誰かに引かれた線は、重い
海外にいると、自分が少し変わる。
日本にいる時よりも自己主張が強くなるし、小さなことが気にならなくなる。列が乱れていても、誰かに話しかけられても、予定通りにいかなくても、まぁいいか、と思える。アメリカでの生活は決して楽じゃなかったけれど、それでも「なんか自分に合ってる」と感じていたのは、そういう理由だったのかもしれない。
日本にいる自分は、見えない線をたくさん意識している。「こうしなきゃ」「こう見られたい」「空気を読まなきゃ」。そういう線が、気づかないうちにたくさん引かれていて、私はそれを踏まないように歩いている。
でも、海外に出ると、その線ごとどこかに置いてきてしまう。同調圧力という名の境界線から、物理的に離れることで、初めてその重さに気づく。
不思議なのは、国や文化の違いはあんまり怖くないのに、仕事の境界線はやたらと重く感じることだ。
「これ、自分の担当じゃないよなぁ」と思う瞬間がある。プライベートなら避けることもできるけど、仕事だとそうもいかない。越えなきゃいけないとわかっていても、手足が重い。どんどん仕事が増えていくような気がして、だから余計に億劫になる。
国境は越えられるのに、役割の線は越えにくい。なんでだろう、とずっと思っていた。
最近読んだ(Podcastでも紹介した)本に、屋台の話があった。
路上という場所で、さまざまな人との場づくりをする屋台実践者たちの記録。読みながら、じんわりと何かが解けていく感じがした。屋台っていいな、と思ったのは、たぶんそれが誰のものでもない場所だから。
店でもなく、家でもなく、会社でもない。役割も肩書きも関係なく、ただそこに集まれる場所。誰かが引いた線の外側に、屋台はある。
越えやすい線と、越えにくい線。
その違いは何だろうと考えていたら、少しだけ答えに近づいた気がした。越えにくいのは、たぶん誰かに引かれた線だ。役割、期待、慣習。そういうものが線を太くして、重くする。
逆に、自分で引いた線は意外と軽い。「今日はここまで」「これは私のもの」そう決めたのが自分なら、自分で動かせる。
海外でのびのびできるのも、きっと同じ理由。同調圧力という線は、私が引いたものじゃない。だから、距離を置くだけで少し自由になれる。
境界線を踊るように越えていた屋台の人たちは、もしかしたら自分で線を引き直していたのかもしれない。路上という、誰も「ここはこう使うべき」と決めていない場所で。
私もいつか、自分の線をもっと軽やかに踊れるようになりたい。そのためにまず、どの線が誰に引かれたものかを、ちゃんと見極めることから始めようと思っている。
今回インスパイアされた本はこちらです。今年読んだノンフィクションの中で3本の指に入るほど面白かったのでご紹介。
Podcastでは2冊の本について話しています。
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