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一億のパンドラ(全セクション版)

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    一億のパンドラ

    プロローグ

    銀行法 第十三章の二(貸金庫業務)

    貸金庫には、次に掲げる物を収納してはならない。
     一 日本銀行券、政府紙幣、外国通貨その他の通貨
     二 火薬類、銃砲刀剣類その他危険物
     三 腐敗その他により他の収納物に損害を及ぼす惧のある物
     四 犯罪による収益その他不法な目的に供される物
     五 前各号に掲げるもののほか、内閣府令で定める物

    第百五十二条の三(収納禁止物)

    第百五十二条の三第一号の規定に違反して通貨を貸金庫に収納した者は、五十万円以下の罰金に処する。
    2 前項の違反が、租税回避、犯罪収益の隠匿その他不正の目的でされたときは、二百万円以下の罰金又はこれに相当する刑事処分に処する。

    第百九十七条の二(罰則)

    市川(一)

    「検査つらくなかったか?」
    「全然!」

     全身麻酔で眠っていたのだから当たり前か。チーズバーガーを頬張る涼太を眺めながらそんなことを考える。違う。考えているのは医者の言葉だ。1年後の生存率75%。仮に涼太が100人いたとしたら、6歳を迎える頃には75人に減っているということだ。頭がうまく働かない。明らかに日本語ではない病名だった。何度聞いても覚えられず、手帳に書いてもらった。読み方は今もわからない。

     治療は可能だと医者は言った。しかし極端な高額医療。最低でも数千万円は必要だという。保険は?と聞いたら、医者は一瞬何のことかわからなかったらしく、微妙な間があった。要するに適用外ということだ。

     数千万円なら、ある。銀行の貸金庫に預けてある。数年前の事件で手に入れた金だ。通称一億円事件。金が欲しかったわけじゃない。思いついたアイデアを試してみたくなっただけだった。そして実行したら成功してしまった。失敗するとは全く思っていなかったものの、いざ成功してしまうと扱いに困る。部屋に置いておくわけにもいかないし、かといって拾った場所に返してくるわけにもいかない。だから計画通り、事前に開設しておいた貸金庫に預けた。

     時効まであと1年。時効さえ成立してしまえば拾った場所に返しに行くことができる。中身には指一本触れていないし、動機でも手口でも、聞かれたら何でも答えるつもりだ。そのつもりだった。しかし、涼太のためとはいえあの一億円を使うのか?それは良くない。使ったら犯罪者になってしまう。

    「パパそれ食べないの?」
    「ああ、ちょっと食欲がなくてな」
    「ふうん。パパも検査してもらえばよかったのに」

     そうだね。そして病気が見つかったのが僕の方だったらよかったのに。そうすればこんなに悩むこともない。味のしないてりやきバーガーを口に詰め込む。ナゲットは半分こした。奇数だったので涼太の方が1つ多く食べた。


    桂(一)

    「おはようございます、今日は早いですね」
    「今日は当番なんで!桂さんっていつもこんな朝早くから出社してるんですか?まだ誰もいないじゃないですか」

     何の当番なのか全く説明がないまま話題が切り替わることに少し驚く。これが最近の若者の喋り方なのだろうか。まあ、朝の方が仕事が捗りますからね、とかなんとか、当たり障りのない返事を返す。こんな風に誰かから話し掛けられることもないし、とは言わない。彼の名前は何だったか。鈴木?佐藤?確か最近中途入社した若手だ。珍しい。しかし大手銀行を志望するような若者は正直区別がつかない。もっとも向こうからすれば、我々の世代の方が「どこにでもいるおじさん」なのかもしれないが。

     自席に向かう暫定佐藤君を目で追う。席が隣でなくてよかった。朝のルーチンに戻る。昨日の貸金庫フロアの入退室ログと開扉申請を照合する。問題なし。承認。続いて今日の開扉申請を確認。3件。うち注意を要するのは1件。席を立ち、地下に向かう。

     貸金庫に現金は保管されていない。されていないことになっている。銀行法で禁止されているからだ。そして銀行は貸金庫の保管物を知ることはない。知らないことになっている。顧客のプライバシーだからだ。高セキュリティの場所を貸しているだけで、その中身には関与しないし責任も持たない。そんな利用規約になっている。

     バックドアから貸金庫エリアに入る。正規ゲートのセキュリティは厳重だ。監視カメラ付きの分厚い自動ドアを開けるには、社員証とパスワード、指紋認証を求められる。そしてその入退室のログは、責任者が毎日点検している。つまり私が。少しでも不自然な点があれば、24時間以内に監査部門の調査チームに報告する手順になっている。

     貸金庫に現金が保管されていると気づいたきっかけは、ある顧客との雑談だった。通常、顧客が貸金庫を開ける際には職員が立ち会うことになっている。といっても立ち会うのはゲートを開けるところまでだ。その先は、顧客自身が自分の金庫を物理鍵で開扉し、保管物を出し入れする。その間、立会人はゲートで待機する。買い物客がクレジットカードのパスワードを入力する際に後ろを向く店員のようなものだ。

