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第一章 私は、お母さんみたいになりたくない

「私は、お母さんみたいになりたくない」と言った瞬間、味噌汁の湯気だけが動いていた。

母は黙っていた。怒りもしないし、言い返しもしない。その沈黙が、かえって苦しかった。

ゴールデンウィークだった。絵美子は久しぶりに新潟へ帰っていた。実家の居間は昔と何も変わっていない。

柱には子どもの頃につけた傷が残り、茶箪笥も壁の時計も、三十年前からそこにあるような顔をしていた。

変わったのは母だけだった。白髪が増え、背中も少し小さくなった。それなのに会えば同じことを言う。

「ちゃんと食べてる?」

「仕事はどう?」

「将来は考えてるの?」

心配しているだけなのはわかっていた。でも、その言葉を聞くたびに息が苦しくなった。

二十歳。通信制高校卒業。コンビニのアルバイト。将来は未定。胸を張って言えるものは何もない。だから母の言葉はいつも正しかった。正しいから腹が立った。

「絵美子……」

母が何か言おうとした。その顔を見た瞬間、余計に腹が立った。心配そうな顔。困ったような顔。いつもそうだ。

「お母さんに何がわかるの?」

言葉が止まらなくなった。

「いつも心配ばかりして。自分だってうまく生きられなかったくせに」

母は何も言わず、黙って聞いていた。その姿が、なぜか絵美子を苛立たせた。

「私は、お母さんみたいになりたくない」

母の手が止まり、味噌汁の湯気だけが揺れていた。絵美子は立ち上がった。自分でも最低だと思った。でも謝れなかった。謝ったら負ける気がした。玄関を飛び出すと、五月の風が冷たかった。

田んぼ道を歩いた。行く当てもない。ただ家から離れたかった。空は青く、遠くの山にはまだ雪が残っていた。子どもの頃は好きだった景色なのに、今はどこか窮屈だった。

しばらく歩くと、小さな鳥居が見えた。見慣れた神社だった。子どもの頃は夏祭りで来たことがある。でも名前を意識したことはなかった。鳥居の横の看板を見ると、「蛸神社」と書いてあった。こんな名前だったのかと思うと、少し可笑しかった。

境内へ入ると誰もいなかった。風が吹き、欅の葉が揺れている。静かだった。その静けさに引き寄せられるように奥へ進むと、拝殿の横で一人の男が寝ていた。青いジャージに無精ひげ、腹の上には新聞紙。どう見ても神主には見えなかった。

絵美子は立ち止まった。男は目を閉じたまま、

「賽銭泥棒じゃないなら好きに入れ」

と言った。思わず吹き出すと、男は片目だけ開けた。

「笑うな」

「神主さん?」

「たぶん」

「たぶん?」

「昨日までは神主だった」

意味がわからなくて、絵美子はもう一度笑った。

男はゆっくり起き上がった。寝癖がひどく、ますます神主には見えなかった。

「泣いたのか」

と突然言われ、絵美子は顔をしかめた。

「泣いてない」

「そうか」

男はそれ以上聞かなかった。慰めもしないし、励ましもしない。それが少しだけ楽だった。

風が吹き、欅の葉が揺れた。遠くで鶯が鳴いた。絵美子は縁側へ腰を下ろした。男も何も言わない。二人で黙っていた。知らない相手なのに居心地が悪くないのが不思議だった。

しばらくして、男がぽつりと言った。

「腹減ったな」

「は?」

絵美子が聞き返すと、男は真顔のまま続けた。

「人間は腹が減ると、ろくなこと考えない」

絵美子は呆れた。さっきまで泣きそうだったのに、少し笑ってしまう。

男は立ち上がった。

「帰れ」

「急に?」

「飯食え」

「命令?」

「助言だ」

そう言って社務所の方へ歩いていく途中で振り返ると、

「母親とは仲良くしとけ」

と言った。絵美子は顔をしかめた。

「無理」

男は肩をすくめる。

「そういう奴ほど、後で後悔する」

それだけ言うと、社務所へ消えた。

絵美子は一人残された。風が吹き、欅の葉が揺れた。さっきまでの怒りが少しだけ遠くなっていた。空を見上げると、青い空だった。母のことはまだ許せないし、自分のことも好きになれない。それでも、少しだけ呼吸がしやすくなっていた。その日、絵美子は初めて道楽という変な神主に出会った。

