
因果応報ってなんすか? 第一話
「キュッ、キュッ、キュッ」
椅子たちが無作法に散らばっている、少し蒸し暑さの残る教室。
腕に力を込める度、水を含んだモップと床が擦れる音が響く。
「キュルッ、キュッ」
「そうやって世界は、摩擦を繰り返して削れていくのね……」
必死にモップを動かす俺を眺めながら、日野御咲は独りごちた。
自分だけ机の上にひょっこり腰を下ろして足をぶらぶらさせている。
「馬鹿なこと言ってないでお前も手伝えよ」
俺はモップの持ち手の方を日野に向ける。が、日野は含み笑いをしてからそれを払うように押し返す。
「掃除なんて下々の者にさせておけばいいの。私じゃ役不足よ」
「お前だって成績不振で居残った身だろ。やれよ」
「いいえ、私は選ばれし者としてお呼ばれしたの。あなた達とは違うわ」
日野は自慢げに鼻を鳴らした。
「お前さ、なんでそんな偉そうなの?」
「偉そうなんじゃないわ。偉いのよ」
はぁ、また始まったよ。
「お前の世界じゃ『8』を全て横に倒して書く奴が偉いのか?」
「ふん。あれは有限を無限へ昇華させる高次元的技術よ」
「高校の定期テストでやることじゃねーだろ。数学の先生泣いてたぞ」
「きっと嬉し涙よ」
日野の毅然とした態度に、思わず俺の口から大きなため息が飛び出る。
「とにかく、ただでさえ二人足りねーんだ。お前までサボんなよ」
「心配しないで。私にはこの『眼』で、あなたがサボらぬよう見張るという崇高な役割がちゃんとあるから」
日野はそう言うと、目元にかかっていた前髪をすっと横に流した。
それにより、左右で虹彩の色が異なる眼がはっきりと顕わになる。
左眼は、藍銅鉱を彷彿とさせる幻想的な藍色で、奥底には南国の海に広がる色鮮やかな珊瑚礁をそのまま凝縮させたような美しさがある。
対して右眼は、紫を基調に、茜、褐色、そして鈍く光る金色の亀裂が幾層にも重なり、渦巻いており、天の川を水晶玉に閉じ込めたような瞳。
普通なら息を飲んで魅入ってしまうようなこの神秘的な様相も、今となっては見慣れたものだ。
「ウチの高校カラコン禁止じゃなかったか?」
「失礼ね! この瞳の輝きは本物の色素細胞によるものよ」
「最近のカラコンはバリエーションに富んでんなぁ」
「だ・か・ら、この眼はそんな低俗なもので覆われていないの!」
「あーハイハイ、確か生まれつき顕現した『特殊な眼」なんだよな? ははっ」
露骨にからかいすぎたか、日野の顔が微かに曇る。
「いい音弧君? この眼はこの世のありとあらゆる因果を見通すことができるの」
「ん? ん?」
「つまり、私は因果律を司る者ってわけ」
ハーフアップの毛先を跳ねさせながら、日野は掴みかかってきそうな勢いで熱弁し出す。
「その気になれば、あなたみたいなちっぽけな存在、どうとでもなるのよ」
「ちょっ、落ち着け」
「この私に不敬を働く者には、いずれ必ず鉄槌を下すから!」
滝のように溢れ出る妄言に押され、俺の心はあっさり折れた。
「もういい、分かったよ。残りも俺がモップかけるから大人しく座ってろよ」
「ふん、分かればいいわ。でも、次は覚えてなさい」
そんな俺に対し、日野はしたり顔を見せる。
やっぱり、コイツとは全く会話が噛み合わないな。
俺はモップ片手に掃除を再開する。
まあいいや。面倒くさい奴だが、ある意味ありがたい存在でもある。ああいった明らかに自分より下の奴を見ると安心できるからな。せいぜい卒業まで変人のままでいてくれ。
十分後。床一面鏡のようにピカピカに仕上がったことに満足しながら、俺はモップを置いた。
ふと、日野の方を見る。
相変わらず偉そうに机上に座りながら、何やら窓の方を眺めていた。
「まだいたのかよ、暇人」
日野に近づきざま、憎たらし気に毒ついてみたが反論がない。遠い目をしてただ窓の外をじっと見つめている。
なんだ……?
俺も何気なしに彼女の視線の先を追う。
校舎の手前には公道を挟んで商業地域の街並みが広がっているが、日野の視線はそれよりもずっと奥にあった。ここから二、三キロ離れたところにある、緑が生い茂る山々を捉えている。
「山? あの山がどうかしたのか?」
「よく見て。あそこ」
日野は体をピクリとも動かさないまま呟いた。あそこってどこだよ。せめて方向を指差せよ。
視線を泳がせ続け、やっとこさ日野の視覚に追いついた。
山の中腹当たり、緑の木々に囲まれる中、それに紛れて朱色の何かがあるのを視認する。
「あれって鳥居か?」
「そうよ。鳥居」
日野は嬉しそうに足をパタパタと揺らす。
「私、ああいう風景好きなのよ」
「好きって、鳥居とか神社とかが?」
「そうよ。神社って何か雰囲気が良いと思わない?」
「あー和風ノスタルジック的な?」
「いいえ、私を崇め奉ってくれそうだから」
「罰当たれよ」
日野は一瞬俺を睨んだが、すぐに窓の方に視線を戻す。
「あそこは、廃神社になって随分経つらしいわ」
「廃神社……」
このワードに心当たりがあった。
「もしやあそこが最近噂になってる那岐神社か?」
「噂?」
「ああ。校内で有名な心霊スポットらしい。何人かの生徒が境内で白い影を見たとか見てないとかって」
「へー心霊……ね」
日野は少し考えるそぶりを見せた後、すまし顔で俺に目線を向ける。
「音弧君、この後暇よね?」
「……暇じゃない」
「一緒にあの神社に行ってみない?」
聞こえてなかったのか、日野は俺の返答を真顔で吹き飛ばした。
「いや、廃神社に何しに行くんだよ」
「ふん。ここから私は新天地を目指すのよ」
「新天地?」
「そうよ。幽霊とやらが私のこの眼に映り込むのか、試したくなったのよ」
日野は自信満々に胸を張って腕を組んだ。
コイツはマジだ。マジでヤバい奴だ。
俺は日野から早足で離れ、教室の脇に置いていたリュックに手をかける。
「わりっ。友達待たせてたのを思い出したわ」
俺は瞬時に思いついた言い訳を吐くと共に右手を軽く立てた。
ただでさえ、掃除で無駄に時間潰してんのに、放課後は中二病女と心スポ巡りだぁ? ふざけんなよ。
「じゃ、モップだけ用具入れにしまっとけよ」
日野の方を振り返りもせず、急いでリュックを背負いこみ教室のドアに手をかける。
「もしかして、怖いの?」
後方から聞こえてきた煽りの言葉に、一瞬ドアに触れていた指先が止まった。が、すぐに背中で弾き返し、そのまま押し切るように教室を出ていった。