     その日、その顧客が帰り際、地上に戻るエレベーターを待っている間に話しかけてきた。現金って保管しちゃいけないことになっているんですね、と。その規約を知って、今回慌てて中身を取り出しに来たのだという。こいつは突然何を言い出すんだ。犯行の自白にしか聞こえないが、本人はそのことに気付いていない。利用規約以前に法律で禁止されているということを知らないのだろう。忠告しようかと思ったが、余計なお世話かもしれない。はい、禁止されています。とだけ答えておいた。地上階に到着し、お辞儀して見送った。

     少し好奇心が湧いた。その後、チャンスを見計らい、マスターキーを使っていくつかの金庫の中を覗いてみた。結果、金額に多寡はあるものの、実に半分以上の金庫に現金が保管されていた。私が今から移動させるのは、その一部だ。

     一時期、私生活で手を出した信用取引の負債がかさんでいた。個人で支払うには少し大きすぎる額だ。だから金庫の中の現金を借りることにした。そして現金が減った金庫の開扉申請があるたびに、他の金庫から現金を移動させて補填している。だから顧客が扉を開ければ現金はいつもそこにある。何も問題ない。銀行の本業と同じだ。顧客は自分の預けたお金が常に銀行に保管されていると信じている。その裏で銀行は、顧客から預った金を運用している。だから全ての顧客が一斉に預金を引き出したら取り付け騒ぎが起こる。

     一仕事終えて自席に戻ると、出社したばかりの部長から手招きされた。どうしました?という私の問いを遮って、そのまま会議室に連れて行かれる。そこで聞かされたのは、貸金庫サービスが終了になるという話だった。予定では1年後。頭取の決定であり、採算悪化が続いていることが理由だという。顧客への案内は準備中。今はまだ口外禁止との厳命が下った。どうやら昨年着任した若手頭取は、改革派のようだ。


    市川(二)

     検査から数日が経った。涼太は公園の砂場で遊んでいる。僕はその近くにベンチに座っている。まだ検査結果が信じられない。時間が経つにつれ実感が失われていく。というよりも、そんな検査があったという記憶自体が薄れている。涼太は元気だ。小学校入学前に死ぬかもしれない身体のようには全く見えない。しかし手帳を開けば、相変わらず読み方のわからない病名のメモが残っている。医者の宣告は現実だ。

     涼太は母親似だ。澪は、涼太を産んですぐに交通事故で亡くなった。そのせいか、嫁、家内、ママ、どの呼び方もしっくりこない。澪は澪のままだった。こんなとき澪だったらどうしただろう。ショックで泣いただろうか?それとも即座に行動を開始しただろうか。多分後者だっただろう。両親、親戚、知人に頭を下げる。消費者金融からの借金。駅前で声を枯らして募金を募ることだってしたかもしれない。なのに僕はまだ、何か「いい方法」がないか考えてしまっている。

     どうしても貸金庫に預けた一億円のことを考えてしまう。澪なら迷わず使ったはずだ。使えば一万円札の記番号から足がつくなどと言ったらきっとぶん殴られる。そんなことを考えるのは後だ、と。それ以前に「一億円がある」ということをすぐに知らせなかった罪でぶん殴られる。一億円事件のことは、澪を含め誰にも言っていない。隠していたのは事実だけど、僕自身、あの金のことは、存在しないものとしてほとんど忘れたまま生活してきた。涼太の診断結果と同じくらい実感がない。しかし存在する。

     今日は貸金庫の鍵を久し振りに持ち出した。ポケットの中で鍵を弄びながら、貸金庫を開設した際に銀行員から受けた説明を思い出す。保管禁止物や罰則などだ。全て事前に調べて既に知っている内容だったが、初めて知ったような顔をして頷いておいた。貸金庫が開設された後、試しに何回か、現金とは無関係な物を出し入れしてみた。思わせぶりな分厚い茶封筒や中身が空のスーツケース、父の部屋にあった地球儀などだ。しかしどの回も、立ち合いの職員は貸金庫フロア入口のゲートで待機したまま、あからさまにこちらに背を向けていた。金庫の前には監視カメラもない。あれは、利用者のプライバシーを尊重するというよりも、「保管物の内容には一切関わらない」という確固たる意志表示のように見えた。


    桂(二)

     そろそろ潮時だろうか。信用取引も別に面白くない。顧客の貸金庫から持ち出した分を取り戻せば止めてしまうつもりだった。しかし持ち出し額はじわじわと増えた。ここまでくると、もはや期待値に収束していくだけの単なる統計的現象だ。つまるところ市場とは、きっとそういうものなのだろう。貸金庫の現金を使って負債を全て清算した。

     会議室で部長から貸金庫サービスの終了を知らされたとき、即座に私は驚いて見せた。実は転職を考えていたのですが、と。口から出まかせだ。既に何社か選考が進んでおり、いえ、この職場に何か不満があるわけでは決してなく!一身上の都合というやつでして、地元に帰ろうかと考えております。はい、しかし私の担当業務がサービス終了となると、ちょっとゴタゴタしますよね。選考の先方に何て言おう。弱りましたね。

