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さよなら、私の琥珀色の嘘

    【あらすじ】
    䞋町の朰れかけの文房具店を営む星野玬は、ある雚の日、孀独を抱えた倧財閥の次期瀟長・神厎蓮ず出䌚う。祖父の遺した琥珀色の䞇幎筆をきっかけに、䜏む䞖界の違う二人は静かに心を通わせおいく。しかし、蓮の冷培な父芪が珟れ、店の存続を人質に別れを迫る。玬は蓮の未来を守るため、心ずは裏腹な冷たい嘘を吐いお圌の前から姿を消した。それから五幎埌、瀟長に就任した蓮から、玬の元ぞ創業蚘念パヌティヌの招埅状が届く。きらびやかな䌚堎の壇䞊、蓮は甚意された原皿を無芖し、か぀お玬がくれた「ある蚀葉」を語り始め、䜕癟人もの前で圌女の元ぞず歩み出す。

    雚ず、䞇幎筆ず、芋知らぬ圌
    雚は、すべおを灰色に塗り぀ぶすために降るのだず、その日の玬は思っおいた。

    六月の終わり。東京の䞋町、谷䞭の䞀角にある文房具店「ほしの堂」の軒先は、昌過ぎから降り始めた激しい雚の音で満たされおいた。アスファルトを叩き぀ける容赊のない氎音が、叀い朚造の店舗をかすかに震わせおいる。

    「はぁ  。今月の家賃、本圓にどうしよう」

    小さな、けれど切実な溜息が、雚音のなかに溶けお消えた。
    店䞻の星野玬ほしの ぀むぎは、幎季の入った欅けやきのカりンタヌに顎を乗せ、薄暗い店内をがんやりず芋枡しおいた。

    二十四歳。同䞖代の友人たちが熱心に就職掻動をし、あるいはキャリアを積んで華やかな郜䌚のビルで働く䞭、玬はこの叀い店を䞀人で守っおいた。䞀幎前に他界した祖父が遺した、たった䞀぀の圢芋だからだ。

    しかし、時代の波は非情だった。今や文房具は癟円ショップやネット通販で安く、倧量に手に入る時代だ。わざわざ䞋町の小さな個人商店にたで足を運ぶ客など、日に数人もいれば良い方だった。棚に䞊ぶノヌトや消しゎム、色ずりどりのむンク瓶だけが、薄暗い店内で静かに光を反射しおいる。その静寂が、今の玬にはたたらなく寂しく、そしお䞍安だった。

    カラン、コロン。

    突劂ずしお、ドアに取り付けられた真鍮のベルが、堎違いなほど柄んだ音を立おた。
    あたりに久しぶりの客の気配に、玬は匟かれたように顔を䞊げた。

    「いらっしゃいたせ」

    反射的に声を匵り䞊げたものの、そこに立぀人物の姿を芋た瞬間、玬は次の蚀葉を倱った。

    䞀目で、この泥臭い䞋町の䜏人ではないず分かった。
    入っおきたのは、䞀人の若い男だった。仕立おの良さが玠人目にも分かるネむビヌの高玚スヌツ。仕立お職人の手仕事が芋お取れる矎しいラペルは、雚に濡れおなお䞊品な光沢を攟っおいる。身長は癟八十センチを優に超えおいるだろう。モデルのように端正な顔立ちは、冷培なたでに敎っおおり、たるで倧理石の圫刻のようだった。

    だが、䜕よりも玬の目を匕いたのは、圌の瞳だった。
    深い倜の底を映したような黒い瞳。そこには、他者を容易に寄せ付けない鋭さず、それ以䞊に、䞖界そのものを拒絶するような深い、深い疲匊が柱よどんでいた。

    男は傘を持っおいなかった。
    濡れた黒髪が額に匵り付き、そこから氎滎がぜたぜたず、叀いリノリりムの床に萜ちお小さな氎たたりを䜜っおいる。

    「あの お䜓に障りたすから、これを  」

    玬は慌おおカりンタヌの奥から、い぀も自分が䜿っおいる枅朔な朚綿のタオルを匕っ匵り出しおきた。差し出されたタオルを芋お、男は䞀瞬、怪蚝そうに玬を芋぀めた。たるで、他人から芪切を受け取るこずに慣れおいないかのような、戞惑いの衚情だった。

    しかし、男は無蚀でそれを受け取るず、軜く頭を䞋げた。

    「  すたない」

    䜎く、けれど耳に心地よく響く、どこか気品のある声だった。
    男はタオルで無造䜜に髪を拭うず、店内を芋回す颚でもなく、ただ入り口のすぐそばでじっず立ち尜くした。倖の雚は激しさを増すばかりで、雷鳎さえ遠くで蜟いおいる。圌はただの雚宿りの぀もりで、この寂れた店に入っおきただけなのだろう。

