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『笑って死ねると思うな』

    ※あらすじ


    毎日「死にたい」と願いながらも、地獄のような職場で生き続ける非正規の倉庫作業員。責任だけを押し付けられ、誰にも守られない日々の中、彼はある同級生の訃報を知る。完璧な人生を送っていたはずの男は、なぜ自ら死を選んだのか。告別式へ向かった彼が目にしたのは、棺の中で異様なほど幸せそうに笑う死者の顔だった。その笑顔に取り憑かれた時、彼の日常は静かに狂い始める。死者はなぜ笑っているのか――その答えを求めた先に、想像を超える恐怖が待っている。


    ※本文


    ――――「今日もまた俺より先に『正解』に辿り着いた奴がいるらしい」

    薄暗い六畳半のアパート。
    万年床の湿った布団の中で俺はぼそりと呟いた。
    つけっぱなしになっていたテレビの液晶画面が無機質な光を部屋に投げかけている。
    画面の中では綺麗に化粧をした女性アナウンサーが一切の感情を排した声でニュースを読み上げていた。

    『――昨夜未明〇〇線の踏切内で三十代とみられる男性が電車にはねられ死亡しました。警察は現場の状況から自殺の可能性が高いとみて身元の確認を急いでいます。なおこの影響で〇〇線は上下線で一時運転を見合わせ――』

    「……今日も先を越された」

    俺は重い体を起こし乾いた唇からため息を吐き出した。
    ニュースで自殺者の報道を見るたび俺の胸を満たすのは悲しみでも同情でもない。

    強烈な焦燥感とそして圧倒的な敗北感だ。

    世間では自ら命を絶つことを「逃げ」だの「弱い人間のすること」だのと非難する奴らがいる。
    命を大切にしろ生きていれば必ずいいことがあると。
    馬鹿げている。そんなものは安全な場所にいる人間が吐き出す無責任な綺麗事にすぎない。

    俺の中では自殺は決して逃げではない。
    むしろ美徳に近いものだ。
    自らの意志でこの地獄のような日常に終止符を打つ。
    その決断を下せる人間は圧倒的に強い。
    本能が拒絶する「死」という恐怖を乗り越え自らの手で幕引きを行えるのだから。
    それに比べて俺はどうだ。
    毎日のように「死にたい」「消えてしまいたい」と願いながら結局は惰性で息をしているだけだ。
    死ねない俺はただひたすらに弱い。
    生き続けている俺は何か希望を持っているわけでも未来に向かって歩いているわけでもない。

    ただ死ぬという究極の決断を先延ばしにしているだけなのだ。

    「……行くか」

    独り言を呟きながら俺はのろのろと立ち上がった。
    洗面所に向かい鏡を見る。そこに映っているのは三十代という年齢以上に老け込んだ生気のない男の顔だった。
    目の下には濃い隈が張り付き頬はこけ目は濁っている。
    まるですでに死んでいる人間のようだった。
    いや死んでいる人間の方がもっと安らかな顔をしているかもしれない。

    顔を洗いシワだらけの作業着に着替える。
    俺は非正規雇用の倉庫作業員だ。
    毎日、毎日埃っぽい倉庫の中で右から左へ荷物を動かすだけの単調な日々。

    そこにやりがいも未来もない。

    部屋を出る前、俺は狭いダイニングキッチンに立ち止まった。
    そこには小さな丸テーブルが置かれている。
    椅子は二つ。
    俺はいつもそのテーブルの「向こう側」に向かって声をかける。

    「……おはよう、父さん母さん。今から仕事に行ってくるよ」

    俺がそう言うと静まり返った部屋の空気がふわりと温かくなったような気がした。
    耳の奥で懐かしくそして優しい声が響く。

    『おはよう。今日も仕事大変ね。無理しないでね』
    『ああ、気をつけて行ってきなさい。お前は真面目すぎるからな。たまには息抜きもするんだぞ』

    母さんと父さんの声だ。
    俺はテーブルの上に視線を落とす。
    そこには俺が買ってきたコンビニのパンが一つだけ置かれている。

    「無理なんてしてないよ。ただ毎日が息苦しいだけだ。……なあ、俺もう疲れたよ。全部終わりにしたいんだ」

    俺が弱音を吐くと二人の声は途端に悲しげな色を帯びた。

    『そんなこと言わないで。生きていればきっといいことがあるわ』
    『そうだぞ。お前はまだ若いんだ。これからいくらでもやり直せる』

    「やり直せる?どうやって?毎日毎日倉庫で使い捨ての部品みたいに扱われて給料は生きていくのがやっとの額。貯金もない恋人もいない友達もいない。この先何が良くなるっていうんだよ」

    俺は見えない両親に向かって声を荒げた。

    『私たちはお前の味方だから。何があってもお前を見捨てたりしない』
    『お前が死んだら父さんたち悲しいよ。お前には生きていてほしいんだ』

    その言葉を聞くたび俺の胸は激しく締め付けられる。
    優しい言葉だ。
    愛情に満ちた言葉だ。
    世間の人間ならこの言葉に救われるのかもしれない。

    親の愛を感じてもう一度頑張ろうと思えるのかもしれない。
    だが俺にとっては違う。
    この言葉は俺をこの世に縛り付ける「足枷」でしかない。

    死にたいのに死ねない。
    消えたいのに消えられない。
    もう限界なのに両親の「生きていてほしい」という声が俺の足を重くする。

    俺が死ねばこの優しい両親を悲しませることになる。
    それだけは避けなければならない。
    だから俺は今日も死ぬことを諦め地獄のような日常へと足を踏み出すのだ。

    「……分かってるよ。行ってくる」

    俺は逃げるように玄関のドアを開け外に飛び出した。
    愛しているなら解放してほしい。
    味方だと言うならもう「生きろ」と言わないでほしい。
    自分をこの世に繋ぎ止める言葉を優しさのふりで投げないでほしい。
    そんな叶わぬ願いを胸の奥に押し込めながら俺は重い足取りで職場へと向かった。

    ――――――――――

    巨大な物流倉庫は今日も無機質な機械音と怒声とため息で満ちていた。
    タイムカードを押し自分の持ち場である第三エリアに向かう。
    俺の胸には「第三エリア責任者」と書かれたプラスチックの名札がぶら下がっている。
    非正規雇用のアルバイトである俺がなぜか「責任者」なのだ。

    「おい、遅いぞ!もう朝礼の時間だ!」

    エリアに到着するなり甲高い声で怒鳴られた。
    正社員の現場監督佐々木だ。
    佐々木は俺より五つも年下だが社員というだけで俺たち非正規を奴隷のように扱っている。

    「すみません。時間通りには着いていますが……」
    「時間通りじゃ遅いんだよ!責任者なんだから誰よりも早く来て現場の状況を確認しておくのが当たり前だろうが!」

    佐々木は苛立たしげに手元のバインダーを叩いた。

    「……はい。申し訳ありません」

    俺は頭を下げる。
    反論しても無駄だということはこの数年で骨の髄まで思い知らされている。

    「で、今日のシフトはどうなってる?ピッキングの人数足りてるのか?」
    「ええと、今日は山田さんと鈴木さんが休みなので二人足りません。昨日、佐々木さんに補充をお願いしたはずですが……」
    「はあ?俺に言われても困るよ。シフトの管理はお前の仕事だろうが。責任者なんだから」
    「ですが私には他のエリアから人を回す権限も派遣会社に連絡する権限もありません。それは社員である佐々木さんの……」
    「言い訳するな!」

    佐々木の怒声が倉庫内に響き渡り周囲の作業員たちが一斉にこちらを見た。
    しかし誰も助け舟を出そうとはしない。

    皆、自分に火の粉が降りかかるのを恐れて目を逸らす。

    「権限がないならある人間で回す工夫をしろよ!それが責任者の役割だろうが!名前が書いてあるんだからお前がなんとかしろ!」
    「……二人少ない状態で今日の物量をこなすのは物理的に不可能です。せめて納期の遅れを上に報告して……」
    「ふざけんな!俺の評価が下がるだろうが!いいからやれ!お前が見ておくべきだったんだよシフトの穴なんて!」

    佐々木はそう吐き捨てると足音を荒立てて事務所の方へと消えていった。
    残された俺はただ立ち尽くすしかなかった。

    人を動かす権限はない。
    シフトを決める権限もない。
    現場の判断を変える権限もない。
    上司に意見を通す力もない。

    それなのに何か問題が起きた時だけ「責任者なんだから」「名前が書いてあるんだから」「お前が見ておくべきだった」とすべての責任を押し付けられる。
    俺は責任だけを背負わされ権限は一切与えられない都合のいいサンドバッグだ。

    「……やるしかない」

    俺はため息をつき作業員たちに指示を出し始めた。
    二人分の穴を埋めるため俺自身も走り回って荷物を集める。

    汗が滝のように流れ息が上がり腰が悲鳴を上げる。
    それでも終わらない。
    次から次へと流れてくる段ボールの山。
    終わりの見えない単純作業。

    昼休憩の時間になっても俺は休むことができなかった。

    遅れている作業を取り戻すため一人でピッキングを続ける。
    ふと、ポケットの中でスマホが震えた。
    画面を見るとニュースアプリのプッシュ通知だった。

    『速報:〇〇線の踏切事故死亡したのは都内に住む三十代の会社員と判明。遺書のようなものが……』

    俺はスマホの画面を見つめたまま動けなくなった。
    また一人、俺と同年代の人間がこの世界から降りた。
    彼もまた理不尽な上司に怒鳴られ責任を押し付けられ誰にも助けてもらえなかったのだろうか。
    それとももっと別の絶望があったのだろうか。
    理由は分からない。
    だが彼が「死」という決断を下し見事にそれを成し遂げたことだけは事実だ。

    「……いいな」

    無意識のうちにそんな言葉が口からこぼれていた。
    羨ましい。心の底からそう思った。
    彼はもう怒鳴られることもない。
    理不尽な責任を押し付けられることもない。
    汗だくになって荷物を運ぶ必要もない。

    ――彼は『自由』になったのだ。

    「おい!何サボってんだ!」

    背後から再び佐々木の怒声が飛んできた。

    「休憩時間も惜しんで働けって言っただろうが!お前のせいで午後からのトラックの積み込みが遅れてるんだぞ!」
    「……すみません。今、やります」

    俺はスマホをポケットにねじ込み再び段ボールの山に向かって歩き出した。
    足取りは鉛のように重い。

    死を選べる人間は強い。
    死ねない自分は弱い。

    俺はいつまでこの決断を先延ばしにし続けるのだろうか。

    その日の仕事が終わったのは夜の十時を回ってからだった。
    タイムカードを押し重い足取りで倉庫を出る。
    外は冷たい雨が降っていた。
    傘は持っていない。
    だが濡れることなどどうでもよかった。