     部長も驚いていた。君が転職か。そんな時代なのか、と。引き留めはなかった。人事規程を超える慰留には何かと問題もあるのだろう。ただ、業務引き継ぎだけはしっかり頼む、とだけ言われた。もちろん完璧に引き継ぎますよ。貸金庫の業務と責任を、後腐れのないよう、後任者にきっちりと。

     記憶の反芻を終え、今日も入退室のログを点検する。問題なし。承認。開扉申請。要注意1件。地下に向かう。部長と話したすぐ後に、実際に転職活動を始めた。計画通りに進めば1年後には、私は海外に移住しているだろう。その頃に貸金庫で何かがあったとしても、それはもう後任者の問題だ。

     貸金庫フロアのバックドアを開ける。このドアの存在に気づいたのは偶然だった。まだ若手だった頃の消防避難訓練。その日のシナリオは「4階の東エリアで出火」というものだった。従業員のみなさんは西階段から避難してください。避難誘導係の指示に従う。

    「西に階段なんてありましたっけ?」

     あるぞ、と答えた当時の課長(今の部長だ)と一緒に、廊下の人の流れに混ざる。そのまま流されていくと、確かにあった。導線上の死角で金属製の防火扉が開け放たれている。階段の内装は明らかに人の目に触れることを想定していない様子だった。スーパーのバイトが休憩するバックヤードを連想した。

     避難訓練には軽い非日常感が漂う。窓のない階段を下りながら、普段は無駄口を叩かずに仕事をする職員も、まるで小学生のように微妙に興奮気味だ。そのまま地上階の、これもまた普段は開いていないであろう扉をくぐると、建屋の裏の細い空間に出た。人流の終点は駐車場だった。部署別の整列と点呼を済ませ、総務部長だか消防署長だかの講評を聞いて解散。自フロアに戻るときに使ったのは、いつもの東階段だった。

     西階段は完全に認識の外にあった。どのフロアに向かうにも遠回りだし、トイレや自動販売機や喫煙所があるわけでもない。そんな階段を、わざわざ鉄扉を開けてまで使うシチュエーションは、それこそ避難訓練くらいしか思い付かない。後で各階のエレベーターホールでフロアマップを確認してみたが、西側に階段は描かれていなかった。西端にあるのは防火扉だけだった。

     わからないことはもう一つあった。地上階の出口から外に出るときに見えたのだが、西階段はそのまま地下に続いていた。照明は点いておらず、控えめな立て看板が「関係者以外立ち入り禁止」を主張していた。あとで調べてみようとして、1人でエレベーターに乗った時にB1を押してみたが「その階には停まりません」という音声が流れるだけだった。こっそり西階段側から地下に下り階段側から防火扉を開けようとしてみたが、鍵が掛かっていた。

     地下が貸金庫フロアだと知ったのは、貸金庫業務を担当するようになってからだ。前任者が案内してくれた。エレベーターの操作盤に鍵を差し込み、B1ボタンを押す。エレベーターは素直に従った。扉が開くと目の前は物々しいゲートだった。認証、認証、認証を終えて中に招かれる。フロアを埋め尽くす貸金庫は、ゲートの厳重なセキュリティと比較すると、非常にシンプルで、暗証番号等ではなく物理鍵で開けるタイプだった。ゲートとは違って金庫そのものの設備更新は難しい。もしかしたら開業当時の姿を留めているのかもしれない。

     前任者と一緒に貸金庫フロアをぐるりと一周する。1フロアを丸々埋め尽くす金庫の壁の間を、人間用の通路が縦横に区切っている。見た目はコインロッカーと似ているが、古めかしい区画番号がなんだか墓地を連想させる。実際に遺骨が納められている金庫もあるかもしれない。そしてエレベーターとの位置関係から推測した通りの位置に、西階段の扉があった。他フロアの扉と同じく目立たない。というよりも、見えているのに認識できないと言った方が正しい。

    「それにしても物々しいゲートですね」

     帰り道でゲートをくぐる時に前任者に話しかけた。他に出入口はあるんですか?と問うと、そんなものあるわけないでしょう、と一蹴された。なるほど。正式に管理者に着任して私が最初にやったことは、貸金庫側から西階段の扉の鍵を開けることだった。


    市川(三)

     総量規則というルールを初めて知った。消費者金融では、原則として年収の3分の1を超える金額は借りられないのだそうだ。借入希望金額を「1億円」と答えたら、担当者が笑いをこらえながら教えてくれた。念のためお尋ねしますが、年収は3億円ありますか?ありません。残念ながら。

     高額療養費制度、指定難病医療費助成制度、先進医療制度、小児慢性特定疾病医療費助成。どれも涼太には適用できなかった。ローンも難しい。住宅のような担保がないからだ。当たり前だが、無担保で1億円を貸してくれるような業者は存在しない。そして1年後に時効を迎える盗難金は担保とは言えない。