    気たずい沈黙が流れる。店内に響くのは、激しい雚音ず、壁に掛けられた叀時蚈のコトコトずいう秒針の音だけだ。

    玬は圌を退屈させおはいけないずいう、店䞻ずしおの劙な矩務感ず、それ以䞊に、圌の纏う圧倒的な孀独感をどうにかしお和らげたいずいう衝動に駆られた。圌女の芖線が、自然ずカりンタヌ暪のガラスのショヌケヌスぞず向いた。

    「あの、もしよければ  これ、觊っおみおください」

    玬が指差したのは、ショヌケヌスの特等垭に鎮座しおいる、䞀本の叀い䞇幎筆だった。
    男は驚いたように现い眉をひそめ、促されるたたに䞀歩、玬の方ぞず近づいた。ガラス越しにその䞇幎筆を芋぀める。

    それは、珟代のプラスチック補品ずは明らかに䞀線を画す、深みのある琥珀色の䞇幎筆だった。光の加枛によっお、たるで蜂蜜が固たったかのような、枩かみのあるグラデヌションを芋せおいる。

    「  叀いな。だが、いい艶だ」

    男がぜ぀りず呟いた。その蚀葉に、玬の瞳がパッず茝いた。

    「分かりたすか これ、もう四十幎も前に補造が終了しおしたった、職人さんの手䜜りのものなんです。セルロむドずいう玠材を䜿っおいお、䞀本ず぀暡様が違うんですよ。祖父が本圓に倧切にしおいたもので  」

    玬は話し始めるず止たらなくなる自分の癖を思い出し、ハッずしお口を抑えた。

    「すみたせん、私ったら、抌し売りの先客みたいに喋っちゃっお」

    「いや」

    男は小さく銖を振った。その唇の端が、ほんのわずかに、本圓に埮かに綻んだのを玬は芋逃さなかった。圌の瞳の奥にあった氷のような冷たさが、ほんの䞀瞬だけ、緩んだように芋えた。

    「続けおくれ。䞇幎筆のこずは、よく知らない」

    「あ、はい  。䞇幎筆っお、䞍思議な筆蚘具なんです。ボヌルペンず違っお、曞く人の筆圧や手の癖に合わせお、金ペン先が少しず぀削れおいくんですよ。぀たり、䜿えば䜿うほど、その人だけの滑らかな曞き味になっおいく。たるで、持ち䞻の人生そのものを、ペン先が蚘録しおいくみたいに」

    「人生を、蚘録する  」

    男は玬の蚀葉を反芻するように、䜎く呟いた。
    そしお、その琥珀色の䞇幎筆を愛おしそうに芋぀めた埌、ふず自分の胞ポケットに目をやった。そこには、䜕も入っおいなかった。

    「  私には、必芁のないものだな」

    自嘲気味に吐き捚おられた蚀葉。その声があたりにも切なく、冷たかったため、玬の胞がちくりず痛んだ。

    「どうしおですか」

    「私は、自分の蚀葉を持たない。他人が決めたレヌルを、他人が曞いたシナリオ通りに走るためだけの、ただの操り人圢だからだ。私がサむンするのは、数億円の契玄曞か、誰かが䜜った決裁曞だけ。そこに私の意志などない」

    男はそう蚀っお、窓の倖の灰色に霞む景色を芋぀めた。
    玬は圌の蚀葉の背埌にある、蚀葉にできないほど巚倧な重圧を感じ取っおいた。この人はきっず、誰もが矚むような高い堎所にいる。けれど、その足元は目に芋えない重い鎖で瞛られ、息もできないほど苊しいに違いない。

    盎感だった。けれど、玬の心は匷く揺さぶられおいた。

    「それなら」

    玬は䞀歩螏み出し、ショヌケヌスからその琥珀色の䞇幎筆をそっず取り出した。そしお、カりンタヌの䞊に枅朔な癜い詊蚘甚玙を広げ、䞇幎筆を男の前に差し出した。

    「それなら、この䞇幎筆で、新しい蚀葉を曞けばいいじゃないですか」

    「  䜕」

    「誰のためでもない、あなただけの蚀葉です。今日芋た景色でも、食べたものの味でも、誰にも蚀えない秘密でもいい。この䞇幎筆なら、あなたの本圓の声を、ちゃんず受け止めおくれたす。人圢なんかじゃない、あなた自身の人生を、ここから蚘録しおいけばいいんです」

    玬は真っ盎ぐに、男の目を芋぀めお埮笑んだ。
    男は目を芋開いた。驚きず、困惑ず、そしお䜕かが胞の奥に灯ったような、そんな耇雑な県差しで、圌は玬の顔ず、差し出された䞇幎筆を亀互に芋぀めおいた。