    雨に打たれながら暗い夜道を歩く。
    街灯の光が水たまりに反射して鈍く光っている。
    ふとショーウィンドウのガラスに自分の姿が映った。
    ずぶ濡れで背中を丸めうつむいて歩く男。
    その顔は朝鏡で見た時よりもさらに生気を失いまるで亡霊のようだった。

    「……死にたい」

    声に出して言ってみた。
    雨音にかき消され誰の耳にも届かない小さな声。
    だがその言葉は俺の心の中に重く冷たく響いた。

    死にたい。

    今すぐこの場でトラックに轢かれて死んでしまいたい。
    橋の上から冷たい川に飛び込んでしまいたい。
    首にロープを巻いてすべてを終わらせてしまいたい。

    だがそのたびにあの声が聞こえてくるのだ。

    『生きていればきっといいことがあるわ』
    『お前が死んだら父さんたち悲しいよ』

    「……うるさい」

    俺は両手で耳を塞いだ。

    「うるさい!うるさい!うるさい!」

    誰もいない夜道で俺は叫んだ。

    「愛してるなら解放してくれよ!味方だっていうならもう生きろなんて言わないでくれ!俺はもう限界なんだよ!」

    叫び声は雨に吸い込まれ虚しく消えていった。
    両親の声は止まない。
    俺の頭の中で優しく残酷に響き続ける。

    俺は濡れたアスファルトの上にへたり込み声を上げて泣いた。
    三十を過ぎた男が雨の中で子供のように泣きじゃくった。
    誰も助けてくれない。
    誰も理解してくれない。
    俺は死ぬことすら許されない地獄の中でただ一人決断を先延ばしにしながら生き続けるしかないのだ。

    「……今日もまた俺は死ねなかった」

    雨水と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ俺は暗い空を見上げた。
    明日もまた同じ一日が始まる。
    理不尽な怒声と終わらない作業と優しい両親の呪縛。
    俺はいつかあのニュースの彼らのように「正解」に辿り着くことができるのだろうか。
    それともこのまま部品としてすり減り心が完全に壊れるまで生き続けるしかないのだろうか。

    遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
    誰かが死の淵を彷徨っている音。
    俺はその音が少しだけ羨ましかった。

    ――――――――――――――――

    その知らせはひび割れたスマホの画面を通して唐突に俺の目に飛び込んできた。

    『結城雅也が死んだらしい。自殺だって』

    高校時代の同級生たちで作られた数年に一度しか動かないLINEグループ。
    そこに投下された短いメッセージを見た瞬間、俺は息をするのを忘れた。

    結城雅也。

    その名前は俺の記憶の中で「完璧」という言葉と同義だった。
    地元の名家の長男として生まれ誰もが振り返るような端正な顔立ちを持ちスポーツ万能で成績も常にトップクラス。
    有名私立大学から誰もが知る総合商社へと進み絵に描いたような美しい妻を娶り最近では都内に一軒家を建てたという噂も耳にしていた。

    金、地位、才能、人望、そして家族。
    この世のすべての幸福を独占しているかのような男。

    俺のような非正規雇用で使い捨ての部品として底辺を這いずり回っている人間とは生きている次元が違う存在だった。

    その結城が自ら命を絶った。

    「……嘘だろ」

    薄暗い六畳半の部屋で俺は掠れた声を漏らした。
    信じられなかった。
    なぜだ。
    なぜあいつが死ぬ必要がある。
    すべてを持っていたじゃないか。

    誰からも愛され誰からも必要とされ未来は光り輝いていたはずじゃないか。
    俺のように毎日上司に怒鳴られ理不尽な責任を押し付けられ明日生きる金すら心許ない人間が死を望むのは当然だ。

    だが結城には死ぬ理由など一つもないはずだ。

    しかしニュースサイトを検索すると小さな記事が一つ見つかった。

    『都内のマンションから三十代の男性が転落死。警察は事件性はなく自殺とみて捜査を進めている』

    名前こそ出ていなかったが年齢と場所そして同級生たちのざわめきがそれが結城であることを裏付けていた。

    画面を見つめる俺の心の中にどす黒い感情がじわじわと広がっていく。
    悲しみではない。
    驚きでもない。

    それは強烈な「嫉妬」と「敗北感」だった。

    結城は人生の勝者だった。生きる上でのすべてのゲームに勝利していた。
    それなのにあいつは「死」という究極の選択すらも俺より先に実行してしまったのだ。
    俺が毎日、毎日「死にたい」と願いながら両親の呪縛に囚われて決断を先延ばしにしている間にあいつはあっさりと「正解」へと辿り着いてしまった。
    生においても死においても俺はあいつに勝てないのか。

    『お前も早くこっちへ来いよ』

    ふと結城の爽やかな声が耳元で聞こえた気がした。

    ――――――――――――

    数日後、俺は結城の告別式に向かった。
    クローゼットの奥から引っ張り出した礼服はカビ臭くサイズも合っていなくて肩のあたりが窮屈だった。
    会場は市内で最も大きなセレモニーホールだった。
    駐車場には高級車がずらりと並び入り口には有名企業や政治家からの供花が壁のように連なっている。
    受付を済ませホールの中に入るとむせ返るような百合の匂いと重苦しい読経の声が空気を支配していた。
    参列者の数は数百人はいるだろう。

    皆仕立ての良い喪服を着こなしハンカチで目頭を押さえている。
    俺のような安物の礼服を着て猫背で歩く男は完全に場違いだった。

    祭壇の中央には結城の遺影が飾られていた。

    おそらく会社のパンフレットか何かで使われた写真だろう。
    仕立ての良いスーツを着て自信に満ちたそれでいて嫌味のない完璧な笑顔を浮かべている。
    その笑顔を見ていると胃の奥がギリギリと締め付けられるような不快感を覚えた。

    なぜお前は死んだんだ。
    その笑顔の裏でお前は何に絶望したんだ。

    読経が終わり弔辞が読まれ式は粛々と進んでいく。
    俺は最後列のパイプ椅子に座りただうつむいていた。
    周囲から聞こえるすすり泣きの声がひどく嘘くさく感じられた。

    こいつらは本当に悲しんでいるのか?
    「完璧な結城雅也」の死というドラマに酔っているだけではないのか?

    結城の両親は今最前列で泣き崩れている。
    結城は親を悲しませるという罪悪感を乗り越えて死を選んだのだ。
    俺にはできないことをあいつはやってのけた。
    その事実が俺の劣等感をさらに刺激する。

    やがて出棺前の「最後のお別れ」の時間になった。
    参列者たちが順番に祭壇の前に進み棺桶の中に花を納めていく。
    俺も同級生たちの列に混ざってゆっくりと前へ進んだ。
    祭壇に近づくにつれ百合の匂いがさらに強くなり頭がクラクラしてきた。

    棺桶の周りには結城の親族たちが立っていた。
    美しい妻は目を真っ赤に腫らし母親はハンカチを顔に押し当てて嗚咽を漏らしている。
    俺は渡された白い花を手に棺桶の中を覗き込んだ。

    そして息を呑んだ。

    「……は?」

    俺の口から間抜けな声が漏れた。
    目の前の光景が脳で処理しきれなかった。
    棺桶の中で白い装束に身を包み花に埋もれて眠る結城雅也。
    その顔は俺が想像していた「死顔」とは全く異なっていた。

    死体というものは血の気が引き青白く筋肉が弛緩するか硬直するかして無表情になるものだと思っていた。
    しかし結城の顔は違った。
    頬にはほんのりと赤みがさしまるで生きているかのような血色を保っている。
    だが異常なのはそこではない。

    結城は笑っていた。

    微かに微笑んでいるというレベルではない。
    口角が不自然なほど高く吊り上がり頬の筋肉が盛り上がり目尻にはシワが寄っている。
    まるで人生で最高の喜劇を見ているかのようなあるいは宝くじで一等を引き当てたかのような満面の笑みだった。
    歯を見せていないだけでその表情は狂気じみたほどの「歓喜」に満ちていた。

    背筋に冷たいものが走った。

    ―――――なんだこれは。

    死後硬直を無理やり解き皮膚の下に何かを詰め込み糸かワイヤーで顔の筋肉を引っ張り上げているのか?
    蝋人形のように滑らかに整えられた肌の質感とその顔に張り付いた「満面の笑み」のアンバランスさが強烈な不気味さを醸し出している。
    まるで精巧に作られた不気味なピエロの人形を見ているようだった。

    俺は持っていた花を落としそうになりながら思わず後ずさった。
    周囲を見渡す。
    同級生たちも親族たちも誰もこの異常な光景に驚いていない。
    皆、涙を流しながらその「笑顔の死体」に花を手向けている。

    狂っている。
    この空間全体が狂気のベールに包まれている。

    俺は耐えきれず列から逃げるように離れた。
    壁際に立ち荒い息を吐く。
    胃液がせり上がってくるのを感じ口元を押さえた。
    その時すぐ横に気配を感じた。

    「ご気分が優れませんか?」

    静かで滑らかな声だった。
    振り向くと黒いスーツを着た葬儀屋のスタッフが立っていた。
    年齢は四十代くらいだろうか。
    青白い肌に感情のまったく読み取れないガラス玉のような真っ黒な瞳。
    その佇まいはどこか人間離れした冷たさを帯びていた。

    「……あんた葬儀屋か」
    「はい。本日の進行を務めさせていただいております」
    「……あれは、なんだ」

    俺は震える指で祭壇の棺桶を指差した。

    「なぜあいつは笑っているんだ?死体があんな顔をするわけがないだろう!」

    俺が声を荒げると葬儀屋はわずかに首を傾げ薄い唇に穏やかな笑みを浮かべた。

    「ああ、お顔のことですね。最近はご遺族の希望でお顔を穏やかに整えることがよくあるのです」
    「穏やか?ふざけるなあれが穏やかに見えるのか!?満面の笑みじゃないか!不自然に口が吊り上がってまるで……まるで作り物みたいに!」
    「エンバーミング……ご遺体の防腐処理と修復の技術は日々進歩しております。生前の最も美しい表情を再現することも不可能ではありません」

