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15年目の卒業式、缶詰パンを食べた君たちの価値


いわき市の公立中学校で、卒業を記念して用意されていた給食の赤飯が提供されなかったというニュースを読みました。

震災の日と重なったことへの配慮から直前に判断が変わり、5校で約2100食もの赤飯が廃棄され、代わりに備蓄用の缶詰パンが配られたといいます。

記事には、教育委員会の説明や市長・教育長の発言が並んでいました。

「配慮が必要だった」「判断は適切だったのか」——どの言葉も、それなりの筋は通っています。

コメント欄やSNSでも、「誰の責任か」という議論が大半を占めていました。組織の論理か、個人の感情か。議論はいつの間にか、責任の所在へと収束していきます。

ただ、そうした言葉を読み進めながら、ひとつ気になることがありました。

どの発言も、どの議論も、

「その場にいた卒業生たちがどう振る舞ったか」

にはほとんど触れていない。まるで、その日の主役が存在しなかったかのように。

卒業式は、子どもから大人へと踏み出す節目の場です。そこで、楽しみにしていたはずの赤飯が突然消え、理由も完全には腑に落ちないまま、非常食のパンが配られる。穏やかな状況とは言えません。

それでも卒業生たちは、学校の説明を受け入れ、騒ぐことなくそのパンを食べたといいます。

不満がなかったはずはない。期待が裏切られた戸惑いや、どこか釈然としない気持ちもあったはずです。

それでも彼らは、その場を乱さず、式の一日を静かに過ごしました。

その姿を、私は単なる「我慢」とは呼びたくありません。

自分の感情を一度引き受けたうえで、場全体を壊さないように振る舞う——それは、きわめて社会的な行動だったと思うからです。

この光景を思い浮かべたとき、自分自身の記憶が重なりました。

かつて東日本大震災の支援ボランティアとして現地に入ったことがあります。あの混沌とした状況のなかで人々を支えていたのは、理屈でもシステムでもなく、

「目の前の状況を共に引き受ける」

という、一人ひとりの静かな覚悟でした。

教室でパンを食べた彼らの姿は、あの避難所で見た大人たちの強さと重なって見えます。

卒業式とは、ただ祝われる日ではなく、そういう振る舞いができるようになったことを確かめる場でもあるはずです。その意味で、彼らの行動はまさに「卒業」にふさわしいものだったのではないでしょうか。

彼らが生まれたのは、震災のあった年です。記憶としては曖昧でも、社会の空気や大人たちの背中を通して、その影響のなかで育ってきた世代です。

その子たちが今、自分の感情だけでなく場全体を考えた行動を取っている。そこに、15年という時間の重みと、確かな成長を感じます。

責任を問うこと自体は、無意味ではありません。ただ、責任論よりも先に考えたいことがあります。

予期せぬ出来事に直面したとき、人はどう振る舞うのか。自分の正しさを主張することか、それとも、その場をまず受け止めることか。

あの日、静かにパンを食べた卒業生たちは、その問いにひとつの答えを示していたのではないでしょうか。

大きな声では語られなかったその行動に、確かな価値がある、そう感じれる自分でいたいと思います。



卒業生のみなさんへ。

あの日の落ち着きと強さは、間違いなくあなたたちの中にある力です。これから先、理不尽な場面や迷うことがあっても、あの日の自分を誇りに思ってください。

ご卒業、おめでとうございます。


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