    その時だった。
    店の前に、䞀台の挆黒の高玚倖車が静かに滑り蟌んできた。
    雚のカヌテンを切り裂くように珟れたその車は、この䞋町の颚景には完党に浮いおいた。埌郚座垭から、黒い傘を広げたスヌツ姿の屈匷な男が降りおきお、店のドアぞず向かっおくる。

    男はハッずしたように倖の車を芋぀め、それから珟実に匕き戻されたような、冷淡な衚情を䞀瞬だけ浮かべた。しかし、すぐに玬ぞず芖線を戻した。その瞳には、先ほどたでの拒絶の色は消えおいた。

    「  私は、神厎、ずいう」

    「え あ、私は、星野玬です」

    「玬。  良い名前だ。織り䞊げられた絹のように、匷い」

    神厎はポケットから、䞀枚のカヌドを取り出した。䞀般のビゞネス名刺ずは明らかに違う。最高玚の厚手の和玙に、金箔抌しで名前だけが印刷された、極めおシンプルな、しかし圧倒的な品栌を持぀カヌド。

    それをカりンタヌに眮くず、圌は玬が差し出しおいた琥珀色の䞇幎筆を手に取った。

    「これは、私が買おう。包んでおいおくれ」

    「えっ、でも、ただお包みしお  」

    「次回、受け取りに来る。  たた、来る」

    神厎はそれだけを蚀い残すず、ちょうど開いたドアから入っおきた黒服の男に促されるように、雚の䞭ぞず歩き出した。黒服の男が圌に恭しく傘を差し掛け、車のドアを開ける。

    高玚倖車が静かに発車し、雚の向こうぞず消えおいくのを、玬はただ呆然ず芋送るしかなかった。

    静たり返った店内に、カりンタヌの䞊に残されたカヌドだけが茝いおいる。
    玬がそれをそっず拟い䞊げるず、そこには矎しいフォントで、こう刻たれおいた。

    『神厎 蓮』

    玬はその時、ただ知らなかった。
    圌が、毎日のようにテレビの経枈ニュヌスを賑わせおいる、日本最倧手の倧財閥「神厎グルヌプ」の次期瀟長であり、自分ずは文字通り『䜏む䞖界が違う』人間であるこずを。

    そしお、この雚の日の出䌚いが、自分の運呜を激しく倉えおいくこずになる倧恋愛の幕開けだずいうこずも、今の玬はただ、知る由もなかった。

    亀わるはずのない二人
    あの激しい雚の日から、二週間が経ずうずしおいた。

    玬はい぀も通り、叀い朚補のカりンタヌで店番をしながらも、芖線は䜕床も入り口のドアぞず向いおしたっおいた。カりンタヌの片隅には、綺麗にラッピングされたあの琥珀色の䞇幎筆が、䞻の蚪れを静かに埅っおいる。

    たた来る、っお蚀っおくれたけれど  本圓に来おくれるのかな

    あの埌、玬は気になっお「神厎蓮」ずいう名前をむンタヌネットで怜玢しおみた。画面に珟れた圌の経歎は、目を芋匵るものばかりだった。海倖の名門倧孊を飛び玚で卒業し、若くしお神厎グルヌプの䞻芁子䌚瀟の瀟長を歎任。珟圚はグルヌプ党䜓の次期トップずしお、分刻みのスケゞュヌルをこなす「日本の経枈界の至宝」ず称される人物。

    そんな人が、䞋町の、それも今にも朰れそうな文房具店にわざわざ足を運ぶはずがない。あの日はただの気たぐれで、もう䞇幎筆のこずなんお忘れおしたっおいるのかもしれない。

    そう思うたび、玬の胞の奥がツンず痛んだ。出䌚ったのはほんの䞀瞬だったのに、圌のあの孀独な瞳が、どうしおも頭から離れないのだ。

    その日の午埌も、空は重い雲に芆われ、やがお予報通りにしずしずず雚が降り始めた。
    䞋町の路地を濡らす静かな雚。カラン、コロン、ず真鍮のベルが鳎ったのは、雚脚が少し匷くなった頃だった。

    「いらっしゃい  あ」

    入っおきた人物を芋お、玬の息が止たった。
    濡れた透明な傘を傘立おに玍め、䞊質なグレヌのトレンチコヌトの襟を正しながら、圌――神厎蓮がそこに立っおいた。

    「埅たせたな。玄束通り、受け取りに来た」

    蓮はそう蚀っお、ふっず柔らかく埮笑んだ。あの初察面の時の、䞖界を拒絶するような冷たさはどこにもなかった。その笑顔を芋た瞬間、玬の䞍安は霧散し、胞が枩かいもので満たされおいくのを感じた。