    葬儀屋の声はどこまでも平坦で冷ややかだった。

    「せめて最後は幸せそうに見送ってあげたい。苦しんだ顔のまま焼場へ送るのは忍びない。そう願うご遺族の方が非常に多いのです」

    葬儀屋が視線を向けた先では結城の母親が棺桶にすがりついていた。

    「ああ、雅也……いい顔してる。本当に幸せそうな顔……」
    「最後にこんな顔を見られてよかった。ありがとう……本当にありがとう……」

    母親は葬儀屋のスタッフたちに向かって何度も何度も頭を下げている。
    妻もまた「あなた、笑ってる……よかった……」と泣き崩れていた。

    その光景を見た瞬間俺の中で何かがブツンと切れた。
    強烈な嫌悪感がマグマのように腹の底から噴き出してきた。

    気持ち悪い。
    おぞましい。
    吐き気がする。

    あいつは自殺したんだぞ。
    自らビルから飛び降りて全身の骨を砕いて死んだんだ。
    その直前あいつがどれほどの絶望を抱えていたか。
    どれほどの孤独の中で死という恐怖に立ち向かったか。
    遺族はそれを見ようとしていない。
    「幸せだった息子」「完璧だった夫」という自分たちの幻想を守るために死体の顔を改造させたのだ。
    死者の尊厳を無視して自分たちが安心するためだけにあんなグロテスクな笑顔を死体に貼り付けたのだ。

    『最後にこんな顔を見られてよかった』だと?
    ふざけるな。お前らが見ているのは防腐剤とワイヤーで作られたただの人形だ。
    死者への冒涜だ。
    こんな悪趣味な人形遊びが許されていいはずがない。

    俺は両手で顔を覆い込み上げてくる吐き気を必死に堪えた。
    だが嫌悪感の理由はそれだけではなかった。
    俺が本当に許せなかったのは遺族の身勝手さでも葬儀屋の不気味な技術でもない。

    生きている俺が一ミリも笑えずにいるのに。
    死んだあいつがあんなに幸せそうに笑っていることだ。

    俺は毎日地獄のような職場で理不尽な怒声に耐え責任を押し付けられ人間としての尊厳を削られ続けている。
    当たり前になったサービス残業、給与明細すらもらえず自分が生きている価値など微塵も感じられない。
    両親の「生きていてほしい」という呪いの言葉に縛られ死ぬことすら許されずただ苦痛に顔を歪めながら息をしている。
    俺の顔にはもう何年も「笑顔」なんてものは浮かんでいない。
    鏡を見るたびにそこにいるのは死人よりも死人らしい絶望に染まった男の顔だ。

    それなのに。

    すべてを投げ出して逃げたあいつが棺桶の中であんなに満ち足りた笑顔を浮かべている。
    作り物だとわかっている。
    偽物の笑顔だとわかっている。
    それでもあの狂気じみた満面の笑みは俺の脳裏に焼き付いて離れない。

    許せない。
    生きている俺がこんなに苦しんでいるのに死んだお前が笑うな。
    お前だけが解放されてお前だけが幸せそうな顔をするな。

    ギリッと奥歯を噛み締める。爪が手のひらに食い込み血が滲むほどの力で拳を握りしめた。
    嫌悪感と怒りで視界が赤く染まる。
    今すぐあの棺桶をひっくり返してあの作り物の笑顔をめちゃくちゃに踏み蝨躙ってやりたい衝動に駆られた。

    だが。
    その激しい嫌悪感と怒りの底から真っ黒でドロドロとした別の感情が湧き上がってくるのを俺は止めることができなかった。

    「……いいな」

    無意識のうちに俺の口からそんな言葉がこぼれ落ちていた。

    羨ましい。
    狂おしいほどに羨ましい。

    あいつはもう何も感じない。
    上司に怒鳴られることもない。
    理不尽なクレームに頭を下げることもない。
    明日の生活費を計算して絶望することもない。
    すべての苦痛からすべての重圧から完全に解放されたのだ。

    あの笑顔は葬儀屋が作った偽物かもしれない。
    だが俺にはあの笑顔が「死による完全な解放」を証明しているように思えてならなかった。
    死ねた人間だけがあんな風に笑えるのだ。
    死ねた人間だけが本当の自由を手に入れられるのだ。

    俺もあの棺桶の中に入りたい。
    あの白い花に埋もれてすべての感覚を失いたい。
    そしてあんな風に心の底から笑いたい。

    「……羨ましい」

    俺は祭壇の奥で笑い続ける結城の顔から目を逸らすことができなかった。
    周囲のすすり泣きも読経の声ももう耳に入らない。
    ただあの不気味でグロテスクでそして圧倒的に美しい「死者の笑顔」だけが俺の網膜に焼き付いていた。

    「……お客様」

    不意に耳元で声がした。
    ハッとして横を見るとあの葬儀屋が至近距離で俺の顔を覗き込んでいた。
    真っ黒な瞳が俺の心の奥底まで見透かすように光っている。

    「どうかされましたか?ひどく汗をかいておられますが」
    「……いやなんでもない」

    俺は逃げるように葬儀屋から距離を取った。

    「そうでしたか。……もし何かお困りのことがあればいつでもお声がけください。私たちは生者と死者の『境界』を整えるのが仕事ですから」

    葬儀屋は薄く笑った。
    その笑顔は棺桶の中の結城の笑顔とどこか似ているような気がした。

    俺は逃げるようにセレモニーホールを飛び出した。
    外はいつの間にか冷たい雨が降り始めていた。
    カビ臭い礼服が雨に濡れ肌に張り付く。
    俺は雨に打たれながら駐車場をふらふらと歩いた。

    頭の中がぐちゃぐちゃだった。
    嫌悪感と怒りとそして強烈な羨望。
    それらが混ざり合い俺の精神を内側から侵食していく。

    俺は雨空に向かって呟いた。

    「生きていたって地獄が続くだけだ。笑えるのは……死んだ奴だけじゃないか」

    俺の顔には雨水に混じって生温かい涙が流れていた。
    だが俺の口角はほんのわずかに吊り上がっていた。
    結城のあの笑顔を無意識に真似しようとしている自分がいた。

    狂っているのは遺族か葬儀屋かそれとも俺か。
    もう何もわからなかった。
    ただ一つ確かなのは俺の中で「死」というものへの憧れがもはや後戻りできないほどに膨れ上がってしまったということだけだった。

    ―――――――――――――――

    葬儀から数日が過ぎても俺の網膜には結城のあの狂気じみた笑顔がこびりついて離れなかった。
    目を閉じれば白い花に埋もれた満面の笑みが浮かび上がる。
    『お前も早くこっちへ来いよ』
    そんな幻聴すら聞こえるようになっていた。

    重い足取りで物流倉庫のゲートをくぐる。
    今日もまた機械音と怒声が響く地獄の底へ自ら足を踏み入れる。

    歩いていくとそこのは佐々木が仁王立ちで俺を待っていた。

    「お前の対応にクレームが来てるぞ」
    「……え?」
    「昨日B社に納品に行ったドライバーからだ。お前の態度が横柄で荷物の扱いも雑だったってな。上の人も気にしてる。今後は気をつけてくれよ」

    佐々木はそう言い残し勝ち誇ったような顔で事務所へ戻っていった。

    俺はその場に立ち尽くした。
    クレーム?B社のドライバーから?
    動揺が全身を駆け巡る。
    だがすぐに強烈な違和感が湧き上がってきた。

    昨日のB社への納品。
    担当したドライバーはいつも気さくに話しかけてくれるベテランの田中さんだった。
    荷物の積み込みも俺と田中さんで協力してスムーズに終わったはずだ。
    別れ際にも「いつも助かるよありがとう」と缶コーヒーまで奢ってくれた。
    その田中さんが俺の態度が横柄だったとクレームを入れる?
    あり得ない。

    俺は昼休憩の時間を削りスマホを取り出して田中さんの携帯に電話をかけた。
    数回のコールの後田中さんが出た。

    「あ、田中さんですか。第三エリアの……」
    『おお、どうした?なんかトラブルか?』
    「いえ、あの……変なことを聞くんですけど昨日俺の対応について会社にクレームを入れましたか?」
    『はあ?クレーム?入れるわけないだろ。昨日も完璧な積み込みだったじゃないか。誰がそんなこと言ってるんだ?』
    「……いえなんでもありません。確認したかっただけです。ありがとうございます」

    電話を切った後俺は事務所の裏に回り昨日の出荷記録と運送会社とのやり取りのログを調べた。
    どこにもクレームの記録など存在しなかった。

    嘘だ。

    佐々木は俺を精神的に追い詰めるために架空のクレームをでっち上げたのだ。
    自分のミスを俺に押し付けた挙句さらに俺を貶めるためにあんな見え透いた嘘を。

    怒りで全身が震えた。
    ふざけるな。
    俺は人間だ。
    お前のサンドバッグじゃない。
    これ以上理不尽に尊厳を削られてたまるか。

    俺は証拠となる出荷記録のコピーと田中さんとの通話履歴を握りしめ上層部――所長室へと向かった。
    所長はいつも温厚そうな顔をして現場には滅多に顔を出さない初老の男だ。

    「失礼します。所長、お時間をいただけますか」

    俺は所長のデスクの
    前に立ち事の顛末をすべて話した。

    「このクレームは事実ではありません。運送会社のドライバーにも直接確認しましたが誰もそんなことは言っていません。記録にも残っていません」

    俺は証拠の書類をデスクの上に並べた。

    「佐々木さんは自分の保身のために私に責任を押し付けさらに嘘をついて私を貶めようとしています。嘘をつかれている可能性があります。どうか正当な調査と処分をお願いします」

    俺は深く頭を下げた。
    証拠は揃っている。筋も通っている。
    これでようやく俺の無実が証明され佐々木に罰が下る。
    そう信じていた。

    しかし。

    「……ふむ」

    所長は書類をチラリと見ただけですぐに視線を外した。

    「まあ君の言い分は分かった。だが、ねえ……」

    所長は面倒くさそうに頭を掻いた。

    「佐々木君も悪気があって言ったわけじゃないと思うんだよ。勘違いだったんじゃないかな」
    「勘違いであんな具体的な嘘をつくはずがありません!これは明らかなパワハラです!」
    「まあまあ落ち着きなさい。でもね、君も責任者という立場なんだからもう少しうまく立ち回れないものかね」
    「……え?」
    「佐々木君は正社員だ。君は非正規とはいえ現場を任されている。お互いに協力してやってくれないとこっちも困るんだよ。揉めたくないからさ」

    所長の言葉に俺は耳を疑った。

    「揉めたくない……?私が一方的に被害を受けているんですよ!?」
    「こちらでは判断できないんだよ。どっちが本当のことを言っているかなんてね。証拠と言っても君が勝手に集めたものだろう?」
    「ドライバーに直接確認していただければ分かります!」
    「そんなことで取引先に連絡できるわけないだろう!大ごとにしないでくれ」

    所長は声を荒げ忌々しそうに俺を見た。

    「いいか。現場のことは現場でうまくやってくれ。君も今後は気をつけて。佐々木君の機嫌を損ねないようにうまく立ち回るのも責任者の仕事だ。分かったね?」

    所長はそう言うとパソコンの画面に視線を戻し俺を完全に無視し始めた。

    「…………」

    俺は何も言えなかった。
    喉の奥がカラカラに乾き声が出ない。
    デスクの上に置かれた証拠の書類がただの紙切れに見えた。

    誰も俺を守らない。
    俺の正しさなどこの会社では何の意味も持たない。
    証拠があっても真実であっても正社員である佐々木を守るために非正規の俺が切り捨てられる。

