大学を休学して行っていた。復学した後、卒業論文を書き始める必要がある。ただ、なぜかわからないが、もう1年大学にいた方がいいと直感的に思った。実家は経済的にゆとりがあるわけではなかったが、母はわたしの意思を尊重し、大学へもう1年行くことになった。
その時間で、わたしは療養することができ、卒業論文も提出でき、卒業認定に必要な単位数ピッタリの数だけの単位を取得し、卒業することになる。
成績は悪く、卒業論文の出来も悪かった。しかし、体調が悪い中、やり切ったと思った。6年間の学生生活が終わった。
その後の数年間は比較的体調は落ち着いていた。アルバイトをしながら、大学院進学準備を行った。
様々なことが起こり、考えた結果、大学院進学を諦め、就職することにした。次に住む場所は東京や大阪ほど人が多くない、けれどもそれなりの規模の都市にしようと思い、名古屋に住むことを決めた。就職することを決めてからは集中して就職活動を行った。
ある日、奇跡的に名古屋にある会社から内定を得た。その内定連絡により、縁もゆかりもない名古屋での生活が始まる。
不安はあった。知らない街だし、もちろん知り合いもほとんどいない。名古屋に来てすぐの頃、不安に押しつぶされそうで、家族と電話で話していたら涙が出てくることもあった。
けれど、体調はかなり良くなっていたから、フルタイム勤務も行えると思った。
そう思っていたが、現実はうまくいかない。好きでもないオフィスカジュアルを着て、同じ時間に出社し、退勤する。それはまるでわたしが苦手とする、高校生まで味わっていた集団生活と同じだ。似通った服装に、同じリズムで他者と生活することは、学校生活を思い出させた。あれだけ嫌っていた場所に、気がつけばわたしは戻っていたのだ。
「なんでオフィスカジュアルを着ると元気がなくなるんだろう。ただの服だ。服を選ぶ必要がなくて楽だよ。」
自分に言い聞かせて、毎日出社した。けれど、次第にわたしは疲弊していった。
それでも生まれて初めての会社員生活は希望に溢れていた。早く業務に慣れよう。早く一人前になろう。憧れていた会社員、と言う「普通」になれた自分に少し酔っていたと思う。
あれほど嫌っていた集団だったはずなのに、いざ社会に出るとなったとき、わたしは狂おしいほど「普通」になりたかった。普通の服を着て、普通に出社すれば、この10年の空白や病気のすべてを帳消しにできるような気がしたのだ。
駅前にいる無数の会社員のひとりになれた。ずっと「普通」でいられなかったわたしが、他の人々と同じように出社している。そのことは今まで満たされていなかった、わたしの「普通」になりたい、と言う欲求を満たしていった。純粋に嬉しかった。同僚と給湯室で交わす、スモールトークでさえ喜びを感じる。
入社してしばらくは研修期間だ。同期は早々に研修が終わっていった。一方、わたしは実力が足らず、業務を回してもらえない。優秀な社員になりたいのに、なれない。同期とは差がついていく。それらの状況や焦りからストレスが少しずつ重なった。
そのような中でも本は常にそばにある。読めなくてもいいから鞄にいつも本を入れて持ち運んだ。それはまるでお守りのような存在だった。いつかまた、あの寝食を忘れて物語に没頭できた自分に戻れるかもしれないという、捨てきれない執着だったのかもしれない。
元気がある時はカバンの中から本を取り出し、仕事のお昼休憩に読んだ。本の世界にいるときは、わたしは出来の悪い社員ではなく、ただの一人の読者になり、本の世界に逃げ込むことができた。
体調不良から、会社を月に1・2度欠勤することが続く。そのうちどんどん具合が悪くなり、体調を誤魔化しながら会社に通った。与えられた業務もないので、本当にただパソコンの前に座っているだけのような毎日だ。
焦燥感だけが積もっていった。ここでもやっぱり普通になれない自分に落胆する。
ただ、会社に行って働きたいだけなのにそれができなかった。周囲の当たり前のように仕事をし、プライベートの生活も充実させた人々が眩しかった。わたしはそれができない自分を責めた。
なぜここでも「普通」になれないんだろう。
入社して一年が経った頃、休職することにした。
限界だった。
鬱症状が酷く、起き上がれない日が続いた。毎日がつらくてしんどくて、どうしたらいいのかわからなかった。
ある時期、手先が震えるほどの吐き気が続き、胃の不調だと思い内科を受診した。大きな病院へ行き、胃カメラの検査もした。吐き気止めをもらい、お願いだから効いてと思いながら服薬したが、症状は一向に治らない。
かかりつけの心療内科に行き、薬をもらった。症状が出たときに服薬すると、あれだけ酷かった吐き気が幾分マシになった。