     医者に「数千万円」のニュアンスを問い合わせた。実績が少ないので何とも言えないが、最低6~7千万円は掛かるだろうとのことだった。円安の影響も受ける。

     預金を取り崩して1千万円。売却できるような持ち家や車はない。うちの両親なら孫のために1千万円くらいは出してくれるかもしれない。それ以上は本人の老後が破綻する。澪の両親はどうだろう。僕との仲が険悪なわけではない。むしろ良好だった。それでも澪の死後は会いづらくて疎遠になってしまった。たまに孫の顔を見せに来たと思ったら、金の無心。孫のためとはいえ、どう思われるだろうか。

     どんなに考えても、まともな方法では治療費の半分にも届かない。やはりあの金に手を付けるしかないのか。正直、涼太が助かるのであれば、逮捕されようが一生を盗難金の返還に費やすことになろうが構わない。しかしあの金は使うために盗んだのではない。これは単に、倫理の問題だ。そして、そんなものよりも涼太の命の方が大切に決まっている。最初から答えは出ている。


    桂(三)

     朝のルーチン。要注意の開扉申請、今日は1件。開設直後に数回やりとりがあっただけで、その後は何年も音沙汰のなかった顧客だ。その金庫で現在不足している現金は、1億円近い。

     バックドアから貸金庫フロアに入る。厳重なセキュリティに守られた正規のゲートを遠目に確認する。頭の中で現金の移動履歴を再生しながら、補填に使う一億円が存在する金庫に向かう。こうやって不足分を他の金庫から補填し続ければ問題ないとはいえ、その回数は最小限に抑えたい。この規模の額になると保管している金庫もおのずと限られる。複数の金庫の現金を集約してもいいのだが、移動履歴を覚えておくのが面倒になる。

     補填元の金庫に到着し、前任者から引き継いだマスターキーを使い、扉を開ける。さて現在は、ここに一億円が、ない。見当たらない。金庫を間違えたか?いや番号は合っている。記憶違い?それはあり得ない。それでも念のため頭の中で記憶を巻き戻し、履歴をもう一度再生する。間違いない。この金庫に一億円が入っている。なのに、ない。何故だ。そんなはずはない。違う、落ち着け。合理的な可能性を考えろ。

     私以外に現金を移動させている人間がいる?その可能性はある。いや、それしか考えられない。目立たないとはいえ西階段は誰でも使うことができる。しかし金庫のマスターキーを管理しているのは私だ。第三者が貸金庫エリアに侵入できたとしても、金庫は開けられない。いや、マスターキーは単なる物理鍵だ。私の不在時にデスクの引き出しから一時的に盗み出すこともできる。その間に複製することも可能だろう。そんなことよりも今日の開扉申請をどうやってやり過ごす?いや、その「そんなこと」こそが問題だ。だが後回しだ、考えるのは今じゃなくてもいい。

     開扉予定は11時。本日の開扉の1件目だ。しかし、よりによって、立ち合い担当は私だ。いや、私であることを喜ぶべきか。ここの他に現在1億円規模の現金が保管されている金庫は、ない。他の金庫に保管されている金額を順に思い起こす。最低でも7つの金庫から集めてくる必要がある。だが時間がない。そろそろデスクに戻らないと不自然だ。

     ルーチンが破綻している。貸金庫に向かう前に前日のログの点検を済ませておいてよかった。何も手に付かない。朝会の定例報告が耳に入ってこない。桂さん?めちゃくちゃ顔色悪いですよ?ちょっと昨晩から体調が悪くてね。うわ無理しないで休んでください!今日の開扉立ち合いなら俺がやっときますんで。いや大丈夫、私がやるよ。本当に大丈夫ですか?無理そうだったらいつでも言ってください!

     受け答えはほとんど自動応答だ。ええと、これで11時の開扉には私が立ち会うことになる。それで、不足している現金はどうする?これから開扉時刻までスケジュールは打ち合わせで埋まっている。他の金庫から掻き集めている時間はない。それに人が多い。誰からも見られず西階段に出入りするのは難しいだろう。

     開扉申請があった金庫の中身を思い出す。保管物はいくつかあったはずだ。現金の入ったアタッシェケースの他に、分厚い封筒とスーツケース、それからそうだ、地球儀。しかし今回の開扉申請は、現金の回収が目的だと考えるべきだ。他の可能性に期待するのはリスクが高すぎる。とはいえ打てる手が何もない。

     結論が出た。現金の補填なしで開扉に立ち会うしかない。現金の保管は銀行法で禁止されている。顧客もそれを知っているはずだ。存在しないはずの現金が消えたところで、それを主張すれば違法行為を認めることになる。そもそも現金が保管されていたという証拠がない。それにわざわざ貸金庫に保管していたということは、表沙汰にできない金に違いない。そしてこういう時のための「銀行は保管物に関与しない」という利用規約だ。