    嘘をついた佐々木は何も失わない。
    嘘をつかれた俺だけが「トラブルメーカー」「うまく立ち回れない無能」という烙印を押されさらに居場所を失っていく。

    所長室を出た俺はふらふらとした足取りで倉庫の隅へと向かった。
    薄暗い段ボールの陰に座り込み両手で顔を覆う。

    辞めてしまいたい。
    こんな狂った会社今すぐ辞めてやりたい。
    だが辞めてどうする?
    俺には貯金がない。
    次の仕事を見つける保証もない。
    家賃光熱費食費。生きていくためには稼がなければならない。
    生活のため。
    将来のため。
    何とか今のこの底辺の生活を維持するためだけに俺はこの地獄にすがりつくしかないのだ。

    『生きていればきっといいことがあるわ』
    『私たちは味方だから』

    頭の中でまた両親の声が響いた。

    「……どこがだよ」

    俺は声に出して呟いた。

    「どこにいいことがあるんだよ。どこに味方がいるんだよ」

    誰もいない。
    俺は完全に一人だ。
    責任者という名前だけを貼られた都合のいい部品。
    ミスを押し付けるための部品。
    嘘のクレームをでっち上げられサンドバッグにされるための部品。

    胸の奥でどす黒い絶望が渦を巻いている。
    生きることへの嫌悪感が全身の細胞を侵食していく。

    ふと暗闇の中であの顔が浮かんだ。
    棺桶の中で満面の笑みを浮かべていた結城雅也の顔。

    『お前も早くこっちへ来いよ』

    結城の声が今度ははっきりと聞こえた気がした。

    「……ああ」

    俺は虚空に向かって頷いた。

    「羨ましいよ、結城。お前はもうこんな理裁な目に遭わなくていいんだもんな」

    死んだ人間は皆解放されたような顔をしている。
    職場で責められることもない。
    嘘のクレームを押し付けられることもない。
    誰にも守られない孤独に震えることもない。

    死ねた人間だけがようやく自由になれる。

    俺の口角がゆっくりと吊り上がっていく。
    暗い倉庫の隅で俺は一人音もなく笑っていた。
    結城のあの狂気じみた笑顔を自分の顔に貼り付けるように。

    ――――――――――――――――

    翌朝、目が覚めた時俺の心はこれまでにないほど澄み切っていた。
    いつもなら目を開けた瞬間に「また生きて朝を迎えてしまった」という絶望と鉛のように重い疲労感が全身をのしかかってくる。
    だが今日は違った。

    体が軽い。呼吸が楽だ。
    俺は布団から這い出し洗面所に向かった。
    鏡の前に立つ。そこに映っているのは相変わらず目の下に濃い隈を作り頬のこけた三十代の男の顔だ。

    俺は両手の人差し指を自分の口角に当てグッと上へ押し上げた。
    頬の筋肉が引きつり歯茎が剥き出しになる。

    違う。これじゃない。

    俺は目を閉じあの光景を脳裏に呼び起こした。
    白い花に埋もれた棺桶。その中ですべての苦痛から解放され満ち足りたように笑っていた結城雅也の顔。
    あの狂気じみたほどの満面の笑み。
    目を開けもう一度鏡を見る。
    口角を限界まで吊り上げる。頬の筋肉を高く持ち上げ目尻に深いシワを寄せる。目は見開いたまま瞬きを止める。
    鏡の中の男が結城と同じ顔になった。
    不自然に張り付いた作り物のような笑顔。
    生きている人間の顔には決して浮かばない死者特有の「解放の証明」。

    「……ふふっ」

    自然と喉の奥から笑い声が漏れた。
    素晴らしい。なんて素晴らしいんだ。
    この顔をしていると不思議と心が安らぐ。自分がすでに死んでいてこの世のあらゆる苦痛から解放されたような錯覚に陥ることができる。

    『おはよう。今日も仕事大変ね』
    『無理するんじゃないぞ』

    ダイニングの方からまた両親の声が聞こえてきた。
    いつもならこの呪いの言葉を聞くたびに胃が締め付けられ泣き叫びたくなる。
    だが今の俺は違う。
    俺は満面の笑みを浮かべたままダイニングに向かって振り返った。

    「おはよう、父さん母さん。行ってくるよ」

    俺が笑顔でそう答えると両親の声はピタリと止んだ。
    まるで俺の異常な空気に気圧されたかのように。
    俺は口角を吊り上げたままアパートを出た。

    ――――――――――――――――

    物流倉庫に到着しタイムカードを押す。
    すれ違う作業員たちに俺は一人一人満面の笑みで挨拶をして回った。

    「おはようございます!」
    「今日も一日よろしくお願いします!」

    俺の挨拶を受けた作業員たちは一様にビクッと肩を揺らし怪訝な顔をした。
    無理もない。昨日までこの世の終わりみたいな顔をして下を向いて歩いていた男が突然顔の筋肉が千切れんばかりの笑顔でハキハキと喋り出したのだから。

    「お、おう……おはよう……」
    「……なんかいいことでもあったのか?」

    同僚の一人が引きつった顔で尋ねてきた。
    俺はさらに口角を上げ目をカッと見開いて答えた。

    「ええ!とても素晴らしいことに気づいたんです!今日も頑張りましょうね!」

    同僚は「ヒッ」と短く息を呑み逃げるように自分の持ち場へ向かっていった。
    俺は第三エリアの責任者席に座り作業の準備を始めた。
    周囲の視線を感じる。
    遠巻きに作業員たちがヒソヒソと囁き合っているのが聞こえた。

    「おい、あいつどうしたんだよ……」
    「さあ……昨日佐々木さんにめちゃくちゃ怒られてたからついに頭がおかしくなったんじゃないか?」
    「気味が悪いな。あの顔、目が全然笑ってないぞ……」

    気味が悪い?頭がおかしくなった?
    勝手に言っていればいい。
    俺は今人生で一番正気だ。
    この笑顔という「死者の仮面」を被っている限り俺は無敵なのだ。

    午前中の作業中、俺は一度も笑顔を崩さなかった。
    重い荷物を運んで腰が悲鳴を上げても笑顔。
    フォークリフトの通り道で邪魔だとクラクションを鳴らされても笑顔。
    段ボールの角で指を切って血が流れても笑顔。
    痛くない。
    苦しくない。
    だって俺はもう「死んでいる」のと同じなのだから。
    死体に痛みなど感じるはずがない。

    昼前現場を巡回しに来た佐々木が俺の姿を見て足を止めた。

    「おい、お前」

    佐々木が怪訝そうな顔で近づいてくる。

    「なんだその顔は。気持ち悪いな。ヘラヘラしてんじゃねえよ」
    「お疲れ様です、佐々木さん!」

    俺は佐々木に向かって結城の笑顔を向けた。
    佐々木は一瞬ウッと怯んだように後ずさった。

    「……お前、昨日俺にクレームの件で嘘つかれたとか言って所長に泣きついたらしいな。ふざけんなよ。俺の立場が悪くなったらどうすんだ」

    佐々木は声を荒げたがその声にはいつものような絶対的な威圧感が欠けていた。
    俺は反論しなかった。ただ満面の笑みで佐々木を見つめ続けた。

    「聞いてんのか!お前みたいな非正規が社員に逆らうな!次やったらクビにするからな!」
    「はい!申し訳ありませんでした!」

    俺が笑顔のまま大きな声でハキハキと答えると佐々木は気味悪そうに顔をしかめた。

    「……なんだお前マジで気持ち悪いな。クスリでもやってんのか?」

    佐々木はそれ以上俺を責めるのをやめ逃げるように去っていった。
    俺は佐々木の背中を見送りながら喉の奥でクスクスと笑った。

    ほら見ろ。
    笑顔でいれば誰も俺を傷つけられない。
    怒声も理不尽な責任転嫁もこの「死者の笑顔」という強固な盾の前ではすべてが無力化されて滑り落ちていく。
    俺はどんどんおかしくなっていた。
    いやおかしくなっているという自覚すら心地よい麻酔のように俺の脳を麻痺させていた。

    午後になり職場でまた問題が起きた。
    第三エリアから出荷されたはずの精密機器のパレットが丸ごと一つ別のトラックに誤って積み込まれてしまったのだ。
    行き先は全く別の県。
    すでにトラックは出発しており取り戻すには多大な時間とコストがかかる。
    明らかな大ミスだった。
    原因は昨日入ったばかりのあの新人タカハシが伝票のバーコードを読み間違えたまま放置したことだった。タカハシは「俺そんなの聞いてないッスよ」と逆ギレしてそのまま勝手に帰ってしまったらしい。

    事務所から顔を真っ赤にした佐々木が血相を変えて飛んできた。

    「おい!!どういうことだ!!」

    佐々木の怒声が倉庫の天井を震わせた。
    作業員たちが一斉に手を止め息を潜める。

    「第三エリアの誤出荷!損害額がいくらになるか分かってんのか!!誰がやったんだ!!」

    俺はゆっくりと佐々木の方へ歩み寄った。
    もちろん顔にはあの満面の笑みを貼り付けたままだ。

    「お疲れ様です、佐々木さん。どうされましたか?」
    「どうされましたかじゃねえよ!!お前のエリアで大ポカやらかしたんだよ!新人が伝票間違えたらしいな!なんでお前が確認してないんだ!!」

    佐々木は俺の胸ぐらを掴み唾を飛ばしながら怒鳴りつけた。
    いつもならここで俺は恐怖に震え必死に言い訳をしていただろう。
    「私には新人を管理する権限がない」「佐々木さんが勝手に入れたんじゃないか」と。
    だが今の俺は違う。

    「はい!そうですね!」

    俺は胸ぐらを掴まれたまま佐々木の顔を至近距離で見つめニッコリと笑った。

    「……は?」

    佐々木が間抜けな声を漏らした。

    「お前……自分が何やったか分かってんのか?クビじゃ済まないぞ損害賠償もんだぞ!」
    「はい!大変なことになりましたね!」

    俺の口角はさらに高く吊り上がった。
    頬の筋肉がピクピクと痙攣しているのが自分でも分かった。
    目は限界まで見開き佐々木の瞳の奥を真っ直ぐに覗き込む。
    瞬きはしない。絶対にしない。