パニック発作だった。
発作は毎晩のように起こり、その度に狼狽え、苦痛にのたうちまわる。どんな姿勢をとっても胃がムカつき苦しい。ベッドに横になったり、仰向けになったり、うつ伏せになったり、横を向いたり。様々な体勢になったが、苦しさは一向になくならない。ベッドを降りて這いつくばるように部屋の角に移動した。体の両側面を両側から壁に支えられるような姿勢で座り込む。
苦しみと孤独。
震える手で頓服薬を飲む。早く効いて、と祈りながらうずくまった。
外出するときは、何度も処方薬がカバンに入っているか確認した。薬はその頃のわたしにとって手放せないものとなっていた。
休職して半年ほど経った頃、退職することになった。業務を回してもらえないこの会社には居場所がないことは明白だ。そこに戻れるほど、わたしの精神は逞しくなかったのだ。
体調は悪いが、実家に帰るという選択肢はなかったため、転職活動をしなければいけない。わたしにとって、自分一人のためだけの空間は、生きていく上で必要不可欠だ。ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』を読んでから、わたしは意識的に自分だけの居場所を確保するようになっていた。
休職期間中に実家で過ごした時期もあったが、やはり一番落ち着く場所は、わたしのためだけに存在する狭いアパートメントの部屋だ。
退職した頃は、休職を始めた時期より体調が良くなっていたので、気を紛らわすために、カフェに行ったり飲みに出かけたりした。その時間は現実から逃げられる、他の客と違わない、精神疾患のないただの一人の客であるふりができる。
仕事はうまくいかない。けれど、もうわたしは自分自身を追い込みたくなかった。
甘いのかもしれない。世間には、仕事が好きでなくても生活のために働いている人がたくさんいる。わたしはその人たちを尊敬するし、会社員になった頃は自分もそうなりたかった。自分が決めたことをやり抜きたかった。けれど、意志とは裏腹にわたしの体がついていかない。
悔しくて仕方がなかった。
自分にあった働き方をする。そう決めたけれど、「普通」という言葉は亡霊のようにわたしにつきまとった。
精神疾患がなければ、わたしも「普通」になれたかな。
何度そう思ったかわからない。
精神疾患を抱えたわたしには、どうしてもできない振る舞いがあった。
気楽に予定を立てる。
会社に毎日行く。
限界まで自分を追い込んで物事に取り組む。
休息日を作らずに活動する。
先の体調が読めず、予定を組むたびに「ドタキャンしてしまうかもしれない」という言葉を添えた。
会社へは鬱症状とパニック発作によって、毎日行けなくなった。
自分を限界まで追い込んだら、その後の跳ね返りが激しく、数日寝込んだ。
休息日を作らなければ同じように寝込んだ。
その場のノリで予定を組むことができる人々が羨ましかった。
しんどさを抱えながらも、毎日仕事をこなしている人々が羨ましかった。
何かに全力で取り組める人々が羨ましかった。
活動的に日々を過ごす人々が羨ましかった。
何年も、何年も、できないことがやりたくて、それをできる人々を見て羨ましさを感じた。
ある時、大学の恩師と電話で話した。近況を伝えると、あなたはあなた以外の何者かになりたいんだね、と軽やかに言われた。
そこで初めて、わたしはわたし以外の何者かになりたくて仕方がないことに気がついた。受話器の向こうから降ってきたその言葉は、冷水を浴びせられたように私の輪郭を際立たせた。
もう人生の半分を病気と付き合っている。いつの間にか病はわたしのアイデンティティの一部と化しているのに、それを無視して、わたしはわたし以外の理想像を作り出し、その存在に憧れ続けた。
なんてバカなことをしているのだろうかと思った。わたしはわたし以外の何者にもなれないのに、できないことをしようと苦しんでいたのだ。
もうできない自分を否定することをやめようと思った。
ずっと前からわたしは、「普通」であることを諦める必要があった。他の誰でもない、この不完全なわたしをただ引き受けて生きていく覚悟が欲しかったのだと気づいた。
大学生の頃、絨毯とフローリングの上から動けなかったわたしは、今はもういない。けれど、この病が完全に消え去ることはない。目指すのは完治ではなく寛解だ。私はこれからも、この自由の利かない身体と一生付き合っていく。
それでもわたしは今、本の世界に没頭するエネルギーがある。かつて開くことさえできなかった真っ白なページを、今は自らの意思でめくっている。次のページをめくることが待ちきれない。