     しかし万が一利用者が騒ぎ立てたらどうなる?監査が入ることは間違いないだろう。かといって監査は保管物を総点検するのか?利用規約上それはない。では紛失を利用者に通知するか?それも考えづらい。そんなことをすれば架空請求してくる輩も大量に出てくる。いずれにせよ、バックドアの存在は露見するだろう。私は貸金庫の責任者として責任を追及されることになる。しかしその場合は日々の運用を誠実に遂行していたことを示せばよい。誠実に運用しても不正を防げないのであれば、それはシステム自体の不備だ。運用者に罪はない。もちろん現金移動が可能だった容疑者はある程度絞られるだろうが、私だと特定されることはない。

     もうすぐ11時になる。意を決して顧客の来訪を待つ。

     11時半。遅い。来ない。まだか。受付に確認する。来ていない。連絡もない。手順上は、1時間待って来なければキャンセル扱いだ。今までそんなことをする顧客に出会ったことは一度もないが。そして12時のチャイムが鳴った。昼休みが始まり、廊下は昼食に移動する人で溢れかえる。食欲はない。体調が悪い。


    市川(四)

     涼太が倒れ、緊急搬送された。


    桂(四)

     夕方頃に、顧客から無断キャンセルを詫びる連絡があった。なんだそれは。私は顧客都合の偶然に救われたのか。その不快感で再び体調が悪化しそうになる。しかし重要なのは連絡の後半だ。可能な限り早いタイミングで再度開扉したいという。何があったのか知らないが勝手なものだ。正規の手続きで再度申請するよう回答した。

     翌朝。ルーチン。開扉申請の点検。要注意1件。もちろん例の顧客からの申請だ。今日も私が立ち合うことにしよう。そして今度こそ補填が必要だ。ほぼ機械的に地下へ向かう。

     複数の金庫から補填額を掻き集めるとなると一仕事だ。着手する前に、昨日補填用の一億円が消えた金庫の前に立つ。移動履歴を何回反芻しても同じ結果になる。ここに一億円があるはずだった。しかし、消えた。もう意味はないと頭でわかっていても、その金庫を開けて確認してしまう。

     すると一億円があった。

     なんだそれは!昨日はなかっただろ!ふざけるな!落ち着け。昨日はなかった。それは事実だ。そして今は目の前にある。これも事実だ。目の前の事実を優先しろ。現金が消え、そして現れた。理由は後で考えろ。深呼吸する。どうする?この一億円を補填に使うか?それとも複数の金庫から現金を掻き集めるか。

     この一億円は不穏だ。できれば今は触れたくない。しかし、仮に私以外の何者かが現金を移動させているのであれば、最優先して避けるべきなのは「その何者かが私の存在に気づく」というシナリオだ。であるならば移動の回数は最小限に抑えるべきだ。目の前の一億円を補填に使用し、自席に戻った。

     予約は昨日と同じく11時、今度は時間通りに顧客が来た。実際には30分以上早く到着連絡があったのだが、予約の時刻まで待たせてやった。11時ちょうどに受付に向かうと、キャリーケースを持った顧客が駆け寄ってきた。異様に距離が近い。挨拶したときも名刺を渡した時も落ち着きがなかった。エレベーターを待つ間に、手順通り、金庫の鍵を持ってきたか確認する。返事がない。振り返って様子を伺うと、無言のまま血走った目でエレベーターの階数表示を凝視していた。何なんだこいつは。

     B1でエレベーターを降り、ゲートに社員証を読ませる。パスワードを入力し、指紋認証を通す。その間ずっと、顧客はゲートの至近距離に立っていた。ゲートが開いた途端突入しそうな勢いだ。そうなる前に手順に従い、金庫の位置と、私はここで待機する旨を説明する。ゲートが開き始めた途端、顧客はその隙間に体をねじ込むようにして中に駆け込んでいった。

     ほどなくして顧客は戻って来た。金庫の扉は閉めましたか?手順通りの質問。肯定の返事。保管物に異状はありませんでしたか?これは手順にない質問だ。肯定の返事。よし。ゲートを出る。

     エレベーターはまだ貸金庫フロアに停まったままだった。乗り込んで地上に向かう。来た時と変わらず、顧客の荷物はキャリーケースだけだ。中身を金庫に預けたのか、取り出した保管物をキャリーケースに詰めたのか。確実に後者だろう。そして相変わらず落ち着きがない。この様子だと地上に着いた瞬間に走り去ってしまうだろう。エレベーターの中で、開扉申請書に完了の署名をしてもらった。これで手続きは完了だ。

     案の定、エレベーターの扉が開いた瞬間に顧客は駆け出した。異常者ではあるが、ここまで予想通りだと逆に面白い。だが道路に面した自動ドアを出る直前、一瞬だけこちらを振り返って会釈をしてきた。予想外だったので少し不愉快だが、こちらも笑顔で会釈を返した。顧客は乗ってきたタクシーを待たせてあったのだろう、そのまま乗り込んで視界から消えた。ともあれ、開扉申請は乗り切った。


