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【映画評】『小林さんちのメイドラゴン さみしがりやの竜』の点睛は「伝える」尊さ

日本 , 2025
監督:石原立也

公式サイト
https://maidragon.jp/movie/


「尊い」…

どんなに言葉を凝らそうと結局はこの二文字に集約されてしまう気がする。そろそろ次のiPhoneくらいから「尊い」と入力すると「カンナ」と変換されるべきだ。人類はずいぶん遅れをとっている。

わたしは『小林さんちのメイドラゴン』という作品にお天道様に胸を張れるほどドハマりした手合いではない…ため熱量的に恐縮ではあるのだけれど、それでもアニメ2期(『小林さんちのメイドラゴンS』)第10話『カンナの夏休み』はおおいに刺さった。牙のように食い込み炎のように焼かれた。(もしかして:泣いた。)

なにやら小林さんとケンカをしてしまったカンナが、プチ家出(といってもNYまで行っちゃう)をして、ちょっとした冒険と新たな友情をもって帰って来る話。
カンナそのものと同じように小さな小さな話だけれど、異世界のドラゴンであるカンナのささやかな成長を通して《おうち(Home)》とは何か、を凝縮して語る「尊い」エピソードだった。

そして今回の劇場版もそのカンナ主体の物語であり、言うなれば『カンナの里帰り』。
カンナが「行って→帰って来る(…のか?)」という基礎構造を踏まえると上記『カンナの夏休み』の拡張版と呼ぶこともできそうだし、テーマとしても繋がりが見えてくるようだった。それに、今作を経てもう一度『カンナの夏休み』を観ると更にエモーションが爆増する…とも思う。


ここですこし映画の外郭的な話をしておくと、「とても劇場版らしい劇場版」という感じ。

『ドラえもん』や『クレしん』が普段は日常描写をベースにしながら劇場版となれば遠出したりスペクタクルに挑むのと同様、今作も映画というフィールドを活かして場を広く使っている。
ついに小林さんがトールやカンナたちの故郷である異世界を訪問したり、ちょろゴンズをはじめお馴染みのキャラクターたちほぼみんなに魅せ場があって(お休みは翔太君くらいかしら)、スケールの大きいアクションを繰り広げる。

かいじゅうだいせんそうもあるよ(予告編より)

ただ、メインキャラや世界観といった基本情報の説明や補助線は殆どない状態で話が進んでいくので、『メイドラゴン』完全初見にはさすがに向かない。小林さんとトールたちドラゴンの関係値はアニメ2期ぶんの蓄積ありき、という前提は受け容れる必要がある。(↓ガイダンス動画あり)

わたしも結構うろ覚えだったりしたのだけれど、それを越えてポスト2019年の京アニ映画というフィルタを通すとどうしても毎コマが涙腺に突き刺さる思い。
『鬼滅』以降を意識したような派手なシーンの動きやエフェクトのダイナミクスは言うまでもなく、会話メインのシーンで衣服に反射するプリズムの描き込みなどの細かい気配りに、ただ「アクションすげー」とか「神作画」だけでは片付けたくない、過去から変わらない美的ポリシーが感じられる。


さて、そんな今作の劇中において、繰り返し強調されるのは「伝える」というアクションである。

突然、カンナをあくまでもただの「戦力」として異世界へ連れ戻しに現れた父親、キムンカムイ。その人間とは乖離のあるドラゴンの脳筋すぎる価値観、カンナに対する態度に小林さんは憤るのだけれど、まずとった手段は「手紙を書くこと」だった。

めっちゃ強いが髪と声はマダオ。(予告編より)

キムンカムイというまったく異種の存在に、家族の情の意味と価値を「伝える」ことはできるのか。確証はなくとも、思いの丈を込めて小林さんとカンナは手紙を送り続ける。

他にも、序盤でカンナが小林さんにねだるのはケータイ電話。
加えて、キムンカムイが異世界で直面している敵対勢力との戦闘とその裏に潜む陰謀も、根幹には情報操作やコミュニケーションロスがある。更に、後半にそれを解決するために小林さんとトールがとる作戦もまた、情報伝達を利用したものだった。

