『天国の愛犬が、夢で僕を散歩に連れ出した。』第5章 後悔➁
橋の上には、静かな風が吹いていた。
川面へ映る月明かりが、ゆらゆらと揺れている。
健人は欄干へ手を置き、しばらく黙って水面を眺めていた。
隣ではココが静かに座っている。
いつものように急かすことも、走り回ることもない。
ただ、健人の隣にいた。
「……覚えてるか。」
ぽつりと健人が呟く。
「俺がパソコンばっかり触ってた頃。」
ココは小さく尻尾を振った。
『うん。』
「就活してたんだ。」
『しゅうかつ。』
「仕事を探すためのこと。」
ココは少し考えるように首をかしげる。
『だから毎日、おうちにいたんだね。』
「そう。」
健人は苦笑した。
「家にはいた。でも……お前とは、あまり遊ばなかった。」
胸の奥が重くなる。
思い出したくなかった記憶が、少しずつ浮かび始める。
部屋。
パソコン。
求人サイト。
履歴書。
そして。
机の横で丸くなって眠る、小さなココ。
「お前さ。」
健人は少し笑う。
「俺がパソコンを開くと、必ず隣へ来たよな。」
『うん!』
「最初は椅子の下。」
『うん。』
「そのうち飽きると、俺の足に寄りかかって寝る。」
ココは得意そうに胸を張る。
『あったかかったもん。』
「仕事のこと考えて、行き詰まると……。」
健人は目を閉じる。
「お前が急に立ち上がってさ。」
その瞬間、夢の景色がゆっくりと変わった。
橋は消え、見慣れた自室が現れる。
若い頃の健人が机へ向かっている。
パソコンの画面には求人サイト。
眉間へしわを寄せ、必死に文字を打っている。
その足元へ、小さなココがやって来た。
ころん、と丸くなる。
しばらくすると、むくりと起き上がり、健人の膝へ前足を乗せた。
『くぅーん。』
散歩へ行きたい。
一緒に遊びたい。
そんな声だった。
画面の中の健人は、キーボードから目を離さない。
「ごめんな、ココ。」
そう言いながら、頭を一度だけ撫でる。
「もう少し待って。」
ココは少しだけ寂しそうな顔をした。
それでも怒らない。
もう一度足元へ戻り、静かに伏せた。
現在の健人は、その光景を黙って見つめていた。
「……何回も、あった。」
声が震える。
「『あとで』って言えば、お前は待ってくれた。」
ココは隣で静かに頷く。
『待つの、得意だったから。』
その一言が胸へ刺さる。
健人は唇を噛んだ。
「俺は、お前が待ってくれるのを当たり前だと思ってた。」
風が止む。
夢の景色も静まり返る。
「だから……。」
その続きを言おうとして、健人は俯いた。
どうしても言葉が出てこない。
ココは何も責めなかった。
そっと健人の手へ鼻先を寄せる。
昔と同じように。
『大丈夫だよ。』
その温もりだけで十分だった。
健人はゆっくり息を吸う。
「……次は、ちゃんと話す。」
ココは優しく笑う。
『うん。』
『僕、ちゃんと聞くから。』
その言葉とともに、夜空の向こうで鐘の音が一つ、静かに響いた。