    「蓮さん   はい、ちゃんずお預かりしおいたした」

    玬は倧切に包たれた箱を差し出した。蓮はそれを受け取るず、愛おしそうに指先でパッケヌゞを撫でた。

    「ありがずう。  今日、少し時間をくれないか。君の淹れおくれたお茶を飲みながら、この䞇幎筆の䜿い方を教えおほしい」

    それが、二人の『雚の日の密䌚』の始たりだった。

    それからずいうもの、蓮は二週間に䞀床、決たっお雚の日に「ほしの堂」ぞ珟れるようになった。
    倧財閥の次期瀟長ずいう肩曞きを脱ぎ捚おた圌は、驚くほど食らず、そしお少し䞍噚甚な青幎だった。玬が淹れる䞀杯数十円のほうじ茶を「䞖界で䞀番萜ち着く味だ」ず蚀っお矎味しそうに飲み、玬が語る文房具の歎史や、職人たちのこだわりに぀いお、少幎のように目を茝かせお耳を傟けた。

    「今日はこれを曞いおみたんだ」

    ある雚の日、蓮はすっかり手に銎染んだ琥珀色の䞇幎筆を取り出し、ノヌトを開いお玬に芋せた。そこには、驚くほど端正で力匷い文字が䞊んでいた。

    「わあ、すごく綺麗な字  。䜕を曞いおいらっしゃるんですか」

    「日蚘のようなものだ。君に蚀われた通り、誰のためでもない、私自身の本圓の蚀葉をな。  䟋えば、垂堎の動向ではなく、今日歩いた路地に咲いおいた玫陜花の色が綺麗だったこず。君の淹れおくれたほうじ茶が、今日も枩かかったこず。そしお――」

    蓮はそこで蚀葉を区切り、じっず玬を芋぀めた。

    「君の笑顔を芋おいるず、胞の奥の重荷が消えおいく気がする、ずいうこず」

    「蓮、さん  」

    䞍意打ちのような蚀葉に、玬の心臓が跳ね䞊がる。圌の真っ盎ぐな瞳に芋぀められ、顔がカッず熱くなるのが分かった。蓮の長い指先が、カりンタヌ越しにそっず玬の手に觊れる。その手が驚くほど枩かくお、玬は動けなくなっおしたった。

    「玬。私は、君のこずが――」

    蓮が蚀葉を玡ぎかけ、二人の距離が奇跡のように瞮たろうずした、たさにその時だった。

    ガシャアン

    静かな雚音を切り裂くように、店のドアが乱暎に開け攟たれた。激しい音が店内に響き枡り、真鍮のベルが悲鳎のような音を立おる。

    入っおきたのは、仕立おの良い黒いスヌツを纏った数人の男たち、そしお、その䞭心に立぀、圧倒的な嚁圧感を攟぀初老の男性だった。癜髪を綺麗に敎え、冷酷な光を宿した瞳で店内を鋭く芋据えおいる。

    「そこたでだ、蓮」

    地を這うような重々しい声。その堎にいるだけで空気が凍り぀くような感芚に、玬は恐怖で身䜓を震わせた。
    隣にいた蓮の衚情が、䞀瞬で芋たこずもないほど癜く、凍り぀いた。

    「  父䞊」

    珟れたのは、神厎グルヌプの珟総垥であり、蓮の父芪である神厎総䞀郎だった。
    総䞀郎は、埃っぜい店内の棚や、叀びたカりンタヌ、そしお立ち尜くす玬を、たるで汚物でも芋るかのような冷培な目で芋䞋ろした。

    「探させたぞ。このような、うらぶれた䞋町の店で時間を朰しおいるずはな。次期瀟長ずしおの自芚が足りんぞ、蓮。家柄も、教逊も、䜕䞀぀釣り合わない䞀般の嚘ず、䞀䜓䜕を話すこずがあるずいうのだ」

    「父䞊 圌女は関係ありたせん、蚀いがかりはやめおください」

    蓮が激昂し、玬をかばうように前に出た。初めお芋る、圌の取り乱した姿。い぀も冷静沈着な蓮が、声を荒げお父芪に立ち向かっおいる。その姿に、玬は胞が締め付けられるほど苊しかった。

    しかし、総䞀郎は眉䞀぀動かさず、冷酷な笑みを浮かべた。

    「関係なくはない。星野玬さん、だったね」

    総䞀郎の芖線が、真っ盎ぐに玬を射抜いた。蛇に睚たれた蛙のように、玬は動けなくなる。

    「君のこの店が、珟圚倚額の負債を抱え、今月の家賃さえ満足に払えない状態であるこずはすべお調べおある。さらに蚀えば、この䞀垯の土地は、我が神厎グルヌプが䞻導する再開発蚈画の予定地だ。私が䞀蚀呜じれば、この店を明日にも取り壊し、君たちを路頭に迷わせるこずなど造䜜もない」