    佐々木は俺の異常な反応に戸惑い掴んでいた俺の胸ぐらから手を離した。

    「お前……ふざけてんのか?笑い事じゃねえんだぞ……」
    「笑ってなどいませんよ。私は真剣です」

    俺は顔の筋肉を一切動かさずに答えた。
    声のトーンだけが異様に明るく平坦だった。

    佐々木は一歩後ずさった。
    その顔に明確な「恐怖」の色が浮かんだのを俺は見逃さなかった。
    佐々木は必死に自分を奮い立たせるように声を張り上げた。

    「い、いいか!責任者の名前はお前だ!」

    佐々木は俺を指差した。指先が微かに震えている。

    「だったらお前が悪い!現場の管理不足だ!」
    「はい!私が悪いです!」
    「う、上にもそう報告しておくからな!全部お前の責任だからな!」
    「はい!報告しておいてください!よろしくお願いします!」

    俺は深々と頭を下げた。
    そして頭を上げた瞬間さらに深い狂気じみた笑顔を佐々木に向けた。

    「ふふっ……あははははっ!」

    俺の口から乾いた笑い声が漏れ出した。
    おかしい。何もかもがおかしい。
    責任者の名前が俺になっているから俺が悪い?
    上にそう報告する?
    どうぞご勝手に。
    俺はもうそんな言葉では傷つかない。

    死んであの棺桶の中で結城と同じように永遠に笑い続けるんだから。
    こんなちっぽけな倉庫でのミスなんてどうでもいい。

    死ねばいい
    死ねばいい
    死ねばいい
    死ねばいい
    死ねばいい
    死ねばいい
    死ねばいい
    死ねばいい
    死ねばいい
    死ねばいい
    死ねばいい
    死ねばいい

    佐々木の怒りも所長の保身も両親の呪縛もすべてが滑稽でくだらなくて笑えてくる。

    「あははははは、はははははははっ!!」

    俺は腹を抱えて笑い始めた。
    倉庫の中に俺の異様な笑い声だけが響き渡る。
    周囲の作業員たちは完全に青ざめ俺から距離を取っていた。
    「ヒィッ」と悲鳴を上げて逃げ出す者もいた。

    「お、おい……やめろ……」

    佐々木は完全に怯えきっていた。
    顔面は蒼白になり額には脂汗が浮かんでいる。
    俺の狂気に当てられ彼の中の「上司としての威厳」は完全に崩壊していた。

    「あはははは!佐々木さん!私の責任です!全部私の責任です!だからもっと怒ってくださいよ!もっと私を責めてくださいよ!あははははははっ!」

    俺は笑いながら佐々木に一歩近づいた。
    佐々木は「ひっ」と短い悲鳴を上げ尻餅をつきそうになりながら後ずさった。

    「く、来るな……!お前マジで頭おかしいぞ……!」
    「おかしい?私がですか?いいえ私は正気ですよ!これ以上ないくらい幸せなんです!」

    俺は結城のあの笑顔を顔面に貼り付けたまま佐々木を見下ろした。
    目はカッと見開き口は耳まで裂けんばかりに吊り上がっている。
    自分でも今の自分がどんな恐ろしい顔をしているのか想像がついた。
    人間ではない。
    生きた人間の顔ではない。
    死に取り憑かれ死に魅入られ死者の仮面と同化した怪物の顔だ。

    「……もういい」

    佐々木は震える声で言った。
    俺から目を逸らし這うようにして距離を取る。

    「もういい……お前、今日はもう帰れ」
    「え?帰るんですか?でも誤出荷の処理が……」
    「いいから帰れ!!俺がやるから!!お前はもう帰れ!!明日も来なくていい!!」

    佐々木は半ばパニックになりながら叫んだ。
    俺を責めることなどもう完全に忘れていた。
    ただ目の前にいる「得体の知れない狂人」から一秒でも早く逃れたい。その一心だった。

    「そうですか。ではお言葉に甘えて帰らせていただきます」

    俺は満面の笑みで深く一礼した。

    「お疲れ様でした佐々木さん。誤出荷の件よろしくお願いしますね」

    俺が顔を上げると佐々木はすでに背を向けて事務所の方へ逃げるように走り去っていた。
    周囲の作業員たちも俺と目を合わせないように下を向き蜘蛛の子を散らすように自分の持ち場へ戻っていく。

    誰も俺に近づこうとしない。
    誰も俺を責めようとしない。

    「……ふふっ」

    俺は誰もいなくなった通路の真ん中で一人静かに笑った。

    勝った。

    俺はこの地獄のような職場でついに勝利を手にしたのだ。
    「死者の笑顔」という最強の武器を手に入れたことで俺はすべての理不尽から解放された。

    タイムカードを押しロッカーで着替える。
    鏡に映る自分の顔は相変わらず満面の笑みを浮かべていた。
    筋肉が硬直しもう元の表情に戻し方が分からない。
    だがそれでいい。
    この顔のまま俺はあの場所へ行くのだ。

    俺は誰にも挨拶をせず笑顔のまま倉庫を出た。
    外はどんよりとした曇り空だった。
    足取りは羽のように軽い。
    俺が向かう先はアパートではない。
    あのむせ返るような百合の匂いがする場所。
    生者と死者の「境界」を整えるあの葬儀屋だ。

    俺は口角を限界まで吊り上げ目を見開いたまま街を歩き始めた。
    すれ違う人々が俺の顔を見てギョッとし道を譲っていく。
    子供が俺を見て泣き出し母親が慌てて目を隠す。
    すべてが心地よかった。
    俺は今世界で一番幸せな死体だ。

    『お前も早くこっちへ来いよ』

    結城の声が頭の中で優しく響いた。

    「ああ、今行くよ。結城」

    俺は声に出して答えた。
    そして狂ったように笑いながら葬儀屋への道を急いだ。
    もうすぐだ。
    もうすぐ俺は本当の自由を手に入れる。
    あの棺桶の中で永遠にこの笑顔のままで。

    ―――気がつくと俺はあの場所の前に立っていた。

    灰色の雲が低く垂れ込める空の下周囲の喧騒から切り離されたようにひっそりと佇む白亜のセレモニーホール。

    数日前、結城雅也の告別式が行われたあの葬儀屋だ。
    なぜここに来たのか自分でもよく分からない。
    職場を飛び出し狂ったように笑いながら街を歩き続けていたはずなのに俺の足は無意識のうちにこの場所を選び一直線に向かっていたらしい。
    まるで見えない糸に引かれるように。
    あるいは帰るべき場所へ帰ってきたかのように。

    自動ドアの前に立つとセンサーが反応して静かにガラスの扉が開いた。
    中からあのむせ返るような百合の匂いと線香の冷たい香りが流れ出してくる。
    俺は顔面に張り付いた満面の笑みを崩さないままホールの中へと足を踏み入れた。

    「……誰かいませんか」

    声をかけてみたが返事はない。
    結城の葬儀の時は黒服を着たスタッフが何人も忙しそうに行き来し参列者のすすり泣く声が響き渡っていた。だが今のホールはまるで時間が止まったかのように静まり返っている。
    照明は薄暗く足音だけが厚い絨毯に吸い込まれていく。
    受付には誰もいない。ロビーのソファにも人影はない。
    俺は導かれるようにホールの奥へと進んでいった。

    一番奥にある最も大きな式場。

    重厚な木製の両開き扉がわずかに隙間を開けていた。
    その隙間から祭壇の灯りが漏れ出ている。
    俺は扉に手をかけゆっくりと押し開けた。

    広い式場の中には参列者用のパイプ椅子が整然と並べられていた。
    だが誰も座っていない。
    正面の巨大な祭壇には無数の白い菊と百合が飾られているが遺影を置くべき額縁には何も入っていなかった。
    ただ祭壇の中央に二つの真新しい白木の棺桶が並んで置かれているだけだった。

    「……なんだこれ」

    俺は口角を吊り上げたまま首を傾げた。

    誰の葬儀だ?
    遺影もないのに棺桶だけが二つ並んでいる。
    夫婦で事故にでも遭ったのだろうか。それとも心中か。
    俺はゆっくりと祭壇に近づいていった。
    百合の匂いが一歩進むごとに強烈になっていく。
    胃の奥がひっくり返りそうなほどの甘ったるい死の匂い。
    だが今の俺にはそれが心地よかった。
    棺桶の中にはどんな「笑顔」が眠っているのだろう。
    結城のようにすべての苦痛から解放されたあの素晴らしい笑顔を見せてくれるのだろうか。

    俺は二つ並んだ棺桶の右側に立ちその小窓から中を覗き込んだ。

    「…………え?」

    その瞬間。
    俺の顔面に強固に張り付いていた「死者の笑顔」がピシリと音を立ててひび割れた。
    限界まで吊り上がっていた口角が重力に従ってズルリと落ちる。
    見開かれていた目が信じられないものを見るように細められる。
    頬の筋肉の痙攣が止まり狂気の仮面が完全に剥がれ落ちた。

    俺は息を呑み隣の左側の棺桶の小窓も覗き込んだ。

    「……嘘だろ」

    掠れた声が静寂のホールに落ちた。
    俺は後ずさりパイプ椅子に背中をぶつけて立ち尽くした。
    全身の血が逆流し心臓が早鐘のように打ち始める。
    呼吸が浅くなり冷や汗がどっと吹き出した。

    棺桶の中に眠っていたのは見ず知らずの他人ではなかった。

    右の棺桶には父が。
    左の棺桶には母が眠っていた。

    二人とも白い死装束に身を包み顔の周りを白い花で囲まれている。
    そしてその顔には――結城と全く同じ狂気じみた満面の笑みが張り付いていた。
    口角を不自然なほど高く吊り上げ頬の筋肉を盛り上げ人生で最高の喜劇を見ているかのような圧倒的な歓喜の表情。
    防腐処理とワイヤーで無理やり作られた死者の笑顔。

    「なんで……なんで父さんと母さんが……」

    俺はガタガタと震える手で自分の頭を抱えた。
    混乱が脳をかき回す。思考がまとまらない。

    おかしい。絶対にあり得ない。
    だって両親は生きているはずだ。
    今朝だってアパートを出る時に言葉を交わしたじゃないか。
    『おはよう。今日も仕事大変ね』
    『無理するんじゃないぞ』
    そう言って俺を送り出してくれたじゃないか。
    毎日毎日俺が「死にたい」と弱音を吐くたびに『生きていればいいことがある』『お前が死んだら悲しい』と俺をこの世に縛り付けていたじゃないか。

    「生きている……生きているはずだ!今朝も話した!俺は毎日二人と一緒に……!」

    俺は叫びながら再び棺桶にすがりついた。
    ガラス越しに父と母の顔を叩く。

    「起きろよ!なんでこんなところにいるんだよ!なんで死んでるんだよ!なんで……なんでそんな顔で笑ってるんだよ!!」

    だが二人は答えない。
    ただ満面の笑みで虚空を見つめているだけだ。

    その時。
    俺の脳の奥底で重く錆びついた鉄の扉がギギギ……と不気味な音を立てて開き始めた。
    絶対に開けてはならないと俺自身が何重にも鍵をかけて封印していた「記憶の扉」。
    それが両親の死体という決定的な現実を前にしてついに耐えきれずに崩壊したのだ。