    市川(五)

     治療費は支払った。あとは医者の技術を信じるしかない。

     あっという間に夕方になった。今日は何も食べていない。冷蔵庫から出した栄養ゼリーを口にしながらテレビをつけ、ニュースを流し見する。時効が迫った一億円事件の報道特番が組まれていた。自分とは関係ないことのように感じる。

     再現映像、関係者の証言、事件を追い続けてきたベテラン刑事へのインタビュー、視聴者への情報提供依頼。要するに迷宮入りということだ。最後の方に、盗まれた現金の記番号が公開された。そうだ、記番号。結局使ってしまったわけだが、あの記番号が発見されたとして、捜査の手は僕のところまで遡ってくるのだろうか。なんとなく、病院に支払った残りの一万円札を手に取り、記番号を確かめてみる。

     全然違う。

     慌てて他の一万円札も確認する。先ほどの一万円札と連番になっているが、アルファベットも番号帯も、テレビに映ったものと全く違う。これは一億円事件の金ではない。

     何が起きた?あの一億円は、事件の後すぐに貸金庫に預けてあった。それ以来、貸金庫の中身は当時のままだったはずだ。それでも、可能性はいくつか考えられる。一番ありそうなのは、銀行が現金を入れ替えたというシナリオだ。顧客が金庫の鍵を紛失した際の手続きがあったはずだ。合鍵が存在する以上、完全に銀行側の規約違反ではあるが、あの金庫を開けることは可能だ。

     今日の開扉を思い返す。立ち会った銀行員。今思うと妙なところがあった。落ち着かなげにこちらをちらちら伺っていた。いや、見ていたのは僕の方というよりも、手元のキャリーバッグだったように思う。そして一億円を回収した後の確認。保管物に異状はありませんでしたか?異状はなかったという僕の返事を聞くと、妙に嬉しそうな表情で頷いていた。あの反応は、他の事務的な質問の時とは明らかに異なる。

     名刺を受け取っていたことを思い出し、脱ぎ捨てっぱなしになっていたジャケットのポケットを探る。あった。桂誠一郎。こいつか。状況証拠に基づく曖昧な仮説でしかないが、こいつが貸金庫の中身を入れ替えた。目的はわからない。しかし規約違反である以上、確実に内部不正だろう。その不正が、結果的に一億円事件の盗難金を「洗浄」した。そしてそのお陰で僕は救われた。

     救われた?

     待て。僕が恐れていたのはそういうことじゃないだろう。あの金を使った以上、逮捕される覚悟はできていた。盗んだものを返せなくなったのだから、当然その罪を償うつもりだった。そのはずだった。涙が出てきた。何の涙なのかわからない。ここ数日、様々なことがありすぎた。


    桂(五)

     疲れた。くたくたになって帰宅する。今回の開扉は乗り切った。しかし現金が消えたり現れたりする理由がわからない。他に同じことをしている人間がいるとしたら、いつか私と鉢合わせする可能性がある。そいつが下手を打って現金の移動が明るみに出る懸念もある。何より私が移動履歴を追えなくなるのが良くない。

     いや、これはチャンスかもしれない。私が現金を移動させている証拠は今のところ何もない。ということは、全ての罪をそいつに擦り付けることができるかもしれない。今まで移動履歴に異常がなかったことを考えると、相手が移動に手を染めたのは最近のことだろう。私の存在には気づいていない可能性が高い。このタイミングで保管物消失が明るみに出れば、自分の行いがバレたと考えるに違いない。

     気分が良くなってきた。夕食に買ってきた総菜を食卓に並べ、テレビをつける。時効が迫った一億円事件の特番が組まれていた。再現映像、関係者の証言、事件を追い続けてきたベテラン刑事へのインタビュー、視聴者への情報提供依頼。要するに迷宮入りということだ。最後の方に、盗まれた現金の記番号が公開された。自分の銀行であんな事件が起きたらたまったものではないな。そんなことを考えながら、なんとなく、信用取引の負債を支払った残りの封筒から一万円札を抜き出して、記番号を確かめてみる。

     一致している。

     ちょっと待て。何だ。慌てて他の一万円札も確認する。先ほどの一万円札と連番になっており、アルファベットも番号帯も、テレビに映ったものと完全に一致する。札束の記番号がまとめて一致するということは、数枚が偶然紛れ込んだものではない。これは一億円事件の金だ。

     この札束は貸金庫から持ち出したものだ。では元はどの金庫にあった?移動履歴の記憶を遡る。頭の中で逆回しの映像が止まった。今日開けたあの金庫だ。そしてあの、様子のおかしかった顧客。あの異様な挙動は、一億円事件の盗難金を持ち出そうとしていたからだと考えれば説明がつく。捜査の手が迫り慌てて現金を移動させようとしたのか?