このように、今作ではずっと形を変えながら「伝える」(伝わる)とは何か、を模索し続けているのだ。
手紙、電話、メール、魔法…あるいは、触れること・抱きしめること。そのどれもが情報や感情を「伝える」手段であり、人間は有史以来ずっとその道を試行錯誤してここまでやってきたのだ、ということに気付く。


では果たして、キムンカムイや反対勢力のドラゴンたち…つまり他者に対して「伝える」努力は結実するのか?
それはわからない、でもやってみる価値はあるし、それが人間にできることだよね、と今作は言う。

ドラゴンという存在に戯画化されているけれど、現実生活に変換してみれば、親だろうと友達だろうと結局は自分とは異なる他者である。他者である以上、「伝える」には努力や工夫が必要であり、日々はその連続で出来ていて、誰もが失敗するしほとほと嫌気が差したりもする。

そんなときはもう無視して力づくで何とかすれば良いとか、自分の目的さえ果たされれば良い、という考えがキムンカムイであり、今作の黒幕に当たる人物であり、あるいはかつての(小林さんと出会う前の)トールたちだったのだろう。
それは有無を言わせぬ腕力膂力を前提にした「強さ」であるように見えるけれど、実は諸々の手続きを放棄した「弱さ」だ。だからこそ、今作の中でファフニールはトールに「お前はあの頃より強い」と諭したのだと思う。

ちょうど劇場版ジャイアンみたいな仕事をする男(予告編より)

だからこそ、そんな「伝える」困難と面倒を乗り越えてまで他者と共有する場所である《おうち》には類まれな価値がある。ドラゴンでなかろうと毎日が理解と誤解の戦いばかりであるわたしたちの世界で、安心して帰ることのできる場所。劇場版という冒険が終わったあとの日常の貴重さ、ハレとケの対比が際立つ。


ここらで『カンナの夏休み』に戻ると、この回、というか『小林さんちのメイドラゴン』というシリーズ自体に一貫する哲学のようなものをあらためて見つけることができる。

『カンナの夏休み』Bパートは、前段のプチ家出を経て仲直りしたらしい小林さんとカンナが2人で休日を過ごす様子が描かれる。うだるような夏の日差しの中、町を散歩する2人。
色々と面白いこと・気になることを目にしたりもするのだけれど、小林さんはカンナに言うのである。「今日はおうちに帰ろう」と。

アニメ2期の終盤においても、ドラゴンと人間の住む世界や生きる時間軸(寿命とか)の違いなど、共に過ごすにあたって心配ごとは幾らでもあることが示唆される。しかし、やはり小林さんは「まあいいんじゃない?今は気にしなくても。」とトールに言う。

結果は、未来はどうなるか、それは誰にもわからない。だとしても、目の前の今を大切にするために「伝わる」希望を信じてトライすることの価値は決して損なわれたりしない。

《おうち》という日常を守ること、その柔らかくしなやかな強さと美しさこそが小林さんの持ち得る力であり、トールやカンナたちが惹かれたものだったのかもしれない。わたしたちは、小林さんのような強さを持てるだろうか?いや、人間なのだからきっと持てるはずなのだ。『メイドラゴン』はそう信じてくれている気がする。

グレートにイケメンですよコイツぁ(予告編より)

そんなことが、アニメシリーズ版から直結&増幅されて「伝わる」劇場版であり、この先も観てみたくなった。そしてアニメや映画もまた、人が発明した「伝える」技術であることにあらためて気づいたりもして…

やっぱり「尊い」に尽きすぎた。

この部屋を飛び立てばいい いつも
帰るドアは開けておくから

fhána『涙のパレード』


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