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湖畔の密事

    プールに行こうと言い出したのは私だけれど、人混み、フランクフルトの匂い、あちらこちらで上がる甲高い声、ぶつかってくる肉厚な肩、そのすべてが、私の思い描くプールとはかけ離れていて、今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。水玉柄の水着なんかを着てこの場にいる自分が、ひどく滑稽だと思う。

    彼を見ると、微笑を浮かべて屋台を眺めている。置いて帰ろうかと思うくらいに爽やかに、この場になじんでいる。いや、なじんでいるのではなく、信じたくはないが、気に入っているのかもしれない。

    「何か、食べるの?」
    「そうだなあ。いろいろあって、楽しいね。迷うなぁ」

    やっぱりだ。彼はにぶい。こんなごみごみした場所に楽しみを見出すなんて、どうかしている。

    もうこの場には耐えきれそうもないので、水着の上にパーカーを羽織り、お手洗いに行くふりをして、しばらく避難することにした。

    プールの受付だけは静かで、備え付けのベンチには、黒く長い髪の綺麗な女がひとり座っていた。水着の上からパーカーを羽織っている様子から、彼女も避難しているように見える。

    すこし距離を空けて腰かけると、彼女はゆったりと顔をこちらに向けて言った。

    「あなたもなのね」
    「ちょっと、避難です」

    ふふ、と彼女は笑って、「肉体がなくなっていくような感覚がするの」と続けた。

    「ですよね。意識が遠くなって、わたしという存在が希釈されていくようで、ああ、もうだめだって思いました」
    「こわい?」

    なんてことを聞くんだろう、と思いつつ、彼女の目を見ると、真剣な様子だった。

    「自分がなくなるのがですか?」
    「そう。暴力的に自分が分解されて、希釈されて、忘れられていくのが」
    「ものすごく、こわい」

    彼女は、だらしなくベンチに置いていた私の左手に、自分の右手を優しく重ねた。

    「私はきっと、あなたを希釈してしまったりしない」

    そう言って、立ち上がるように促した。

    私は何かに取り憑かれたようになり、彼女の歩みに合わせて身体を動かした。受付の奥には、湖畔へ抜ける細い道があった。気づけば湖のほとりにいて、彼女と向き合っていた。

    私の髪をなでる彼女の手は柔らかで、すべての細胞を肯定されたような気になる。

    その柔らかな手は、私の顔をそっと引き寄せた。

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