     帰りのエレベーターであいつが署名した申請書を鞄に入れっぱなしだったことを思い出し引っ張り出す。市川京介。テレビには情報提供依頼のテロップが表示され続けている。通報するか?いや考えられない。犯行に気づいたきっかけを説明したりすれば、破滅だ。

     記番号が公開される前に負債を払いきっておいてよかった。それよりも今後のことを考えよう。私ではない何者かによる横領に、早く顧客に気づいてもらう必要がある。


    市川(六)

     涼太の手術は成功した。あとは本人の回復力次第だという。良かった。とはいえしばらく入院する必要があるらしい。小学校の入学式には間に合わないだろう。だがゆっくりやればいい。治療費ならある。


    桂(六)

     内部不正犯が現金移動を継続すると横領の発覚が遅くなる。西階段の地下扉は施錠しておいた方が良いだろう。そうすれば現金は補填できなくなり、遅かれ早かれ騒ぎ出す顧客が現れる。そして私は貸金庫の責任者として責任を問われる。だが横領の罪は犯人が肩代わりしてくれる。私は貸金庫を誠実に運用してきたことを示せばよい。減給や降格はあるかもしれないが、クビにはならないだろう。気楽なものだ。犯人は誰なのだろう。

     もう朝早くから出社する必要もないのだが、身に染み込んだルーチンはなかなか変えられない。前日の入退室ログを点検。問題なし。承認。本日の開扉申請3件。要注意なし。西階段に近い金庫の開扉申請があればチャンスだ。開扉の後に顧客から落とし物の確認依頼があったことにすればいい。証人になる誰かを伴って貸金庫エリアに向かい、通常通り立会人としてゲートに待機してもらう。そして私は金庫前の落とし物を拾いに行く振りをして、西階段の扉を施錠する。

     そうこうするうちに、出社した部長から手招きされた。前回と同様会議室に移動する。そこで伝えられたのは、貸金庫サービス終了が取りやめになったという連絡だった。つまり継続?そういうことらしい。ところで転職活動の方は順調なのか?いえ、最終面接で落とされてしまいました。他の会社も継続はしているのですが、芳しくありません。あ、周りには言わないでくださいね。もちろんだ。あ、それからこれも口外不要だが、頭取が交代するらしい。

     実際、転職活動は途中まで順調だったのだが、どれも最終面接で落とされていた。適性検査や二次面接は呆れるほど簡単だったのに、最終合格となると案外難しいものだ。しかしもう、転職する理由自体がなくなった。

     それにしても、貸金庫サービス終了の取りやめと頭取の交代は何か関係あるのだろうか。少し嫌な感じがする。自席に戻ると、今度は内部監査室からの呼び出しがあった。内部監査室?しかも私に直接?明らかに良くない兆候だ。とはいえ呼び出しに逆らう訳にもいかない。出頭する。

     指定された呼び出し先は役員フロアの応接室だった。何か取り調べを受けるのであればもっと殺伐とした場所ではないのか?エレベーターを降りる。役員フロアに足を踏み入れるのは初めてだ。毛足の長い絨毯、大きな観葉植物のプランター、落ち着いた間接照明。まるで高級ホテルだ。専用の受付まである。来意を伝えると、やはり応接室に通された。取り調べではないのか?

     応接室で待っていたのは内部監査室長ではなく、監査部門を統括する上席役員だった。そして中央の卓上には、先日消えて現れたアタッシェケースがある。開かれて中身が見えている。ダメだ。何かが起きた。そして室内にもう一人いることに気が付いた。黒服を着ているがまだ若い。しかし役員はひどく畏縮している。状況が理解できない。では、あとはよろしくお願いしますね、と黒服が役員に向けて言い、私とすれ違う。

    「そういえば桂さん、転職活動は順調ですか?」

     部屋を出る前に黒服が振り返り、唐突な、そして文脈を欠いた質問を私に投げてきた。しかし私が答えるのを待つことなくそのまま退室してしまった。役員と私の2人が応接室に残された。役員から席を勧められるままソファに着席する。場違いなくらい柔らかい。

     役員が口を開く。さて、このアタッシェケースに見覚えがありますね?何が起きているのかはまだ理解できないが、素直に頷いておく。おそらく私は破滅したのだろう。壁にかかった時計が見える。そろそろ自席では朝会が始まっているはずだ。

    「これが消え、そして現れた。そうですね?」

     この尋問は何なのだ。しかし頷くしかない。役員は続ける。

    「この現金を移動させたのは、我々監査部門です」

     我々は、貸金庫内部で何らかの不正が行われているということは把握していました。しかし長い間、不正の犯人と手口がどうしてもわからなかった。それで複数の被疑者を並行して調査していたのです。

     移動させたのは我々です、って。どうやって。入退室ログ、マスターキー、疑問の言葉が渋滞してしどろもどろになる。そうだ、利用規約、銀行が貸金庫の中身に関与するのは規約違反でしょう!