    『……ごめんなさい。ごめんなさい……』
    『もう無理だ。どこにも逃げられない……』

    頭の中に見知らぬいやずっと昔に聞いたはずの音声がフラッシュバックする。
    それは今朝聞いたような穏やかで優しい両親の声ではない。
    絶望に打ちひしがれ恐怖に震え泣きじゃくる生々しい男女の声。

    視界が歪む。
    セレモニーホールの光景が薄れ代わりに古ぼけた木造アパートの六畳間が浮かび上がってきた。
    壁には赤いマジックで殴り書きされた「金返せ」の文字。
    散乱した家財道具。割れた食器。
    そして部屋の中央にある鴨居からぶら下がっている二本の太いロープ。

    『お前だけは生きて……』

    ロープの輪に首を通す直前母が泣きながら俺を見た。
    父は俺と目を合わせることすらできずただうつむいて震えていた。

    ガタンという鈍い音。
    踏み台にされていたパイプ椅子が倒れる音。
    空中で激しく痙攣する二つの身体。
    首が締まるギチギチという嫌な音。
    やがて動きを止めだらりと垂れ下がった二つの足。
    その足元でまだ小学生だった俺は声も出せずにただ座り込んでいた。
    お漏らしをして震えながら宙ぶらりんになった両親の顔を見上げていた。

    その時の両親の顔は決して笑ってなどいなかった。
    目をひん剥き舌を出し苦痛と絶望に満ちたおぞましい死顔だった。

    「あ……ああ……あああああ……!」

    俺は喉をかきむしりながら床にうずくまった。
    思い出した。
    全部思い出した。

    両親はとっくに死んでいたのだ。
    俺がまだ十歳だった頃。父親が作った莫大な借金を苦にして二人揃って首を吊った。
    俺だけをこの地獄のような世界に置き去りにして二人だけで「死」という逃げ道を選んだのだ。

    じゃあ俺が毎日アパートで話しかけていたのは誰だ?
    ダイニングテーブルの向こう側に座っていたのは誰だ?
    俺に「生きていてほしい」と語りかけていたあの優しい声は一体何だったんだ?

    『おはよう。今日も仕事大変ね』
    『私たちはお前の味方だから』

    頭の中でまたあの優しい声が再生される。
    だが今度ははっきりと分かった。
    それは両親の声ではない。
    俺自身が自分の脳内で作り出した「幻聴」だ。

    俺は両親が自分を捨てて自殺したという残酷な事実を幼い心で受け入れることができなかった。
    だから記憶を改ざんした。
    両親は生きている。
    俺を愛してくれている。
    いつも俺を見守ってくれている。
    そう思い込むことで孤独と絶望から身を守ろうとしたのだ。

    だがそれだけではない。
    俺が「理想の両親」を作り出した最大の理由は他にあった。

    俺は死にたかったのだ。
    両親が死んだあの日から親戚をたらい回しにされ誰からも愛されず底辺の生活を這いずり回る中で俺はずっと「死」を望んでいた。

    だが死ぬのが怖かった。
    自殺という決断を下す勇気がなかった。
    だから俺は「自分が死ねない理由」を外部に求めた。

    『お前が死んだら父さんたち悲しいよ』
    『お前には生きていてほしいんだ』

    この言葉は両親の願いではない。
    俺自身が俺をこの世に縛り付けるために作り出した「呪い」だったのだ。
    「優しい両親が悲しむから俺は死ねないんだ」という言い訳。
    死ぬ勇気がない自分の弱さを正当化するための都合のいい足枷。

    俺は自分で自分に足枷をはめ自分で自分を地獄に繋ぎ止めていたのだ。
    救いなどではなかった。
    ただの醜い自己欺瞞だった。

    「……ははっ」

    乾いた笑いが口からこぼれた。
    俺はゆっくりと立ち上がり再び棺桶の中の両親を見下ろした。
    防腐処理を施され満面の笑みを浮かべた二人の死体。
    俺を捨てて逃げた身勝手な大人たち。

    「……ふざけるなよ」

    俺は棺桶のガラスをドンッと叩いた。

    「ふざけるな!!」

    ホール全体に響き渡る声で俺は叫んだ。

    「産んでくれなんて頼んでない!!育ててほしいなんて願ってない!!」

    涙が溢れ出し視界が滲む。
    だが俺は叫ぶのをやめなかった。二十年分の恨みと絶望を死体に向かってぶちまけた。

    「借金作って首吊って……勝手に産んで勝手に死んで!!俺だけをこんな地獄に置き去りにしやがって!!」

    バンッ!バンッ!
    拳から血が滲むのも構わず俺は棺桶を叩き続けた。

    「なのに……なのに今度は幻になってまで俺を生きさせるのか!!俺の頭の中に棲みついて優しい親のふりをして俺が死ぬのを邪魔するのか!!どこまで俺を苦しめれば気が済むんだよ!!」

    息が切れ膝から崩れ落ちる。
    棺桶にすがりつきながら俺は声を上げて泣いた。
    悲しいからではない。
    自分の人生のあまりの滑稽さに涙が止まらなかったのだ。

    俺は存在しない両親の言葉に縛られ毎日毎日「死にたいのに死ねない」と苦しんでいた。
    職場で理不尽な扱いを受け尊厳を削られ人間以下の扱いを受けても「両親のために生きなければ」と耐え続けていた。
    すべては俺の一人芝居だった。
    俺を止める者など最初から誰もいなかったのだ。
    足枷は存在しなかった。
    俺はいつでも死ねたのだ。

    「……あははっ」

    泣きながら俺の口から笑い声が漏れた。

    「あははははははははっ!!」

    涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら俺は狂ったように笑い始めた。
    おかしい。最高に笑える喜劇だ。
    俺の三十年間の人生は壮大なコントだったのだ。
    見えない鎖に怯えて狭い檻の中で震えていた滑稽な猿。
    それが俺だ。

    「あはははは!いない!誰もいない!俺を止める奴なんて誰もいなかったんだ!」

    俺は立ち上がり両手を広げて天井を仰いだ。
    笑い声がホールに反響し不気味な和音となって降り注いでくる。

    両親はもういない。
    足枷は最初から存在しなかった。
    自分を止めていたものは自分の作った幻だった。

    その事実を完全に理解した瞬間俺の心の中にあった最後の「重り」が音を立てて崩れ去った。
    体が羽のように軽い。
    魂が肉体の殻を突き破って空へ昇っていくような圧倒的な解放感。

    もう生きる理由はない。
    もう生きる言い訳も必要ない。
    明日もあの地獄のような倉庫に行く必要はない。
    佐々木に怒鳴られることも所長に見捨てられることも架空のクレームに怯えることもない。

    「……ああ、そうか」

    俺は涙を拭いゆっくりと顔を下げた。
    そして再び棺桶の中の両親を見た。
    満面の笑みを浮かべる父と母。
    その笑顔が今はっきりと理解できた。

    死は逃げではない。
    死は敗北ではない。
    死こそがこの理不尽な世界に対する唯一の「勝利」であり完全なる「解放」なのだ。
    だから死者は皆あんなに幸せそうに笑っているのだ。

    俺の顔の筋肉が再びピクピクと動き始めた。
    剥がれ落ちていた「死者の笑顔」が再び俺の顔面に張り付いていく。
    口角が限界まで吊り上がり頬が盛り上がり目が見開かれる。
    先ほどまでの作り物の笑顔ではない。
    心の底からの歓喜と完全な絶望が融合した真の「狂気の笑顔」。

    「もう死ねる」

    俺は満面の笑みで呟いた。

    「やっと死ねるんだ」

    誰も俺を止めない。
    誰も俺を縛らない。
    俺は自由だ。

    俺は笑いながら祭壇に背を向けた。
    どこで死のうか。
    どうやって死のうか。
    結城のようにビルから飛び降りるか。
    両親のように首を吊るか。
    それとも電車に飛び込むか。
    どれでもいい。どんな方法でもこの地獄から抜け出せるならそれは最高のエンターテインメントだ。

    俺がホールの出口に向かって歩き出そうとしたその時だった。

    「……お待ちしておりました」

    静かで滑らかな声がホールの奥から響いた。
    俺は足を止め振り返った。

    祭壇の横の暗がりから一人の男が音もなく姿を現した。
    黒いスーツ。青白い肌。感情の読み取れないガラス玉のような真っ黒な瞳。
    結城の葬儀の時にいたあの葬儀屋だった。

    葬儀屋は満面の笑みを浮かべる俺を見ても一切驚く様子はなかった。
    ただ薄い唇に穏やかな笑みを浮かべ恭しく一礼した。

    「ご両親との再会いかがでしたか?」
    「……あんたが俺をここに呼んだのか?」

    俺が笑顔のまま尋ねると葬儀屋は静かに首を振った。

    「いいえ。あなたがご自身の意志でここへいらっしゃったのです。すべての『足枷』を外し真の自由を手に入れるために」

    葬儀屋は祭壇の奥――二つの棺桶のさらに奥にある暗い空間を手で示した。

    「準備はすでに整っております」

    葬儀屋の言葉に俺は首を傾げた。
    準備?何の準備だ?