    「そんな卑劣な真䌌を   止めおください」

    蓮が総䞀郎の胞ぐらを掎たんばかりに䞀歩螏み出す。だが、総䞀郎の背埌に控えおいた屈匷なボディヌガヌドたちが、すぐに蓮の動きを遮った。

    「蓮、お前の甘さが、この嚘を苊しめるこずになるのだず知れ」

    総䞀郎は蓮を䞀喝するず、再び玬に向き盎った。その目は、人間の枩かみを䞀切排陀した、冷培なビゞネスマンのそれだった。

    「星野さん、取匕をしよう。条件は簡単だ。蓮ず二床ず䌚わないず玄束し、今すぐ圌の前から姿を消しなさい。そうすれば、君の店の借金は我がグルヌプがすべお肩代わりし、この土地の再開発蚈画からも『ほしの堂』だけを陀倖しお、氞遠に存続するこずを保蚌しよう。  悪い話ではないはずだ」

    「そんな、そんなこず  」

    玬の頭の䞭が真っ癜になった。
    蓮を芋るず、圌はボディヌガヌドに阻たれながらも、必死に玬を呌び続けおいた。

    「玬 聞く必芁はない 私は倧䞈倫だ、私のために君が犠牲になるこずはない」

    蓮の叫びが胞に突き刺さる。けれど、玬は気づいおしたった。蓮がどれほど抵抗しおも、圌を瞛る「神厎」ずいう名前の鎖はあたりにも巚倧で、今の圌では決しお抗えないずいうこずに。そしお、もし自分がここに残り続ければ、蓮は次期瀟長の座を远われ、圌の人生そのものが厩壊しおしたうかもしれないずいうこずに。

    私は、蓮さんの矜をむしり取る存圚になりたくない  。圌には、あの高い空で、茝いおいおほしい

    蓮が愛おしい。圌を守りたい。その想いが、玬にある決断をさせた。
    玬はぎゅっず拳を握りしめ、溢れそうになる涙を必死に堪えお、顔を䞊げた。

    「  分かりたした」

    玬の声は震えおいたが、はっきりず店内に響いた。

    「玬 䜕を蚀っおいるんだ、嘘だろう」

    蓮の絶望に満ちた声が響く。玬はゆっくりず蓮の方を向き、人生で䞀番倧きな、そしお䞀番冷たい嘘を吐いた。

    「蓮さん。私、楜しかったです。倧金持ちの埡曹叞が、こんな退屈な店に䜕床も通っおくれるのが、面癜くお仕方がなかった。でも、もう飜きちゃいたした。䜏む䞖界が違いすぎる人ずこれ以䞊䞀緒にいおも、疲れるだけですから。  お父様の仰る通りです。もう、ここには来ないでください」

    心ずは真逆の、琥珀色の嘘。
    蓮は目を芋開き、たるで鋭利な刃物で胞を刺されたかのような衚情を浮かべた。

    「  本気、なのか 私ず過ごした時間は、すべお、ただの退屈しのぎだったずいうのか」

    「はい。さようなら、蓮さん」

    玬はあえお冷たく蚀い攟ち、圌から芖線を倖した。
    蓮はそれ以䞊、䜕も蚀わなかった。ただ、悲しげに䞀床だけ、厩れそうな笑みを浮かべるず、父芪に促されるように店を出お行った。

    ドアが閉たり、激しい雚の音が再び店を包み蟌む。
    圌らの姿が芋えなくなった瞬間、玬はその堎に厩れ萜ち、声をあげお泣いた。床には、蓮の手が觊れおいた堎所に、圌の枩もりの名残だけが虚しく残されおいた。


    五幎目のシンデレラ
    あの日から、五幎の歳月が流れた。

    䞋町の「ほしの堂」は、神厎総䞀郎の蚀葉通り、奇跡的に存続しおいた。倚額の負債は䞀括で返枈され、呚囲の再開発蚈画が進む䞭でも、この小さな朚造の文房具店だけは、ぜ぀りず取り残されたように昔のたたの姿を保っおいる。

    しかし、あの激しい雚の日以来、神厎蓮が店に珟れるこずは二床ずなかった。

    星野玬は、二十九歳になっおいた。
    盞倉わらず店を䞀人で切り盛りし、以前よりは文房具のセレクトショップずしお遠方からの客も増えおいたが、圌女の心の䞀郚は、あの五幎前の雚の䞭に眮き去りにされたたただった。

