
人はなぜ分かり合えないのか― 同じ世界を見ていない私たち
「ちゃんとやっているのに、なぜかうまくいかない」
「正しいはずなのに、伝わらない」
そんなふうに感じたことはないだろうか。
私は何度もあった。
ちゃんと考えて、
相手のことも思って、
これがいいと思って選んだ言葉や行動が、
なぜか届かない。
むしろ、
すれ違ってしまう。
そのたびに私は、
自分が間違っているのか、
相手が間違っているのか、
わからなくなっていた。
でも今は、
少し違う見方をしている。
人はそれぞれ、
自分の中の「前提」を持っている。
それは、
これまで生きてきた環境や、
経験や、
守ってきたものによって作られている。
だから、
同じ出来事を見ていても、
見えているものが違う。
例えば、
私と夫の間でも、
同じようなすれ違いがあった。
私は、
どうしたらお互いが安心して過ごせるかや、
対話してすり合わせていくことを大切にしたかった。
でも相手にとっては、
役割を果たしているかだけでなく、
どう見られるかや、
自分がコントロールできているかといったことが、
安心につながっていたのかもしれない。
人はそれぞれ、
安心するための基準を持っている。
だから、
同じ出来事に向き合っていても、
見ているものが違ってしまう。
私は思う。
相手が、
自分の望むように変わってくれたら、
それほど楽なことはない。
でも同時に、
誰かが自分のために、
無理をして、
自分を捻じ曲げてまで
一緒にいようとする関係に、
どこかで違和感を感じていた。
それは本当に、
望んでいた関係だったのだろうか。
私はずっと、
「自分の価値」が問われているように感じていた。
でも今は、
少し違うことを思う。
人はそれぞれ違っている。
無理をしている状態は、
その人でいることとは違うのだと思う。
だから私は、
自分にもそれを強いたくないし、
相手にも望みたくない。
関係は、
続けるか終わらせるかだけではなく、
形を変えることもできるのだと思う。
人を見るだけではなく、
その人がどんな場所にいるのか、
どんな配置の中で生きているのかを見る。
そうすると、
「なぜこの人はこうなるのか」が、
少しだけ見えてくる。
それでも、
人は切り捨てられる存在ではない。
理解できないことがあっても、
違うままでいても、
その人がその人であることは変わらない。
だから私は、
「わかり合えないこと」そのものを、
否定しないでいたいと思った。
だから私は思う。
正しさを押し通すのではなく、
その中で、
自分がどう在りたいのかを
選び続けていきたいと思う。
すべてがうまくいく場所なんて、
きっとない。
それでも、
「ここにいていい」と思える場所は、
自分で選んでいい。
この文章は「社会の正体」というシリーズの一部です。