30円に翻弄されないわたし
こんなことをいうと身も蓋もないが、わたしはずっとお金が欲しかった。お金持ちになりたかった。
よくありがちだが、ひとり親家庭の長女として生まれ育ち、今まで色々な場面でお金がないことが人生の足枷となったからだ。
同級生のように習い事をしたかった。
月刊の漫画雑誌を毎月買いたかった。
体の大きさはさほど変わらなくても、毎年、いや2年に1回は新しい体操着が欲しかった。
やりたい部活動の部費や都度かかる費用が高額だからといって、諦めて別のお金のかからない部活動を選びたくなんてなかった。
とにかく何かの選択を迫られたとき、お金がわたしのものさしだった。お金ができるだけかからないように。それが当時のわたしの価値基準だった。
あるとき友達と買い物に行った。目的は忘れたけれど、その時わたしはノートを一冊買った。値段は確か130円ほど。
その後もショッピングセンターの中をふらふらと歩き回っていたら、途中で100円ショップを見つけた。そこにはわたしが先ほど買ったノートの類似品が、なんと100円で売られていた。
たかが30円。されど30円。
わたしは友達に「さっきのノート返品してくる!」と伝え、文房具売り場に戻り、先ほどのレシートと商品を出して返金を求めた。
レジで返金を終えたわたしが振り返ると、友達は「……すごいね」と一言。
今思うと友達は呆れたような嘲笑のような複雑な顔をしていた気がするが、その時のわたしは30円が手元に戻ってきたことの嬉しさに夢中で気にも留めていなかった。その足で100円ショップに戻り、お目当てのノートを買った。
紙質は全く違っていた。
お金がかからないようにすること、それが生きる上で賢くて良いこと。
でも、もしもお金がこの手にたくさんあれば、やりたいことができて、幸せになれる。だからわたしは大人になったらお金持ちになりたい。そう漠然と思っていた。
お金持ちになるには一体どうしたらいいのだろう。
小さな頭で考えた。自分が稼ぐか、お金持ちと結婚するか。きっとその二択だ。と。
母親には「結婚は人生の墓場だ」と再三言われて育ったわたし。
考えた末に、自分の家のような家庭を再生産することはしたくなくて、必然と勉学に励むようになった。
その頃は丁度学校の英語の授業が楽しくて仕方ないときで、このまま英語をペラペラと話せるようになって将来グローバルな働き方をしたら、きっとわたしはお金持ちになれる!このまま進もう!と希望を持ったことを覚えている。
ただ、人生はそんなに甘くない。
進学した先の英語の先生との折り合いが悪く、英語は一気に得意科目から不得意科目へ転落した。
一体どう生きれば、お金持ちに、幸せに、なれるのだろうという悩みを持ったまま小中高大と進学をした。その時々で、これだ!と思うものを見つけては、しばらくすると挫折した。わたしにはお金に対する執着はあっても、続ける才能はなかった。
それでも一歩一歩、周りの家と自分の家との違いに時に悩み、時に嘆き、出自を呪うこともありながら、なんとか自分の足で歩いてきた。
そして今のわたしがここにいる。
長年思い描いていたお金持ち像とは程遠いが、食べたいときに大好きなケーキが買える程度の大人にはなった。
あの頃のお金への執着は完全に消えたわけではない。
正直今も質より値段。どんなに安価なものであっても、おいそれと購入ボタンを押すことはできない。
歩ける距離なら公共交通機関を使うのを躊躇うし、今の情勢的にどちらがコスパがいいのかわからないけれど生粋の自炊厨だ。
自分が損をしないように、算数は苦手だけど1円単位の割り勘計算だけは速かったあの頃のわたし。
今はやっと、少し多めに出すことや端数を気にしないことを学んだわたし。
スタバで600円ほどのドリンクを注文して、それを手に日々気合いを入れて仕事に向かうわたし。
30円に翻弄されない。わたしに言い聞かせるわたし。