第二章 若い奴の「別に」

埼玉へ戻ると、いつもの部屋が待っていた。六畳一間にベッドと小さなテーブル、脱ぎっぱなしのパーカー、飲みかけのペットボトル。帰省する前と何も変わっていない。それなのに、部屋は妙によそよそしく感じた。

絵美子はバッグを床へ放り投げ、そのままベッドへ倒れ込んだ。天井の染みが見える。前からあったはずなのに、今日初めて気づいた気がした。

スマホが震えた。母からだった。『気をつけて帰れた?』たったそれだけの文面を、絵美子はしばらく見つめていた。返信しようとして、やめる。スマホを伏せると、母の顔が浮かんだ。味噌汁の湯気、黙ったままの横顔、あの時の沈黙。忘れようとしても忘れられなかった。

翌日、絵美子はアルバイト先のコンビニへ向かった。昼過ぎ、スーツ姿の会社員が弁当を買い、高校生たちがアイスを買う。レジを打ちながら、絵美子はぼんやり人を見ていた。みんな、大学や会社、恋人や家庭など、それぞれ行く先があるように見える。自分だけが途中で止まっている気がした。

夕方になると高校生が増えた。制服姿の男女がレジの前で笑っている。

「大学どこ受ける?」

「東京かな」

「一人暮らししたい」

そんな会話が聞こえてくる。絵美子はバーコードを通した。ピッ、ピッ、ピッ。単純な作業だった。頭を使わなくていい。だから余計なことばかり考えてしまう。自分は何者なのだろう。何になりたいのだろう。何も思いつかなかった。

休憩時間、店の裏にある小さな休憩室で一人になった。壁にはシフト表が貼ってあり、誰かが置き忘れたカップ麺の空き容器があった。蛍光灯の白い光だけが静かに部屋を照らしていた。

SNSには、誰かの旅行写真が並んでいた。海、キャンプ、恋人との食事。どれも楽しそうだった。絵美子は画面を閉じた。見ていると疲れる。でも見てしまう。そして落ち込む。その繰り返しだった。

帰り道、公園のベンチに座った。空は暗くなり、風が少し冷たかった。遠くで子どもの声が聞こえ、ブランコが揺れていた。絵美子はスマホを取り出した。連絡したい相手は誰もいない。友達もいないわけではない。でも、本音を話せる相手はいなかった。母には言いたくない。心配されるだけだ。

その時だった。ふと、あの神主の顔が浮かんだ。青いジャージ、無精ひげ、昼寝。どう見ても立派な神主ではなかった。なのに不思議だった。思い出すと、少しだけ肩の力が抜けた。

『蛸神社 道楽』。登録した覚えもないのに、しっかり残っていた。何を書けばいいかわからない。それでも指が動いた。『私って、ダメなんですかね』送った瞬間に後悔した。重い。知らないおじさんに送る内容じゃない。取り消そうとした時には、もう既読がついていた。

返事はすぐだった。『知らん』絵美子は眉をひそめた。何だそれ。続けて通知が鳴った。『腹が減ってる時』『眠い時』『人に馬鹿にされた時』そこで一度、通知が止まる。絵美子が画面を見つめていると、最後にもう一つだけ届いた。『自分の人生を判断するな』慰めでもない。励ましでもない。それなのに少しだけ楽になった。

また通知が鳴った。『今度来い』『どこへ?』『神社』『なんで?』少し間が空いた。『知らん』絵美子は思わず笑った。夜風が頬をなでる。公園には誰もいなかった。母とのことは何も解決していない。将来も見えない。自分が何者なのかもわからない。それでも、もう少しだけ生きてみようと思った。たぶん、あの変な神主のせいだった。

第三章 かけそばみたいな人生

翌週の日曜日、絵美子は埼玉の蛸神社へ向かった。蛸神社は、新潟と埼玉にあるらしい。
電車を降りて住宅街を歩いた。正直、自分でもなぜ行くのかわからなかった。悩みが解決するわけではない。将来が見えるわけでもない。それでも、あの神社へ行けば少しだけ息がしやすくなる気がした。