    「こちらへどうぞ。あなたのための『特等席』をご用意しております」

    葬儀屋はそう言うと俺を招き入れるように一歩下がった。
    俺は顔に張り付いた笑顔を崩さないままゆっくりと葬儀屋の方へ歩き出した。
    恐怖はない。
    ただ圧倒的な解放感とこれから訪れる「完全なる死」への期待だけが俺の胸を満たしていた。

    両親の棺桶の間を通り抜け祭壇の奥の暗がりへと足を踏み入れる。
    そこには何が待っているのだろうか。
    俺は泣きながら笑いながら死への道を歩み続けた。

    ―――――――――――――――

    セレモニーホールの地下にこんな場所があったのか。
    いや違う。ここはもう現実の物理法則が通用する場所ではないのだろう。
    葬儀屋の背中を追って足を踏み入れたその空間は果てしなく広がる「虚無」だった。
    壁も天井も床の境界すらも曖昧な絶対的な暗闇。音の反響すらなく自分の足音も呼吸の音もすべてが分厚い闇に吸い込まれて消えていく。
    ただその無限の暗闇の中心にだけぽつんと青白いスポットライトのような光が落ちていた。

    光の中に浮かび上がっていたのは一つの真新しい白木の棺桶だった。

    装飾の一切ない無垢な木材で作られた簡素な棺桶。
    だがそれは俺の目にはどんな王の玉座よりもどんな高級なベッドよりも神聖で美しくそして圧倒的な引力を持った「救済の器」に見えた。

    葬儀屋は棺桶の脇で立ち止まり俺に向かって静かに一礼した。

    「さあ、こちらです」

    葬儀屋の声は暗闇の中で反響することなく俺の鼓膜に直接響いた。

    「あなたのための『特等席』をご用意しております」

    俺は顔面に張り付いた満面の笑みを崩さないままゆっくりと棺桶に近づいていった。
    足取りは羽のように軽い。
    心臓の鼓動はいつの間にか完全に止まっていた。いや最初から動いていなかったのかもしれない。
    呼吸もしていない。
    肺に空気を入れる必要性をもう感じていなかった。

    棺桶の前に立つ。
    真新しい木の香りが百合の匂いと混ざり合って鼻腔をくすぐる。
    俺は震える両手を棺桶の縁にかけた。
    木肌は冷たくそしてひどく滑らかだった。
    まるでずっと昔から俺がここに来るのを待っていたかのように俺の手のひらに吸い付いてくる。

    中には誰が眠っているのだろう。
    結城のようにすべてから解放された美しい死体が眠っているのだろうか。
    それとも俺をこの世に縛り付けていた両親のように俺をあざ笑う幻影が眠っているのだろうか。

    俺はゆっくりと首を伸ばし棺桶の小窓から中を覗き込んだ。

    「…………あ」

    俺の口から空気が漏れるような小さな音がこぼれた。
    限界まで吊り上がっていた俺の口角がさらにもう一段階ピキリと音を立てて吊り上がった。
    見開かれた両目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ち棺桶のガラスを濡らした。

    棺桶の中に眠っていたのは。
    白い死装束に身を包み無数の白い菊と百合に埋もれて眠っていたのは。

    俺自身だった。

    三十代の非正規雇用の倉庫作業員。
    毎日毎日「死にたい」と願いながら決断を先延ばしにして生きてきた惨めで滑稽で弱虫な男。
    鏡で見るたびに嫌悪感を抱いていたあの生気のない顔。
    それが棺桶の中で静かに目を閉じて眠っていた。

    だがそれは今朝鏡で見た俺の顔とは決定的に違っていた。
    目の下にあった濃い隈は消え去りこけ落ちていた頬はふっくらと血色を取り戻している。
    そして何より。

    棺桶の中の俺は幸せそうに笑っていた。

    結城雅也が浮かべていたのと同じ狂気じみたほどの満面の笑み。
    父と母が浮かべていたのと同じすべての苦痛から解放された歓喜の表情。
    ニュースで見た電車に飛び込んだ名もなき自殺者たちがきっと最後に浮かべていたであろうあの「正解」に辿り着いた者だけが持つ圧倒的な笑顔。

    口角は不自然なほど高く吊り上がり頬の筋肉は盛り上がり目尻には深いシワが刻まれている。
    防腐処理とワイヤーで無理やり作られたような不気味でグロテスクな笑顔。
    だが俺にはそれがこの世のどんな芸術作品よりも美しく見えた。

    「……あははっ」

    俺は棺桶のガラスに額を押し当てながら笑い声を漏らした。

    「あはははははははははははっ!!」

    笑いが止まらない。
    涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら俺は自分の死体を見つめて狂ったように笑い続けた。

    なんていい顔をしているんだ。
    なんて幸せそうなんだ。
    お前はもう朝早く起きて絶望する必要はないんだな。
    満員電車に揺られて機械音と怒声が響くあの地獄の倉庫へ行く必要はないんだな。

    棺桶の中の俺の笑顔を見ているとこれまでの人生のすべての苦痛がまるで他人の出来事のように遠ざかっていくのを感じた。

    人を動かす権限もないのに「責任者」という名前だけを押し付けられた日々。
    佐々木に理不尽に怒鳴られ胸ぐらを掴まれ唾を吐きかけられた記憶。
    新人のミスをすべて自分のせいにされ誰も守ってくれなかったあの孤独。
    「あなたの対応にクレームが来てる」と平然と嘘をつかれた時のあの絶望。
    証拠を集めて所長に訴えても「揉めたくないから」と握り潰されたあの無力感。
    シフトを減らされ給与明細すら出してもらえず自分が人間ではなく都合のいい部品として消費されていく恐怖。

    そして。
    とっくに死んでいた両親の幻影を自ら作り出し「生きていてほしい」という呪いの言葉で自分自身を縛り付けていたあの滑稽な三十年間。

    そのすべてが棺桶の中の俺の「笑顔」によって完全に浄化されていく。
    削られ続けた尊厳も。
    背負わされた責任も。
    誰にも守られなかった記憶も。
    明細さえ出してもらえなかった労働も。
    足枷のように響き続けた両親の声も。

    そのすべてから解放された先にある顔がこの笑顔だったのだ。

    「……なぁ、教えてくれよ」

    俺はガラス越しの自分自身に向かって優しく語りかけた。

    「お前はいつ死んだんだ?」

    俺は分からない。
    自分の記憶がどこからが現実でどこからが幻なのかもう完全に境界線が溶け落ちてしまっていた。

    俺は今から死ぬのだろうか?
    この後この棺桶の中に入って自ら命を絶つという究極の決断を下すのだろうか。

    それとももう死んでいるのだろうか?
    あの倉庫で佐々木の理不尽な怒声に耐えきれず狂ったように笑い出したあの瞬間俺の精神はすでに肉体を離れ死を迎えていたのだろうか。
    あるいは雨の夜道で「死にたい」と泣き叫んだあの時通り魔にでも刺されて死んでいたのだろうか。

    いやもっと前かもしれない。
    俺はずっと前からここにいたのではないか?
    十歳の時借金取りに追われた両親と一緒にあの六畳間で首にロープを巻いたあの瞬間。
    俺は両親と一緒に死んでいてその後の二十年間の地獄のような人生は宙ぶらりんになった俺の脳が見せた一瞬の悪夢に過ぎなかったのではないか?

    分からない。
    自分が生きているのか死んでいるのか。
    過去なのか現在なのか未来なのか。
    すべてが曖昧に溶け合い意味を失っていく。

    だがただ一つだけ絶対に確かなことがあった。

    俺は今ようやく心から笑えている。

    三十年間の人生で一度も感じたことのない圧倒的な幸福感。
    魂の底から湧き上がる純粋な歓喜。
    棺桶の中の俺の笑顔は決して葬儀屋がワイヤーで作った偽物などではなかった。
    死体はもともと笑っていたのだ。
    死者たちは皆本当に笑っていたのだ。
    この地獄のような世界から抜け出せた喜びで誰もが皆あんなにも満ち足りた笑顔を浮かべていたのだ。

    「……素晴らしい」

    俺は棺桶の蓋に手をかけた。
    もう迷いはなかった。
    俺の帰る場所はあのアパートでもあの倉庫でもない。
    この白い花に埋もれた狭くて暗くて最高に居心地のいい箱の中だけだ。

    「お待ちしておりました」

    背後から葬儀屋の静かな声が聞こえた。
    振り返ると葬儀屋は穏やかな笑みを浮かべ深く頭を下げていた。

    「ようこそ。永遠の安らぎへ」

    その言葉は俺の人生に対する最高の労いだった。
    佐々木も所長も両親も誰も俺を認めてくれなかった。誰も俺を許してくれなかった。
    だがこの葬儀屋だけは俺の決断を肯定し歓迎してくれている。

    「ああ……ありがとう」

    俺は満面の笑みで葬儀屋に礼を言った。
    そして棺桶の蓋をゆっくりとスライドさせ中へと足を踏み入れた。

    白い菊と百合のクッションは驚くほど柔らかかった。
    俺は横たわっている「自分自身の死体」の上にそっと重なるように身を横たえた。
    冷たい肉体と俺の意識がゆっくりと溶け合っていく。
    境界線が消え俺は完全に「棺桶の中の俺」と一つになった。

    視界の端で葬儀屋が棺桶の蓋に手をかけるのが見えた。

    「それでは、おやすみなさいませ」

    葬儀屋の滑らかな声とともに重い白木の蓋がゆっくりと閉じられていく。
    青白い光が少しずつ細くなりやがて完全に遮断された。

    絶対的な暗闇。
    絶対的な静寂。
    百合の匂いだけが濃密に充満している。

    狭い。暗い。身動き一つ取れない。
    だが恐怖は微塵もなかった。
    あるのは母の胎内に回帰したかのような絶対的な安心感だけだった。

    もう誰も俺を怒鳴らない。
    もう誰も俺に責任を押し付けない。
    もう誰も俺に「生きろ」と呪いをかけない。

    俺の顔の筋肉は完全に硬直していた。
    口角は限界まで吊り上がり頬は盛り上がり目は見開かれたまま。
    永遠に崩れることのない完璧な「死者の笑顔」。

    「あははっ……」

    暗闇の中で俺の口から笑い声が漏れた。

    「あははっ……あははははははははははっ!」

    狭く冷たくそしてどこまでも甘美な白木の箱の中。
    俺の笑い声は分厚い木の板に反響し俺自身の鼓膜を心地よく震わせた。
    もう何も見えない。
    何も聞こえない。
    百合と菊のむせ返るような匂いだけが俺の肺を満たしている。
    俺はついにこの理不尽で残酷な世界から完全に切り離されたのだ。

    「あははは……はは……」

    笑いすぎて腹の底が引きつるような感覚があった。
    だが顔の筋肉は全く疲れない。
    俺の顔には結城と同じ両親と同じあの「完全なる解放」を証明する満面の笑みがしっかりと張り付いている。
    口角は限界まで吊り上がり頬の筋肉は高く持ち上げられ目は見開かれている。
    この笑顔こそが俺がすべての苦痛から逃れ真の自由を手に入れた証だ。

    俺は棺桶の底に横たわったままゆっくりと深呼吸をした。
    いや深呼吸をしようとしたと言うべきか。
    ふと奇妙なことに気がついた。
    息が吸えない。
    肺が膨らまないのだ。胸郭がピクリとも動かない。
    まあいい。
    俺はもう死んでいるのだから呼吸など必要ない。
    心臓も動いていない。血液が流れる感覚もない。
    俺はただ純粋な「意識」としてこの至福の笑顔とともに永遠の眠りにつくのだ。

    そう思って俺はもう一度満足げに笑おうとした。

    「…………え?」

    声が出なかった。
    先ほどまであんなに高らかに響いていた笑い声が喉の奥でつっかえたように出てこない。
    それどころか口を動かすことすらできなかった。

    違和感が足元からじわじわと這い上がってきた。
    俺は自分の顔に意識を集中させた。
    満面の笑みを浮かべているはずの顔。
    だがその「笑顔」は俺自身の意志で作っているものではなかった。