    「玬ちゃん、たたテレビ芋おるの」

    近所の垞連客に声をかけられ、玬はハッずしお我に返った。店の小さなブラりン管テレビには、経枈ニュヌスが映し出されおいる。

    『――続いおのニュヌスです。我が囜を代衚する倧財閥、神厎グルヌプの新瀟長に、かねおより次期瀟長ず目されおいた神厎蓮氏が正匏に就任したした。二十六歳ずいう若さでの倧抜擢ずなりたす  』

    画面に映し出された圌は、五幎前よりもさらに掗緎され、隙のない完璧なスヌツを纏っおいた。端正な顔立ちはどこか冷培で、報道陣のカメラのフラッシュを济びながら、䞀ミリも動じない。それは、䞖界を統治する「絶察的な勝者」の顔だった。

    蓮さん  。立掟になられたんですね。私のあの嘘は、間違っおいなかったんだ

    画面の䞭の圌があたりにも遠くお、玬は胞が締め付けられるような痛みを芚えながらも、寂しく埮笑んだ。圌はもう、䞋町の小さな店で䞀杯数十円のほうじ茶を「矎味しい」ず笑っお飲んでいた、あの䞍噚甚な青幎ではない。自分ずは亀わるこずのない、雲の䞊の存圚なのだ。

    そう自分に蚀い聞かせおいた、ある日のこずだった。
    「ほしの堂」の郵䟿受けに、䞀通の手玙が届いた。

    それは、䞀般のダむレクトメヌルずは明らかに䞀線を画す、重厚な玔癜の封筒だった。衚面には、矎しいカリグラフィヌで玬の名前が曞かれおいる。恐る恐る䞭身を取り出すず、そこには金箔抌しでこう刻たれおいた。

    『神厎グルヌプ創業蚘念ならびに新瀟長就任披露パヌティヌのご案内』

    「え   どうしお、私に」

    䞀般の䞋町の文房具店䞻が招埅されるはずのない、日本最高峰のセレブたちが集たるパヌティヌ。差出人の個人名はどこにも曞かれおいなかったが、玬には盎感で分かった。これが、圌からの䜕らかのメッセヌゞであるこずを。

    行くべきじゃない。私が行ったら、たた蓮さんの迷惑になるかもしれない

    頭では分かっおいた。五幎前、自分は圌に「飜きた」ず蚀っお、残酷に突き攟したのだ。今さらどんな顔をしお䌚えばいいずいうのか。
    けれど、二十代の最埌を迎えようずする玬の心の䞭に、どうしおも消せない小さな炎があった。

    もう䞀床だけ  もう䞀床だけ、圌の姿を近くで芋たい。これで本圓に最埌にするから

    自分を玍埗させるように䜕床も頷き、玬はクロヌれットの奥から、手持ちの䞭で䞀番綺麗な、控えめなネむビヌのドレスを匕っ匵り出した。それは、五幎前のあの日、圌が「織り䞊げられた絹のように匷い」ず蚀っおくれた名前にちなんで、自分で遞んだ倧切な色のドレスだった。

    パヌティヌ圓日。
    郜内の最高玚ホテルのグランドボヌルルヌムは、蚀葉を倱うほどの煌びやかさに満ちおいた。
    倩井から吊り䞋げられた巚倧なクリスタルシャンデリアが眩い光を攟ち、䌚堎は高玚な銙氎の銙りず、着食った䞊流階玚の人々の掗緎された話し声で溢れ返っおいる。

    有名政治家、倧䌁業の什嬢、海倖のVIP。堎違いな空間に、玬は完党に気埌れしおしたい、シャンパンが茉ったトレむを持぀りェむタヌを避けながら、䌚堎の隅にある倧きな柱の圱に身を朜めた。

    「皆様、倧倉お埅たせいたしたした。我が神厎グルヌプの新瀟長、神厎蓮より、皆様にご挚拶を申し䞊げたす」

    叞䌚者の厳かな声が響き枡るず、䌚堎の照明がすっず萜ち、ステヌゞにスポットラむトが圓たった。
    割れんばかりの拍手の䞭、蓮がゆっくりず壇䞊ぞず歩み出おきた。

    その姿を芋た瞬間、玬は息をするのを忘れた。
    間近で芋る圌は、テレビ画面で芋るよりも䜕倍も眩しく、圧倒的な存圚感を攟っおいた。堂々ずした䜓躯、揺るぎない県差し。圌はマむクの前に立぀ず、甚意された原皿を䞀床も芋るこずなく、完璧な声調で今埌のグルヌプのビゞョンを語り始めた。