鳥居をくぐって境内へ入ると、やはり道楽は縁側で寝ていた。腹の上には新聞紙。絵美子は思わず笑った。

「仕事しないの?」

道楽は目を閉じたまま答えた。

「今してる」

「寝てるじゃん」

「休憩という仕事だ」

相変わらず意味がわからなかった。道楽はゆっくり起き上がると、社務所の奥から竹箒を持ってきて絵美子へ差し出した。

「掃け」

「また?」

「まただ」

絵美子はため息をついた。

「私、ここに掃除しに来てるの?」

「たぶん」

その返事に文句を言いかけたが、結局、竹箒を受け取った。

境内を掃いた。シャッ、シャッと乾いた音が響く。落ち葉を集める。風が吹く。また散る。また集める。ただそれだけだった。最初は面倒だった。でも不思議だった。十分ほど続けると、頭の中が静かになった。将来のことを考えなくていい。母のことも考えなくていい。目の前の葉っぱだけを見ていればいい。掃除が終わる頃には、少し汗をかいていた。道楽がお茶を投げてよこす。

「飲め」

「ありがとう」

冷たい缶を頬に当てると気持ちよかった。しばらく二人とも黙っていた。風が吹き、欅の葉が揺れた。

「なあ」

道楽が言った。

「部屋、少し片付けただろ」

絵美子は驚いた。

「なんでわかるの?」

「顔」

「そんなのでわかる?」

「たぶん」

相変わらず適当な返事だった。でも少し嬉しかった。部屋を片付けたことなんて、誰にも気づかれていなかったから。

「人間な」

道楽が空を見ながら言った。

「苦しい時ほど雑になる」

絵美子は黙った。思い当たることがあった。散らかった部屋、コンビニ弁当、夜更かし、SNSばかり見る毎日。

「だから苦しい時ほど、自分を粗末にするな」

風が吹いた。その言葉だけが胸に残った。

昼近くになると、道楽が立ち上がった。

「腹減った」

「また?」

「生きてるからな」

そう言われると、返す言葉がなかった。二人は神社の近くのそば屋へ向かった。古い店だった。暖簾は色褪せ、木の引き戸も少し傾いている。でも戸を開けた瞬間、出汁の香りがした。それだけで好きになれそうな店だった。

「いらっしゃい」

白髪のおばあちゃんが笑った。奥ではおじいちゃんが黙々とそばを茹でていた。テレビはない。音楽もない。聞こえるのは湯の沸く音だけだった。道楽は迷わず、

「いつもの」

と言った。運ばれてきたのは、ねぎだけのシンプルなかけそばだった。絵美子は少し拍子抜けした。もっと豪華なものを頼むと思っていた。でも一口食べて驚いた。美味しかった。出汁が身体の奥まで染み込んでいくようだった。優しい味だった。

「美味しい」

思わず声が出る。道楽が得意そうに笑った。

「だろ」

店を出る頃には空が少し赤くなっていた。神社への帰り道、絵美子は聞いた。

「なんでいつも、かけそばなの?」

「好きだから」

道楽は少しも迷わず答えた。

「それだけ?」

「それだけだ」

絵美子は笑った。

「でも一番安いじゃん」

その時、道楽が立ち止まった。

「お前、かけそばを馬鹿にしてるな」

図星だった。絵美子にとって、かけそばは妥協だった。お金がない時に食べるもの。そんなイメージだった。道楽は空を見上げた。

「立ち食いそば屋のかけそばと、今の店のかけそば。同じか?」

絵美子は首を振った。全然違う。出汁も違う。店の空気も違う。何より、食べた時の気持ちが違った。

「名前は同じだ。でも中身は違う」

風が吹き、道端のすすきが揺れた。

「人間も同じだ」

絵美子は黙った。

「人間はな。値札じゃない」

夕焼けが二人の影を長く伸ばしていた。

「お前、自分を安物だと思ってるだろ」

胸が少し痛んだ。図星だった。大学へ行っていない。資格もない。誇れるものもない。だから自分は価値の低い人間だと思っていた。

「人間な」

道楽は歩きながら言った。

「自分で自分を安物扱いし始めると終わりだ」

神社の鳥居が見えてきた。空はもう夕暮れだった。絵美子は空を見上げた。何も変わっていない。将来も見えない。自分が何者なのかもわからない。それでも、少しだけ違う景色が見えていた。かけそばは、かけそばだった。でも中身は違った。もしかしたら、人間も同じなのかもしれない。そんなことを考えながら、絵美子は鳥居をくぐった。