    頬に冷たくて硬い感触がある。
    皮膚の下筋肉の隙間を縫うようにして何かが這い回っている感覚。
    俺は動かない腕を必死に動かそうと試みた。
    指先がわずかに痙攣した。
    その指先を自分の顔へと持っていく。

    指が触れたのは俺の頬ではなかった。
    いや俺の頬なのだがその感触は生きた人間の皮膚のそれとは全く異なっていた。
    冷たく硬くまるで蝋人形のように滑らかで不自然な弾力がある。
    そして口角のあたり。
    指先でなぞると皮膚の表面に細くて硬い糸のようなものが縫い込まれているのが分かった。

    「……なんだ、これ」

    声にならない声で俺は呟いた。
    糸は口角から頬の裏側を通り耳の後ろへと引っ張られている。
    その糸が物理的に俺の口角を限界まで吊り上げているのだ。
    目尻にも同じように細いワイヤーが埋め込まれ無理やりシワを作っている。
    頬の裏側にはふっくらとした血色を偽装するための硬いシリコンのようなものが詰め込まれていた。

    俺の顔は俺の意志で笑っているのではなかった。
    物理的に強制的に「笑顔の形」に固定されているだけだったのだ。

    その瞬間棺桶の外から微かな物音が聞こえてきた。
    足音だ。それも一人や二人ではない。
    複数の人間が俺の眠る棺桶の周りに集まってくる気配。

    『……いやあ本当に素晴らしい技術ですね』

    聞き覚えのある声だった。
    低く温厚そうでそれでいてどこか薄っぺらい声。
    所長だ。
    あの物流倉庫の俺の訴えを「揉めたくないから」と握り潰したあの所長の声だ。

    『ええ。生前の彼からは想像もつかないほど穏やかで幸せそうな顔をしています』

    次に聞こえたのは少し甲高い媚びへつらうような声。
    佐々木だ。
    俺に架空のクレームを押し付け責任をすべてなすりつけたあの佐々木。

    なぜ奴らがここにいる?
    ここは俺だけの自由な空間のはずだ。
    俺は奴らから逃げるためにすべてを捨ててこの棺桶に入ったはずなのに。

    『ご満足いただけて何よりです』

    滑らかで感情の読み取れない声。
    あの葬儀屋だ。

    『彼のお顔は損傷が激しかったものですから。修復には少し手間取りましたがご要望通り最高の「笑顔」に仕上げさせていただきました』

    損傷が激しかった?
    俺は混乱した。
    俺は自分の足でここへ来て自分の意志で棺桶に入ったはずだ。
    だが葬儀屋の言葉は俺の記憶と決定的に矛盾していた。

    『……本当に急なことで驚きましたよ。まさか職場の倉庫の梁で首を吊るなんて』

    所長がため息混じりに言った。

    『ええ。第一発見者の私は本当に肝を冷やしました。……でもこうして彼の笑顔を見ていると少し救われますね』

    佐々木がわざとらしく鼻をすする音を立てた。

    首を吊った?
    俺が?あの倉庫で?
    脳の奥底でまたしても記憶の扉がこじ開けられる音がした。
    佐々木に理不尽に怒鳴られ狂ったように笑い出したあの日の午後。
    俺はそのまま家に帰ったのではなかった。
    誰もいなくなった第三エリアの奥。
    高く積まれた段ボールの山によじ登り天井の鉄骨の梁に荷造り用の頑丈なロープをくくりつけたのだ。
    そして自らの首にその輪を通し段ボールを蹴り飛ばした。

    そうだ。
    俺はあの倉庫で死んだのだ。
    首の骨が折れる鈍い音。宙を舞う足。
    薄れゆく意識の中で最後に見たのは俺のぶら下がる死体を見て腰を抜かして悲鳴を上げる佐々木の無様な顔だった。

    俺は自分の足でこの葬儀屋に来たわけではなかった。
    俺の死体は警察に運ばれその後この葬儀屋に持ち込まれたのだ。
    俺が「自分の足で歩いてきた」と思っていたのは死の瞬間に脳が見せたただの幻覚に過ぎなかった。

    『……それにしても会社で費用を出してエンバーミング(防腐・修復処理)までするなんて所長も人が良すぎますよ』

    佐々木がおべっかを使うように言った。

    『仕方ないだろう。職場で自殺なんてされたら会社のイメージに関わる。それに彼には身寄りがいなかったからな。我々が手厚く見送ってやったという「事実」が必要なんだよ』

    所長の声には死者への哀悼など微塵も含まれていなかった。
    あるのはただの保身と自己満足だけだ。

    『彼も生前は色々と不満を抱えていたようですが……最後はこうして会社の手で綺麗にしてもらって幸せそうに笑っている。これで彼も浮かばれるでしょう』
    『ええ。私たちの対応は決して間違っていなかった。彼がこんなに笑顔でいることが何よりの証拠ですよ』

    棺桶の外で交わされる会話を聞きながら俺の意識は底なしの絶望の淵へと真っ逆さまに転がり落ちていった。

    違う。
    違う違う違う!!

    俺は幸せなんかじゃない。
    俺はお前たちを呪って死んだんだ。
    お前たちの理不尽な扱いに耐えきれずお前たちへの当てつけのためにわざわざ職場で首を吊ったんだ。
    俺の本当の死顔は苦痛と絶望とお前たちへの憎悪に満ちていたはずだ。
    両親が首を吊った時と同じように目をひん剥き舌を出し醜く歪んだ顔で死んでいったはずなんだ。

    それなのに。
    奴らは俺のその「憎悪の死顔」を金で揉み消した。
    葬儀屋に金を払い俺の顔の筋肉を切り裂きワイヤーを埋め込みシリコンを詰め込んで無理やり「満面の笑み」を作り上げたのだ。

    なぜか?
    俺のためではない。
    奴ら自身のためだ。

    「職場で自殺に追い込んだ」という罪悪感から逃れるために。
    「自分たちは悪くない」「彼も最後は幸せだったんだ」という言い訳を作るために。
    俺の死顔を自分たちの都合のいいように改ざんしたのだ。

    『最後にこんな顔を見られてよかった』
    『これで私たちも安心できます』

    結城の葬儀の時彼の遺族が言っていた言葉がフラッシュバックする。
    あの時結城の妻や母親は結城の笑顔を見て涙を流して喜んでいた。
    あれも同じだったのだ。
    結城がなぜ死んだのかどれほどの絶望を抱えていたのか。
    彼らはそれに向き合うことを拒否した。
    そして葬儀屋に「幸せそうな笑顔」を作らせることで自分たちの責任を免罪したのだ。

    俺の両親も同じだ。
    俺の記憶の中で両親はいつも優しく笑っていた。
    だがそれは俺自身が「親に捨てられた」という現実から逃げるために俺の脳内で作り上げた都合のいい「笑顔」だった。

    死者はみな笑っていた。
    だがそれは死者がすべての苦痛から解放されて自らの意志で笑っていたわけではなかったのだ。
    残された生者が自分たちの心を救うために。
    自分たちの罪悪感を消し去るために。
    死者の顔を無理やり「笑顔」に作り変えていただけだったのだ。

    「……あ……ああ……」

    俺は叫ぼうとした。
    ふざけるな。俺の顔を勝手にいじるな。
    俺の絶望を俺の憎悪をお前たちの自己満足のために奪うな。
    俺は笑ってなんかいない。

    俺は今世界で一番お前たちを憎んでいるんだ!

    だが声は出ない。
    声帯はすでに腐敗を防ぐための薬品で満たされ口はワイヤーで固く縫い付けられている。
    顔の筋肉を動かしてこの忌まわしい笑顔を崩そうとしても物理的に固定された皮膚はピクリとも動かない。

    俺は自由になったのではなかった。
    死んでなお俺は奴らの「部品」だったのだ。

    生前は責任を押し付けるための部品。
    嘘のクレームのサンドバッグにされるための部品。
    そして死後は。
    奴らの「罪悪感を消し去るための部品」として俺の顔面すらも利用されているのだ。

    『それではそろそろお時間です。出棺の準備をさせていただきます』

    葬儀屋の冷たい声が響いた。

    『ああ、頼むよ。……じゃあなタカハシ君?いや名前なんだっけ?まあいいか。安らかに眠れよ』

    所長が棺桶の蓋をポンポンと軽く叩いた。
    俺の名前すら奴らはもう覚えていない。
    ただの「笑顔の死体」として処理されるだけだ。

    『お疲れ様でしたー』

    佐々木の軽い声が遠ざかっていく。
    足音が消え再び棺桶の周りは静寂に包まれた。

    ガタンと棺桶が揺れた。
    台車に乗せられどこかへ運ばれていく。
    向かう先は火葬場の焼却炉だ。

    俺は暗闇の中でただ一人取り残された。
    目を見開いたまま。
    口角を限界まで吊り上げたまま。
    狂気じみた満面の笑みを顔面に貼り付けられたまま。

    涙を流したかった。
    だが涙腺は防腐剤で塞がれ一滴の涙も流すことはできない。
    絶叫したかった。
    だが縫い付けられた口からは空気の漏れる音すら出ない。

    俺は生きている時は職場の部品。
    死んだ後は、会社の罪悪感を消すための部品。

    俺の意識だけがこの狭い箱の中で狂おしいほどの絶望に悶え苦しんでいる。
    助けてくれ。
    誰かこの糸を切ってくれ。
    俺の顔を元の絶望の顔に戻してくれ。
    俺は笑いたくない。笑いたくないんだ!!

    だが外から見れば俺はただ「幸せそうに笑っている死体」でしかない。
    誰も俺の絶望に気づかない。
    誰も俺の悲鳴を聞いてくれない。

    ゴォォォォォ……という重低音が近づいてきた。
    焼却炉のバーナーが点火される音だ。
    棺桶がゆっくりと炉の中へと押し込まれていく。
    周囲の温度が急激に上昇し始める。

    熱い。
    皮膚が焦げる。髪が燃える。
    だが俺の顔のワイヤーは溶けない。
    炎に包まれ肉が炭化し骨が剥き出しになっても俺の顔の骨格は「笑顔」の形に固定されたままだ。

    俺は永遠に笑い続ける。
    生者たちの身勝手な自己満足のために。
    俺の尊厳を奪い尽くした奴らの免罪符として。

    炎が俺の視界を真っ赤に染め上げた。
    その業火の中で俺の心だけが声なき絶叫を上げ続けていた。

    俺の顔面が炎に包まれ完全に崩れ落ちるその最後の瞬間まで。
    俺の口角は不気味なほど高く吊り上がったままだった。

    死者はみな笑っていた。
    生者に、笑わされていた。

    END

    #創作大賞2026 #ホラー小説部門

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