     あなたと一緒にしないでください。我々は規約はちゃんと順守しています。簡単なことですよ。あの貸金庫のうちいくつかのは、我々が調査を委託している業者が顧客なのです。そして正規の手続きで開扉を申請し、あなたたちに立ち会ってもらい、あなたたちが背中を向けている間に複数の金庫を開け閉めてしていただけです。銀行としても顧客としても、その点ではきちんと規約の範囲内です。


    市川(七)

     エントランスのロビーの隅をパーティションで区切っただけの、粗末なスペースに案内された。応対するのは若い警官だ。

    「それで?えっと、市川さん。一億円事件の犯人は自分である、と」

     知っていることを全て伝える。犯行の動機、手口、一億円の保管方法。このタイミングで自首した理由は?返還するつもりだった一億円を使ってしまったからです。しかしお陰で息子は助かった。後悔はしていません。あとは僕が法で正しく裁かれれば、すべて丸く収まります。

     あー、すみませんね。実はここ最近、同じような内容で「自首」されてくる方、すごく多いんですよ。盗難金とか何か証拠はありますか?ない?うーん……そうなるとちょっと難しいですね。

     粘ってみたが無駄だった。先日の報道特番に出ていた刑事につないでもらいたいと伝えた時に、相手に明らかに迷惑そうな表情が浮かんだのを見て悟った。考えてみればその通りだ。自首さえすれば裁いてもらえると思っていたのが甘かった。唯一の証拠になるはずだった盗難金は洗浄されてしまった。証拠がない限り、僕が供述した内容は、あの特番を見ていれば誰でも知っている情報だ。他の自称真犯人たちと似たり寄ったりだったのだろう。

     門前払いにされた警察署を振り返る。桂に連絡を取るか?おそらくしらを切られて終わるだろう。仮に桂が盗難金を持っていたとしても、それを僕に明かす理由がない。経緯を説明する過程で必ず内部不正に言及する必要が出てくるからだ。そもそもこちらが現金保管という厄介な話題に触れた瞬間に、即刻会話を打ち切られる可能性が高い。手詰まりだ。


    桂(七)

     じゃあ内部不正犯はいなかった?

     はい、あなた以外には。我々は罠を仕掛け、容疑者の皆さんを観察していました。当番制でね。そして桂さん、この現金が消えた後に明らかに取り乱していたでしょう?あれで確信しました。後は尾行するだけでよかった。西階段がバックドアになっているとは我々も盲点でした。道理でゲートのログにも監視カメラにも異常がなかったわけです。

     私はどうなるのでしょう。

     それが、我々も悩んでいるんですよね。貸金庫の中身を見てしまった以上、野放しにするなという指示が出ています。かといって我々も立場上、あまり派手な措置は取りたくありません。そこで提案があります。

     役員の提案は、私の横領を見逃すというものだった。しかも金庫内で不足している現金もある程度補填してくれるという。

     その代わり、補填は完璧ではない。貸金庫内では常にいずれかの金庫で1億円が不足している状態が続く。そして、現金の不足した金庫で開扉申請があるたびに他庫からの移動と補填を行うのが、私の役目だというのだ。この提案を断ればこの場で、あるいは補填を怠ればそれに監査が気づいた時点で「派手な措置」が取られることになる。もちろん私は役目を承諾した。

     翌日、転職を諦めた旨を部長に報告した。とても喜ばれた。部長とは長い付き合いだがあんなに感情を露わにして喜んでいるのを見たのは初めてだった。

     朝のルーチンも戻ってきた。前日の入退室ログの点検、問題なし、承認。今日の開扉申請、4件。要注意1件。地下に向かう。

     貸金庫のうちどれが監査のものなのかは、当然教えてもらえなかった。だがそれを知ったところで何になるだろう。私はこれまでと同じように、現金の移動と補填を繰り返すだけだ。それを怠れば破滅するということも、今までと何ら変わらない。


    エピローグ

     足を踏み出すリズムに合わせてランドセルが背中で揺れる。そのことが涼太には嬉しかった。1年遅れたものの、やっと小学校に通えるからだ。入学が遅れたのは自分が大きな病気をしていたからだと父親から聞いていた。大手術だったんだぞ、と言う父に、全然覚えていないと返事する。そして父が「そりゃ全身麻酔で眠っていたんだから当たり前だ」と突っ込むところまでがお約束のやり取りだ。

     父と並んで信号を待つ。

     信号が青に変わり涼太は駆け出す。渡り切った涼太が振り返ると、父は横断歩道の途中で立ち止まっていた。よく見ると誰かの方を見ている。その視線の先の相手も、父に気づいて固まった。涼太の知らない人だ。涼太の目には、大人は全員同じような顔をしているように映る。区別はつかない。信号が点滅し、涼太が大きく手を振ると、父親も小さく手を振り返して歩き出した。視線はもう涼太のことを見ている。

    「あれ誰?パパの友達?」
    「違うけど、昔あの人にちょっと助けてもらったことがあるんだ」
    「じゃあちゃんと話してくればいいのに」
    「んー、そういう感じじゃないんだよ」

     小学校の門が見えた。入学式の看板が立っている。涼太は再び駆け出す。風が吹き、桜の花びらが舞う。

    【終】

     
     
    rasen_si loves ethics and logics.

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