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経験しても恥、していなくても恥——元SMプレイヤーが考える『性の評価経済』

先日、こんな会話を耳にしました。

「〇〇さんの経験人数が三桁超え、1000人斬りっていう武勇伝を聞かされた」

聞いた瞬間に、こう思ったんです

「それ、男性だから『武勇伝』になるだけじゃない?」


これからお伝えすることは、性的な体験談ではありません。
世の中が他人の性をどう測り、どう値札を貼るのか。

そのことについて、自分の経験も踏まえて書き綴っています。

経験数が多いことは、誰基準の武勇伝なのか?


男性の場合、飲み会などの場で「性的経験値」が武勇伝として話題になるのは、よくある話ですよね。

冒頭の会話も、お酒の場でのことでした。

世の多くの男性は「モテたい」という願望を抱えているかと思います。もちろん、女性も「モテたい」願望はあるでしょう。
ただ、「モテる」という状況に対する対象への条件が違います。

男性は「できる限り不特定多数からモテたい」
女性は「自分の好みのタイプからモテたい」

もちろん、全ての男性・女性が上記に当てはまるわけではありません。
個人差はあるにしても、恋愛市場的視点ではザックリこう分けられるはずです。

いろんなタイプからモテる=オスとして魅力がある

だから、

経験値が多いことは、それだけ「相手の気を引けた」という証拠。

男性同士での会話で「性的経験値」が武勇伝になるのは、「自分の経験をドヤ顔で語りたい」文化が許されてきた歴史があるから。
性的経験を積むことが成人男性としての通過儀礼として、暗黙の了解だったから。

そう、私は捉えています。

とはいえ、本当にそれは誰の目から見ても『武勇伝』になるのでしょうか?

経験値が多いことが「傷」になる場合


性的経験値が多い人を、『ヤリチン』『ヤリマン』と表現しますよね。

自分をそのように表現されて嬉しい人は、どのくらいいらっしゃるんでしょうか?

女性に対してそういう表現を使うときは、だいたい相手を悪く言うときじゃないかと感じています。男性に対しても、同じでしょう。

性的経験値の多い少ないは、どちらの場合も「傷」になりやすい。
むしろ、極端な経験人数は、貞操観念という部分でマイナス評価される場合があります。

男性であっても、仮に1000人以上と性行為をするには、毎日休みなく1人ずつという計算でも、約2年9ヶ月ほどかかります。
10年なら、3〜4日に1人のペース。性行為という関係ですから、数字だけ見ても手当たり次第な印象になりがちです。

3〜4日で交際相手が変わる。あるいは複数同時進行。
交際相手ではなく、ただ「ヤッただけの相手」。

そうなると、誠実さを求める人からすると、理解できない感覚かもしれません。じっくり長く関係性を作っていきたい人、例えば、婚活では、不安材料になる場合もある。

性的経験値の多さを武勇伝だと取り上げてくれるのは、ごく一部の関係性である。むしろ、誠実さや真剣度を求められる場面においては、マイナス要因にもなるわけです。

ただ、その人の行動範囲や交友関係によって、性的経験値に対する評価基準が大きく違う。

その格差が、いろんな問題の根っこにあるのではないかと考えているのです。

オスは自分の遺伝子をより多く残したい傾向がある


ここで、生物学的な話をします。

生殖面では、人間もオスとメスの2つの役割があります。

で、有精生殖の場合、オスは自分の遺伝子をより多く残そうとする傾向があります。多くの動物も、植物にも似たような傾向が見られます。

逆に、メスは、より強そうな遺伝子を選ぶ傾向があります。

だから、オスからの求愛行動がわかりやすい動物がたくさんいるのです。

孔雀の羽が派手派手しいのも、蝉が朝っぱらからうるさいのも全部、オスがメスに向けてのアピール。

人間にも、同じことが言えるでしょう。

だから、男性は「できるだけ多くの異性にモテて、自分の遺伝子をできるだけ多く遺したい」という衝動に突き動かされる傾向が見られます。
これは、古代からの生存本能によるもので、理屈だけでは説明しにくいもの。