第四章 母も二十歳だった

十一月の終わりだった。新潟では初雪が降ったらしい。テレビの天気予報がそう言っていた。絵美子はコンビニから帰ると、実家から送られてきた段ボールを開けた。米、味噌、レトルトカレー。母が時々送ってくる荷物だった。一人暮らしの娘が困らないようにという、母なりの愛情なのだろう。絵美子は少し苦笑した。

箱の底に封筒が入っていた。母の字で『部屋の片付けをしていたら出てきました』と書いてある。絵美子は何気なく一枚を取り出した。

知らない女性が写っていた。驚くほど楽しそうに笑っている。しばらく見つめてから気づいた。母だった。

今よりずっと若い。髪も長く、頬もふっくらしている。次の写真には、赤ん坊を抱いた母が写っていた。その赤ん坊は自分だった。絵美子は思わず座り込んだ。二十歳くらいだろうか。今の自分と変わらない年齢だった。

平成十八年。母、二十歳。

絵美子は写真を見つめた。二十歳。今の自分と同じ年齢。でも自分は何をしているのだろう。コンビニのアルバイト。将来は未定。毎日、将来が不安だ。母はどうだったのだろう。

その夜、珍しく自分から電話をかけた。母は驚いたようだった。

「どうしたの?」

「別に」

「何かあった?」

「別に」

いつもの返事をしてから、絵美子は写真を見つめた。沈黙が流れる。

「お母さん」

「なに?」

「二十歳の時、何してたの?」

電話の向こうで母が少し笑った。

「子育てかな」

「それだけ?」

「それだけで一日終わったよ」

母はまた笑った。絵美子は黙っていた。母も少し黙った。

「怖かったな」

ぽつりと言った。絵美子は思わず顔を上げた。

「毎日」

母の声は静かだった。

「ちゃんと育てられるかな。お金足りるかな。病気になったらどうしよう。そんなことばっかり考えてた」

窓の外で風が鳴った。絵美子は何も言えなかった。

「私も若かったからね」

母は笑った。

「今考えると、よくやってたなって思う」

その笑い声が少し寂しかった。

「後悔してる?」

絵美子は思わず聞いた。母は少し考えてから、

「いっぱいあるよ」

とあっさり答えた。

「結婚も、離婚も、再婚も。もっと違う生き方もあったと思う」

絵美子は写真を見つめた。笑っている母。今の自分と同じ年齢の母。

「でもね」

母が続けた。

「絵美子がいたから頑張れた」

絵美子は黙った。言葉が出なかった。

「だから後悔だけじゃないよ」

それだけ言うと、母はいつもの調子に戻った。

「ちゃんと食べなさいよ」

電話は、そこで終わった。絵美子はスマホを置いた。部屋は静かだった。テーブルの上には写真が並んでいた。若い母、赤ん坊の自分、古いアパート、小さな台所。どの写真にも裕福さはなかった。でも不思議だった。どの写真にも笑顔があった。

絵美子は思い出していた。熱を出した夜、母がおんぶして病院へ連れて行ってくれたこと。運動会で一人だけ大声で応援していたこと。遠足の日だけ、少し豪華なお弁当を作ってくれたこと。忘れていた。忘れようとしていたのかもしれない。

母は母親になる前に、一人の女の子だった。自分と同じように不安で、自分と同じように失敗して、自分と同じように将来が怖かった。その当たり前のことに、今まで気づかなかった。

窓の外を見た。夜だった。アパートの向かいの部屋に灯りがついていた。誰かが夕飯を作っているのだろう。その灯りを見ながら、絵美子は初めて思った。私は、お母さんみたいになりたくない。ずっとそう思っていた。でも本当は違ったのかもしれない。お母さんみたいになりたくないのではない。お母さんの苦労を、何も知らなかっただけなのかもしれない。

写真の中で、二十歳の母が笑っていた。その笑顔は、少しだけ今の自分に似ていた。

第五章 おかえり

十二月の初めだった。見慣れない番号から電話がかかってきた。

「蛸神社の者ですが」

年配の男性の声だった。

「道楽さんが倒れましてね」

絵美子は言葉を失った。病院の名前だけを聞き取り、その日のうちに電車へ飛び乗った。病室は静かだった。白い壁、消毒液の匂い、窓の外には冬の空が広がっていた。道楽はベッドの上にいた。