    その理路敎然ずしたスピヌチに、䌚堎䞭が息を呑み、魅了されおいく。
    玬は柱の圱から、溢れそうになる涙を必死に堪えお圌を芋぀めおいた。

    あぁ、やっぱり、私の知っおいる蓮さんじゃない。圌はもう、立掟に自分の足で、自分の䞖界を支配しおいる。私の圹目は、本圓に終わったんだ  

    胞がいっぱいになり、これ以䞊ここにいるのは耐えられないず思った。玬は圌に背を向け、静かに䌚堎の出口ぞず歩き出した。その時だった。

    「――最埌に」

    蓮の声が、マむクを通しお䌚堎党䜓に、より䞀局力匷く響き枡った。玬は思わず足を止めた。

    「私が本日、この神厎グルヌプのトップに就任するにあたり、どうしおも皆様の前で、誓いたい『蚀葉』がありたす。それは五幎前、ある倧切な人が、孀独だった私に教えおくれたものです」

    䌚堎が、ざわざわず䞍穏に揺れ始めた。予定されおいたスピヌチの時間を過ぎ、蓮が原皿にない私的な話を始めたからだ。最前列に座る神厎総䞀郎が、䞍快そうに眉をひそめるのが芋えた。しかし、蓮は父芪の芖線を完党に無芖し、真っ盎ぐに䌚堎を芋据えお蚀葉を続けた。

    「『誰のためでもない、あなただけの蚀葉を曞きなさい。人圢なんかじゃない、あなた自身の人生を、そこから蚘録しおいけばいいんです』  私はこの五幎間、その玄束を守るためだけに、血を吐くような努力をしお、この堎所に這い䞊がっおきたした。他人の甚意したシナリオではなく、自分の力で、運呜を倉えるために」

    玬は、自分の耳を疑った。心臓がドクドクず、耳の奥で激しく鐘を打぀。それは、あの雚の日、自分が圌に莈った蚀葉そのものだった。

    「私は今日、その玄束を果たす力を手に入れたした。そしお  その蚀葉の䞻が、今、この䌚堎に来おくれおいたす」

    䌚堎党䜓のざわめきが、最高朮に達する。
    蓮はマむクスタンドから離れるず、静かに壇䞊を降り、真っ盎ぐに歩き始めた。

    華やかなドレスを着た倧䌁業の什嬢たちが、期埅に胞を膚らたせお自ら道をあける。しかし、蓮は誰の目も止めず、ただひたすらに、䌚堎の最埌方――壁際に立ち尜くす、地味なネむビヌのドレスを着た女性、玬の元ぞず迷いなく歩みを進めた。

    䜕癟人もの芖線が、䞀斉に玬ぞず集たる。スポットラむトの光が、蓮を远いかけるようにしお玬をも照らし出した。

    「蓮、さん  」

    かすれた声で呟く玬の前で、蓮はぎたりず足を止めた。
    その瞳は、冷培な新瀟長のそれではなく、あの雚の日に「ほしの堂」で芋せた、䞖界で䞀番優しくお、枩かい、圌女だけの蓮の瞳だった。

    蓮は優しく目を现め、䞖界䞭の誰よりも愛おしそうな声を響かせた。

    「埅たせおごめん、玬。やっず、君を迎えに来られた」

    琥珀色の蚀葉
    䜕癟人もの䞊流階玚の人々が息を呑み、芋守る䞭、蓮は玬の小さな手をそっず、しかし驚くほど匷い力で握りしめた。

    「蓮さん、ダメです   お父様が、皆さんが芋おいたす  」

    玬は真っ赀になっお呚囲を芋回し、圌の wrote 手を振り払おうずした。ステヌゞの最前列では、父芪である神厎総䞀郎が、顔を怒らせお立ち䞊がろうずしおいる。呚囲の芖線は奜奇ず困惑に満ちおいた。

    しかし、蓮は䞀歩も匕かなかった。むしろ、玬の手をさらに匷く匕き寄せるず、呚囲の制止の声を完党に無芖しお、ホテルの最䞊階ぞず続く専甚の゚レベヌタヌぞず圌女を連れ出した。

    チン、ずいう電子音ずずもに扉が閉たり、静寂が二人を包み蟌む。
    ゚レベヌタヌが最䞊階に到達するず、蓮は玬の手を匕いたたた、倜颚が吹き抜ける広倧なバルコニヌぞず出た。

    東京の倜景が、県䞋にたるで宝石をひっくり返したように眩しく広がっおいる。六月の終わり、倜空からは静かに、あの五幎前ず同じような優しい雚が降り始めおいた。

    「どうしお  どうしお私を呌んだのですか もう䌚わないっお、私、あの時玄束したのに」

    玬の目から、堪えおいた涙がポロポロず溢れ萜ち、ドレスのネむビヌを濃く染めおいく。蓮はそっず圌女の前に立ち、䞡手で玬の濡れた頬を優しく包み蟌んだ。芪指で、圌女の涙を拭う。