そんな衝動、いらん!と思っていてもムリです。

なぜなら、私たちは全員「誰かに選ばれ、関係を結び、命をつないできた」という遺伝子をもった先祖たちの末裔だから。

本能のすみっこには「特別な相手と関係を深め、交わりたい」というプログラムが搭載されているのです。

性的経験値が他人からの評判と評価につながる社会構造


「ヤリチン」「ヤリマン」という表現には、評判と評価の両方が存在しています。性的経験値の多さを武勇伝とする視点も、そうです。

評判と評価。
この2つは、パッと見では似ていますが、それぞれ別の意味があります。

評判は「第三者のあいだで噂になること」
SNS上で自分の知らない人から勝手にあれこれ言われるのも、評判といえます。

評価は「数値化されたり、他人から価値をつけられること」
SNS上だと、イイネの数や拡散された数、閲覧数、noteや商品の販売実績などが評価です。

性的経験値が多い、または少ない。

このどちらも、評判と評価の両方が入り混じります。

「ヤリチン」「ヤリマン」の場合なら、

「あいつはヤリチンらしい」というのは評判。
「あいつは10人以上女を泣かせてるヤリチン」というのは評価

性的未経験の場合は

「あの人、シたことなさそう」というのは評判。
「あの人、イイ歳してまだ独身だけど大丈夫?」というのは評価。

他人からどう見られているのか?という意味では、評判も評価も同じです。

ただ、評判は事実とは限りません。また、評価も当事者の申告以外の数値は憶測の場合もあります。

この評判と評価の2つによって、他人を判断したり比較する構造が、生きづらさを抱えさせる要因ではないか。

そう考えるのです。


性的未経験者の増加はなぜ起きるのか


ここまでは、性的経験値多い人を軸に話を進めてきたけれど、今回一番取り上げたいのは、性的未経験者の増加について。

この件については、10年前にアメブロでも書いたし、当時配信していたPODCASTでも取り上げました。

PODCASTの音声をそのまま、stand.fm にアップロードしていますので、興味ある方は聴いてみてください。

で、当時はそこまで掘り下げなかったのですが、

10年前と比べても、性行為の経験がない未婚者の割合は増える傾向にあります。

国立社会保障・人口問題研究所の出生動向基本調査では、未婚者の交際状況や性交経験について継続的に調査されているのです。

2021年調査では、18〜34歳の未婚者のうち、異性の交際相手を持たない人は男性72.2%、女性64.2%でした。
また、その中で「とくに異性との交際を望んでいない」と答える人も増えています。

出典:国立社会保障・人口問題研究所「第16回出生動向基本調査」

もちろん、この数字だけで「性的未経験者が増えている」と単純に断言することはできません。けれど、少なくとも、恋愛や性から距離を置く人が増えているようには見えます。

「異性との交際」に関して言えば、LGBTに対する社会認知が進んだことで、同性愛者の皆さんが、こういう設問に回答がしやすくなったから、とも読めるから、実際にはどこまでが実情に沿うのかはわかりません。


でも、


性的未経験であることが「恥」と考える人自体は減ってないと思うのです。

その理由は、評価経済という言葉で説明がつけられます。


承認欲求が増長させた評価経済というシステム


今の時代だと、ハラスメントになるだろうけど

昭和の時代には、「女性はクリスマスケーキと同じ」みたいな事を言う人が普通にいました。

クリスマスケーキは、12/24までが需要があるもの。
25日以降は売れ残り。
30歳過ぎたら、行き遅れ。

生物学上、妊娠出産に耐えられるのが20代までだったという常識が根強かった時代の発想ですが、この感覚で育てられてる人も少なくはないでしょう。

結婚適齢期の話は、100%他人からの評価です。

性別、年齢という視点から、他人の価値を値踏みする。

このシステムは、恋愛やセックスに限った話ではありません。

お受験
就活
妊活

これらは、全部評価経済によって煽られています。

そして、この評価経済をさらに増長させたのが SNS です。

SNS に「いいね」というボタンが実装され、閲覧数という数値化がされることで、承認欲求を満たすために行動する人が増え、それによってまた新しいお金の動きが作られました。

最近では、三大欲求ではなく、四欲ともいうそうです。

そのくらい、「誰かに認められたい」という承認欲が今の時代を動かしている。

その承認欲求を数値化してくれるのが、評価経済なのです。

「誰かに認められたい」人が増えれば、当然、逆の人も増えます。

「誰かに評価されたくない」

評価経済のシステムから、一抜けする人。

性的未経験者のなかには、性的価値の評価というゲームやステージから自発的に降りたひともいるのではないか?