「よぉ」

いつも通りの声だった。絵美子は力が抜けそうになった。

「馬鹿」

「ひどいな」

「心配した」

「俺も少し焦った」

道楽は笑った。でも顔色は悪かった。しばらく二人とも黙っていた。病室には時計の音だけが響いていた。

「怖くないの?」

絵美子が聞いた。道楽は窓の外を見た。

「怖いぞ」絵美子は少し驚いた。もっと格好いいことを言うと思っていた。

「でもな」

冬の光が病室へ差し込む。

「人間は、いつかいなくなる」

絵美子は黙っていた。

「明日できると思うな」

それだけだった。帰り道、絵美子は何度もスマホを開いた。母の名前を見る。また開く。結局、その日は何も送れなかった。数日後、絵美子は新潟行きの新幹線に乗っていた。窓の外を雪景色が流れていた。

浦佐駅へ着くと、冷たい空気が頬に当たった。山は白くなっていた。子どもの頃から見ていた景色だった。それなのに今日は少し違って見えた。家へ着くと、玄関の灯りがついていた。深呼吸をひとつして、絵美子は扉を開けた。

「ただいま」

台所から母が顔を出した。

「あら」

少し驚いた顔をしたあと、母は笑った。

「おかえり」

たったそれだけだったのに、絵美子の胸の奥が少し緩んだ。

夕飯は鍋だった。湯気が立ち上っている。母は白菜を取り分けながら、スーパーの話や雪の話など、近所のどうでもいい話をしていた。それが不思議と心地よかった。

食事の終わり頃だった。絵美子は箸を置いた。心臓が少し速くなる。

「お母さん」

母が顔を上げた。

「なに?」

絵美子は少し迷った。鍋の湯気が二人の間で揺れている。

「ごめん。前に帰った時、ひどいこと言った。ごめん」

言い終えると、部屋が急に静かになった。しばらく沈黙が続いた。やがて母が笑った。

「私も、ごめんね」

鍋の湯気が二人の間をゆっくり流れる。絵美子は母の横顔を見た。写真の中の二十歳の母が重なる。

「お母さん」

「なに?」

「二十歳の時、怖かった?」

母は少し笑った。

「怖かったよ。毎日」

それから、鍋の中の白菜を見つめる。

「でも、お前はお腹が空くからね。だから、ご飯だけは作った」

絵美子は笑った。

「心配ばっかりしてた」

「うるさかったよね」

母が少し困ったように笑った。絵美子も笑おうとした。でも涙が出そうになり、ただ鍋の湯気を見ていた。湯気の向こうで、母の顔が少し滲んで見えた。

翌朝、絵美子は一人で蛸神社へ向かった。雪が少し積もった境内は静かで、誰かが置いていった竹箒だけが、拝殿の脇に立てかけられていた。絵美子はそれを手に取ると、白く湿った地面をゆっくり掃き始めた。

シャッ、シャッ。竹箒の音だけが冬の空気に響いた。落ち葉を集めるたびに、胸の奥に残っていた言葉にならないものまで少しずつ集まっていくようだった。掃除を終えると、絵美子は社務所の戸を開けた。

中は相変わらず散らかっていた。古い本、工具箱、壊れた扇風機。どれも道楽らしく無造作に置かれていた。その中で、棚の隅にある写真立てだけが、やけにきちんとそこにあった。

そこには、若い頃の道楽と一人の女性が写っていた。絵美子はそっと手に取った。ガラスはきれいで、やっぱり埃はなかった。道楽は今も毎日拭いているのだろう。忘れないために。失敗も、後悔も、幸せだった時間も、全部自分の人生なのだと確かめるために。

絵美子は写真立てを元の場所へ戻し、外へ出た。冬の光が境内へ降りていた。空は青く、風が吹くたびに欅の枝が小さく揺れた。その時、スマホが震えた。母からだった。

「今夜は鍋にするよ」

絵美子はしばらく画面を見つめていた。それからスマホをポケットへしまった。鳥居の向こうには雪山が見えた。風が吹き、欅の枝が揺れる。絵美子は竹箒を肩に担ぐと、ゆっくり歩き出した。まだ何者にもなれていない。それでも、帰る場所と、明日することだけは少しだけわかっていた。

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