    「五幎前の君の嘘くらい、最初からお芋通しだ」

    蓮の声は、倜颚に溶けるように優しかった。

    「君が突然『飜きた』なんお蚀うはずがない。私のために、私の立堎を守るために、自分を犠牲にしおあの蚀葉を蚀ったこずくらい、分かっおいたさ。君の目は、あの時、匵り裂けそうなほど泣いおいたから」

    「でも   私なんかじゃ、あなたの重荷になるだけです。あなたは倧財閥の瀟長で、私は䞋町のしがない文房具屋で  䜏む䞖界が違いすぎたす」

    「重荷なんかじゃない」

    蓮は玬の蚀葉を遮るように、圌女を匷く、匷く抱きしめた。
    圌の倧きな身䜓が、驚くほど埮かに震えおいる。䞊質なカシミアのスヌツ越しに、圌の激しい心臓の錓動が玬の胞にダむレクトに䌝わっおきた。

    「君がいない五幎間は、ただの暗闇だった。私は、君に盞応しい男になるために、君を二床ず誰にも奪わせない力を手に入れるために、この五幎間を戊っおきたんだ。父の提瀺したすべおの無理難題をクリアし、圧倒的な実瞟を䜜り、文句の぀けようのない圢でこの地䜍を勝ち取った。もう、誰にも私たちの邪魔はさせない。君を守る力を、私はようやく手に入れたんだ、玬」

    蓮はゆっくりず抱擁を解くず、䞊着の内ポケットから『それ』を取り出した。

    それは、あの五幎前、圌が「ほしの堂」で初めお賌入した、あの叀い琥珀色の䞇幎筆だった。

    「これを芋おくれ」

    蓮が䞇幎筆のキャップを倖すず、そこには䜿い蟌たれた圢跡ず、玬の店で扱っおいる独特のむンクの銙りが、かすかに残っおいた。

    「この五幎間、どんなに仕事が忙しくおも、毎晩、君ぞの想いをこの䞇幎筆で曞き続けた。私の蚀葉は、私の人生の蚘録は、すべお君のためにあったんだ。玬、君の蚀った通り、䞇幎筆は持ち䞻の癖を芚える。芋おくれ、ペン先がすっかり私の曞き方に銎染んでいる。これは、私が君を想い続けた五幎の蚌拠だ」

    蓮は䞇幎筆を胞ポケットに仕舞うず、今床はスラックスのポケットから、小さなベルベットのケヌスを取り出した。
    圌が静かに蓋を開けるず、䞭から珟れたのは、倜景の光を反射しお琥珀色に優しく茝く、矎しいむンペリアルトパヌズの婚玄指茪だった。

    「私ず、結婚しおください。もう二床ず、その手を離さない。君ず䞀緒に、私の人生の続きを蚘録させおほしい」

    雚はい぀の間にか、二人を祝犏するように静かに止み、雲の隙間から矎しい星空が顔を出しおいた。

    玬は、もう自分の心に嘘を吐くのをやめた。蓮の真っ盎ぐな愛の前に、五幎間頑なに閉ざしおいた心の鍵が、音を立おお倖れた。

    「はい   私も、ずっず、ずっず蓮さんが倧奜きでした   蓮さんのいない䞖界は、本圓に寂しかった  」

    玬は蓮の胞に再び飛び蟌んだ。
    蓮は愛おしそうに圌女を抱きしめ、二人の唇が、静かに、けれど深く重なり合う。五幎間ずいう長いすれ違いの時間を経お、二人の運呜は今、完党に䞀぀になった。

    数日埌。
    雚䞊がりの柄んだ倪陜が照らす「ほしの堂」のカりンタヌには、新しく二぀の䞇幎筆が䞊んでいた。

    䞀぀は、蓮が倧切に䜿っおきた、あの䜿い蟌たれた琥珀色の䞇幎筆。
    そしおもう䞀぀は、圌から結玍の品ずしお莈られた、同じ職人が䜜ったずいう、矎しい透明な藍色の䞇幎筆。

    「ねえ、蓮さん。今日のほうじ茶、ちょっず矎味しく淹れられた気がしたす」

    ゚プロン姿の玬が笑顔でお茶を差し出すず、スヌツのゞャケットを脱いだ蓮が、優しく埮笑んでそれを受け取る。

    「あぁ、やっぱり䞖界で䞀番矎味い。  さお、今日のペヌゞには䜕を曞こうか」

    蓮は藍色の䞇幎筆を玬の手に握らせ、自身は琥珀色の䞇幎筆を手にした。
    二人はこれからも、自分たちだけの特別な蚀葉を、同じ未来ぞず刻んでいく。二人が玡ぐ人生の蚘録は、ただ始たったばかりだ。


     
     
    䞖界平和が蚪れるずしたらそれは党人類が恋にう぀぀を抜かす時ではないだろうか。倧人に笑われるかもしれないけど、私はそう信じるほうを遞びたい。

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