そう考えることも出来るのです。


性的未経験者の増加は、評価経済から離脱したい人の増加という仮説


評価経済というのは、常に比較されるシステムです。

特に、恋愛、結婚という性的価値を求められる分野では、「モテる」という正義を振りかざされて、いろんな装備や武器を持たないといけなくなります。

若さは、最強の武器ですが、一瞬しか通用しません。
容姿も、そこそこ強いですが、維持コストと美容整形という裏技でどうにでもなります。

極論、見た目が良くても、中身が残念だったら、長続きしません。

そんな消耗戦にコストを掛けるより、自分が本当にしたいことにコストを掛けたい。

そういう人が増えても、不思議ではないと思います。

私自身、評価経済から抜け出した一人です。
SMという業界も、性的価値という評価経済で回っている世界。

ただ、他の性風俗よりも、文化的要素や技術面、経験値を評価される部分が大きかったからこそ、15年以上続けられたのだと思います。


性的価値という評価経済から抜け出て思うこと



SMという性的嗜好を生活の一部に長年してきて実感したのは、性的価値だけを求める人よりも、「理解されたい」という承認欲求を満たしたいという人が多かったこと。

特殊な性的欲求を持つことを認めてくれる存在。

それが、SMプレイヤーの役割だと、私は認識しています。

接客業の本質は、相手の居場所を提供すること。

SM という文化や行為に興味関心を持つ人達は、「SMという共通言語が通じる場」を求めていたのだと、現場を離れたからこそ、実感します。

プレイヤーを卒業した理由のひとつに、評価経済によるプレッシャーもありました。

いつまで、自分の性的価値を評価され続けるのか?
自分の価値を性的な部分以外で評価されたい。

役割を求められている。
そしてそれに応えられているという自負。

その共依存からも抜け出したい。

そういった葛藤を数年抱えていたのです。

卒業を選び、数年がたった今。
やっと傍観者として SM という文化を観察できるようになりました。

SM という文化の中では、性的魅力はさほど重要ではありません。

もちろん、見た目はそれなりに大事です。
でも、逆を言うと、どんな体型であっても需要があります。

性的価値を振りかざすより、精神的な関係性や、許可を与える。
そちらの役割のほうが自分は好きだったし、本質だとおもっています。

だからこそ、性風俗業態のなかで、プレイヤーであり続けることに限界を感じていたのかもしれません。

性的価値が社会的評価の基準として消えない理由


性風俗業は、性的価値を値踏みされる評価経済です。

でも、性的価値は、性風俗だけでなく、社会生活のあらゆるところに根付いた評価基準でもあります。

性的経験値の多い少ないで判断されることも。
結婚や出産も。入試や就職試験、

なぜ、ずっと消えないのか?

それは、私たち人間が「セックスをして子孫を残す」ために生き続けてきたからです。


だから、

男性は「モテることが正義だ!」という考え方になりがちだし、

女性は「もっとキレイにならなきゃ」と外見をなんとかしたいと思う。


その欲をくすぐるのがHARMの法則に基づいたマーケティング。

全部、性的価値から生まれた評価経済です。


性的未経験者の人が必要以上に、自己評価を低くするのも、
「イイ歳してセックスしていないなんて、生き物として役立たず」
と思われていることへの「恥」を無意識に感じているから。

経験がないことを恥じるより、
そのことを恥だと捉える思考や、
そう思わせる教育をし続ける社会の方が恥。

これは、10年前に書いたアメブロでの一文ですが、
今回改めてそう断言します。


性的価値は存在理由と直結している。
生存本能とも深く関係する。


だからこそ、

評価基準として使いやすい。


そこに、性に関する多くの問題を引き起こす要因があるのです。


「恥」ではなく、「あり方」として生きていくために


人間が、生殖機能や肉体での性差を持ち続ける限り、性的価値を比較対象にしたり、評価の基準にすることは続くでしょう。

でも、性的経験値のあるなしがその人の人間性を判断する上で、必要とは私には思えないのです。

今の社会では、性的経験値や性的魅力を価値基準にする言葉や表現が、どうしても目につきます。


恋愛偏差値。
本命可能性。
社会参加度。
大人度。
清潔感。
自己管理能力。
異性からの需要。

確かに、なるべくなら一人でも多くの人に好かれたい気持ちはわかります。

でも、特に恋愛や結婚という関係性では、

一緒にいたい人と思う人と長く関係性を続けること
心から信頼し、弱音を吐ける相手に好かれること

性的魅力や経験値よりも、人間性が重要ではないか。

少なくとも、私の中ではそうです。

私自身は、結果として性的経験値が平均よりも特殊かつ多い人生を過ごしてきてるので、自分の過去を「恥」だと思うときもありました。

でも、

過去を消せたらいいな。

そう思ったことは、これまで一度もありません。

過去を全部含め、今の自分がいる。

そう言えるからです。

「恥」ではなく「あり方」。

そう受け入れてからは、誰もが出来るわけではない経験をさせてもらったと思えるようになりました。


自分の価値は、見ず知らずの他人から値踏みされるものではない。
直接関わり合う人間関係から、自分の価値を実感すればいい。


SNS なしではなりたたない世の中であっても、自分の身の周りの人からの反応が一番信用できる評価です。

それすらも、実感しづらくなっているなら、評価経済から離脱することも選択肢のひとつだと思います。

2016年に放映された「逃げるは恥だが、役に立つ」というドラマのタイトル通り、逃げることも人生では必要な場面があります。

私が、プレイヤーを卒業して、性的価値を評価されることから身を引いたように。

評価され続ける場から、先に降りることも「あり方」です。


誰かの作った基準に従い「恥」だと思うのではなく、

自分らしさを取り戻す「あり方」として受け入れられていけば良い。


性の評価経済との付き合い方は、「自分らしくあること」を軸にする。

それが、性的経験値や性的魅力にとらわれないあり方なのです。



文中で少し触れた、stand.fmはこちらからどうぞ




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